第百七話 消えた帝国軍
俺達は、大陸の東側を北に向かって歩いていた。
向かう先は、ルシエールの街。
今の帝国の領土内で、未だに今の帝国に臣従していないという噂がある街だ。
もともとは、ハムラ男爵という貴族の領地だったが、今は、そのハムラ男爵家が滅ぼされて、別の領主が支配をしているようだ。
しかし、その新領主が鎖国のような封鎖策を採っていて、誰もその街に入ることができず、また、住民が街から出て来ることもないことから、街の中の様子がまったく分からないという。
今の帝国からしてみれば、敵対しているのか、単に無視を決め込んでいるのか分からないが、その支配に服さないという意思だけは示しているのであり、威信を傷つけられていることには違いはない。
一方、俺達からしてみれば、「敵の敵は味方」という図式に則り、もしかすると、味方になるかもしれない勢力ということで、まずは、その街に行ってみようということになったのだ。
しかし、その旅路は相当な緊張感を持ったものになっていた。
これまでだって、アルタス帝国の皇女たるイルダを守りながらで、それなりの緊張感は持っていたが、イルダが生きていることが、今の帝国の将軍であるザルツェールにばれ、しかも、俺達がルシエールに向かっていることもばれている。
そんな状況にもかかわらず、俺達がルシエールに向かっているのは、首都にもそれなりに近いこの地域に、俺達が安心して身を寄せることができる勢力や街がまったくないからだ。唯一と言って良かった、マゾルドの街を支配していたジュール伯爵家は、当主のエリアンの死により滅亡してしまった。俺達が拠り所にできる可能性があるのは、今、ルシエールの街しかないのだ。
それに、俺達が、わざわざ危険を冒して、ルシエールの街に行くことは考えにくいとして、帝国軍の裏をかくことになるかもしれないという期待もあった。
実際、ここまで、俺達を探索しているはずの帝国軍の動きはまったく見えてこないまま、ルシエールまでは、あと三日ほどという所までやって来ている。
油断は大敵だが、このまま、無事に着けるのではないかと、少し楽観的になっているのは確かだ。
俺達は、ハリマリという小さな街の宿屋に入った。
この街は、今の帝国に臣従しているドロゲージュ伯爵の領地だが、本領地ではなく支城的な街で、駐留している伯爵軍も多くなく、街に入るにもそれほど苦労はしなかった。
街の規模に比例して宿屋も小さく、女性陣と男性陣それぞれが相部屋となった。今回はエマもついて来てくれているから、男だが女性扱いされている子供リーシェを含む女性陣五人が一つの部屋に泊まらなければならない。
もっとも、みんなと一緒にいると楽しいし、むしろ安心だと、イルダは言っていた。
唯一の宿泊客である俺達が食堂に集まり、質素な夕食をとった後、これからの予定を、ダンガのおっさんが、地図を示しながら、イルダに説明をした。
「明日早朝にここを発つと、明日の夕刻前には、このサブロタという街に着きます。ここで、カルダ様一行と落ち合う予定にしています」
イルダの姉カルダ姫一行とは、リゼルが伝令蝙蝠を飛ばして連絡を取り合っていて、明日には、約二か月ぶりに再会することになっている。
カルダ姫の従者のホモ剣士バドウィルとは別に会いたくなかったが、イルダにとって、唯一の肉親であるカルダ姫に会えるのは、毎回そうだが、今回は、特に嬉しいのだろう。ダンガのおっさんの説明で、笑顔になった。
「お姉様もご無事で何よりです。でも、お姉様の伝言からいうと、私達の探索はかなり厳しくなっているようでしたが、最近は、追っ手の気配も感じられません。もしかして、私達が落ち合うタイミングを待ち構えているのではないでしょうか?」
「そこは何とも分かりません。とにかく、明日の警備には万全を期したいと思い、エマ殿に先発してもらい、街の様子を探ってもらうことにしています」
いつもは俺達と別行動をしているにもかかわらず、食事の席には呼んでもいないのに、ちゃっかりと紛れ込んでいるエマも、今は、イルダの危機ということで一緒に来てくれており、ちゃんと自分の席で夕食を食べていた。
そのエマにイルダが頭を下げた。
「エマさん、ありがとうございます」
「何の何の~! こうやって飯を食わしてくれるんだから、恩返しはしないとね」
いつもの調子で答えるエマだったが、既に飯代以上の働きをしてくれていることは確かだ。
義賊であるエマは、困っている人を見過ごしにできない性格であることは間違いないが、リーシェと一緒にいたいという気持ちもあるのだろう。
夕食が終わると、女性陣と男性陣に別れて部屋に戻った。
俺も、今日は、ダンガのおっさんと相部屋だ。ダンガのおっさんのイビキに悩まされないように、先に眠らないといけない。
俺は、ベッドに入り、横になると、速攻で眠りに入った。
が、すぐに目が覚めた。
今、部屋に鳴り響いているダンガのおっさんのイビキのせいではない。俺の背中に、大人リーシェが張り付いたからだ。
最近は、リーシェが俺のベッドに潜り込んでくることは久しくなかったし、今日も相部屋だから来ないと思っていた。
