第1話 公僕たち
(また中途覚醒かよ、やだなあ、もう)
薄い掛け布団を使っているのにも関わらず、身体の内側からカッと暑さを感じ、暗闇の中でベッドから起き上がった。ベッド脇の窓にかかっているカーテンの隙間から外の光の具合を見るに、まだ朝日は登っていない。おそらく夜中の三時ごろだろう。時刻を確かめると余計に眠れなくなってしまうので、なるべく時計を視界に入れないように注意しなければ。
年齢的に更年期障害が出てもおかしく無いので、半年前に婦人科で血液検査をした。医師の説明によると、更年期障害と断定できるほど、ホルモン値は下がっておらず、まだその時期では無いということだった。
(プレ更年期ってやつ?もらった漢方薬も効いてる気がしないし、工夫してやり過ごすしか無いのか)
途切れることなく連続して眠れていた若い頃が懐かしい。友人達に相談してみたところ、もっと運動すべき、という嫌な回答が返ってきた。
運動は好かない。ただ言われたことはもっともなので、軽くスクワットする習慣は続けている。
小用を済ますため、立ち上がってトイレに向かった。途中で気が変わり、玄関から外に出て、気晴らしに外の共用トイレに行ってみることにした。
外靴を履くのが面倒だったので、「これは館内で履いても良い」ことにしている折りたたみのスリッパを持ってきて素足に履いた。玄関ドアを開けるとすぐに廊下の窓でいつもの庁舎が見える。
H.K.D.中央庁
という金属の文字看板が銀色に鈍く光っていた。この時期は積雪で真っ白だから街灯が雪に反射して夜中でも少し明るい。
天気予報によると、明日は百センチメートルは積もるらしい。自分はここから目の前の庁舎に通えば良いが、通学や通勤で難儀する人がたくさん居るに違いない。毎年、数百億の公費をかけて定期的に除雪しているので少しの雪であればいつも通り世の中は動くが、限度がある。
(明日はもしかしたらダメかもね、自宅から通っている人には無理に通勤しないように早めに伝えないと)
廊下に沿って続く窓を右手にまっすぐトイレに向かった。
トイレに寄ってスッキリしたせいか、その後は何とか眠れた。朝起きて部屋の窓から外を見ると、一キロメートル先が吹雪いてよく見えない。こんな天気なので登庁できないメンバーも居るだろうし、人が少なすぎて在宅勤務になる可能性もあるが念のため制服に着替えることにした。
我が国の公務員には制服が支給されている。ノーカラーのジャケットとジャンパースカート、またはパンツスーツのボトムスで、白地に二本のラインが入っている。厚手の生地で透けにくいが、チャコールグレーの裏地が付いている。
二本のラインの一本は青みがかった灰色のライトアルドワーズ、もう一本は鮮やかな青色のアジュールでジャケットの左前見頃と背面、ジャンパースカートまたはボトムスのサイドラインに縦に真っ直ぐ入っている。冬の雪国で白い服を着ると背景に溶け込みすぎて事故が起こるのではないかと懸念されるが、入っているラインのアジュールの方が、自然界に無い色なので遠目でも非常に目立つ。あとはチョボの無いベレー帽が支給されているが外交官や式典の場合を除き、ほとんど被っている者は居ない。こちらも白地で制服と同じ二色のカラーのレザーバンドがある。女性はジャンパースカートとパンツ、どちらを選択しても良いのだが、足捌きが気になるのでついジャンパースカートを選んでしまう。防寒のため、中にセーターを着込み、分厚いタイツを履いた。絶対に滑らないという評判の新素材が靴底に貼ってあるスノーブーツを履き、一階の正面玄関に向かった。宿舎と宿舎、宿舎と庁舎は隣接しており大した距離では無いが、雪を掻かねば隣の宿舎に行くことも、庁舎に入ることもできない。まずは自分の宿舎から雪掻きをすることにした。
一階の二重ドアから外に出ると、ロードヒーティングが効いているところ以外は既に胸の辺りまで雪が積もっていた。すなわち宿舎のすぐ外の玄関ドアが開く範囲、そして庁舎の正面玄関以外は人力で何とかしなければならない。建物の外に出られない、入れないとえらいことになるので最低限の設備はあるが予算の関係で全面的にロードヒーティングが設置されてはいない。宿舎の中に戻り、玄関脇の物置からプラスチック製のスノーダンプを出す。十個あるはずが、まだ一つも使われていない。どうやらこの宿舎では一番乗りらしかった。
外は吹雪で一寸先が真っ白だったこともあって心細くなり、ポケットから携帯端末を取り出してコミュニケーションツールを開き、グループチャットに次のように投稿した。
<これから雪かき、外見てよ、近所なのに遭難しそう>
すぐに既読が付き、返信があった。
<こちら三号館、もうやってるよ。お互いが見えるまでやろう>
京子だった。
<一号館の方は智子が皆んなを集めてもう終わったって>
一号館は家族連れが多いからか相変わらず団結力が抜群だった。我が二号館は自分と同じ独身のIT系エンジニアが多く皆一様に宵っ張りである。今の時間は二度寝を楽しんでいる奴もいることだろう。あと三十分くらい経てば人手が増えるはずだが早く終えて庁舎の方に行きたかった。
外に出て二号館と三号館を繋ぐ通路に向かってスノーダンプで前進し、雪をすくっては道の端に積み上げる。何十回も往復するとざりざりとした手応えがあり、根雪に到達した。
「そこにいるの誰?純だよね?」
吹雪で見えにくいが、三号館の方から人影が歩いてきた。
「ちょっとアンタ、その格好は何よ。コートなしで凍死するつもりなの」
まだ玄関から十メートル程度しか掻いていないので、お互いの間には雪の壁がある。
「ああ、京子か。最近、身体が火照るというか暑くて。少し動くとコートが要らなくなっちゃうから持ってきてないの」
「そのままにしてたら冷えて身体壊すよ。こっちからも雪を掻くから早く道を繋げよう」
雪壁の両側から二人で雪を掻いたので、思ったより早く終わった。
「純〜」
「京子〜」
雪壁が無くなったで二人の間を阻むものは何もない。軽くハグして挨拶した。
「うっわ、手が冷たい。いくら火照るからってこんな薄着じゃダメでしょ、早く庁舎の方に行こう」あたしの折りたたみダウン貸してあげるから、と言って、京子が自分の着ているロングのダウンコートのポケットから、コンパクトな筒状に畳まれたダウンジャケットを取り出した。受け取ったダウンを羽織り、二人で連れ立って庁舎の入り口に向かう。
「今日は半分以上の職員がリモートワークになるね。あたしたちみたいにわざわざ庁舎でお勤めする奴は少ないから、好きなところで作業しない?」
「好きなところってあそこでしょ。一階の休憩室の、椅子がいっぱいあるところでしょ」
京子は家具が好きだ。特に椅子が好きで、一階の休憩室にある椅子は全て京子が選定したらしい。どんな手を使ったか知らないが、一つとして同じ椅子が無い。。
「あたしはあの、オットマンが付いてる椅子ね?」
「あの茶色いのお気に入りだよね。でも、あれってリラックスするために座るもんでしょ。仕事できるの?」
京子のお気に入りは、S国の政府からプロフェッサーの称号を与えられたすごいデザイナーの作品で、我が国の風土にあった設計を施した過去の名品だ。同じ素材のオットマン(足置き)と合わせると、よりナイスな座り心地になるらしい。設計は海外のデザイナーだが、作りは国産なので、デザイナー家具の割にはお求め安い価格だそうだ。
「できるできる、むしろ捗る」
「じゃあ、上でメール一報打ってから戻ってくるよ」
「純はどれにするの、椅子」
何でも良い、と応えると各椅子の良さを披露されそうだったので、以前に蘊蓄を聞いて感心した図書館椅子(我が国の有名デザイナーが図書館用にデザインした、長時間座っても疲れない椅子)を確保しておいてもらえるように伝え、四階にある、自分の部署に向かった。
「どうもさ、寝つきが悪いのよ」
私が愚痴ると、ああ、と他の三人が応答した。
「昨日も眠れなかったんだって?更年期障害っぽいって」
