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『開き屋』、道尾開人。それから、携帯の番号。彼に渡された白い名刺に書かれているのは、それだけだった。
「開き屋……?」
「そ。道を開くのが仕事」
「……道を開く人、道尾開人さん?」
「素敵な偽名だろ」
何この人。道を開くって何。ていうか偽名なんですね。そんなはっきり言っちゃうほど、どうでもいい偽名なんですね。
用は済んだと思ったのか、道尾(仮名)はすたすたと歩き始めた。背中を向けたまま、私にひらひらと手を振る。
「話は以上だ。お前、さっさとおうち帰れよ」
「いやいや待って待って! これ本当に!?」
「信じるも信じないも、あんた次第だよ」
トンネルはもう、目と鼻の先だ。私は急いで道尾の後に続いた。道尾は早足で歩きながら、私の方に目を向ける。
「だーかーらー、ついてくんなっつってんだろ」
「ここに来た証拠を月曜日に提出しないと、友達に四千円渡さなくちゃいけないんです!」
「なにそれ。お前いじめられてんの?」
「そういうわけじゃ」
「で。四千円も払えないの? うわー、びんぼー」
道尾はものすごい同情のまなざしを私に向けてきた。なにこいつ、すっごく失礼なんですけど。でも私のお財布がスカスカなのも事実だ。言い返せない。
写メだ。とりあえず、どこでもいいから犬吠トンネルの写真を撮ればいい。幽霊は写ってなくても構わないだろう。いや、最悪この道尾を幽霊役にして、捏造すれば――
途端、空気の感触がぶわりと変わった。
空気の感触、なんて分からないだろう。でも、そうとしか言えない。急に、生ぬるい溶液に入れられたみたいな。違う。冷凍庫の中に入れられたような。――なにこれ。
「……あー」
トンネルの入り口で、道尾は変な声を出してぴたりと止まった。私もつられて止まる。これ以上進んだら、絶対にヤバい。多分、霊感がない人間でも直感でそう思えるんじゃないだろうか。それくらい、トンネルの空気は異常だった。
「思った以上に厄介だな、今回は」
ちっとも厄介そうじゃない声でそんなことを言いながら、道尾は手に持っていたカフェオレのプルタブに手をかけた。いや、そんなことしてる場合じゃない。これは絶対にまずい。早く帰らないと。お札とか写メとか言ってる場合じゃない。
そう思っている私の視界に、大量の紙屑が目に入った。トンネル内部に、雪が積もったかのように撒き散らかされている。誰かが踏みつけたようにぐしゃぐしゃになっているそれは、濡れたせいで文字も滲んでいた。
「……なに、これ」
「【あくりょーたいさん】の札だろ。別名、ただの紙」
至極どうでもよさそうに、道尾は言った。お札? これぜんぶ?
「こ、これだけのお札でも効果がなかったってこと!?」
「――あんたさあ、『動くな!』って書かれた紙をデコに貼りつけられて、我慢できる?」
「は?」
突拍子もない質問に、私は間抜けな返事をした。おでこに紙を貼られるって……それってキョンシーみたいな?
私が想像していると、道尾はぐずぐずになった紙きれをひとつ、つまみあげた。
「こういう札の意味は、それだけなんだよ。成仏させるわけでも何でもない。悪霊退散なんて言っちゃってるけど、退散させる力なんざ持ち合わせてないんだ」
「それじゃあ……」
「『動くな』と書いた札を霊に貼る事で、大人しくさせてるだけだ。効果も一時的」
おまけに、と道尾は付け加えた。
「デコに『動くな』って書かれたお札なんざ貼られたら、気分悪いだろ? 怒りたくなるだろ? 結果、火に油を注ぎまくって、幽霊が悪霊に進化するわけ。ったく、これだから『なんちゃって霊能力者』は面倒なんだよ。……ま、そいつらのおかげで俺は食っていけるんだけどね」
「それってどういう」
意味? と言いきる前に、耳の横を何かが通り過ぎた。ぶぉん、という空気の歪んだような、突風が通り過ぎたような音を右耳がとらえる。
その直後、アルミ缶が地面に落ちる音と、液体が地面にぶちまけられる音がトンネルに響いた。
「――……チカラもそれなりのようで」
上下真っ二つになっているカフェオレのアルミ缶。それの上半分だけを持っている道尾は、深いため息をついた。缶の下半分はころころとアスファルトの上を転がっている。私は悲鳴を上げた。
「なに!? これなに!?」
「うるさい女。『かまいたち』だよ、見て分かんない?」
分かるわけない。
「まあこれは、妖怪じゃなくて悪霊のチカラだけど。今回のお相手は、切り刻むチカラを持ってるらしいね。……言っとくけど、あの突風に当たったらあんたの身体、真っ二つになるから」
そんなのはアルミ缶を見たら分かる。
「いやいや、なに悠長に構えてんの!? あなた馬鹿!?」
「うっわ最悪。馬鹿女に馬鹿とか言われる筋合いはないね」
「ちょ、早く逃げないと!」
「だから、あんたは早くおうちに帰れって言っただろ。……俺はこっからが仕事だ」
――何かが近づいてくる気配。金属を引きずるような音が、徐々にこちらに寄ってきている。逃げなきゃ。もうこの変な人はどうでもいいから私は逃げなきゃ。そう思った時にはすべてが遅く、音の主が正体を現した。
それは、どこかの展示物みたいな甲冑だった。日本の武将が身に着けているような、重苦しい金属の塊。それがのたのたと、こちらに向かって歩いてきている。苦しそうに呻き声をあげながら。
更にいうとそれはただ甲冑が歩いている訳ではなく、甲冑の中には、……そう、甲冑の中には、ドロドロに溶けた人間の身体らしきものが視えていた。――溶けている。明らかに皮膚が溶けている。なのにそのどろりとした皮膚の隙間から、真っ赤に充血した二つの目が、私と道尾の事を睨んでいた。
『コ……ロ…………ス………………』
今まで視た中でも最恐の容姿を誇るそれに向かって、私は本日二度目の悲鳴を上げた。




