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少年ら

 ──ひどく現実的だった。

 今、どこかの塔の上に立っていて夜景を見ているところに、風が頬を撫でている感覚があった。夜景は知らない街で、空に浮かんでいる明るい水色の月に照らされて、夜なのに街灯はいらなそうだ。ふもとは建造物でごちゃごちゃとしていて、なんだかよくわからない。

 こういったのは明晰夢といったか、初めての、とにかく新鮮な経験に胸を躍らせた。


「こんばんは」


 背後から声がした。ふつうの人とは、どこか違う男声。

 振り返ると、塔の中は暗くて、きっと男が立っていることしかわからない。

「きみに、渡したいものがあるんだ。」

 暗闇から現れたのは手紙だ。一通の手紙、特に何も思わず受け取る。

「これが無いとなにも始まらないから。だから、ずっと、持っていて。」

 やはり夢の中。登場人物は当然のように意味深な言葉を言う。

 とりあえず言われたとおりにしようと、手紙を半分に折ってポケットに突っ込む。


 ──その瞬間、手紙をよこした手が、自身の胸を強く押した。


 遮るものは何もなく、身体がふわりと宙へ流れ出す。

 落ちていく最中、轟音とともに、

「おとさないでね。」

 ……そんなことを、言っていたような気がする。

   一


 布団の上とは違う、なにか、もっとやわらかい感覚がした。

「……まぶっ」

 陽の光に直接照らされて、咄嗟に目を覆い隠す。

 そんな自身の行為に違和感を覚える。自室で陽の光にさらされるというのは、朝を上手に迎えるのが苦手な自身を、起こしてくれる母がカーテンを開くことで起こる事象だったからだ。

 ばっと身体を起こして、周囲を見回す。

 自身がいるところは自室どころか、家ですら、住んでいる市町村ですらない。やわらかい白の布の積まれた場所に、何故か身を下ろしている。

 野外の見知らぬ場所、知らない街並み。石積みの建造物、舗装はなんだか馴染みのない古臭さを感じる。壁にびっしり張っている蔦の裏には、パイプがずらりと並んでいる。

 蔦を背景とした白い花がこちらに顔をのぞかせているのを、覗き返しながら、

「えぇ……どこ」

 と声に出して、困惑してみる。

 とりあえず、乗っているそれから身を下ろす。改めてそれを見ると、荷車のようなものにやわらかい布がどっさりと積まれている形だ。状況も読めず、なにもかも仕方のない仕打ちをされているが、なんだか持ち主に対して申し訳なく思う。

 ひとまずこの場所を知るため、ポケットからスマートフォンを取り出す。地図のアプリを開こうとすると、画面左上の『圏外』という字が目に入り、「あ」と溢しては即座に自身の期待薄を感じてスマホを仕舞った。

「……?」

 スマートフォンを入れた拍子に、見知らぬ硬い違和感が反対側のポケットにあるのを感じた。

 冴えない脳内で巡る困惑から目をそらして、それに疑問を向ける。取り出したのは、半分に折れた手紙。なんとなくぼんやり、どこかでもらった気がすることを感じながら、それをまじまじと見つめる。封筒の大きさは葉書ほどで色は薄い黄色、宛名や住所らしきものはおそらく書いていない。それどころか字らしきものは一切見当たらないことに、裏返して気づく。

 既にこれも期待が薄れているが、ひとまず中身を見てみようと思い、封に指をかけるが丁寧に糊がつけられており、簡単には開かない。仕方がないので糊のかかった紙と紙の間に、爪でじりじりとささいな隙間をつくって引っ張ってみる。「あっ」と何度か声を出しながら、無残な裂傷を携えた口の中にあったのは、一枚の便箋。

 取り出して、目を通す、期待の文章は──


「…………よめない」


 見知らぬ言語で書かれていた。


     *


 困惑と疑問が脳内を徘徊しながらしばらく街中を彷徨っていると、通りには人気が薄いものの、ちらちらと人とすれ違った。どれも現代日本らしからぬ服装をしていると思いながら、今になって話しかけずにいたことをじわりじわりと後悔し始め、それ以上に時間が経つほど孤独と焦燥が胸の内で成長し始めていくのを感じ、ついには現在。

 とある狭い通りの端で、腐った便箋を折って、現実逃避をしていた。

 持ち物は、びりびりにヤツメウナギ化された封筒という名の屑。現実逃避を逃避する、どこにも繋がらないスマートフォン。そして、夢と絶望を乗せた紙飛行機へと改造されるなうバナナの皮の如く腐れ便箋のみ。

