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悪霊の姿が視えなくなると同時に私の足も解放され、というかいきなり解放された私は思いっきり尻もちをついた。
道尾はクラウチングスタートのような体勢のまま、横向きにごろりと横たわる。私は慌ててかけよった。恐ろしさやらなんやらで、足がもつれる。
「道尾………………さん!」
「さん、が遅いんだよ。馬鹿女」
道尾は生きていた。よく死ななかったなと本気で思う。とりあえず、道尾の傷の状態を確認した。私のことをかばってできた右腕の傷は血が止まり始めているけれど、左太ももの傷はぱっくりと開き、脂肪が見えている。これは縫わないとまずいんじゃないだろうか。
「あの……大丈夫? あと、かばってくれてありがとう」
「一万円な」
「え?」
「いやだから、右腕の治療費。一万」
私が絶句すると、道尾は目を丸くした。
「え、なにお前。タダで助けてくれたと思ってんの!? 馬鹿!? 俺はタダ働きが大っ嫌いなんだよ!」
そこまで言って、今度は急に優しい顔つきになった。
「ああー、そうだった。お前、四千円も払えない、いじめられっ子だったな。すまないすまない。一万円はまあ、後払いでいいですよ? かわいそうですし。僕ももうすぐ、三百万円貰える予定がありますから、しばらくはゴージャスな暮らしができますし?」
なにこの人殴りたい。
「……おい。俺の鞄。取ってきてくれる?」
しかし恩があるので、彼の言う事には従うことにした。
道尾は自身のショルダーバッグから緑茶のペットボトルを取り出すと、蓋を開け、先ほど穴が開いた地面に置いた。私はその地面をしげしげと見つめながら、道尾に訊ねる。
「あのー……」
「なんだ」
「さっきの穴、あれなに?」
「道の入口」
よく分からない答えだった。道って何? と訊くと、成仏するために歩く道、とだけ返された。どうも、生者はあまり知ってはいけないものらしい。しかし、ここはツッコミたい。
「入口って言ったけど、あれってどう見ても落とし穴だったよね!? 地面に穴、開いたじゃん!」
「壁にある穴だけが入口だとは限らないだろ。地下への入口は、床にある」
「でも落とし穴に、道なんてないでしょ!」
「あんた、平らな道しか想像できないの? 坂道だってあるだろ。当然、『急勾配の坂道』もね」
あれもう多分、直角くらいの坂道でしたよね? 私はその強引っぷりに半ば呆れながら、緑茶のペットボトルを見た。
「……これは?」
「ころころすさんへの供え物だ。見て分かんない?」
「それどう考えても本名じゃないよね?」
「仕方ないだろ、話しかけても本名を教えてくれなかったんだから」
私はそういえば、と首を傾げた。
「どうして、あの悪霊にあんなに話しかけてたの? あっという間に近づいて、さっさと穴をあければ……道を開けばよかったじゃない」
「あんた、成仏できてない幽霊がどんだけこの世にいると思ってんの?」
道尾は供え物はもういいと思ったのか、ペットボトルの緑茶を飲みながら言った。
「閉鎖された道っていうのは、成仏していない人間の数だけ存在してる。一人につき一本の道。しかも、その人専用の道だ。数ある道の中から、『その人のための道』を『俺が』探し出さなきゃならない。……つまり、ちょっとでも相手の情報がいるんだよ。相手のことが何も分かってないと、道を探すこともできない」
「じゃあ今回は……」
「お梅って言ってくれて助かったね。あれがないと、次は首でも切られてたかも」
道尾はけらけらと笑った。私は笑えない。とりあえず彼の太ももの止血をするために、私はハンカチを取り出した。途端、道尾の顔が曇った。
「……要らない。そんな花柄の乙女ハンカチ」
「駄目だって。変な雑菌が入ったらどうするの? とりあえずこれで傷をふさいで、早く外科に……」
「平気だ、歩けるし。仕事も終わったから、俺はもう帰る」
道尾はよろけつつも立ち上がった。けれど、やっぱり出血が止まっていない。私は無理やり、彼のジーンズのポケットに私のハンカチを押し込んだ。道尾はさも不機嫌そうな顔で、私を見下す。
「……言っとくけど、返さないぞ。これ」
「いい。道尾にあげる。右腕のお礼」
「一万円は別料金だ。びた一文まけるつもりはないね」
こいつ……。そう思いつつ、私はトンネルの外に歩き出した。何枚かお札を踏んでしまう。悪霊退散と書かれた、ただのゴミ。複雑な気持ちで足元を見ていると、道尾がどうでもよさそうに言った。
「その紙切れは、放置しとけばいい」
「でも、ゴミだし」
「構わないんだよ。それがあった方が、『いい演出』になるだろうからさ」
「いい演出……?」
道尾は何も言わず、左足を引きずりながら歩きだす。私も後を追った。
道を開く――幽霊を成仏させるのが仕事の男。道尾開人。
その不思議な人と私が出会ったのは、七月初旬。犬吠トンネルという、心霊スポットでの出来事だった。




