第百五話 魔王に命じる!
白いシャツの背中を真っ赤に染めながら、エリアンは崩れるように倒れた。
そして、エリアンの背中に刺さったナイフが浮かぶようにして抜けると、傷口から大量の血が噴き出した。
「帝国に弓を引いた大罪人め!」
憎々しげにそう告げたネルフィの手元に、ナイフが宙を舞って戻って行った。
「エリアン!」
俺がエリアンに駆け寄るよりも早く、ルシャーヌがエリアンの元に駆け寄った。
「だ、大丈夫です」
エリアンは、必死の形相で、少し遅れて駆けつけた俺やイルダの目の前で上半身を起こそうとしたが、既に体に力が入らないようで、座ったルシャーヌに上半身を抱きかかえられるようにされて、虫の息だった。
「動くな! 動くと傷が開く!」
俺の言葉に、エリアンは少し微笑んだ。そして、泣きじゃくるルシャーヌに、か細い声で「大丈夫だ」と言った。
「ネルフィ! 私は、あなたを許しません!」
エリアンの頭を抱きかかえていたルシャーヌが顔を上げて、ネルフィを睨んだ。
「では、お許しを得るために、ご一緒にあの世に逝かせて差し上げましょう」
ネルフィの前に浮かんでいた、エリアンを刺したナイフに加え、他に三つのナイフがどこからとなく現れると、その四つのナイフが、四方からルシャーヌをめがけて飛んできた。
俺も一つを弾き飛ばすことが精一杯で、残りの三つのナイフは、俺の手が届かない方向からルシャーヌに突き刺さった。
背中、脇腹、そして首筋に刺さったナイフは、明らかに、ルシャーヌに致命傷を与えていた。
「ルシャーヌさん!」
イルダの悲痛な叫びにも、ルシャーヌは、エリアンの頭を抱いたまま、身動き一つしなかった。
「ル、ルシャーヌ! ど、どうした?」
エリアンも目が見えなくなってきているのか、ルシャーヌがどうなってしまったのか分からなかったようだ。
「エリアン殿……」
イルダは、二人の側にひざまずいて、その体をさすりながら泣きじゃくることしかできなかった。
「イ、イルダ様……。ルシャーヌは、……先に逝ってしまい……しまいましたか?」
「……」
「そうですか」
イルダが何も答えられなかったことで、エリアンはすべてが分かったようだ。
「イルダ様、……お願いがございます」
「は、はい?」
「私もルシャーヌの元に……、イルダ様の手で……」
「何を言っているのですか! エリアン殿は……、エリアン殿は」
イルダも最後まで言葉にすることはできなかった。
「茶番は終わったか?」
ネルフィのその蔑んだ声を訊いて、怒りが爆発しない奴はいやしない!
「黙ってろ!」
俺は、自分でも考えられないくらいの速さで、ネルフィに斬り込んだ。しかし、カレドヴルフは、逃げ損ねたネルフィの左肩に浅い切り傷を付けただけだった。
「貴様! よくも!」
「やかましい! てめえのかつてのお嬢様とその恋人の最後くらい、静かに見守ってやれ!」
俺の怒りにネルフィも気圧されたようで、振り向いて、騎乗のザルツェールに問い掛けるような視線を向けた。
「その者らの命運も尽きたも同然。最後くらいは願いをきいてやれ」
ザルツェールのその言葉で、ネルフィは少し後ろに下がった。
それを見届けてから、俺はイルダの側に寄った。
悲しみに暮れるイルダに、どう声を掛けていいものか分からずに、リゼル達も少し離れた場所から、イルダを見つめることしかできなかったようだ。
「イルダ」
俺は、地面に座ったままの格好でこと切れているルシャーヌの支えがなくなって、ずり落ちるように地面に仰向けになったエリアンの手を握って嗚咽しているイルダの肩を静かに抱いた。
「アルス殿……」
「エリアンの願いを叶えてやろう」
エリアンの傷は思いの外、深い。ナーシャが治癒魔法を掛けたとしても焼け石に水程度にしかならないだろう。
それに、ルシャーヌが旅立ってしまったこの世に残ることも、エリアンは望んでいないはずだ。
「イルダ様……、ど、どうか……、ルシャーヌの元へ」
「イルダ!」
少し強い語気で呼んだ俺の顔をイルダは見た。
「エリアンとルシャーヌに続いて、俺達もここで死ぬか? 一緒にさ」
俺は、できるだけ軽く言った。イルダもそれで少し冷静さを取り戻したようだ。
「そうですね。そのためのナイフでした」
イルダは、ベルトから父親から授けられたナイフを抜いた。
「アルス殿。私は人を刺したことがありません。下手に刺すと、かえって、エリアン殿を苦しめることになってしまいます。私と一緒に……、エリアン殿を楽にしてあげてください」
最後は涙声になってしまったイルダに、俺は「分かった」と答えると、座っているイルダを後ろから抱きかかえるようにして、ナイフを握ったイルダの右手を包み込むように俺の右手で握った。
「じゃあ、行くぞ」
「はい」
エリアンの左胸の上にナイフを構えると、イルダは、「ルシャーヌさんと天国で幸せになってください」と、優しくエリアンに言った。
「ありが……とうござい……ます」
俺は、イルダの手を握っている右手を突き降ろした。
音もなくイルダのナイフがエリアンの胸に突き刺さると、エリアンは穏やかな顔のまま、永遠の眠りに着いた。
イルダの右手ごとナイフを抜くと、エリアンの心臓から血が噴き出し、俺とイルダを血まみれにした。
「次は、私達の番ですね。アルス殿」
「ああ」と答えた俺は、イルダの持っているナイフが鈍く光っているのに気がついた。
突然、俺は見えない力で、後ろに吹き飛ばされてしまった。
すぐに起き上がって見ると、体を光らせたイルダが立ったまま宙に浮かんでいるのが見えた。
以前に、イルダが吸血鬼になってしまい、フェアリー・ブレードが出て来た時と同じだ!
