第百九話 行方に垂れ込める暗雲
「アルス殿の報告を受けてから、みんなでルシエールに向かうのか、それとも、また、旅を続けるのかを決めたいと思っています」
イルダの提案に、カルダ姫も反対はしなかった。
「そうすると、アルス殿が帰ってくるまでは、この街で待機ということじゃな?」
「はい! お姉様ともしばらく一緒にいられると思うと、嬉しくて」
これほどまでに慕ってくれる妹のイルダのことを、カルダ姫も可愛くて仕方がないようで、「わらわもじゃ」と相好を崩して、イルダの手を取った。
しかし、カルダ姫はすぐに真剣な表情に変わった。
「ところで話は変わるが、先ほどのイルダの話では、フェアリー・ブレードがまた現れたそうじゃが、すぐに消えてしまったということなのじゃな?」
「はい。私もフェアリー・ブレードが現れている間の記憶が、前回同様、ありませんでした」
フェアリー・ブレードが初めて姿を見せた時は、イルダが吸血鬼にされた時で、フェアリー・ブレードは、イルダの体を元どおりにしてくれた。その時は、自らの「保管庫」たるイルダの異常で、フェアリー・ブレードがイルダの体に収まっていることができなくなり、フェアリー・ブレードが自ら出て来たとしか言えない状況だった。
しかし、二回目に姿を見せた時。
まだ、記憶に新しいその時、イルダ自身には何も異常はなかった。
そして、フェアリー・ブレードが姿を現す直前、エリアンの胸を刺したイルダのナイフが光ったのを、俺は確かに見た。いつもは、イルダがベルトに帯びている、皇帝の形見だというナイフが何かしらの鍵になっていることは間違いないだろう。
そして、過去の泉の水を飲んだイルダが見た夢。
それは皇帝がイルダの部屋を訪れて、そのナイフをイルダに渡すシーンだった。その時、皇帝はこう言った。
「いざという時には、このナイフでお互いを刺し違えて命を絶て!」
ジュール伯爵家も三代前に皇室から分かれた貴族で、その当主エリアンはそれだけ皇室に近い血を持っていた。
そのエリアンを刺した時と同じように、あのナイフでカルダ姫を刺す。そうすれば、フェアリー・ブレードは出てくるのではないだろうか?
俺は何となくそんな気がしていた。
しかし、もし、そうだとしても、イルダが大好きな姉を刺せるはずがない。とてつもなく残酷な取り出し方だ。
「ふむ。フェアリー・ブレードの真の取り出し方は、まだ分からぬままということか?」
「そういうことです」
当の二人の皇女は、俺の考えている方法など、そもそも考えたこともないだろう。
その後、皇女様二人と子供リーシェ、子犬のコロンがその宿屋で一番豪華な部屋――もっとも、田舎の宿屋で、豪華といってもたかが知れているが――に入り、後は女性陣と男性陣に分かれて、大部屋に入った。
今日も俺達以外に宿泊客はなく、俺はダンガのおっさんと二人きり……だと、まだ良かったのだが、今日はバドウィルが一緒にいる。
ダンガのおっさんは、以前からバドウィルとは性分が合わないようで、その相手をすることなく、既に一番端っこのベッドで豪快なイビキをかいていた。
「アルス殿! このベッドは二人が一緒に寝ても十分な広さですぞ!」
「ああ、そうだな。ぐっすりと眠れそうだ」
「では、失礼します。どわぁー!」
俺は、俺のベッドに潜り込んで来ようとしたバドウィルに蹴りを食らわして、床に突き落とした。
「い、痛いじゃないですか! 暴力反対ですぞ!」
「ベッドはちゃんと三つあるだろうが! 何でわざわざ二人で一つのベッドを使わないといけないんだよ!」
「決まっているではないですか! 私とアルス殿の距離を、ここでぐっと縮めるためですよ」
「俺は、もっと遠ざけたいんだけどな」
懲りもせずに、また、俺のベッドに潜り込もうと近づいて来たバドウィルの手首を掴むと素早く捻って、両手首を合わせて、隠し持っていた紐で、バドウィルの両手首を縛った。
「な、何をするのですか? も、もしかして、こういう趣味をお持ちだったとは!」
「何、喜んでいるんだよ! そんな趣味は持ってねえよ!」
俺はそう言うと、紐の一方をベッドの脚に縛り付けた。
「えっ? ちょっと! アルス殿!」
バドウィルが動こうとすると、大きなベッドを引きずりながら動くしかない状態にしてから、俺は服装を整えた。
「お前がいると熟睡できないから、少し外を歩いてくる」
「そ、そんなあ! ア、アルス殿!」
