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「なにお前。あの人、視えてんの?」
道尾はよろよろとこちらに近づいてくる甲冑およびその中のドロドロな何かを指さしながら、すごくのんびりとそう言った。
人!? あれは人としてカウントするの!?
首を縦に振りまくる私を見て、道尾は興味深そうな顔をした。
「ふーん。まあ、あれくらいの悪霊にまでなれば、ある程度の人間には視認可能か。霊感ゼロなら『このトンネル……肌寒い……』くらいで終わってたと思うけど。多少なりとも霊感があれば、まあ黒い影くらい見えるか?」
いや今そんな説明要らない。
「私、私、昔から視える体質で!」
「あらら。じゃあ今、あの人の姿もばっちり視えてんの?」
「視えてます! 甲冑! 中身ドロドロの甲冑! のろのろしたドロドロの甲冑が、よたよたしながらこっちに! こっちに!」
「うわー、なにその頭悪い解説」
私の語学力を憐れむ眼差しを道尾が向けてくる。いや今、私の国語力とか語彙力のなさはものすごくどうでもいい。というか、こんな状態で流暢かつ美麗な文章を披露できるはずがない。私は半歩、後ずさった。
「逃げ、逃げなきゃ!」
「はいはい、さよなら」
「いやだからあなたは!?」
「だから俺は、これからが仕事なんだってば」
「仕事って!?」
私が半ば腰を抜かしながら訊くと、道尾はうっすらと笑った。
「あの人の道を開く。そんだけ」
そうして道尾は前を向き、ゆっくりとこちらに近づいてきている甲冑に呼びかけた。
「おーい。あんた、名前は?」
『……コロ…………コ……ロ………………ス』
「え、なんて? ころころすさん?」
そんなわけない。
しかし道尾は、意に介する風でもなく続けた。
「ころころすさん。悪い事言わないからさ、あんたさっさと成仏する気ない? あんたがその気なら、今すぐにでも道を開いてやるけど」
『コロ……コロス……!』
次の瞬間、またしても突風がトンネル内部からこちらに向けて飛んできた。空気が歪んでいるのが、目に見えて分かる。飛行機雲のような細長い空気の塊が、特急電車のようなスピードでこちらに向かってくる。道尾は冷静に身体を左に捻り、それをかわした。そして、うんざりしたような声を出した。
「ころころす、ころころすって、どんだけ自己アピールする気だよ」
いやだからそれ絶対に名前じゃないって。……そんなこと考えてる場合じゃない、とりあえず私だけでも逃げないと。
ころころす(仮名)と道尾(仮名)を置いて逃げようとしながら、というか逃げようとして、私はその異変に気付いた。
――ちょ、え、うそ。え、あれ、なんで?
思わず、斜め前に立っている道尾の背中をおずおずと叩いた。
「……あのー。道尾、さん」
「なんだ。とりあえずお前、早くこっから」
「動けないんですけど……」
「はあ?」
道尾がこちらを振り返り、更に私の足元を見る。私も自分の足を見た。
地面に、足がはまっているのだ。
私の足が、コンクリートにめり込んでいる。くるぶしから下が地面に陥没していて、完全に見えないのだ。まるで、固まっていないコンクリートに足を突っ込んで、そのままコンクリートが固まったかのような光景。実際、そんな経験したことないから分からないんだけれども。
道尾は私の足を見るなり、顔をしかめた。もちろんそれは『どうしよう』とかそう言う意味じゃない。『面倒』だ。道尾は肩をすくめた。
「何してんのお前。これから海に沈められる予定?」
「いやいや、なんでこうなってるのか自分でも分かんなくて、あの、どうしよう……」
「ころころすさんにお願いして、脱出すれば?」
「え!?」
「だってそれ、ころころすさんのチカラだから。俺はどうにもできないね」
え、うそ。
「あなた、除霊師か何かじゃないの!?」
「俺がやるのは、道を開くことだけだ。呪いに関しては知らないね。自力でどうにかしろよ。自分で率先してここまで来たんだろ?」
「私だって、本当はこんな所に来たくなかったんですけど!」
「あーもう。面倒だしうるさいし馬鹿だし、どうしようもない女だな」
道尾は赤茶色の頭を掻きながら、十五メートルほど先にいる悪霊に向かって叫んだ。
「ころころすさーん! この馬鹿女は見逃してもらえませんかねえ? 僕も、手荒な真似はしたくないんですよお! このままだと、あなたと僕、喧嘩することになっちゃうじゃないですかあ! あなたがこの馬鹿女を解放してくれたら、僕もあなたの道を開いて穏便に、」
『コロ……ス!』
三度目の突風。それは、足を地面に固定されている私に向かって飛んできた。うそ、私、避けられないのに。死ぬ。これ絶対死ぬ。
――人間と言うのは、極度の恐怖を目前にすると、声も出なくなるらしい。そして、目を瞑ってしまうようだ。私はほんの数秒……いや、一秒ほどの間にさまざまな映像を見た。お母さん、お父さん、弟、ポチ、ああごめんなさい。私、先に死ぬ。
衝撃は、感じなかった。ただ、風が通り過ぎたのは分かった。ぱたた、と血液が流れ落ちる音。――終わった。死んだ。私は死んだ。
けれど、いつまでたっても私の呼吸が止まる気配はなかった。
「え……」
目を開けると、そこには右腕を私の前に伸ばした道尾がいた。腕から赤い血がぽたぽたと、リズムよく落ちている。ここからだと傷口は見えないけれど、相当深く切れているに違いない。
「――だから、邪魔になるって言ったんだ」
道尾は面倒くさそうにそう言って、右腕を下ろした。――かばって、くれた?
「ちょっ、うそ……」
「お前、そっから動くなよ。言われなくても動けないだろうけど」
道尾は私と目を合わせようともせず、甲冑の方を向いたまま言った。
「……俺は警告もしたし、交渉もした。なあ? ころころすさん」
道尾はショルダーバッグを地面に置くと、傷ついた右腕を庇うこともなく、指を鳴らした。
「――だからこっから先は、力ずくだ」