「私は今のところ、大丈夫だけど、こういうのって個人差あるよね」
「漢方薬飲んでみた?わたしは結構効いたの。眠れないというより不安感が強くなる時があって」
自席でメールを確認し、自分のチームのメンバーに在宅勤務を申し付けた後、再び一階の休憩室に戻って来た。あれから四人でそれぞれ好きな椅子に座り、それぞれ別の机に向かって作業している。最初は私と京子だけだったのが、次に智子が、最後に慶子がやってきた。
やはりどの部署も当庁しているものが少なく、広いフロアがしんとしすぎて怖くなり、グループチャットで連絡が来た。休憩室で作業していることを伝えると二人が資料とノートPCを抱えて合流した。
「京子と慶子は全然、症状ないんだね。智子は私とは違うけど、それっぽい症状があるんだ」
我々四人は高校の同級生だ。大学は違うが縁があって同じ場所で働いている。
「この違いって何なのかな、遺伝?」
「いやだから、前も言ったけど運動量じゃない?」
京子は山登りが好きで活動的でタフだ。慶子は元舞台女優なだけあって、いつも背筋がピッと伸びている。今も運動習慣は欠かせないと言っていたはず。言われてみれば運動するか否かが運命の分かれ目に見える。
「あ、でも悪夢を見やすくなったかもしれない」
「それって寝起きじゃない?わたしは悪夢は見ないけど不安感が強くなるのよ」
「この前はね、夢の中であたしは某国の王子でね、お隣の国のお姫様と結婚することが決まってるんだけど、お姫様は別の男と駆け落ちして心中するのよ。もう、国民の期待とかさ、一心に背負っているのに何かと思ったよね。これからどうしたら良いのか、まず葬式の手配なのか、記者会見でも開けば良いのか、そもそも何で心中したんだとか、頭の中ぐるぐるでさ、焦りの気持ちが止まらなくて。起きてからすぐには自分が王子ではないことに気が付かなかったくらいよ」
「それって慶子が昔演じてた役じゃない?確か純と一緒に見に行ったよね。京子も一緒だったっけ?」
「あたしは見に行かなかったんだけど、後で智子と純が熱く語るのを聞かされたから記憶に残ったのかもね」
「私が京子と見に行ったのは、慶子が女王役のやつだよ」
「あ〜、あれね。わたしも見たかったんだけど予定が合わなかったんだよね」
「斜陽の王国の最後の女王役でさ、気が強くてわがままで、ワンマンというかワンウーマンなんだけど一途なの。彼女に寄り添う歌姫も良かった。挿入歌が良かったから、あの時初めて音楽データを買ったんだよね。今でも聞いてるよ」
「あの歌姫、AIなんだっけ?」
少し緊張した面持ちで他の三人の話に耳を傾けていた慶子は急に水を向けられて持っていたカップを静かに置いた。
「うーん、台本にはAIとははっきり書かれていなかったけど、人に造られた、生身では無いキャラクターだから、あらかじめ、人とは違う感性を持っている、という意識付けはして欲しいとは言われていたのよね。だから、人と違うってどういうことだろう、って考えて、嘘を付く、という発想が無いかのように振る舞うのを心がけていたかな。初演は私が歌姫役だったのよ」
「後になって、女王役にシフトしたけど、女王と私個人を混同する人が多くて、あまり良い思い出ないの」
「何で?あの気が強くて生命力が爆発的に輝いていて一途で曲がらないのが良いんじゃない」
「純はそう思うのね。でも、わがままで好き勝手に生きている人を見てイライラする人も多いものよ」
自分は強烈な人物が見たくて、舞台なり創作の場に足を運ぶのだが、演者とキャラクターはかなり分けて見ている。努めてそう見ているというよりは、役柄と個性が一致する場合の方が特殊だと思っているからだ。実際に会うと役とは全く違う人だったりして、自分は幻を愛していたのだなあ、と思う時がある。現に、慶子がわがままだったり独断的だったことは今までに一度もない。
むしろ全く逆で基本的に柔和だし、礼儀正しく清らかで、真っ直ぐな背筋にそれが表れている。
「そういえばさ、今度、女王様が来るんだよね」
「L国のね」
慶子は外交官として対外業務を担っている。いくら親しい仲であっても、機密を漏らすことはないが、公開されている情報に加味したちょっとしたことであれば、聞けば教えてくれる。
「元々は兄上が王位を継ぐはずが、ご病気で急に亡くなったんだよね」
「そうね、だから彼女が継ぐとは誰も思っていなかったはず。彼女本人もね」
京子が割って入ってきた。
「何というかあんまり個性がない感じの人だよね。妹君の方が良かったんじゃないの。経済に明るいし」
慶子が口を開いて何かをいう前に、さらに智子が割って入った。
「意地悪言わないの。急なことだったから準備不足もあるでしょうけど、即位するからにはご本人も覚悟を決めて王に相応しくあろうと頑張っていらっしゃるはずよ。わたし達は慶子と違って直接お会いすることは無いけど、こういうのって態度で伝わってしまうものなんだからね」
気をつけないと、ダメだからね。と釘を刺され、はーい、と覇気のない返事で京子が答える様が、いつもの自分たちという感じでちょっと笑ってしまった。
そもそも我々三人は智子に頭が上がらない。
高校の同級生だったころ、こんなことがあった。
少し肌寒い夕方の空気を感じながら、我々三人は夏休みの課題の残りについて話し合っていた。どうしてその場に智子が居なかったのかというと、奴は既に全ての課題を完了済みだったからである。公園の、屋根のある休憩スペースに腰をかけ、テーブルの上でそれぞれの課題の盛大な空白についてギャンギャン言っていた。
私は英語、京子は情報処理、慶子は数学の課題を持ち寄り、それぞれの得意分野で補おうとしたのだが、いかんせん、得意分野なので、これくらい出来るのでは?という傲慢な態度で相手に接したため、早々に険悪な空気になった。
「何でこのコードの書き方だと答えが違うの?」
「だから、それは非同期にそれぞれのメソッドが実行されているから、このメソッドの前にこれが実行されて、計算の結果が違うってこと」
「非同期って何よ」
「同期と非同期っていうのがあって、同期は一つ一つのメソッドを直列に実行するんだよ。非同期は並列に実行するの」
「え、同期と非同期以外に別の概念が出てきた。何で急に直列と並列が出てくるの」
「このawaitやasyncを付けるとawaitのメソッドが終わるまで待つの。ほら、ここ変えてみて」
京子の後ろに立ち、情報処理の課題について解説している向かいで、数学の課題が全く進んでいない慶子が、いつもより暗い調子で私の英語の課題の見直しをしている。
「ちょっと、純、何で問い三の答えがaなのよ」
「それは、キャサリンがジェシーに車を借りたお礼に段ボールでじゃがいもを持って行ったからで」
「何を言っているのよ、どこに段ボールが出てくるの。全然読めてないじゃない。やり直して」
私の中では既にキャサリンとジェシーがポテトパーティで締める映像が出来上がっているのだが、路線を変更しないとならないようだ。慶子から突き返された課題を受け取った。
「純〜、さっきと全然変わんないんだけど」
私が指摘した箇所を直した後、プログラムを実行したが、結果が変わらず、間違ったままらしい。
「さっき言ったところだけじゃなくて、他のメソッドも全部async付けるんだよ」
「最初から言ってよ」
「いや、わかるでしょ。他も同じなんだから」
京子はため息をついてテーブルに突っ伏した。
「もうヤダ、やりたくない」
同じ箇所を同じように直せば良いだけなのに、どうも身が入らないらしい。京子は数学が出来るし、情報処理はAIの関係で微分積分など、数学を使う。論理的思考力を応用すればすぐに理解できそうなものなのだが、そもそも、情報処理で使われる言い回しや物の考え方が頭に入って来ないと言う。
自分も、AIを作る関係で英語のドキュメントを読むことがあり、自動翻訳に頼っているので、それは何となくわかる。