俺は、隣のベッドで騒音をまき散らしているダンガのおっさんが起きる気配がないことを確認してから、寝返りをうった。
久しぶりに見る、大人リーシェの美しい顔がそこにあった。
「どうしたんだ?」
俺は、ひそひそ声で、リーシェに訊いた。
「最近、アルスの匂いを嗅いでなくて、禁断症状が出てきてしもうたんじゃ。嗅がせてたもれ」
「何だ、そんなことか。もっと、緊急なやっかいごとでも起きたのかと思ったぜ」
「そんなこととは何じゃ! ずっと、アルスに抱きつけなかったから寂しかったんじゃぞ」
今までにない魔王様のデレに、俺も少しキュンとしてしまったが、リーシェは、すぐに俺に抱きつき、俺の胸元に自分の顔を埋めた。
「うむ。これじゃ。良いのう。心が落ちつくわい」
俺は、リーシェの好きにさせながら、今まで訊こうと思っていたことを尋ねた。
「リーシェ。あの帝国軍との戦いの時に、お前は、フェアリー・ブレードを持ったイルダを『我が主人』と呼んだよな?」
「そうじゃったかのう」
顔も上げず、投げやりに答えたリーシェに、俺は言葉を続けた。
「確かに言った。それは、どういう意味なんだ? 魔王様が、なぜ、イルダを『我が主人』と呼んだんだ?」
「イルダを呼んだのではないわ。フェアリー・ブレードのことを、そう呼んだのじゃ」
「フェアリー・ブレードを? どうしてだ?」
「よく憶えておらぬが、皮肉を込めただけじゃろう。わらわは、あの時、フェアリー・ブレードの意思によって、強制的に封印を解かれた。フェアリー・ブレードは口を利かぬから、封印を解いた理由を教えてくれるということはなかったが、あの状態で封印を解かれたということは、イルダを救えということ以外には考えられぬ。そして、その意思に従わなければ、すぐに、また、封印をされたじゃろう。つまり、あの時、わらわは、フェアリー・ブレードの命令に服するしかなかったということじゃ」
「だから『我が主人』と?」
「そうじゃ」
「あの場面で、そこまで考えて口にしたのか?」
「さあの。よく分からぬが、そんな気持ちになって、口に出たことは確かじゃ」
俺は、どうも後付けの理由のような気がした。
つまり、リーシェは何気なく、そう口走っただけだが、すんなりと「我が主人」という言葉が出たということは、過去、フェアリー・ブレード、もしくはそれを持っていた者をそう呼んでいたのではないだろうか?
砂漠の王国バルジャ王国の神話では、フェアリー・ブレードは、リーシェの母親である大妖精が自分の羽で作ったとされている。すると、フェアリー・ブレードは、リーシェにとって母親の分身のようなものだ。母親を「我が主人」と呼ぶのも少し変だが、魔王リーシェを屈服させるだけの力を持っているのだ。そう呼んでも不思議ではない。
それとも、リーシェは認めていないが、本当は、イルダのことをそう呼んだのではないだろうか?
イルダも幼き頃のリーシェの夢を見ている。そして、イルダは、紛う事なく、勇者カリオンの血を受け継いでいる。ということは、その母親である大妖精の血も受け継いでいるということだ。
リャンペインの郊外にある妖精の森で、小妖精の長は、イルダには妖精族の血が流れていると言った。それもかなり濃くなっているらしい。長い世代交代の間に、たまたまではあろうが、イルダの体に流れている血が、カリオンの母の血に似たのかもしれない。
「なあ、リーシェ」
ダンガのおっさんのイビキが一瞬止まったが、すぐに再開されたのを確認してから、俺の胸に顔を埋めたままのリーシェを呼んだ。
「何じゃ? 今、忙しいのじゃ」
「話を聞くことくらいはできるだろうが!」
「うるさいのう」
リーシェは不機嫌そうに、顔を俺に向けた。
「お前は、こうやって、俺の匂いが好きだと言ってくれるが、イルダの匂いはどうなんだ?」
「何じゃ? イルダの体の匂いが気になるのか?」
「あ、ああ、そうだな。例えば、バラの香りがするとか?」
「香水もつけずに、そんな匂いをさせる女がいる訳なかろう! アルス! そなた、女に夢見るような歳でもあるまいに」
「うるさいよ! イルダならしても不思議じゃねえよ! でも、俺みたいな、懐かしい匂いとかはしないか?」
「それは感じたことはないのう。わらわはけっこう鼻が利くのじゃが、イルダは無臭じゃな」
「鼻が利くのに無臭?」
「そうじゃ。リゼルもナーシャもダンガもエマもコロンも、みんな独特の匂いがある。近づくと誰だと分かるほどにな。しかし、イルダだけは匂いがない。今まで、特に気にならなかったが、よく考えてみると不思議じゃな」
「それは……」
「何じゃ?」
「いや、何でもねえ」
俺が飲み込んだ言葉。それは、イルダの匂いは、リーシェの匂いと同じじゃないかということだ。人の匂いが嗅ぎ分けられるのは、自分の匂いと違っているからで、自分と同じ匂いは嗅ぎ分けられないはずだ。
やはり、イルダとリーシェは、同じ祖先から生まれている。つまり、カリオンの妹とカリオンの子孫という関係は間違いないはずだ。いや、同じ匂いだなんて、もっと近い間柄なんじゃないか? 兄妹より近い間柄といえば、……親子?
