第百話 力の片鱗
「ああ、行こう」
俺は、リーシェにそう返事をしてから、切り株から立ち上がり、少し離れた所にいて、突然、現れたリーシェに見とれていたリゼルに声を掛けた。
「リゼル。イルダは、相当、疲れているようだ。また、眠ってしまったぞ」
「またか? 大丈夫なのだろうか?」
最近、イルダは昼間にちょくちょく眠りこけてしまう。実は、「おやすみ薬」で眠らされているだけなのだが、そんな事情を知らないリゼルは、何か病気ではないかとか、以前に吸血鬼にされたことの後遺症ではないかと心配していた。
「昨夜は、やはり眠れなかったのだろう。でも、俺が考えた作戦を聞くと、少し安心して、気が抜けたのかもしれないな」
剣の師匠のオルカから、俺は詐欺師の家系に生まれていると冗談で言われたことを思い出した。口からポンポンとそれっぽい嘘が出てくることからいうと、本当にそうなのかもしれないと自分でも思ってしまう。
「では、俺は、魔法士のリーシェと一緒に、戦場に行ってくる」
「アルス、気をつけろ」
リゼルが本当に心配そうな顔をして言った。
「リーシェの力を信じろって。じゃあ、リーシェ、頼む」
「うむ」
大人リーシェが、俺の背中に張り付くと、見えていた景色が一瞬にして変わった。
そこは、ところどころに灌木が生えている、見渡す限りの草原だった。
人々の声が聞こえてきた。
雄叫び、歓声、断末魔、ありとあらゆる声が混じった多くの人の声――俺も久しぶりに聞く「戦争」の「声」だ。
しかし、草原の四方を見渡す限り、兵士達の姿は見えなかった。
「向こうの方じゃな」
リーシェが指差した方に向かって、地面が盛り上がるように高くなっていて、その小高い丘の向こう側から声は聞こえていた。
すぐに、リーシェとともに丘の上に転移すると、その丘の下に広がる草原で、戦いが繰り広げられていた。
丘からは、ちょうど両軍を俯瞰するように見えて、兵の数から、向かって右がエリアンの軍、左が帝国軍だと分かった。
兵士達が動き回っている地面には、既に何人もの兵士が転がっていた。重傷を負ったか、死んでいる兵士達だろう。数は両陣営半々といったところで、寡兵ながらエリアンの兵士達は善戦しているようだ。
しかし、多勢に無勢はひっくり返しようがなく、同じ数の兵士が失われているのだから、当然、エリアン軍の負けだ。
エリアン軍の敗走が始まった。
統率された撤退ではない。兵士達が敵に背中を向けて我先に逃げ出している。当然、帝国軍は追撃に転じた。
逃げる兵士は弱い。一方的な虐殺が始まった。
そんな逃げる兵士達の中で、一人だけ敵に向かっている騎乗の勇者がいた。一段と豪華な鎧をまとっていて、ひと目でエリアンだと分かった。
雑兵を追っていた帝国軍の兵士達も、殊勲を狙って、エリアンに殺到した。
自分が打って出ることで、兵士達を一人でも多く逃がそうとしているのかもしれないが、あれだけの敵兵に囲まれて、生きていられるはずがない。
「リーシェ! エリアンはあそこだ! あそこに飛んでくれ!」
「やっぱり、こき使いおる」
「文句は後から聞いてやる!」
リーシェが俺の背中から抱きつくと、また、景色が一瞬のうちに変わり、すぐ目の前には、馬に跨がったエリアンがいた。
突然、現れた俺とリーシェに、エリアンを取り囲んでいた帝国軍の兵士どもも驚いていたが、すぐに俺達に剣や槍を一斉に向けた。
「アルス殿! このような所にどうやって?」
「忙しいところ、悪いな。助けに来たぜ」
「その女性の方とですか?」
エリアンが変な顔をしていると思ったら、リーシェが俺に抱きついたままで、まるで女遊びの最中に、突然、戦場に送り込まれたような状態だった。
「ま、まあ、これには、いろいろと訳があってだな」
そんな俺の台詞が終わらないうちに、帝国軍の兵士どもが俺達に襲い掛かって来た。