自動翻訳に頼らずに自力で読解しようとすると、わからない単語が出て来るたびに立ち止まってしまう。単語を一つ一つ調べるのだが、その単語が複数の意味を持っていて、この場合は、こういった意味である、ということがわからないと、文脈を取り違える。あまりにもわからない単語が多いと、考えるべき情報が多すぎて頭がパンクしてしまい最初の文章で何を言っていたのかを忘れてしまう。面倒になって何となく意味が通っている文章を勝手に作り出してしまう。そもそも出てくる単語に興味がわかないので、調べても意味が覚えられずなかなか定着しない。
ましてや自動翻訳を使うと、苦労せずに目的が達成されてしまうので、本人に全くノウハウが溜まらず、ずっと覚えないままなのである。
「純は時々、英語の解説書を読んでるから、これくらいはわかっているかと思ってた。自動翻訳に頼りすぎると後で困るわよ。ここ、辞書引いてみて」
慶子から痛いところを突かれて気が沈み、泣きそうになってきた。自分て本当に出来ないんだなあ、ということを出来る相手からズバッと指摘されると悲しい。大人しく辞書のペラペラの紙を繰った。
「京子、あのね、この関数の値を最小にするパラメーターってどうやって求めれば良いの」
慶子も同じくらい泣きそうになっていた。
「そこは、」
ヒュッと息を呑む音が聞こえたかと思ったら京子が固まっていた。少し遠くの林を見ている。同じ方向を見ると、一メートルくらいの茶色っぽい塊がゆっくりと木々の間を移動するのが見えた。熊だ。
我が国は森が豊かなので野生動物が多い。鹿や狐はその辺りにいるし、リスくらいの小動物であれば住宅街でもよく見かける。とりわけ、遭遇した時の被害が甚大なのが熊である。各自治体の調査を元にした熊の目撃マップが共有されており、国民の多くは個人の携帯端末にインストールして、定期的に確認している。ただし、このように運悪く第一発見者になる場合もある。
緊張した面持ちでお互いに目配せした後、一呼吸おいて熊から一瞬も目を逸らさず、めいめいの荷物を抱えてゆっくりと後退りした。
公園の入り口までたどり着くと、そこからはただ無言で駅の方角まで走った。
実際に目にした野生動物の迫力と、小学校の授業で習った熊害の事件の数々が蘇り、全てのことが頭から吹っ飛んでしまった。駅前で立ち止まり、3人とも息を乱してひたすら青くなっている。こんな時こそ皆んなよく喋る。
「こういう時のために熊スプレーって必要?」
「あれって一本二万円くらいするよね。高すぎて無理でしょ」
「それに使用期限あるから定期的に買い替えなきゃいけないんだよね」
「ていうか、持ってたとして咄嗟に使える?熊が近づいてきて二メートルくらいの時にボタン押すんだよね」
無理だよね〜、と全員が嫌悪を露わに顔をクシャクシャにして頭を降った。
「一旦、役所の窓口行くか警察に通報しよう」
と京子が提案した。課題のことは三人とも頭から飛んでいた。
翌日になって三人は口々に智子に熊の恐ろしさを語った。夏休み中も開放されている、高校のカフェテリアである。役所の窓口に行った時にもらった熊の目撃情報のポスターを広げ、今年の熊の目撃傾向について、窓口の担当者に教わったことを全員が全員、力説した。
「今年はね、熊の好む木の実があまり実らなくて、人里に近いところまで降りてきている個体が多いんだって」
「でも、昨日の公園は今まで目撃情報無かったよね」
「公園の中ではね。すぐ近くの山では毎年目撃されているけど、こんなに近くまで来たこと無いって」
三人が興奮して話しているのに相槌を打ちながら、智子は熊の目撃マップを携帯端末で開き、三人が遭遇した熊の目撃情報を確認していた。
「これね。三人とも何も無くてよかった。わたし、自分の地区の目撃情報は通知するように設定しているんだけど、ここは自宅から遠いから全然知らなかった」
「ところで、課題は終わったの?」
三人はまだ話すことがたくさんあったのだが、水を打ったように急に静かになった。
「三人ともあと一つだけ残ってるんだよね。京子は情報処理、慶子は数学、純は英語だったっけ」
「それぞれ得意分野があるんだから教え合えば良かったんじゃないの」
そのつもりだったのだが、分かり合えなくて上手くいかなかったことを、罪悪感を持って小さめの声でそれぞれがかいつまんで話した。
三人の言い分をそれぞれ黙って聞いた後、提案があるから聞いてくれる?と智子が口火を切った。
「プログラミングって慣れてないと口で伝えただけじゃわからなくない?わたしも同期、非同期は何のこと言っているのか、最初は分からなかったな。京子の課題、ちょっと見せてもらっても良い?」
智子は京子のプログラムコードを確認し、画面を指差して私に聞いた。
「この部分と、この部分の頭にasyncを付けて、それぞれ呼び出す時にawaitを付ければ良いんだよね。合ってる?」
「うん、合ってる」
「京子、修正した状態で動かしてみてくれる?」
「わかった」
智子から画面を受け取り、京子がプログラムを実行すると、求めていた結果が画面に表示された。
「できた〜!ありがとう、智子、純!でも何で合ってるのかわからない〜!!」
「良かった、たぶん、慣れてないからわからないだけだと思うよ。純、良かったら、このプログラムの全体を図解してあげてくれる?
プログラムコードそのものを見ても、初学者は理解しにくいと思う」
「わかった、そうだよね。ごめん、気が付かなかった」
プログラムのメソッドを一つの箱にして、正しい書き方の場合にどのような順番で実行されるか、簡単に矢印でつないで手書きしたものを京子に手渡した。
「あ、なるほど、ちょっとわかった気がする。この箱がプログラムのこの部分に相当していて、awaitとasyncを付けるとこっちがして欲しい順番で実行されるんだ。これが直列ってこと?」
「そう!」
「慶子は数学だったよね。教科書の公式は確認した?」
「え、教科書に載ってるの?そんなのあった?ごめん、どこにあるのかわからないの」
「そっかそっか、あたしも説明が足りなかったかも。わからないときは基本に立ち返るものだよね。これはね、百三十二ページにある、この公式の応用なんだ。そういえば、情報処理にもっと簡単なバージョンが載ってたはず。両方読んでみて」
京子に差し出された数学の教科書を慶子が開き、読み進めている隣で京子が鞄をゴソゴソと探り、情報処理の教科書を取り出した。
「純は英語だったよね。いつも海外メーカーの解説を読んでいるのに、どの辺りがわからなかったの?」
「それ、慶子にも言われた。あのね、いつも自動翻訳を使ってるから、単語力ないのね。わかる単語を元に、わからない部分は何となく想像で埋めて勝手にストーリー作っているところ、ある」
自分で自分の有り様を説明して恥ずかしくなってきた。要するに全然わかっていないところはよく調べもせずに勘頼みということである。
「じゃあ、ちょっと時間かかるかもだけど、一緒にわからない単語を一個一個、調べて行こうよ」
まずは、ここね。と智子が課題の文章題を指した。手持ちの辞書でわからない単語を引き、一つ一つ意味を書き足していった。
しばらく作業に集中する静かな時間が続いた。お互い何がわからないかと、完了まで具体的に何をすれば良いのかわかったので、昨日よりずっと捗った。課題の提出までは一週間あるので、これから毎日この調子で進めれば、問題はない。
智子の配慮で上手く回るようになり、無事に課題を提出した時は、三人で智子の好物のレモンケーキをワンホール奢った。今になって思うと良くワンホールいけたな、と思うが若かったのだ。
後になって智子にこの時のことを聞いたところ、名監督のようなことを言われた。
「三人ともちょっと尖ったところ、あるからね。自分が興味ない分野ってはなから投げるところ、あるでしょ」
投げる、とはわが国の方言で捨てる、という意味である。