イルダの前世が、リーシェの母親の大妖精だとすれば、あり得る話だ。
バルジャ王国の死者の谷で、俺が眠れる砂漠の美女たる大妖精を見た時、イルダは眠っていたが、夢の中で、懐かしい想いでその姿を見ていたと言っていた。それは、昔の自分の姿を見ていたからなのか?
俺は、リーシェに匂いを嗅がれながらも、考え事に夢中になっていた。
次の日の朝。
朝食をとると、すぐに俺達は宿を発った。
次の目的地は、サブロタという街で、夕刻前には余裕で着けるだろう。
そのサブロタから先には、ルシエールまで街はない。つまり、ルシエールの隣の街ということだ。隣と言っても、サブロタからルシエールまで歩くと一日は掛かる。
行く先々に追っ手がいないかどうかを確認するため、いつもどおり、エマが先行して馬を走らせてくれたが、今日も帝国軍に目立つ動きはなかった。
ザルツェール率いる帝国軍は、帝国に反逆したとして、ジュール伯爵家当主エリアンを討ち、その領地であるマゾルドの街を攻略するという目的は果たしたが、魔王リーシェの攻撃に一矢も報いることができず、首都に向けて敗走していった。
リーシェが手加減をしてくれて、兵士自体には多くの犠牲者は出ていないが、魔王様の圧倒的な魔法の力を見せつけられて、心理的には相当な恐怖心が植え付けられたはずだ。
前方からエマが戻って来ているのが見えた。いつもは一人でこの大陸中を移動して、あちこちの街で盗みを働いているエマだけに、その馬も惚れ惚れするような駿馬だ。
エマは、馬から降りると、その手綱を引きながら、俺達と並んで歩き出した。そして、みんなに聞こえるように、大きな声で話し出した。
「サブロタの街までひとっ走りしてきたけど、途中、帝国軍の兵士どもは、まったく見掛けなかったよ」
「そうか。俺達を追い掛けるのに飽きたのかな?」
「それがさ、サブロタの街で、その帝国軍に関する変な噂を聞いたんだ」
「どんな噂だ?」
「お姉様にコテンパンにやられた帝国軍が首都に戻る途中、ルシエールの街に立ち寄ったらしいんだ。理由はよく分からないけど、食料の徴収じゃないかって言われてる」
「まあ、あのボロボロの状況で、ルシエールに攻め入ろうとは思わないよな。エマが言うとおり、きっと、補給物資の調達に寄ったんだろう」
もっとも、ルシエールではなくても、帝国軍に物資を提供してくれる貴族の領地は、この辺りにはいくらでもある。ザルツェールも、首都に逃げ帰るにしても何かしらの土産を持ち帰ろうと、ルシエールの街が今の帝国に対して、どういう態度を取るのかを確認しようとしたのだろう。
「でもさ、その後、帝国軍の消息が、ぷっつりと消えているんだって」
「何だって?」
「どうやら、首都にもまだ帰ってないみたいだよ」
「ひょっとして、ルシエールと戦争をしたのか?」
「それが、そんな形跡もまったくないんだって」
魔王リーシェに破れ、兵士も減ってはいるだろうが、それでも一万五千人以上はいたはずで、大軍には違いない。そんな大軍が戦うとなると、広い戦場での大規模な戦争になるはずなのに、そんな形跡もないとなると……。
「ルシエールに入ったのかもしれないな」
「ルシエールの街が、ザルツェール殿と帝国軍を保護したということですか?」
イルダが馬上から口を挟んできた。
「戦争が起きた訳でもないのに、一つの軍団まるごと行方不明になるなんて考えられない。ルシエールが城門を大人しく開き、街に引き入れたとしか思えない」
イルダが悲しい顔をした。
それもそうだ。今の帝国に従っていないと噂されていたルシエールも、帝国の大軍を目の当たりにして、あっさりと兜を脱いだのかもしれないのだ。
「もし、そうだとすれば、わざわざ、ザルツェールがいる所に乗り込んでいくことになってしまうな」
最後尾を歩いているリゼルが言った。
「ああ、そうだな。ルシエールの街に入るには、慎重に対応した方が良いだろう。とりあえず、サブロタの街で、カルダ姫ともよく話し合った方が良い」
俺がイルダに言うと、イルダは心配そうな顔をしながらも、力強く「はい」と答えた。