しかし、爆音が響くと、取り囲んでいた兵士どもが吹き飛ばされてしまって、俺達の周囲に、ぐるっと人がいない空間ができた。
「今のは、いったい?」
「俺の連れの魔法だ。さあ、逃げるぞ」
「逃げる? 敵に背を見せて逃げることなどできません!」
「お前の兵士どもは、ほとんど逃げてしまっているぞ! 一人で二万の兵の相手をするつもりかよ?」
「ええ! 逃げたなどと言われるくらいであれば、ここで見事に散るのみ!」
「そんなこと言ってないで、俺達と一緒に逃げよう! イルダだって待っているんだ!」
「私の気持ちは変わりません!」
「アルスよ」
「何だよ、この忙しい時に?」
エリアンを説得しようとやっきになっていた時に、口を挟んできたリーシェを、俺は睨んだ。
「敵に逃げてもらえば良いのじゃろう?」
「えっ?」
「そのエリアンが逃げたのではなく、敵が逃げるようにすれば良いのじゃろう?」
「そ、それはそうだが」
「我が力を遺憾なく発揮しても良いと言わなかったか?」
「……しても良いが、少し押さえろよ」
いつもの余裕をかました冷笑気味のリーシェの表情を見て、俺は大惨事にはしないようにと釘を刺した。
「ふふふ、では、そこで見ておれ」
リーシェは、再び、俺達を取り囲もうとしている兵士どもの前に立った。そして、右手を軽く振り下ろすと、リーシェの前から真っ直ぐに、大きく深い溝が地面にできて、その上にいた兵士どもを、俺の身長よりも深くえぐれた溝の中に落とした。
次に、リーシェは、右手を空に向かって突き出した。すると今度は、空から小さな豆粒ほどの大きさの火の玉が無数に降り注いできた。まるで火の雨のようなその小さな火の玉は、兵士どもを焼き尽くすことはなかったが、そこそこの火傷は負わせるはずだ。
無差別に降り注ぐ火の雨で、帝国軍の兵士どもも無秩序状態になり、我先に退却をし始めた。
帝国軍のはるか後ろに、見覚えがある金髪の長い髪に豪華な鎧をまとった男が白馬に跨がっているのが見えた。
ザルツェールだ。
そこにも火の雨が降り注いでいるようで、帝国軍の本陣も混乱をしていた。
リーシェの攻撃は、これだけではなかった。
リーシェが短い呪文を唱えると、近くの地面から、巨大な土人形が三体、せり上がってきた。
俺の身長の五倍は軽く超える巨大な土人形は、帝国の兵士を踏みつぶそうとせんばかりに、地響きをあげながら、迫って行った。
降り注ぐ火の雨と踏みつぶそうと襲ってくる巨大土人形で、帝国軍の兵士どもは完全にパニックに陥ってしまったようで、少し前に、エリアンの兵士達が見せたのと同じように、一斉に敗走を始めた。
もっとも、巨大土人形も全体重を掛けて帝国軍の兵士を踏みつぶすようなことはせずに、兵士達を追い立てるように、ゆっくりと歩いて行くだけだった。そして、火の雨といい、地面にいきなりできた溝といい、リーシェは、俺の願いを聞き入れてくれて、できるだけ無駄な血を流すことを避けてくれたようだ。
ついに、ザルツェールも馬を反転させて、戦線を離脱したのが見えた。
帝国軍は、エリアンとの戦争には勝ったはずなのに、それを帳消しにする無様さで敗走して行った。
それにしても、戦いが始まってから、リーシェは、呪文らしきものを詠唱し、腕を数回動かしただけで、とても本気を出しているようではなかったが、それで、二万近くの軍団を敗走させてしまった。
エリアンも、信じられないものを見たように、去って行く帝国軍の後ろ姿を呆然と見送っていた。もっとも、エリアンの兵士どももほとんど逃げ去ってしまっていて、エリアンの周りにも数名の将兵しか残っていなかった。
「あの様子では、敵も体勢を整える時間が必要だろう。その間に逃げるぞ」
俺がエリアンに言うと、我に返ったエリアンは、馬から降りて、俺に相対した。
「私は、マゾルドに急ぎ帰り、軍を立て直します」
「今さら、マゾルドに戻ってどうする? お前の兵士達もちりぢりバラバラになって、マゾルドの街に逃げ帰った者は、数えるくらいしかいないはずだぞ」