「三人とも一点特化型だよね。特化しすぎて説明する時に相手がわかってると思ってだいぶ端折るでしょ。自分を基準に相手の能力を測っているというか。相手が自分より出来ないのをわかっているのに、これくらいは出来る、と思ってるし、そこが矛盾してる。
せっかく正しい答えを持っているんだから、後は伝え方の問題かなと思って。
わたしは皆んながわかっていることがわかっているから、噛み砕いて相手に伝えるようにお願いするか、わからない、知らない人の疑問を代わりにぶつけてみて橋渡しすれば良いのかな、と思ったの」
これはほんの一例だが、こうやって智子が采配を振るってくれるおかげで何とかなったことがたくさんある。
時々おしゃべりをしつつ、それぞれの作業に集中していると、全員同時にメールの通知音が鳴った。普段はコミュニケーションツールで各部署ごとに連絡を取っているが、投稿がたくさんあり過ぎて見逃してしまったり、既読か否かわからないので、全庁に通達する重要事項の場合はメールで連絡が来る。
件名:【重要】坑道への侵入者を確保しました。
先週の金曜日に、坑道に不審者が侵入したことが監視カメラの映像により、判明しました。監視カメラの映像はペアレントAIで常時チェックされ、異常を検知した場合、責任者に一斉にアラートを送信します。アラートの元になった映像を確認したところ、作業予定が申請されていない時間帯に許可されていない人物が坑道に侵入していることがわかりました。すぐに坑道に確認に向かいましたが、不審者を発見することはできませんでした。引き続き、監視を続けていたところ、本日の朝五時ごろ、学習済みのデータに該当する人物の侵入が再度確認されました。
人物の身柄は警察に引き渡し済みです。現在の時点では単独犯か複数犯かは不明です。坑道に入る際は事前に申請の上、必ず複数人で対応してください。
「あの不審者、捕まったんだね」
「こんな雪深い季節にどうかしてるよね。絶対、地元の人間じゃないと思うわ」
「閉鎖中を狙ったのかな」
「かもね、だとしても、何で一本しかない地下道の入り口を知っていたのかな」
我が国は元々、オパールの産地である。オパールの鉱脈の近くによく見つかる有機鉱物があり、それが近年、我が国特有の非常にレアな代物であることがわかった。H.K.D.の石、H.K.D.iteと名付けられたそれは紫外線で照らすと黄色や緑色に蛍光する。かつてはオパールの鉱脈を見つけるための指標として重宝されていた。
この有機鉱物は多環芳香族炭化水素の一種で、複数のベンゼン環から成る。ベンゼン環は炭素が六角形に配置され、お互いに二重結合または単結合している非常に安定性の高い物質である。軽くて丈夫、かつ電気伝導率の高い高品質な有機半導体の材料になり、H.K.D.製の有機半導体は我が国の主力産業として海外に大量に輸出されている。採掘のための坑道は、通常は地上の入り口から入るのだが、冬季は積雪のため、閉鎖されている。ただし、一本だけ地下道があり、定期的なメンテナンスや緊急時に利用されている。一般市民はまず、地下道の入り口を知らないし、知っていたとしても立ち入りには許可が必要だ。無許可で立ち入ったとして、常時監視されているので今回のようにすぐに捕まる。このような手数がかかることをわざわざ実行し、捕まった時のリスクを顧みないということは、それだけリターンを見込んでいるということだ。不審者の狙いはオパールか、H.K.D.iteの盗掘の可能性が高い。組織的な盗掘の場合、犯人は当然一人では無いので、まだ仲間が隠れているかもしれない。
「春までに解決して欲しい。不審者に怯えながら坑道歩くの嫌すぎる」
京子がぼやいた。京子は今年の春、新人の若者を引き連れて、坑道のツアーをする業務を予定している。彼女のような財務官は、通常は坑道に入ることは無いのだが、前述の通り、H.K.D.iteは我が国の最重要の財源であるため、教育の一環として実際の採掘の現場を若者らに見学してもらうことになっている。毎年持ち回りで若者十数人をガイドするのだが、このような機会が無ければ、坑道に入ることは出来ないので、小探検めいたところもあり、まだ学生らしい幼さを残す彼ら彼女らには好評を博している。また、今回不審者が検知された仕組みを身を持って知る機会でもある。
「動作訓練は上手く行ったの?」
「第零坑道は短いからね、でも苦労したよ。ねえ、やっぱ純も行かない?」
「申請すれば通るとは思うけど」
「そうしてくれると助かる。検知の仕組みは一応、把握したんだけどさ、突っ込んだことを聞かれたら、答えられないと思うんだよね」
「え〜、財務に入省する子たち、AIに興味ある?だって、どうせ仕事で使わないじゃないの」
「まあ、でも若者って好奇心強いから」
我が国のAIは純正の国産のAIである。坑道の監視だけでなく、様々な用途に使用されている。一般市民が触れる機会で主なものは、二年に一回ある、国民投票だ。公約を果たせなかった政党の党首を罷免するか否か、制度改正の是非を投票で決める。党首を罷免するか否かは国民共通の関心ごととして白熱する話題であり、毎度なかなかの盛り上がりを見せる。今年の七月に最大与党の党首の信任に関する国民投票がある。彼女は長いことあまりパッとしない議員だったのだが、以前に首相を務めた老議員の引き立てで党首に抜擢された。先住民に対する差別的な発言と、国民の社会保障を削減する政策の提案により、我々四人の中では全く人気がない。世間の一部では熱狂的な信者もいるようなのだが。もし、若者が興味を持つとしたら、この辺りなのだろう。国民投票の結果はAIによって集計される。あいにく、坑道で使用されているのは別の仕組みであり、あまり関連は無い。
一応、上長に直接相談した方が良さそうだったので、その旨を他の三人に伝えて席を立った。
「皆さん、動作訓練は問題なく完了されているということでしたが、念のため伺います。もう一回、練習しないと不安だとか、気になっていること、わからないことはありますか」
作業着とヘルメット姿で、同じ格好の新人らを整列させた京子が、前に立って説明を始めた。坑道の入り口まではバスで来た。雪が溶け、やっと暖かくなって足元も軽快だが、これから入るところは冷え冷えとして寒い。使い捨てカイロ必須である。
「動作訓練でやっていただいた通り、零番坑道を一人ずつ通って採掘場跡まで行き、帰りも一人ずつ、所定のルールに従って戻ってきます。零番坑道は既に鉱脈が枯れていますが、採掘場跡には採掘した鉱石を地上に運搬するオートメーションの機材や、古い掘削用の重機があります。危ないので手は触れないでください。また、坑道はペアレントAIで常に監視されています。急に立ち止まったり、振り向いたり、意味も無く左右を見渡したりすると、予期せぬ行動として検知されます。また、一定の速度を保って歩いてください。速度大事です。遅すぎても早すぎても検知対象になり、そこの黄色いランプが点灯して、警告音が鳴ります。」
一人が挙手をした。
「警告音が鳴った場合はどうすれば良いですか。上手く出来なかったら何かペナルティはありますか」
「今回はあくまで我が国で利用されている監視システムがどのような仕組みかを体験してもらうためのものです。後で反省文を書かなければならないとか、給与に響くとか、失敗しても何も悪いことは無いので安心してください。警告音が鳴っても気にせず、そのまま進んでいただいて結構です」
京子の前に並んでいる、ヘルメットを被った顔はどれも皆、若くてツルッとしており、作業着が全くこなれていない。隣同士で小声でおしゃべりしている者もあり、悪くない雰囲気だった。
(この子らがここに来ることはもう無いだろうけど、他の人がやっている仕事とか知った方が良いと思うんだよね)
わざわざ着いて来たのだし、簡単に監視システムについて解説させてもらうことにした。京子に少し話して良いか、許可をもらいたくて、人差し指で自分の顔を指し、声を出さずに(喋って良い?)