情けない顔をして、部屋から出て行く俺を見送ったバドウィルだが、そんなに苦労もしないで縄抜けできるはずだ。
俺は、宿屋を出ると、夜の静寂に包まれたサブロタの街を彷徨った。そして、こんな田舎の街にも必ずある場所に行った。
街のはずれにあるそこだけは煌々と明かりが灯り、建物の前には、艶めかしい格好の女性達が何人か立っていた。
そうだ。そこは、女衒が支配する娼婦街だ。
こんな田舎の街でも宿屋があるのは、旅をする行商人や輸送馬車の御者が、盗賊や魔族が跋扈する夜に旅をすることの危険を冒さないためだ。そして、その日の危険な旅を終えて、宿に泊まる男の楽しみといえば、「飲む! 打つ! 買う!」だ。
だから、宿屋がある街には、どんなに小さな街でも、酒場、博打場、そして娼婦街が必ずある。特にここサブロタは宿場街で、街の規模に比して、それらが充実しているようだ。
女を抱くのも久しぶりだ。
一瞬、イルダの顔が浮かんで、ものすごい罪悪感に苛まれたが、これは変態バドウィルから俺の貞操を守るためなのだと心の中で言い訳をしながらも、鼻歌まじりに女の品定めをしている自分に呆れるしかなかった。
事を終えた俺は、ベッドの上で、ベニと名乗った女性を腕枕しながら、裸のまま、薄汚い寝室の天井を見つめていた。
「素敵だったよ、アルス」
そんなに美人でもなかったが、愛嬌のある顔で話も面白かったベニが、俺にキスをしながら甘えてきた。
「久しぶりだったから、俺も燃えたぜ」
体を起こしたベニが、ベッド横のサイドテーブルの上に置かれていたコップにまだ残っていた葡萄酒を口に含むと、また、体を俺に重ねてきて、キスをして葡萄酒を俺の口に流し込んできた。
「アタシもアルスみたいに素敵な人に抱かれて嬉しかったよ」
本音だろうか?
ベニだって、いろんな訳があって、こんな仕事をしているはずで、辛い思い出が多いはずだ。それを一時でも忘れさせることができたとすれば、俺も少しは嬉しい。もちろん、俺の独りよがりだとは分かっている。
「なあ、ベニは、この街の人間じゃないんだろう?」
「アタシは首都にいたんだ」
「そうか」
俺はそこで話を切るつもりだったが、ベニも俺をかなり気に入ってくれていたようで、自ら身の上話を話しだした。
「アタシは、家族と一緒に首都で暮らしていたんだけど、戦争でみんな死んじゃって、独りぼっちになっちまったんだ。首都でいろいろと働いてみたけど、親が残していた借金が払いきれなくてさ。仕方なく夜逃げさ」
今まで数え切れないほど聞いた話だ。
「今じゃ流れ流れて、こんな田舎暮らしさ。でもさ、この街ではアタシが一番若くて、一応、一番人気なんだよ」
「はは、そうなのか。そりゃあ、俺はラッキーだったんだな」
「えへへ、そうだよ」
そう言うと、ベニはまた俺に軽くキスをした。
「ねえ、アルスは明日には旅立っちゃうの?」
「ああ、明日には、ルシエールに行く」
「ルシエールに行っても、中に入れないよ」
俺は、顎を引いて、俺の腕の中にいるベニを見つめた。
「ベニは行ったことがあるのか?」
「この街に入る前にね。でも入れなかったんだ」
「それは、いつ頃の話だ?」
「二か月くらい前かな。いろんな街で商売してたけど、いろいろとあってね。新しい街で働こうと思って行ったんだ。なんてたって、この辺りでは一番大きな街だからさ」
多くの人が暮らしている大きな街には大きなビジネスチャンスがあるはずだと信じて、ベニのように、ルシエールに行く者は大勢いたのだろうが、誰も街に入れていないという噂は本当だったようだ。
「入れてくれないというのは、門番のチェックがそれだけ厳しいということか?」
「ううん。そもそも、城門が開いてないんだよ」
「それは、いつもか?」
「旅の商人さんの話だと、開いているところを見たことがないらしいよ」
この大陸の中に点在する貴族領の街では、街の中で生産される商工業品を、周辺の村で売って食料を手に入れる他に、他の街では生産されていない特産品のような物であれば、大陸中を商圏とする行商人に卸して、街に利益をもたらしている。
そんな物流がまったくされていない街では、商人や職人が利益を出すことができていない。つまり、街として機能していないということだ。
いや、そもそも住民達の食料が絶対的に足りていないはずだ。
ルシエールの領主は、いったい、何を考えているのだろうか?