魔王様の反撃を見るまでに戦線から離脱した兵士達は、帝国軍が進駐してくるはずのマゾルドの街に戻るはずがない。みんな、新しい仕官先を求めて、逃亡を続けているはずだ。
「それはそうですが」
「今は、この魔法士のリーシェの魔法で帝国軍を追い返したが、あんたが負けたことは、もう覆しようがないんだ」
「……分かっています」
「もう、ジュール伯爵家当主という座から降りて、イルダの元に来てくれ。イルダとこれからのことを話すことが、今できる最善のことだと思うがな」
「……そうですね。アルタス帝国再興を願う我々にとって、イルダ様は一つの旗頭でもあるわけですからね。分かりました。いずれにせよ、捨てようと思った命と体です。あとは、イルダ様の好きに使っていただくことも本望ではあります」
「よし! では、そうしよう!」
「今、イルダ様はどこに?」
「マゾルドの街から南東に三刻ほど歩いた場所にいる。俺達と一緒に飛んで行くぞ」
「飛ぶ?」
「ああ、魔法でな」
「では、少しの間、待ってください」
エリアンは、律儀に最後まで自分の近くで戦ってくれた将兵数人に、わずかばかりの恩賞を与え、その場から逃がすと、俺の近くに寄って来た。
「では、お願いします」
「ああ、一瞬で移動するからな」
来た時と同じように、リーシェが俺の背中に張り付くようにくっつくと、俺はエリアンと握手をするように手をつないだ。
次の瞬間、俺とリーシェ、そしてエリアンは、俺達一行がいた場所に戻った。
「エリアン殿!」
リゼルがエリアンに駆け寄った。
「ご無事で何よりです!」
「いや、情けないことです」
「あの兵力差で勝てという方が無理な話です」
「イルダ様は?」
「そ、それが、その」
さすがに、イルダが居眠りをしているとは、リゼルも言いにくかったのだろう。
「イルダなら眠っている。よほど心労が貯まっていたんだろう」
「そうですか。イルダ様にそのようなご心労をお掛けして申し訳ないです」
自分が戦っているのに、自分の主君と仰ぐ者が眠っていて、怒るようなエリアンではない。俺の予想どおりの反応だった。
「アルス! わわらは、そろそろ行かなくてはならぬ」
「そうだったな。今回も助かったぜ。ありがとうよ」
「礼なら別の形でいただこうかの」
「どんな?」
「考えておくわ。では、さらばじゃ」
そう言うと、リーシェは、転移をして消えてしまった。
そのリーシェに注目していたみんなに悟られないように、エマが子供リーシェの手を引いて、こっそりと灌木の陰に隠れたが、すぐに出て来た。子供リーシェが首から掛けている抱っこヒモの中に子犬のコロンがいなかったのが、いるようになっただけの違いで、誰も子どもリーシェの偽物と本物が入れ替わったことに気づかなかったようだ。
間もなく、イルダが目覚めたようで、これも木の陰からダンガのおっさんとともに出て来た。
「エリアン殿!」
イルダもエリアンの姿を認めると、一目散にエリアンの近くまで駆け寄り、その手を握った。
「良かった! ご無事だったのですね!」
エリアンは、イルダの手をそっとはずして、その場でひざまずいた。
「戦場から逃げ帰るという無様な姿を晒して、恥ずかしい限りです」
「そんなことはありません! それに、エリアン殿の役目は、まだまだ、終わっていませんよ」
「はい! アルス殿からも言われました。まずは、イルダ様とこれからのことを話し合えと」
「そうですね。エリアン殿がいてくれたら、私もどれだけ心強いか分かりません。これから、私達と一緒にいていただきたいです」
「このエリアン! 今後は、イルダ様のために、この捨て損なった命を捧げましょうぞ!」
ついさっきまで貴族の当主として、軍を率いていたエリアンは地位も兵力も失った。
しかし、イルダと同じく、名誉と誇りは捨てていないはずだ。