と口パクで尋ねてみた。京子は頷いて、こちらに注目するように、皆にジェスチャーで促してくれた。
「せっかくなので、使用されている監視システムについてご説明します。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、我が国には自国製のAIがあり、ここから少し離れたデータセンターで管理されています。六機あるペアレントAIはお互いに同期して、国全体で利用できるように、作業を分担しています。様々な機能を持っていますが、そのうち、人間の動作を学習する機能がこちらの坑道で監視に利用されています」
坑道には場所が分かりにくいようにカモフラージュされた監視カメラがいくつも設置されている。カメラで撮影された映像をリアルタイムでAIが分析し、異常を検知するとアラートを発報する仕組みになっている。
「どのように利用されているかというと、あらかじめ学習した人間の動きを元に、そこから逸脱した動きを検知し、アラートを発するというものです。」
「落書きの棒人間を想像してください。丸い頭に、棒状の体、手足が付いているものです。それに、肘や膝などの関節を足してください。ペアレントAIは人間の歩く時の速度や頭の位置、関節の動きを動画で学習したモデルが設定されています。例えば、今回は零番坑道を時速四キロメートルくらい、少し早歩きで歩いていただきます。ペアレントAIは設定されたモデルに従って、撮影された人物が棒人間だとしたら、設定されているモデルと十%以内で同じ動作をしているかをチェックします。なので、先ほどご説明した通り、モデルに設定されていない動作、急に立ち止まったり、周りをキョロキョロすると、怪しい人物として検知されます」
先ほどとは別の人物が挙手した。
「どうしてそんな面倒なことをするんですか。顔認証した方が良いと思うんですが」
良い質問である。
「あらかじめ職員の顔を学習させたモデルを用意して、それを元に不審者を検出すれば良い、ということですよね。おっしゃる通りなんですが、その方法だと問題があります」
この監視システムが導入される際、確かにその案もあったのだ。しかし、その場合、関係者すべての顔をあらかじめ撮影し、学習させる必要がある。つまり、顔という非常にセンシティブな情報を国のAIにガッチリ掴まれるわけである。職員が退職した時はどうする?退職した職員の顔を除いて再学習したモデルを作るか?手間がかかりすぎるし、もし誤って削除を忘れたら、退職した職員の顔パスが実現するので、セキュリティ的に危険である。また、顔だけでなく、指紋や掌紋など生体認証を使用する方法であっても同じリスクがある。何より学習に利用したデータを悪意を持って持ち出されたら大変なことになる。国のシステムなので、セキュリティはなるべく万全に近い形にするべきだが、世の中、完璧なものはない。技術の進歩も早いので、現在は良くてもいずれ突破される可能性がある。セキュリティ的に一番安全なのは漏洩すると甚大な影響のある個人情報を最初から持たないことなのだ。
「例えば、顔認証のため、皆さんの首から上のデータを動画でいただくとします。事前に動画の用途は監視システムの学習用モデルの作成に限定すると但し書きをつけて回収するとします。ただし、ここで悪い人が居て、あなたの動画を別のところで悪用するとしたらどうでしょう」
嫌です、とか困ります、とか素直に答えてくれる者が何人か居た。
「そうですよね、個人で顔認証などを利用する分には問題ないのですが国のシステムに登録するとなると、データを回収した時、学習してシステムに取り込まれた時、それぞれに漏洩のリスクがあります。おっしゃる通り、顔認証の方がわかりやすいし、本人確認の観点では良いのですが、こういった理由でお蔵入りになりました」
厳密に言うと、顔認証に使用した動画を自動的に直ちに破棄する、本人とわからないようにデータをマスキングする、悪用を想定してシステムにアクセス可能なユーザーを限定する、データを持ち出せないようにネットワークを閉域化する、等々、やりようはあるのだが、実際に顔認証の仕組みを自分で作ったことのある身としては、いくらセキュリティ的な縛りをきつくしたとしても、こういうケースはどうする?漏洩した場合の責任は?と次々にリスクが浮かんで来てしまい、はっきり言ってやりたくない。そもそも、このような便利な仕組みが世に出るたび、機能を自分で作ったことのない、「技術者ではない」偉い人が、上位下達で取り入れようとするのだが、せめてもうちょっと勉強して欲しい。軽率に取り入れるとかえって危険があるので。自分はあの時、反対派に一票投じて良かったと思う。代替案を出した時は失笑されたのだが。
「代わりに、人の動きを棒人間と捉えて、一定の動作を正しい動作として学習させ、そこから外れた動作をした場合に不審者とみなす学習モデルを作成し、それを元にペアレントAIが常時監視する仕組みにしています。今回体験していただくのは、一定の速度で目的地の採掘場跡まで歩くのが正解の動作になっていますが、何が正解の動作かは、不定期に変更されています」
京子が手を挙げた。
「ちょっと補足です。この正しい動作を学習するモデルは、部署の偉い人が持ち回りで担当して作っています。皆さんの上司の中にも居ます。ある程度の長さの動画が必要なので、正しい動作が決まったら、偉い人たちが集められて、こんな風に動画を撮っているんですよ」
京子がジェスチャーで、ちょっと大袈裟に手を振って、行ったり来たり行進しながら説明した。自分も実際に動画撮影に立ち会ったことがあるのだが、役職付きのお偉いさんが決められた動作でカメラの前を行ったり来たりするのは中々シュールな光景なのである。案の定、少し笑いが起こった。
「補足ありがとうございます。動画の対象は偉い人でなくても良いんですが、どういう動きを正しいとするかは、機密情報なので、必然的に役職者になります。ちなみに、撮影した動画は本人の動きのみを抽出して個人が分からないようにすぐに変換されます。ここでも出来るだけ、機微な個人情報を取得しないように工夫がされています」
これで終わり、という旨を京子に目線で伝えると、まとめを引き継いでくれた。
「こちらこそ、詳しい説明をありがとうございました。監視システムの仕組みについて、より深い理解が得られましたね」
京子が促すと、皆が頷いて肯首した。
「では、実際にやってみましょうか。最初に私が行きますね。前の人が行って一分くらい経ったら順番に一人ずつ来てください」
あたしが最初に行って、採掘場跡で待ってるから、純はこの子らが終わったら最後に来てね、と小声で耳打ちされた。
それから一人ずつ零番坑道に入り、十八人中、五人が黄色いランプが点灯し、警告音が鳴った。零番坑道は訓練用の枯れた坑道なので、不審者が検出されてもアラートは飛ばないのだが、あまり良い気はしない。最後の一人になったので、坑道に入る。幅二メートル、高さ三メートルくらいで、ところどころ灯りが付いているが閉塞感がある。岩肌の加減でところどころ、虫が居るように見えるところがあるが、ビックリして立ち止まると不審者になってしまうので、内心は動揺しながら務めて冷静に、決まった速度で歩を進める。途中緩やかなカーブになっているところがあり、足元がおぼつかなくなって、つまづきそうになったが、何とか踏ん張って耐えた。一キロメートルほどの坑道で決して長くはないのだが、常時監視されていると思うと緊張感がある。出口の採掘場跡が見えてきたので、ホッと一息を着いた。採掘場跡の中では、皆を集めて京子が話をしている。
「採掘場跡の中はある程度好きに見ていただいて結構ですが、一点だけ注意点があります。右手の機械には決して近づかないでください。あちらは、採掘した鉱石を乗せて地上に運ぶ螺旋状のエレベーターです。今は動いていませんが、登ったりすると落下の危険があります。触ると金属の鋭い部分で怪我をすることがあります。また、隣にある中型の掘削機も同様です。ふざけてタイヤの下に潜ろうとしたり、決してしないでください。では十分ほど見学の時間を取ります」
京子の言った中型の掘削機は運転席がある。今は遠隔操作できるものが主流なので、古い型なのかもしれない。静かで堂々とした鋼の塊だ。動かないのはわかっているのだが、何かの拍子で動き出したら潰されそう。パニック映画の冒頭のように。
若者らは一人だったり、二、三人の組になって、壁に張り付いている。枯れたとはいえ、小さいオパールやH.K.D.iteがところどころあるので、それを見ているのだろう。持ってきた紫外線ライトを作業着のポケットから取り出して照らすと黄色く発光するところがある。京子のそばの壁も光ったので、近づいて見てみた。
鮮やかな蛍光色の鉱石がちょうど目の高さのところに一メートルくらい横に延びている。