「何を考えてるの、アルス?」
考え込んでいた俺の邪魔をするように、ベニが更に体を重ねてきた。
「い、いや、そのルシエールの街のことさ」
「そんなに気になるの?」
「ああ、だって、考えてみろよ。誰も入ったり出たりできないなんて、まるで獄門じゃないか」
「確かに、街全体が獄門みたいに不気味な雰囲気だって、これもお客さんが言ってたよ」
「不気味な雰囲気?」
「アタシが行った時には気がつかなかったけど、ルシエールの街の上にだけ、いつも黒い雲が掛かっていて、辺りが薄暗いんだって」
「……」
「お客さんの中には、あの街は魔族に支配されているんじゃないかって言う人もいるんだよ」
「魔族に支配された街か……」
今まで、そんな街をいくつか見てきた。それらの街は、魔王リーシェが死んでいるものと思って、新たな魔王の座を狙った魔族が、その足掛かりにしようとして支配していたものだった。もっとも、それがリーシェの逆鱗に触れて、滅ぼされてしまったが。
ベニの話で、俺の中にわずかに残っていた、「今の帝国に楯突く、俺達の最後の砦」という良い印象がすべてガラガラと音を立てて崩れ去ってしまい、人が生活している様子がまったく感じられない不気味な街という印象が確立してしまった。
その後、結局、朝方までベニとベッドの中にいた。
と言っても、いろいろと話をしていただけだ。ベニの話術は、この街で一番の人気を誇るだけのことはあると感心をしてしまった。
気づくと、もう朝日が昇ろうとしていた。俺は、感謝の意を込めて、ベニに金貨を渡すと、急いで宿屋まで戻った。
宿屋までの道のりの最後の曲がり道を折れると、宿屋の前に、バドウィルが腕組みをして仁王立ちしていた。
「おや、アルス殿。朝帰りですか?」
まるで浮気相手の元から帰った亭主を待ち構えていた女房のような雰囲気で、俺も一瞬、気まずい気持ちになってしまったが、よく考えると、バドウィルは、俺の女房でも何でもなかった。
「ああ、そうだよ。それにしても、清々しい朝だな」
俺が背伸びをしながら、バドウィルをやり過ごして宿屋に入ろうとすると、バドウィルが「香水の匂いがしますぞ!」とわめいた。
ここは開き直るしかない。
そうだ! 俺は、自由気ままな旅の賞金稼ぎアルス様だ! 女を抱くのに誰に気兼ねをする必要がある!
「俺がどこで誰と夜を過ごそうが、お前には関係がないことだろ?」
「私というものがありながら」
いや、何だよ、「私というもの」って?
怒りに打ち震えるバドウィルを無視して、宿屋の中に入ると、ロビーのソファにイルダが座っていた。
「アルス殿、おかえりなさいませ。そして、おはようございます」
イルダは笑顔だったが、目がまったく笑ってない。
「お、おはよう。よ、よく眠れたか?」
「夕べは遅くまでお姉様とお話をしてましたので、少ししか眠っていません」
「ま、まだ、朝食の時間じゃないんじゃないか? もう、ひと眠りできるぞ」
「いえ、もう目が覚めました。アルス殿から漂ってくる香水の匂いで」
くそう! きっと、バドウィルがイルダに告げ口をしたに違いない。
しかし、よく考えると、イルダが妬いてくれるということは、すごく幸せなことではないだろうか?
そう思うと、イルダのふくれっ面が可愛く思えてきた。
「アルス殿! そんなに良いことがあったのですか? 顔がにやけてますけど!」
「何かさ。こうやって、イルダが怒ってくれることが嬉しいんだよ」
「わ、私は、別に怒ってなんていません!」
途端に、イルダの顔が赤くなった。




