最後の朝餉
味噌汁の夢を見た。
俺も甘い夢を見るものだ、と独りごちた。夢で見た味噌汁の味は不明瞭だった。出汁の味も味噌の味も分からないし、どんな具だったか、椀すら覚えていない。
だが俺は味噌汁を飲むと言う甘い夢を見た。
生々しい生活、笑うしかない。毎朝のそれ、望むべくも無い。
ベッドから這い出る。ベッドの傍に置かれたイーゼルの上には二匹の猫が描かれたキャンバスが置かれている。
昨夜よりも色が増えていると思う。
横たわる白い手は筆を握ったままだ。指先には乾いた絵の具がこびり付いている。この指は絵を描く為だけにある。そっと筆を取り、汚れた水の入った瓶に挿す。
シャワーで汗を流す。
排水溝に飲み込まれていく昨晩の汗とシャンプーの泡。つまり疲弊と労働。剥がれていく体液、薄れていく昨夜の名残り。
熱い湯で強制的に眠気を追いやる。滴る水滴。マグカップに落ちるコーヒー。ハリオ式の性急な茶色にウイスキーを垂らす。
堕落。日々に対する抵抗。久しくまともな朝餉を摂っていない。
目前に広がろうとする労働を曖昧に溶かす毎日。メリタからカリタへ、そしてハリオへと変わるドリップ。次はコーノになるだろう。
インスタントに対する抵抗も限界が近い。生活が忍び寄る。その影を振り払う様に燐寸を擦り煙草に火をつける。ジリジリと焼ける紙巻きの煙草。明滅する灰。
「もう行くの」
背後から眠たげな声が聞こえる。俺の影を踏む足音が聞こえる。音と新たな煙が換気扇に吸い込まれる。
「あぁ」
味も香りも蒙昧なコーヒーより不明瞭な返事。昨夜の残滓が脳を過ぎる。踏まれた影は縫われた訳じゃない。
「そう」
だが記憶も心臓も後ろ髪ごと引かれる。
「朝は?」
「いらない」
ゆっくりとコーヒーを飲み干し、取り皿とカラトリーだけが転がるシンクに置く。
食品が入っていたビニール、丸まったティッシュ、干からびたコンタクト。
白い手が絞り切った銀色の絵の具チューブとかつてパレットだった白い皿を押し込む。不要物が詰まり膨れ上がった袋を持ち上げる。いい加減な分別。燃やせるものは全て燃やせ。
「そう、きっと美味しいのに」
「そうだろうと思うよ」
湿ったドリップフィルターに吸い殻を押し付け、そのまま袋の隙間にねじ込む。
「じゃあね」
「うん」
渇いた唇が刺さる。
その感触はドアを閉めた後もしばらく影を引きずったまま残っていた。靴の底で擦り切る様に踏み出す。
磨かれていない革靴。
折り目の消えたスラックス。
縁が擦れて白くなったジャケット。
文庫本の他は空の鞄。深夜特急に乗り損ねた人々が乗り込む朝の鈍行列車。
鳴きながら走る電車の重さ、オーム、それぞれの労働者たちが向かう、ベクトル、それぞれが引きずる影を踏み合い鈍麻していく今日と言う日。
駅と駅の間で止まる。
誰かが10両編成の電車と正面衝突をしたらしいとアナウンスが告げる。謝意の籠もらない謝意。
上がってもいない溜飲は下がらない。
不愉快さだけが積み重なっていく。不服な賃労働。生産性を高め過ぎればそれも失う。
バランス、綱渡り、曲芸、雑技、稚戯、前戯、避け続ける本気、本番、不服そうに動き出す電車と労働者たち。
誰一人としてちゃんとしたくなんてない。
役割をこなすのに精一杯で、それぞれが足の裏に付着させたままの昨夜はまだ濃い影を保っている。生活の為の労働、労働の為の生活、朝餉の時間を削り限界まで眠りを貪る。
アナウンスが到着を告げる。
電車が止まる。
アナウンスが告げる。
今日と明日の間で止まる。
踏みつけられた影が止まる。
アナウンスが告げる。
地球だとか太陽が明日で終わる。ならば俺はお前が作った味噌汁を飲みたい。