「これってグラムでいくらくらいなの?」
「あたしに聞かれても。精製する技術が無いと工業には使えないんだから、普通に売ったりは出来ないんじゃないの」
「こっちのオパールだったら売れるかな」
「ええ〜、どうだろ。オパールって遊色があった方が価値が高いんだよね。これは全然無いよ」
一般的に、オパールは暗い地色に遊色効果で虹の煌めきが散りばめられているようなブラックオパールが、宝石としての価値が高い。ここにあるものは地色が白からオレンジ色で遊色効果がほとんど無い。オパールの中にH.K.D.iteを含むものは、紫外線を当てると蛍光するのと、我が国特有の鉱物が含まれるということで、好事家には人気があると聞くが、レクリエーションの一環で来られるようなところに残されていることから、ここにあるものは二束三文の価値しか無さそうだ。
「純、一応言っておくけど、持って帰ったらダメだからね。さっき、あの子らにも同じこと説明したからね」
「大丈夫だって、流石にそんなことしないよ。好奇心で聞いただけだって」
金額的な価値は低くとも、収集癖をそそられることは確かだが、遊びで来たわけではないし、何しろ国の資産なのでそこは弁えている。
それからしばらく、好きに採掘場を見て回り、京子の号令で元の場所に戻ることになった。帰り道も同様でペアレントAIによる監視がある。行きと少し違うのが、一定の速度で立ち止まらず歩くだけでなく、右手をまっすぐ上に上げるのが正解の動作だ。京子が最初に行き、その後に一人ずつ続いた。行きと同様に私が最後だったのだが、黄色いランプが点灯し、警告音が零番坑道に響き渡った。
五十肩で右手がまっすぐ上に上がらなかったのである。中途半端に右手を上げて戻ってきた私を見て若者は皆、不思議そうな顔をしていた。
坑道の外に出て、簡単に本日のまとめをして解散した後、若者らは庁舎に帰って行った。あそこに行くのなら、と冬季の入り口のチェックを頼まれていたので、京子を伴って近くの林道に入った。小道を行くと途中に関係者以外立ち入り禁止の看板が立っていたが、そもそも普通の人はこんなところに来ない。看板を超えると、林の中に小さな丘があり、丘をくり抜いて鉄製のぶ厚そうな扉が設置されていた。
「坑道に不法侵入した犯人がいたでしょ?黙秘しているらしくって、どうやって入ったかはまだわからないんだってさ。だから、セキュリティ的な観点で何か改善点あるか、見て来いって言われたのよ。ごめんね、付き合わせて」
お気になさらず、と軽い口調で京子が答えた。作業着のポケットから扉の鍵を取り出す。複製が困難な特殊鍵だ。鍵穴に差し込んで回し、片手で取っ手を掴んで引っ張ったが、全然開かない。鍵が開いていることを確認し、今度は両手で取っ手を掴むと手応えがあった。人が入れるくらいの間隔を開けた状態で止め、扉の中に入り込むとすぐに下り階段になっていた。冬季は通常の入り口が雪で埋まるので、坑道に入る時にこちらの地下道を使用する。階段を降りると突き当たりの壁に金属のプレートがかかっており、右に行くと第一〜十五坑道、左に行くと第十六〜三十坑道と記されていた。奥に進むと複雑で帰って来れない恐れがあり、坑道の中はそれぞれ特殊な「今日の正解」の動作が設定されているので、調べられるとするとこの入り口付近だけだ。犯人が侵入したのは第三坑道ということだが、どちらに進もうが監視システムに引っかかる。監視システムは正常に働いているとして、どうやってあの重い扉を開けて中に入ったのだろう。作業者が入る時に後ろにピッタリくっついて入ったのか。作業者がそれに気が付かないわけがない。合鍵を作るのは技術的に不可能として、やはり犯人の協力者が居たのではないか。入り口付近には監視システムが無いので侵入時に何が起こったのかを映像記録で確認することは出来ない。ただ、どのようなシステムがあろうとも最大のセキュリティホールは人間なので内部に協力者の居た可能性はある。。階段を上がり、開けっぱなしになっていた扉を閉めてみた。やはり両手で引かないと重くて動かない。改めてみると重くて頑丈で重厚な扉で、破壊して中に侵入するのは困難そうだ。扉を閉めると自動的に施錠される仕組みでギュイーンと機械音が鳴った。外に出るには床に設置されているスイッチを押す。通常、こうしたスイッチは壁に設けられているものだが、一定時間立つと鍵が再び施錠される。非常に重い扉なので両手で力一杯押さねばならず、踏ん張りが効くように床に設置されていると見た。もしくは何らかの作業で両手が塞がっている可能性を考えての設計なのかもしれない。右足でスイッチを押し、機械音の後に扉の取手に両手をかけてグッと押した。手持ち無沙汰の京子が扉から少し離れたところでぼんやりしていたので声を掛けようとしたのだが、その先に、熊が居た。
大声を出さないように注意してなるべく小さい手振りで京子にこちらに来るように促した。目端に熊を捕え、絶対に視界から外さないように、京子が特に急がず普通のスピードでこちらに向かって来るのを息を殺して待った。
「何、どうしたの?終わった?」
肩を掴んで扉の内側に引き入れ、熊が居る、と伝えると京子の表情が強張った。
「どこに?」
「さっき、京子がいた場所の後ろの方に、岩があるでしょ、そこに居る」
いざとなったら扉を閉めれば、命は助かるだろうが、熊を刺激したく無いので出来るだけ小声でやり取りした。二人で恐々と扉から頭を覗かせて熊の居る方を確認した。岩の影に黒っぽい毛皮が見える。
「どうする?」
「とりあえず、通報して熊がここから居なくなるのを待とう」
猟銃を持ってくれば良かった、と京子が漏らした。
「え、単なる護身のために持ち出して良いの?」
「ダメだけど、無いより良いじゃん」
「熊を仕留めたことあるの?」
「無い、無理」
京子は狩猟免許を持っていて、ガバメントハンターとして登録している。と言っても使命感に燃えて、ということでは全くなく、単なる好奇心で、鹿の肉が食べたかったらしい。
「去年の秋さ、動物園に熊が出たでしょ。あの時ね、応援に行ったのよ。箱わなにかかった熊を仕留めるのはベテランのハンターさんだったんだけど、万が一、何かあったら、ってことであたし以外に七人くらい駆り出されたのよ」
京子の話に相槌を打ちつつ、警察に通報するために、携帯端末から架電した。
「箱わなの中に居るとはいえ、野生動物の迫力ってすごくって。もう、絶対、人間じゃ勝てないことが肌感でわかんの。あの巨体が狭い箱わなの中を忙しなくウロウロしてこっちを時々威嚇してくると、背筋が凍って声が出ないの。銃は構えてたけど土壇場で撃てる自信ない。ベテランの人は落ち着いてたから、駆除の時に色々、話してくれたけど、必ずしも一発で死ぬわけじゃないし、弾が当たってもすぐに倒れずに、死に物狂いで動けなくなるまで襲ってくるから絶対に油断しちゃダメだって言われた」
警察に通話がつながったので、簡単に状況を話してこちらに来てもらえることになった。京子は自分を落ち着かせるためか、小声でずっと熊のことを話していた。
熊を見ると全く動く気配がない。
どうにもおかしい。何かの理由でじっと同じ場所にうずくまっていたり、眠っているとしても、あんなに微動だにしないことが果たしてあるだろうか。熊の毛皮の上にカラスが止まり、無遠慮に動き回って何度かつついている。そのうち、ダイナミックに嘴を動かしてごっそり毛皮を毟り、さっと飛び去っていった。熊はカラスを追い払うふりさえしなかった。今度は二羽が連れ立ってやって来て、同じように毛皮を、先ほどとはもっと広い範囲で動き回って毟り始めた。しばらく見ていると熊の頭が傾ぎ、岩から滑り落ちて皮がくしゃくしゃにまるまった。どうにも生きている様子に見えなかったので、おそるおそる近づくと、それは生気のない目をした頭がついた、熊の皮だった。
「何これ?皮?」
京子が皮を手に取ってめくろうとするので、静止しようとしたが遅かった。グロテスクな裏側が見えてしまうかと思ったが、非常に綺麗になめされており、血や肉はかけらもついていなかった。
「自然に死んだものじゃないね。こんなにキレイだし」
「腐った感じも無いね。内臓は抜かれているのかな。人が処理したものだよね」
「何でこんなところに?」
「わからない」
とりあえず、脅威は去ったので一安心したが、極度に緊張していたので扉が開けっぱなしになっていた。扉を閉めて施錠を確認すると、通報を受けた二人組の警官が小道をやって来るのが見えた。熊を刺激しないようにか、警報も鳴らさずに静かにやって来てくれたらしい。両方ともヘルメットを被り防弾チョッキを着て盾を装備し、ライフル銃を持っている。
まず、ご足労いただいたことにお礼を言い、自分たちの所属と状況を説明し、熊の皮をあらためてもらった。