眠っているかのように目を閉じたイルダは、まさに女神のようだった。
俺達もそうだが、帝国軍の連中も、いったい何が始まるのかと呆然として、イルダを見つめていた。
そのイルダの胸から、剣が浮かび上げるようにして出て来た。
間違いない!
フェアリー・ブレードだ!
金色もしくは玉虫色に輝く細身の剣は、そのまま上昇していって、ついにその全身を見せると、一瞬、強烈な光を放った。
誰もが直視できないような光を浴びて目がくらんでしまったが、何とか目が慣れてくると、そこには、フェアリー・ブレードを右手に握ったイルダが立っていた。
「イルダ!」
俺は、イルダに走り寄ったが、前回同様、見えない壁に突き当たって、イルダに近づくことができなかった。
しかし、前回と違って、イルダは自らフェアリー・ブレードを握って、しっかりと立ち、目を開けている。だが、その視線は定まってなくて、遠くを見ているようであった。
また、エリアンの返り血を浴びて、血まみれだったドレスも真っ白に戻っていた。
「いったい、何事だ?」
ザルツェールも、今、起きていることが理解できないようだ。もちろん、俺もだが。
「ザルツェール殿」
イルダがザルツェールを見ながら口を開いた。
声は確かにイルダの声だったが、何かが違っていた。
高貴な血は争えないもので、普段は可憐なイルダも、時折、凄まじい威厳を垣間見せることがあったが、今のイルダの声は、何と言うか、そんなレベルではない。そう、まるで神の声とでも言えるほどの荘厳さや尊厳さが感じられた。
「カリオンの血を引く者として恥ずかしくないのですか?」
「な、何のことでしょう?」
ザルツェールもそれが感じられたのか、何かを恐れているような顔で、イルダに答えた。
「カリオンへの裏切りです!」
「イ、イルダ様! お気を確かに! このような血なまぐさいことを、イルダ様にお見せするべきではありませんでしたな。ネルフィ! イルダ様以外の者を早く始末しろ! そして、イルダ様をすぐにこんな所からお連れするのだ」
「分かりました」
ネルフィが俺の方に向いた。
「さあ、もう良いだろう。まずは、貴様から始末をしてくれる」
ネルフィが何かを放り投げるようにすると、五本のナイフが、ネルフィの周りに整列して浮かんだ。その剣先は俺に向いていた。
「待ちなさい! あなたの相手は、アルス殿ではありません」
イルダがネルフィに告げた。その意味が分からなかったようで、ネルフィは少し唖然とした顔で、イルダを見つめた。
そのイルダは、右手に持ったフェアリー・ブレードを高く掲げた。
「魔王リーシェよ! 汝の封印を解き、ここに召還する!」
再び、フェアリー・ブレードが直視できないほどの眩しい光を放つとともに爆音がした。
光が収まり、目を開けると、イルダの前に、大人リーシェが立っていた。なぜ、自分がここに立っているのか、理解できていないように、リーシェも呆然とした顔をしていた。
しかし、なぜ、イルダがリーシェのことを魔王と知っているんだ?