 身なりは肩までの黒い髪で癖が強く、身長は平均よりも低く童顔で、服装は灰色のトレーナーの上に裏起毛のパーカー、運動着の半ズボン、靴下のみ。

 靴すらないので歩き回りたくもない。いつもと違いすぎる光景に、中学卒業後高校入学前の春を奪われる意味不明。正反対に虚無感に楽しさすら覚えたい心持が、やはり順調に溜まっていく困惑と理解不能と無力感が、紙を折る手を震わせていく。溜まっていくそれらは、徐々に苛立ちに似た化合物へと変容していった。


 ──そして、心で大規模な内紛が勃発しつつ完成したそれを、シュンは即座に通りの先へと放出した!


 歪な形で模されたそれは、気まぐれに大きく揺れを起こしながら、ふわりぐらりと下降していく。意味もなく滑空するそれは、意外にも長く飛んでいるなと複雑に思っていると、背景から伸びた影が

「よっと」

 と発した。

 どういうわけか、偶然通りかかった人物に拾われてしまった。

「や、そこのおヒトさん。これ、キミの?」

 辺りをきょろきょろ見回しながら、高くて甘い味のする声でシュンに近づいてくる。

 ミルク色の髪と桃色の瞳、ふわふわレースの襟のブラウス。頭にはウサギの耳のような棒状のものが二つと、キャスケットのような帽子と花が飾っている。幼い顔立ちで、背丈は自身と同じほどの、少年。

「……、そうです」

 シュンは目をぱちぱちしながら答えた。

「はい、どうぞ」

「どうも」

「キミ、もしかして路頭に迷ってる?」

 薄汚い紙飛行機を流れるままに受け取る際、胸中にすっぽりと当てはまる問いかけを投げつけられて、固まる。

「──そう、ですけど」

「やっぱり! この辺りだと思ってたんだ」

 手を合わせて笑っている少年に、何のことを言われているのかわからず、ただただ困惑する。

「ああ、置いてけぼりにしてゴメンね。ボクはエフ、案内兎のエフだよ。キミは?」

「……しゅんです。あんないうさぎって?」

 相手の自己紹介に合わせ、シュンも一応下の名前だけを伝え、知らない単語について問いかける。

「案内兎っていうのは、道とかで迷っている人を無料で助けたりするうさぎさんだよ。」

「じゃあ、じぶんも、無料で……?」

「うん、まぁ、そゆこと。案内兎はヒトの心の声が聞こえるんだ。キミのも少し聞こえてきて、困っていそうだったから来たんだ」

 エフは頭に生えている長い片耳を指し、ぴくぴく動かして言った。もう片耳は、垂れ下がっているまま、動きそうにない。

「あ、でも安心して。ボクはただ、心の声が聞こえるってだけで、なんでもかんでも言い当てれるとかじゃないから」

「思考を読むって感じ?」

「そう」

「なるほど」

 いろいろ納得して、久しぶりに多少すっきりする。

 その力を前にすると、どう心を置くべきか難しいところだが

「ああそうそう。こうぎゅっとしていると、聞こえなくなるんだ。基本的には困っている人をさがしているときに聞こえるようにして、それ以外は閉じてる」

「便利だね」

「でしょお」

 ──読まれたらしい。紙を折るように、耳をぴったり折りたたんで、得意げににっこり笑うエフが言う。

「さ、キミの居場所をさがしに行こうか。ついてきて」

 斯くして、紙飛行機による神頼みならぬ紙頼みが何故か成功し、シュンはエフの背を追うこととなった。


     *


「このまちはトペリって言うんだ。キカイとか、コウバとか、そういうところが有名なんだよ。ボクは専門的なことは詳しくないけどね」

 まちの紹介をされながら、二人は歩いていた。シュンは紙飛行機をそのまま持ちながら、コクコクと頷きつつ話を聞く。

 いまだ人気の薄い、しかしさっき紙飛行機を飛ばしたところと違って明るい通りだ。工業の発展した街ということもあり、ぎざぎざの屋根の建造物や、大きな煙突の建造物などが広く散見される。街並みは基本的に古く、植物の絡んだ建物が多い。

 解ったことは、おそらくここは日本ではないどこかで、もっといえば地球でないのかもしれない。地理には詳しくないが、自身の状況を見るに、ここが異世界だと確信を持てるような気がする。

