6
息子が多少、要領の悪い子だというのは知っていた。けれどそれが原因でいじめられていたことも、学校で孤立していたことも、――人間不信に陥っていることも、知らなかった。
馬鹿なのは、母の方だ。
「――……ということで、あんたの母親がさっきから泣きじゃくってて、うざいんだけど」
青年は顔をしかめながら、康介に言った。返事をしない康介に、彼は続ける。
「いじめられてた時、誰も助けてくれなかったってか。……あんたの言うとおりだよ。この世界じゃ、誰も助けちゃくれないね」
康介の顔が、恐怖で歪む。またしても泣き始める私を、鬱陶しそうに一瞥した青年は、頭を掻いた。
「あんたが一歩踏み出さなきゃ、って意味だよ。こーすけさん」
「え?」
「この部屋に閉じこもって一人でボーっとしてる奴を、どうやって助けろっていうんだよ。皆、そんなに暇じゃないんだ。他の奴に構ってる暇なんてないのさ。世間はそんなに甘くない」
「…………」
けどな、と言って、青年は笑った。
「助けを求める人間を放っておくほど、世間は冷たくない。あんたが一歩踏み出せば、助けてくれる人間は必ずいる。――……あんたもあんたの母親も、人に頼るのが本当に下手くそだったんだな」
鼻を真っ赤にして泣く親子を見て、青年は苦笑した。それから、私の方を向いた。
私はぐしゃぐしゃの顔で、ぐしゃぐしゃの思考を彼に伝える。
「……いじめのこと、気付いてあげられなくてごめんね。お弁当の卵焼き、いつもしょっぱくてごめんね。授業参観、見に行けなくてごめんね。こーすけのお年玉、生活費に使っちゃってごめんね。先に死んじゃってごめんね。……なんだよ、ごめんごめんってそればっかり。もっと他に言うことないのか? じゃなきゃ俺のこと、信じてもらえないだろ」
「――いや、信じるよ。まだここにいるんだな、母さんは」
右腕で乱暴に涙を拭いながら、康介は前を、――青年の方を見た。
「それで母さんは、成仏したがってるんだな?」
「ああ」
「……どうすればいい」
康介の言葉を聞いた彼は、ぷっと吹き出した。
「なかなかの好青年だね。あんたの母親から話を聞いた時は、どうなるかと思ったけど」
「…………」
「二十万と、三百六十円」
ファミレスで言っていたのとまったく同じ金額を、青年は繰り返した。
「あんたの母親を成仏させるための金額。言っとくけど、びた一文まける気はないから」
言葉に詰まった康介を見て、青年はにやりと笑う。
「どうする? 払えんの?」
「……それくらいなら、なんとか用意できる」
「ま、待って! 待ってください! 今そんなお金を払ったら、これから康介はどうやって……」
「あんたら、親子そろって馬鹿だね」
変な汗をかいている康介と、叫んでいる私の方を見て、青年は愉快そうに笑った。そんな彼の様子を見て、私も康介も口をあけたまま呆然とする。青年は目尻にたまった涙を拭うと、康介の方を見た。
「あんた、俺が詐欺師だったらどうすんのさ。視えもしないくせに、簡単に騙されちゃって」
「……は?」
「ま、俺は本物だけどね。――それから」
青年は私の方に目をやり、笑う。
「康介が今すぐ出せる金は、あんたの金じゃなく、あんたの母親が貯めた金だろ? 俺は、その金には興味がない」
康介は青年の視線の先、つまりは私の方を見ながら眉をひそめた。
「それって、どういう……」
「やっぱり馬鹿だな」
康介を指差し、青年は笑う。
「あんたが働いて得た金で、二十万払えってことだよ」
「え……?」
私と康介の声が重なった。それを見た青年が、苦笑する。
康介は首を振った。
「いやでも俺、今は働いてないから……」
「今すぐ払えとは、誰も言ってねえよ」
青年は、肩をすくめる。
「二十万は、後払いでいい。いいか。あんたはこれから働いて、その給料から二十万円分、母親の墓に花を供えろ」
「え……?」
「一回で、とは言わない。五百円の花束を四百回供えてもいいし、百円の花を二千回でもいい。……いつまでに、とも言わない。強いて言うならあんたが死ぬまでに、だ。――いいか。母親の墓に二十万円分の花を供えろ」
私は、ファミレスでの青年の言葉を思い出していた。
『幽霊は、『実体』ではなく『気持ち』を喰うんだよ。――供えてくれた人の『気持ち』を喰うのさ』
だったら、食べ物でなくても、……そう、例えば花でも。
青年は、窓の外のプランターに目をやりながら言った。
「あんたの母親が好きだった花は何なのか、よーく思い出して供えるんだね」
『自分のことを考えて供えてくれたものほど美味く感じるし、空腹感も満たされる。逆に言うと、余りものを適当に供えられても、腹は満たされない――』
「あなたは……」
私が声を出そうとすると、それを遮るように青年は言った。
「三百六十円は、先払いで。――……ドリンクバー二人分くらいは先に貰っておかないと、こっちも商売あがったりなんでね」
――この人は。
ドリンクバーという言葉を聞いて首を傾げた康介は、けれどもすぐに頷いた。
「分かった。ただ、今からお前に渡す三百六十円も、母さんの金だ。だから俺は、二十万と三百六十円分、母さんの墓に花を供える。……これでいいか」
「上出来。よくできました」
青年は口元を歪めて笑うと、目を閉じ、黄ばんだ壁に右手をついた。そして、
「――開け」
彼の言葉に呼応するかのように、壁にぽっかりと穴が開いた。大人が一人通れる程度の、さして大きくない穴。その穴の先にあるのは、この前まで私にも見えていた、白い道だ。
一度見えなくなった、白い空間と白い道。そしてその先にある、木製の扉。
「――……いき先は分かるね? まきしょーこさん」
私の方を振り返った青年は、優しい笑みを浮かべていた。