「魔王リーシェ! 我が命に従え!」
「ふっ、ふははは! 勝手に封印を解いておいて、命に従えじゃと?」
リーシェは、いつもの傲慢な雰囲気に戻って、イルダに言った。
「フェアリー・ブレードは我が手にあるぞ。それがどういう意味なのか、もはや、忘れた訳ではなかろうの?」
「……なるほど。そういうことか。それが、そなたの意思なのか?」
「我が命に従え! 魔王リーシェ!」
リーシェは、やれやれという風に肩をすくめると、振り返り、ネルフィの前に進んだ。
「ということじゃ。お主の相手は、わらわがしようぞ」
「貴様は何者だ?」
「今、イルダが告げたじゃろう? 聞こえなかったのか? 魔王じゃ! すべての魔族を屈服させた魔族の王じゃ!」
そんな話は初めて聞く、リゼル達も目を見開いて、リーシェを見つめていた。
「ネルフィ! そやつは我が軍勢を蹴散らした奴だ! 油断をするな!」
「ふふふ、魔王などとふざけたことを言う輩に、本当の魔法とはどのようなものか、教えてやりましょうぞ!」
ネルフィは、ザルツェールの忠告も無視して、俺に向けていたナイフをリーシェの方に向け直した。すぐに、ナイフはリーシェに向けて飛んで行った。
だが、相手が悪い。
ネルフィが使っている魔法を、リーシェが使っているところを何度も見たことがある。リーシェに向かっていたナイフは、リーシェに突き刺さる直前に止まり、宙に浮かんでいた。
「お主の魔法など初歩の初歩ではないか。せめて、こういうことができるようになってから、わらわの相手をいたせ」
リーシェが宙に浮かんでいる五本のナイフを指差してから手を振り下げると、五本のナイフは地面に向かって落ちるというよりは、勢いよく飛んで行き、地面の中に潜るようにして消えてしまった。そして、すぐにネルフィの背後の地面から飛び出ると、そのままネルフィの背中に突き刺さった。
たまらず、膝を着いたネルフィを見て、リーシェは、イルダに向かって訊いた。
「始末しても良いのか?」
イルダは表情も変えず、何も答えなかった。
「ふっ、反対はしないということか」
自嘲気味に笑ったリーシェは、背中の剣を抜いた。
「あの世で、エリアンとルシャーヌに詫びるが良い!」
そう言って、リーシェは剣で空を斬った。次の瞬間には、ネルフィの体がバラバラにされていた。
そんなリーシェの魔法を見て、帝国軍の兵士達も、悪夢が蘇ったように、引きつった顔をしていた。
「次は誰じゃ?」
「恐れるな! 相手は一人だ! 一斉に飛び掛かれ!」
ザルツェールの非情な命令に、騎士達も一斉に馬にムチを入れ、リーシェを馬で踏みつぶそうとした。
もちろん、そんなことでひるむ魔王様ではない。騎士達は、リーシェが手を振るだけで、馬ともども吹き飛ばされてしまい、運が悪い者は馬の下敷きになっていた。
「わらわに少しでも触れた者がいれば、この体を好きにして良いぞ」
リーシェの魅惑的な容姿に、戦争という緊張状態にあった兵士達は目の色を変えた。
兵士達が、また、リーシェに向かって、馬を突進させた。
すると、リーシェの周りの小石が無数に浮かび上がると、いくつかの小石が結合し、かなりの大きさの石になって、兵士達に襲い掛かっていった。ネルフィが使っていた魔法を、それも更に強力にして見せびらかしたのだ。
飛んでくる石をぶつけられて、すべての兵士が落馬をしてしまい、石をぶつけられた馬は暴れて、手が付けられない状態になってしまった。
中には、落馬してもすぐに起き上がり、リーシェに向かって行った猛者もいたが、誰一人としてリーシェに触ることさえできずに、まるで紙くずのように吹き飛ばされていた。
リーシェは少しずつ歩を進め、ザルツェールの元に近づいて行った。
将軍を守るべく、勇猛な兵士どもが果敢にリーシェに立ち向かったが、人族である限り、いかに武勇を誇る兵士であっても、魔王様に敵う者はいない。
護衛の兵士を吹き飛ばしながら、リーシェは、騎乗のザルツェールの前に立った。
「魔王様の御前じゃぞ。馬を降りろ」
リーシェが、腰に手をやり、首を少し傾げるお得意のポーズで、ザルツェールを見た。
ザルツェールは、その言葉に反発したというよりは、恐怖で体が動かなかったようだ。
「自分で降りられないのであれば、手伝ってやろう」
リーシェが、パチンと指を鳴らすと、ザルツェールの体が少し浮いた。そして、すぐに地面に落ちた。
尻餅を着いたような体勢のザルツェールの前に、リーシェが歩み寄ると、その頭上に剣を突きつけた。
そして、目だけをイルダに向けて、こう言った。
「さあ、こやつはどうするのじゃ? 我が主人?」