「シュンさんは今、食べる場所も住む場所もないんだよね?」

「ああ、はい」

「今、いくつ?」

「じゅうごさい。」

「ああよかった。まだ子どもだね」

 何故か安心されるようなセリフを言われ、シュンは目をぱちぱちとさせる。

トペリ(このまち)はね、二十歳から大人としてて、それよりも下は子どもなんだ。シュンさんみたいな子どもがこのまちで路頭に迷っていると、孤児として保護されて生きていくことができるんだけど、大人だとダメなんだよね」

「それは、大人で路頭に迷っていると……?」

「まちから追い出されちゃう決まりなんだ」

「え、どうして?」

「治安が悪くなるんだって」

「はぁ」

 中々大雑把な返答だが、こう根掘り葉掘り訊くのはなんだか泥臭い気がしたのでやめた。

「まぁそんなわけだから、まずは孤児院を探そう。ボクの友達が情報屋でね、その件に関してはいろいろ知ってるはずだから、そこに行こう。近いしね」

「情報屋……?」

 言葉だけで聞くと、諜報活動とか裏社会に関連しそうな怪しい雰囲気がある。エフの様子を見るに、健全な事業者とかではあると思うが。

「役場と連携して、情報管理のおしごとをしているんだ。とっても長生きさんだから、まちのことや決まりごとに詳しいんだよ。」

 エフは立ち止まって、シュンの瞳を見て説明してくれる。長寿の公務員らしい。

「ちなみにここがその人の家ね」

「えっ」

 つい先ほど目的地を聞いたばかりなので、こんなにも目と鼻の先にあるとは思わなかった。

 通りの建物はどれも背が高く、ぎゅうぎゅうに建てられていて、その家もそのひとつだった。ただ周りの建造物と比べて三周りほど老いており、外観はかなり古臭い。おまけに二階あたりの壁から立派な木が生えている。

 情報屋と言葉をいうだけあって、入り口の横には掲示板のようなものが突っ立っている。

「じゃあ入ろっか」

 がらり、特に何のサインもせず引き戸を動かすエフに、シュンは「ちょっ」と咄嗟に鳴いた。

 一瞬、瞼が重くなった気がした。

「ラディ! 迷子さんだよ!」

 部屋の奥を見ると、二本の角が生えた大きな黒い怪物が動いており、シュンは怯んでエフの背中に身を隠す。

「外から騒がしい声がしていたから知っている。しかし、迷子を紹介されても困る。」

「人生の迷子だよ」

「最初から孤児を拾ったと言え」

 落ち着いた、独特な低い声だった。おそるおそるエフの背後から顔を出し、その姿を確認する。

 つり目の中の、二藍の瞳と目が合う。意外なことにその姿はまたエフに似た少年で、どこかの国の民族衣装のような独特な意匠の服装をしている。途中で直角に曲がった角の生えたフードと、胸元に咲いた白い造花が印象的だ。

 二藍の少年は室の中心にある円卓の上に立ち、天井から吊り下がっている照明の調整をしているようだった。

「いろいろ手続きとかあるでしょ? 案内してあげてよ」

「そういった面ではいいが、外には出たくない」

「ついでにいろいろ教えてあげようよ」

「話を聞け。道案内はそちらの仕事だろう」

「え~」

 二人は、人間関係的には近い距離感にいるらしい。シュンは観察しながら、あくびをこらえている。

 少年は照明の調整を終えて、部屋がぼんやりと照らされていると、円卓を降りて座る。照明の正体は魔法のような、小さな炎の入った瓶で、しかしまだ明度が足りない気がしていると、

「とりあえず上がれ、その前に靴を脱げ。そしたら卓の前に座れ。」

 情報が二、一、三の順番で伝えられ、シュンは異世界でもこの文化があるのだと思いながら足もとを見て、一瞬固まった後、

「──くつ、ないです……靴下脱いだほうがいいでしょうか」

「あれ、そうだったの」

「……じゃあそうしてくれ」

 すでに上がっているエフがちらりとシュンを見ながら言い、少年はほんの少し間を開けてから承諾した。

 シュンは言われた通り靴下を脱ぎ、それを無造作にポケットに突っ込んで上がる。

 三人が円卓を囲うように座る。シュンは膝の上に紙飛行機を乗せての正座、エフは体操座りで膝の裏で腕を交差しており、家主は胡坐。円卓の中には資料だろうか、紙がぎちぎちに積み重なっており、シュンは正座の足が中に入らないことを少しだけ煩わしく思う。

