不都合
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人は不都合な質問から、目を逸らさずにはいられない。
――もし、あなたと、あなたの愛する人の命を天秤に掛けるなら、どちらが重いのですか?
答えられるはずもない。だって、あなたが死んでしまえば、あなたを愛する人の命の事は「あなたと関係なく」なる。でも、あなたの代わりに、あなたを愛する人の命がなくなるなら、それは「あなたに関係して」いる。だから、選ぶ事はできない。どちらを選んでも、愛する人を失う事に変わりはない。
――天秤に掛けないで良いように、気を付けて生きなければいけない。
そういう結論に至る。でも、得てして天秤の不幸は急に訪れるものだから、誰も回避し得ない。誰もが、気を付けるより先に、不可避な現実にぶつかる。解のない方程式を与えられて、答える事を強制される。人は、どちらかを選ばざるを得ない。どちらを選んでも、正解じゃないと分かっていながら、誤りをあえて選ぶ。間違った代償に、何かを失う。失う事を強いられる。降って湧いた不幸が、まるで彼の責任であるかのように喪失を押し付ける。誰も、答えのないクイズなんて望みはしないのに、それは突然に現れて、全てを奪っていくのだ。
同じ事が、私の身に起きた。
私は、単なる人間ではなかった。私自身も不都合な存在だった。でも、ダーウィンが進化論を説いて久しい今、私がなお不都合な存在なのは、私でなくて、私以外の誰しもの責任だと思う。猿が人間に進化したように、人間が進化を遂げるのは当たり前の事で、私はただその先駆者だっただけだ。
私には小さな羽があった。服を着れば、誰も気付かないような、本当に小さな羽があった。空は飛べなかったけれど、天使がやるように、ひらひらと動かしてみせる事はできた。色は白くて、時々川で見かけた白鷺のようだった。初めて見つけた時、私は怖いよりも嬉しくて、何度もぱたぱたと風を起こしたものだ。
私は、私が異端だという事に気付いていた。ただ、異端だから、という後のセリフを知らなかった。隠してはいたけれど、本当は誰かに打ち明けたいとさえ思っていた。だから、その内に隠しきれなくなって、見つかってしまったのは当然の事だった。
私は、檻に囚われた。私に何の罪があるの、と何度も尋ねた。誰もがその質問に、目を伏せた。誰もが答えられないでいた。だって、私には罪がなかったから。ただ、羽が生えただけだったから。だけど、羽の生えた人間が、今彼らを順風満帆にしている風を止めてしまうきっかけになるのではないかと、彼らはそればかりを気にしていた。そして多分、その憂慮は正しかった。正しい憂慮、正しい隔離。でも、私には不条理に過ぎた。羽は、私のやるせなさと、怒りに呼応するようにして、どんどん成長していった。やがて、私は檻の中で、飛ぶ事ができるようになった。
籠の中の鳥の気持ちを真に分かる人間は、私しかいない。自分が大空を飛べるのか、試してみたくて堪らないのに、それが許されない。誰も私の声に耳を傾けてくれない。私がここに囚われている不条理には目を背けて、ただ、籠に閉じ込めておく事の正しさにだけ目を向けている。明日の命さえ、怪しい。無辜なる私を、無辜なる人々が獄に繋いでいる。誰に怒りを向ければ良いのか。羽をくれた神様なのか。私を捕まえて離さない人間なのか。でも、皆、罪がない。罪がない人をどうして恨めば良いのか。だけれど、罪のない私は、こうして檻に入っている。なぜ。どうして。でも。
一年という時間は、何もなくても気が狂うのに十分だ。増してや、不条理で不可解で不可避な不幸が自分の上でいびきを掻いていれば、容易い。錯乱した私を、人々は冷たい目で見つめた。私に罪ができた。私に囚われている理由ができた。私は彼らに仇する者だから。だから、彼らも私に仇する。解けない方程式の、その定数が狂って、解ける方程式に変わった。私にはそして、檻を破るだけの力があった。
檻を破った私に、人々は恐怖の目を向けた。彼らは、私を籠に捕まえて、決して出さずにいた。彼らは、不条理に、私を一人にした。でも彼らには、罪がない。私には、罪がある。私と彼らは、違う人。でも、私が、何か悪い事をしたんだったっけ――。
羽ばたいた。大きく育った羽は、痩せた私の体を持ち上げるのに十分な力を持っていた。ひたすら、上へ。だって、ここは罪のない世界。ただ、上へ。私が居ても良い場所を、目指して。