熊の頭だけでなく、両手足の爪が残っており、皮も破れずにまるまる一匹分そろっているので人為的な処理が施されたもの、おそらく地元のハンターの持ち物であろう、とのことだった。盗品の可能性もあるが、とりあえずは遺失物として回収してもらうことにして京子が自分の連絡先を伝えた。
熊ではなくて良かったです、持ち主が見つかったらご連絡します、と言って、警官2人は去っていった。
「ほんと、熊じゃなくて良かったよね」
うんうん、と相槌を打ちながら、二人でとぼとぼと、小道を戻った。どうしてこんなところに、という疑問は残ったが、安心感もあって深く追求はしなかった。だがしかし、やはりこういうおかしな事象は意味があってそこにある、というのが、後ほどわかった。
「あの毛皮の持ち主なんだけどさ、動物園のハンターさんだったのよ」
お昼休みに庁舎の二階にある、テレビ台のそばのソファで日向ぼっこをしている時だった。
「動物園に熊が出た時にトドメさしたベテランハンターさんのこと言ってる?」
そうそう、と答えながら、さっき開けた袋菓子を京子が差し出して来たので、ありがたくもらった。反対側の少し離れた席で、慶子が資料片手に目の前の映像を確認している。来月はL国から国賓として女王を迎えるのでその準備をしているらしい。ずっと自席で作業をしていると息が詰まるので気分転換だそうだ。
三十二インチのディスプレイには、慶子が独自にまとめた、女王陛下と未来の王配殿下の過去の公開映像が、どういう観点のセレクションかわからないが次々と映し出されている。
今はちょうど、例の世紀の大プロポーズの場面だった。
暗い金髪の若い男性がが女王の前に進み出て、彼女の前に跪くと、カメラが寄って剣を持つ女王のアップが映し出された。女王は若者の右肩に剣を置こうとして、寸前で止まり、
「わたくしの夫になってくださいますか」
とはっきり言ったのだった。言い間違いではない、マイクははっきりと彼女の声を拾っていた。周囲のざわめきが止まり、一瞬とても静かになった。一呼吸おいて
「はい、喜んでお受けします」
と若者が朗らかに答えると、周囲の人々の息を呑む声が聞こえ、また一呼吸おいて、どよめきが起こった。去年の剣術大会の優勝者の授与式で突然起こった大ハプニングである。
L国ではレンジャー部隊の若手が、金属製の防具に身を包み、一対一で剣技を競う伝統的な催しがある。何百年も前は、本当にこの大会の優勝者が女王や姫の配偶者になったらしいが、今は単なる娯楽として残っており、迫力のある近接戦が見られるということで国民には大変な人気だそうだ。全国放送のため誰でも簡単に見られるのに、やはり直に見たい、という人が引きも切らず会場のチケットは毎年争奪戦らしい。
京子に肩を突かれたので、ディスプレイから京子の方に向き直った。
「でさ、毛皮を預かってくれた警官と一緒にベテランハンターさんのところに挨拶に行ったんだけど、何と入院中でさ、腎臓悪くしちゃって、そこで聞いたんだけど、お孫さんがね、
拘束中なんだって」
「拘束中って警察に?」
「そうそう、でさ、それがどうやら例の不審者みたいなんだよね」
「祖父一人、孫一人の家族でね、おじいさんが入院中なもんだから、誰も面会に行けなくて、ちょっと様子を見に行ってもらえないかって頼まれちゃった」
これからも付き合いのあるベテランハンターだから、良い顔しておきたいのはやまやまなんだけど、坑道に侵入するような相手と関わりないになりたく無いし、どう思う?と、あまり気が進まなそうな顔で尋ねられた。お孫さん、純と同じ国立大の大学生なんだってさ。純も一緒に行かない?と畳み掛けられた。巻き込もうとして来ている。
監視カメラの映像からして、侵入者は彼で確定なのだが、どうやって侵入したかについて口を閉ざしている状況だ。単なる一般市民が長い拘束に耐えられるとは思えないので、いずれ口を割ることになるが、侵入方法が不明なままだとセキュリティに関わる。また、彼の背後に何らかの犯罪グループが関わっている恐れもある。そのため、通常より拘束期間を延ばして、優先的に捜査を勧めているということだ。
「純、あなたの上長には既にお願いしているんだけど、やっぱりL国のAI対応やってくれる?」
一旦考えがまとまったらしく、慶子が書類を片付け始めながら尋ねてきた。
「良いけど、ちっちゃい自立型AIが三機来るんでしょ。中身はL国の国産AIだって話だから、ウチのネットワークには繋がないんだよね。何かやることある?」
「故障とか上手く動かない場合は、もちろん向こうのエンジニアが対応するけど、緊急で何かあった時に備えておきたいの」
「まあ、そういうことなら控えておくよ」
ありがとう、と微笑んで、純、こういうの好きでしょ、とA4の用紙を一枚手渡して来た。
L国にも国産のAIがあるが、親機とは別に、機能を最小化して可愛らしい外形を与えたパートナーAIがある。慶子がくれたのはL国製のパートナーAIの紹介パンフレットだった。
見かけはオウムを模しているように見える。気分によって頭の上の冠羽がブワッと広がったり、尻尾を振ったりするそうだ。パートナーAIなので、個人を認識し、スケジュールの調整をしたり、気軽なおしゃべりの相手にもなる。なんと、お部屋のお掃除もしてくれる。あしゆびが前に二本、後ろに二本の対趾足でものを掴むことが出来るので、簡単な道具であれば教えれば使える。だが、どうやって雑巾掛けするのだろうか。足で雑巾を掴んで床を拭くのか。そういえば、大学の授業でロボット掃除機を作ったことがあった。三十年くらい前なので、今とは全く違ってもっと簡素なものであったが。自宅の物置に仕舞ってある。
「純、固まってどうしたの」
急に心に生じた疑念を元に色んなパターンを考えているうち、集中して息をするのを忘れていた。京子と慶子が両隣から覗き込んできたので、すうっと息を吸って伸びをすると廊下の向こうから智子が歩いてくるのが見えた。何となくやることが決まった気がした。
軽く手を振って智子がこちらに歩み寄り、私の向かいのソファに座った。
「あのさ、確か智子の長男くんて、国立大の工学部に通ってたよね」
ちょっと確かめて欲しいことがあるんだけどね、と前置きして、智子には不審者が検知された過去一ヶ月に坑道に入った作業者と、長男くんからの聞き取り、京子には長男くんの聞き取りを受けて、拘束されている彼にあることを聞いてもらうことになった。
私と京子は冬季の入り口に戻って来ていた。自宅から持って来た手作りのロボット掃除機をゲームのコントローラーとペアリングし、鍵で扉を開けてロボット掃除機を中に入れる。重い扉を閉めた後、コントローラーを動かしてロボット掃除機を動かす。しばらくすると、ギュイーンと音がして扉が解錠された。
「というわけだよ」
振り返って京子に話しかけた。
「なるほどねえ、だから犯人はゲームのコントローラーを持ってたわけか」
捕まった学生は、財布や携帯端末、盗んだ鉱石以外にゲームのコントローラーを持っていたそうだ。当初は事件に全く関係が無いと思われていたが、京子が彼に面会した時に、自分は中央庁の役人であること、おじいさんとの関係、おじいさんがとても心配していることを伝えた後に、大学の授業で作成したロボット掃除機は今どこにあるのか尋ねたところ、血相を変えた。急に立ち上がって言葉が出ない様子で、しばらく躊躇う気配があった後、知らないと答えたそうだが、京子が自分の身分を明かした上で、今回の不法侵入について警察に助言を行ったところ、後の取り調べで観念して全てを白状したそうだ。
彼のおじいさんの若い頃は、鉱員や近隣の住民による盗掘が割とカジュアルに行われていた。おじいさんが盗掘したかしなかったかは、面倒なことになるので、深掘りするのは止すとして、彼は時折、おじいさんからそのことを聞かされていた。質の良い鉱石だと、原石のままでも相当な金額になったということなので、それで大学の学費を払った学生もいたとか。
おじいさんが入院し、元々、豊かでない暮らしをしていた彼は、来年以降の学費を支払えず、退学する予定になっていた。
最初は少し様子を見るだけのつもりだったと言う。おじいさんの持ち物から取り出した熊の毛皮を被り、鉱山への入り口を探った。冬季の積雪で通常の入り口からは全く中に入れる状態では無いことがわかったが、何度か探索するうちに、作業者が林の中の小道に入っていくところに遭遇した。豪雪の中、小道だけ雪が掻いてあったので、どこか重要なところにつながっているのだと思った。
作業者が扉を開け、中に入っていくところを、少し離れた、岩の影から見ていたそうだ。作業者が再び外に出て来た時に、樹上から雪がドカドカと落ちて来た音に驚いて思わず立ち上ったところ、熊と勘違いした相手が驚いて逃げ出した。扉は開いたままだった。
その日、大学の授業が終わった後、コートのポケットにロボット掃除機を入れて持ち帰り、そのままバイトに向かい、ポケットに入っているのを忘れたまま、鉱山に足を運んだ。