 というか、辺りは異常なほどに紙が多い。情報の保存に利用しているのは目に見えているが、少年の頻用しているらしき机の上、天井に伸びる本棚、天井に張られた糸から洗濯ばさみらしきもので挟まれて干されたものまで、紙圧が高い。

「さて、」

 少年が話を始めようとしたところで、それ以降の言葉が消えた。シュンがはてなを浮かべて少年の目を見ると、彼はシュンから目をそらして、隣のエフを見る。

「──面倒事を連れてきたな、おまえ」

「大丈夫だよ。ちゃんと見てるから」

「だといいが……そちら、名前はなんて言う」

 少年はなんだか慌てているというか、焦燥感を抱いているというか、そんなような不安定な雰囲気でシュンに訊く。

「しゅん、です。」

「いくつだ」

「十五です。」

「どこから来た」

「どこから……?」

「ああ」

 何を訊かれているのかはわかるが、答え方がわからない。シュンは思わず目をそらして、エフのほうを見る。

 エフは、手鏡を覗いて、前髪を整えているところだった。

「やましいところか?」

「……逆に、やましい出身地ってなんですか」

「じゃあいい。ここへはどうやって来た」

 案外すぐに質問が変わり、安心に吸い寄せられるように頭のはたらきが素早く切り替わる。

「えっ、と、朝起きたら既にここにいて、なんにもなくって困っていたら、このひとに……」

「ふむ」

 少年は口元に手を当てて、なにやら考え込んでいる様子。

「では、流れ着いたと」

「はぁ」

「そういうことかもね」

 どういうことか当然わからず、シュンは首をかしげる。それを見た少年が、再度友人の姿を一瞥すると、

「このまちは輸出入の盛んなところだ。加えて孤児であれば、保護されてここで安定的に生活していくことができる。であるので、外国の貧しい地域などでこの街を知っている者は、じぶんの子どもをトペリ行きの荷車やら貨物列車やらにそっと乗せていくというような話がある。現に、輸入された物資の中に子どもが潜んでいたというのはしょっちゅうある」

「物流に乗ってくるから、流れ着くと」

「相当運がいいやつの話だ」

 言いながら立ち上がり、なにやら仕事机のあたりでごそごそとなにかを探し出した。

 隣のエフも合わせて立ち上がり、「ボク喉かわいたー」と自由奔放に言って二階のほうへ行ってしまった。シュンはちらちらりと、少年と階段のほうを交互に見る。

 しばらくもかからず、少年はどかんとけたたましい音を立てて、円卓の上にぶ厚い本を落とした。鎖でぐるぐる巻きにされたそれの登場に、シュンが肩を震わせる。

「さて。」

 再度少年は卓の前に座り、一呼吸おいて口を開く。

「そちらの住む場所を探す前に、ひとつ、してほしいことがある」

「はい……」

 台詞の途中、しれっと戻って卓の前に座るエフに二人はそれぞれ一瞥しながら、少年は人差し指を立てて続けた。

「【契約】だ。」

「けいやく?」

 少年とシュンは真っ直ぐに見つめあう。

「物の売買の際や単なる口約束などではなく、記録に残る形の契りだ」

「書類にサインするタイプってこと?」

「……、何を言っているのかわからんが、書類に署名してもらう。直筆かつ、実名だ」

「なるほど」

 言いながら、それに必要なものを卓の下から準備する少年。卓上には筆記用具らしい、何かがぴったり巻きついている細長いクレヨンらしきものをじゃらじゃらと、白紙の書類を一枚置く。

 彼はクレヨンらしきの一本を持ち、シュンに向けながらはっきりと述べた。

「内容は、こちらがそちらをそこへ案内する代わり、そちらはこちら、及び周辺に危害を与えないという【契約】だ。」

「きがい……?」

「そうだ」

 なんだか内容にぱっとせず、思わずまたエフを見る。既にこちらをじっと見つめていた彼は、にこっと笑ってみせた。

「ふつうにあたえないよ」

 シュンは少年に向かい、困惑気味に言う。

「ではそれを証明してみせろ」

「証明って……」

「それが【契約】だ」

「……証明には、ならなくない?」

 書類に残るのは契約をしたというやり取りで、後の行為を制限するわけではないはずだ。そうした行為自体に、暴力等を抑止する力はない。当然のことだ。

 しかし、

「ならなかったら提案していない」

 至って真剣な二藍の目でシュンを見つめる少年は、中々に頑固なようだ。

「【契約】しないのなら、こちらもそちらに対して何もすることはない。そちらがまともであれば簡単な話だろう」

「……こういう契約って、もっと大きな取引とかにするイメージで、その、なんか──」

「しないのならそれでかまわないが」

「あーしますします! 遅延ですね! すみませんね!」

 よくわからない提案に判断を右往左往しているうちに、少年が書類を取り下げようとし始めたので、シュンは卓に身を乗り出し慌てて言い放った。そう言わなくては、足止めを食らう。