扉の中を覗くと、足元にスイッチがあり、押すと解錠される仕組みであることがすぐにわかった。出来心でロボット掃除機を扉の中に入れた。
作業者が警察を伴って戻って来るか前に、一旦その場を離れ、パトカーが去った後に扉の前に戻った。私がやったのと同じように扉の外からコントローラーを操作し、ロボット掃除機をスイッチの上に載せて解錠し、中に侵入した。三番坑道を通った時、警報が鳴ったので走って採掘場までいき、落ちている鉱石をいくつか取って外に出たのだという。盗んだ鉱石を売ったところ、ひと月のバイト代相当になった。次はもっと大きい鉱石を取ろうと再び侵入を試みたところ、捕まったのだ。侵入した時に顔を隠していなかったので、ペアレントAIは彼の顔を学習済みだった。顔を隠していたとしても、動画を高解像度で解析され、覆面の無いパターンを予測した学習モデルが作られていたことだろう。再侵入を試みなくても、顔が割れているので捕まるのは時間の問題だったはずである。それが、ペアレントAIの学習の成果を試したかの如く、学習済みの不法侵入者として検出され(警報は鳴らないように設定されていた)、出てきたところを現行犯逮捕となったのだ。
「智子に聞いて初めて知ったんだけど、熊って冬眠しないやつも居るんだってね」
通常、閉山する時期は熊は冬眠している。気温の低下によって冬眠するのかと思いきや、寒くて山に食物が無いのでエネルギーの節約のために冬眠するのであって、人里に出て何かありつけるものがあるとわかってしまった個体は冬でも冬眠せずに活動する。作業者がそれを知っていたかどうかはわからないが、身の安全のため、その場から逃げ、警察を呼んで現場をあらためた時は既に熊の痕跡はなかった。智子の聞き取りで熊に遭遇した作業者がわかったが、彼は扉を開けっぱなしにしてその場を離れたことを報告していなかった。
「それにしても良くわかったね、何でロボット掃除機が関係あると思ったの」
ロボット掃除機の裏側をウェットティッシュで拭き取り、持って来たバッグにしまった。
「去年の暮れに大掃除していた時に、このロボット掃除機を押入れの箱の中から出してさ、当時、人気のある授業だったから、思い出深かったんだよね。工学部以外の学生でも受けられたし。ひょっとして今でもあるかなと思って大学のホームページを見てみたの。そしたら私の時と先生は違ったんだけど、まだあったんだよね。で、私が作った時よりもだいぶコンパクト化してて性能も上がってたから面白くなっちゃって。自作のロボット掃除機についてもっと調べてみたらゲームのコントローラーと接続している人が居て、自分でもやってみたんだよ」
「ま、でも単なる思い付きだからね、警察の人が調べた方が正確だし、信頼できる結果になるとは思ってたけど、参考情報として一応、京子から伝えてもらえるようにお願いしたの」
なるほどねえ、と京子が相槌を打った。
「智子の長男くんの話だと、全然普通の子だったらしいじゃん。話してみても、特にお金に困っている様子も無かったって」
それはそうだろう。もしかしたらお金の無い自分を恥ずかしく思っていたかもしれないし、そういった弱みを簡単にさらけ出せるものでもない。真冬の豪雪の中、熊の皮を被り、盗みを働いた彼はどんな心境だったのだろうか。手がかじかんで底冷えして、情けなくてみじめな気持ちがあったのではないか。
三十年近く前、国立大学に受かった後、入学金が支払えないことがわかった。家にお金が無かったのである。両親から諦めてくれと言われた。彼らは私のために金策する気は無かった。途方に暮れていて、慶子と京子と智子に事情を話したところ、大学の学生課に相談しに行くことになった。そこで給付型の奨学金の存在を知ったのだ。三人は手続きに必要な書類を作るのを手伝ってくれた。嬉しかったし、本当に助かったのだが、お金の無い自分がとても恥ずかしかった。今では、そうは思わない。困っている若者に、国の制度を大いに活用して欲しいと思う。そのために税金を払っている。
「彼に、面会の時に奨学金のこと、言った方が良いと思う?」
「今さら?執行猶予が付くか分からないのに?実刑食らったら大学に戻れるかどうかも分からないのに?」
京子が鼻で笑った。
「あのさ、純、少なくとも今すぐ言うことじゃないと思うよ。知ってたら罪を犯すことも無かった、って、自分だったら今の状況で知りたい?」
どうして今になって、それを言うのか、と絶望するだろうな。言葉もない。
「そうすれば自分の気が済むからって、困っている人に変なタイミングで好意を押し付けるなってことだよね。そりゃそうだ」
私が項垂れている様子を見て、責めてるわけじゃ無いからね、と言って京子が眉根を寄せた。
「それに、純の時と違って、給付型じゃなくて、貸与型になったからね」
「え、嘘。そうなの?」
「しかも、今度の選挙で年利が上がるかもしれないんだよ。三%に引き上げだって」
「ありえない、借金じゃん」
「ほんとにね〜」
我が国では福祉に関わる制度改正は、国民投票の対象である。二分の一以上の合意が無ければ棄却される。次の投票では絶対、バッテン付けてやろうね、と話し合った。
「警察の人たち、これから現場検証に来るんだよね、本人も来るの?」
「来ると思うけど、さっきの話、蒸し返そうとしてる?」
「違うよ、結局、本人が自白しただけで、肝心のロボット掃除機は見つからなかったでしょ、一体どこにあるのかなあ、と」
「そこは警察もあまり詳しく教えてくれなかった。本人と一緒に確認するんじゃない」
坑道に入った場合、監視システムに引っ掛かるから、扉から坑道までのどこかにあるはずである。扉に入ってすぐの場所は、三メートル四方の床で下り階段が続いている。そんなところにロボット掃除機が置いてあったら誰の目にも付く。警察が来るまでまだ時間があるので、もう一度扉を開け、中に入った。
やはり入ってすぐの床には何も無い。階段を降りて左右を見渡すがここにも何も無い。
扉がよく見えるように、階段の突き当たりの壁に背を預け、階段と扉、左右の通路を見渡した。特に気になるところはない。一応、今回の件について対策案を出す必要があるので、状況を把握しておきたかった。
(後で警察の人に聞けば良いか)
何となく階段の終わり見つめて一息つき、スッと顔を上げた時に違和感があった。
階段を降りたところの、自分から見て右手、床に近いところの土壁が崩れている。崩れているといっても、わずかで、地盤がしっかりしているため、倒壊の心配はないと思う。しゃがんで触ってみると高さが三センチメートル、幅が二十センチメートルくらいの穴が空いていることがわかった。さらにほじくってみる。奥の方に何かある。
重さがあって指で引っ掛けるだけでは取り出せなかったので、京子に声を掛けて外で枝を拾って来てもらい、枝を使って手前に引き出してみた。
「すごい、ちっちゃいね」
「私が持ってきたのの、半分くらいだね」
出てきたのは平たい四角形のロボット掃除機だった。重さはあるがコンパクトで両手に乗せられるサイズだった。左右にキャタピラが付いている。おそらくこれで階段を上ったのだ。
「三十年経って、メチャクチャ進化してる、とうとう階段をものともしない機種が誕生したのか」
大声をあげて笑った。
「え、これ、大学に通ってたら作れるの。すごいね、最近の若者は」
「不謹慎だけど、これが動いているところ見てえ」
「現場検証に協力してくれ、とは頼まれたけど、好奇心丸出しは止めなよ」
わかってる、わかってる、と答えながらも、目の前のロボット掃除機に興味が止まらない。
「多分、このキャタピラは床を掃除する時は格納されていて、階段登る時にウィーンて伸びる仕組みだよね」
左右に二つずつ付いているキャタピラを展開し、階段に斜めに立てかけて手動で動かしてみた。なるほど、これならキャタピラの凸凹に引っ掛けて安定して上り下り出来そうだ、面白すぎる。
盛り上がってないで、ほら、警察の人たちが来るから、元に戻しなさいよ、と京子に促され、ロボット掃除機を穴に押し込み、再び土を被せた。こうしてみると足元な上、階段を降りてすぐの曲がり角で、人が注視しない場所にあるので全く目立たない。手の土を払い、階段を登って外に出たところ、小道から警官二人に連れられて犯人がやってくるのが見えた。
ツルッとした顔立ちで、一目で若いことがわかる年頃の、ごく普通の子だった。
国の重要施設に不法侵入したのだから、お咎めなし、とはいかないだろうが、出来れば罪を償った後はまた大学で勉強して欲しい。彼が何を目指しているのか、それこそロボットを作りたいのかさえ知らないが、あんなに愉快なものが作れるんだから、続けて欲しいと思う。他人が作ったものはやはり楽しい。若い世代の技術の革新をこれからも隣でずっと見ていたいし、彼もそのうちの一人だ。
そう思った、春だった。