 少年が目を細め、にやりと笑みを浮かべた。

「言ったな?」

「……じぶんはとにかく、暴力とかできないんですよね」

「そうだ。期間はこちらが案内を終了するまで。途中、そちらが勝手に消えた場合、そちらの行う条件の期間を本日付で三日に増やそう」

「その間の範囲は、あなたと、あなたの周り……どのくらい?」

 三本指を立てながら話す少年を見ながら、そういえば名前を聞いていなかったと今更おもいつく。

「こちらとこの家、あとこいつだけでいい」

「すくなっ」

「そうと決まれば少し待っていろ。すぐ用意する」

 意外と大雑把な様子に、やはりこの行為の意味を質したい気分になる。しかし疑問を提示するという行為は否定と見なされた遅延行為となってしまうので、むずがゆい心地を抱いたままでいることにする。

 隣でエフが暇そうにぼうっと少年のを見ている。少年は白紙にすらすらと、おそらくいま決めた契約の内容らしきものを書き上げ、ぴっぴっと最後に二本線を引いて、シュンに差し出し、

「確認しろ。納得したらここに、これで実名を書け。姓はいらん」

 指をさして説明される。

 ぽかんとしているシュンから身を引き、少年は「そちらが考えている間、こちらは喫煙しているから、何かしらあれば言え。」と無責任に言って、懐から煙管(キセル)を取り出した。年齢が気になるところだ。

「ええ? ここで吸うの?」

「別に害はないだろう」

「あるよね。からだに良くないよ」

「久しぶりに安心させてくれ」

 少年たちのたわいない会話を背景に、シュンは真っ白な頭でその契約書を見つめた。

 全く、読めない。こうであってはついさっき羅列した契約の内容も確認できないし、名前すら書けない。

 彼らはなんだか取り込んでいる最中だが、それはもう本当に困りだしてしまったので仕方がない。

 シュンはおそるおそる手を挙げて、

「あの」

 二人は喧騒をやめて、シュンを見る。

「……、なんだ」

「もじが、わかりません」

 そう言うと、少年らは顔を見合わせて、固まった。


     *


「文字は一つの音に一つだ。この縦の列は、上からあ、え、い、お、うと発音する」

「これが母音ね」

 少年は喫煙をしながら即席で文字表を作り、さらに指をさしながら解説をしていた。

「あえいおう?」

「あえいおう。」

「きもいね」

「は?」

 しかしシュンは瞼をこすりながら率直な感想を述べる。こうも慣れていた土台のつくりが違うというのはとてつもない違和感がある。

 部屋には少年の煙草の煙が広がっていた。特になんのにおいも感じないが、何故か異様にあくびをしたくなる。横を見ると、エフが卓に突っ伏し自身の耳を枕にして居眠りしている。

「横の列はか行といって、か、け──」

「その法則性があるならあとはいける」

「なんなんだおまえは」

 ひらがなやカタカナと似ていて、文字は一音一字のような形。文字は違っていても、音は変わらないようだ。会話はほぼなんの障壁もなく交わすことができ、問題は同質異像の文字体系だけにあると言えるだろう。

「あ、でも一応子音の、横のあ行だけは言ってほしいかも」

「あ? ああ」

 少年は、シュンの謎に文字の慣れた雰囲気に困惑しつつも文字表に指をなぞって説明する。

「あ、か、さ、しゃ、た、ちゃ、」

「いや、え? 多くない?」

「多いってなんだ」

 育った土の違いというべきか。シュンはこの違和感を共有したくなる。

「多いよ。しゃ? しゃししゅしぇしょって言うの?」

「何故並び替えた。しゃしぇししょしゅになるはずだ」

「故郷ではあいうえおの並びだったんだよ。こっちのそういうのの並びが違いすぎて、びっくりしてる」

「故郷は何処だ?」

「朝日の向こう側にあるくらい東、とだけ言っておく」

「……」

 得意げにてきとうを投げつけて、シュンは文字表に目を落とす。少年は呆れたように煙を吸って吐いて、指を立て直し、

「ここではあ、か、さ、しゃ、た、ちゃ、つぁ、な、ひゃ、ふぁ、ま、ら、の清音が五音ずつだ。」

「はが無いんだね」

「は行は、は、へ、ほの三文字だけだ」

「はぁ。」

 文字表には少年が指でなぞっていない場所が、まだ広がっている。

「あとは……はやわから、濁音と、」 

「だ、だりぃ……」

「そちらの文盲が足を引っ張っている割に、よくそんな厚い顔ができるな」

 気が滅入って項垂れるシュンを、少年は正論で殴る。すると、虚空を横目に「う」と呻いて起き上がった。

「顔は厚くないと生き苦しいから」

「それでも交換条件である署名をしないと進まないぞ」

「でもこれ書類だけならアプリの利用規約みたいなものだよね……よっぽどのことがないと殴ったりなんかしないし。」

「ああ、そうだな」

「単純にあなたの仕事が増えるだけってこと……?」

 シュンは顎に手をあてて書類を見つめる。読めないがこれは書類。ただの紙に法の力はあっても物理的な支配力は存在しないはずだ。

 少年のほうを見ると、特になんの反応もなく煙を堪能している。

「……じゃあもう署名しようかな」

「本当に確認しなくていいのか?」

「なんかあったら逃げるよ」

「その前に、こちら側がそちらを一方的に殴れることになるが」

「その【契約】に対する圧倒的な信用はなんなの?」

「そういうものだからだ。それも、結んだ後に話してやる」

「いま話してほしいけど」

「もう疲れた。次に進みたいのならさっさと署名するか、ここを出ていくか選んでくれ」

「…………。」

 目の前に用意されたものが本当に食べられるのか、中に釣り針が入っているのではないか勘ぐっている、知恵を持った魚のような気分だ。しかし満足に情報が得られていない、謂わば不平等な取引を持ち込まれている可能性が高い。

 しかし、この机上に置いてあるものは、ただの紙だ。所詮ただの、紙。

「──、するよ」

「そうか」

「し、し、さし」

「……、」

 シュンは例の母音を声に出しながら指でなぞって、文字表で試しに自身の名前のそれを書き出してみる。

 そんなシュンを、少年はじっと見つめている。

「名前は、しゅんだったか。」

「そうです」

「実名か?」

「そうですよ。あの、ちっちゃいゆだけ教えてほしいです」

「……、ちっちゃい、ゆ?」

「ちっちゃいゆ」

 少年は呆れたように息をついて、シュンの横に座り鉛筆に似たクレヨンを執ると、

「今日はこれで、いいだろう」

 そんなことを言いながら、さらさらと文字を二つ、文字表の端に書き置いた。

「そちらの名前だ、そのまま書き写せ」

「なんか、こっちのとちがう……」

 用意された文字表を視線で指しながら言う。

「こっちは常用文字だ。それとは別に名用文字がある」

「先に言うべきじゃない? そういうの」

 果てしなくこの世界の常識に置いてけぼりのシュンがそう言うと、少年は「そうだな」と薄く笑って誤魔化した。

 とてつもなく不安な気持ちはあるが、彼が書いた文字をシュンはなるべく丁寧に書類へ書き写し、できたものを見せる。

「かきました」

「下手だがまぁ、いいだろう」

「もう、おわった……?」

ちょうどよくエフが目を覚まして、うーんと体を伸ばす。

「ああ、これから契るところだ」

「ほーん。シュンさんきちんと署名できたの?」

「うん、まぁ……」

 エフの問いかけに、シュンは視線をそらしながら曖昧に答える。

 その間、少年は辞典のようなものの鎖をほどき、ちらちらとシュンの顔を伺いながら頁をめくっている。

 そうしてしばらく経ったのち、

「──本当にするか?」

「するよ」

「そうか」

 何をいまさら確認されているのか疑問に思いつつ、首をかしげながらシュンはこたえる。

 すでにこの紙には、署名がされている。

「それでは、はじめよう」

 その一言で、契るという行為に、儀式的なものがあるのだということをなんとなく察した。

 少年は卓の上に再度乗って、明かりの役割をしている瓶を手に取り、卓を降りる。

「それをこちらに」

 シュンは言われたとおりに書類を差し出し、少年はそれをそのまま卓の上に置いて、瓶の蓋を外す。

白い輝きを発するその炎は、青みの強い二藍へと変色し、瓶を逆さにして煙管の先へ着地し、その手はいかにも慎重とはいえない振る舞いでゆるやかに傾けられ、契約書へと落とされた。

「え」

 当然、それは中心から燃える蒼に喰い破られ、無に帰していく。

「安心しろ。こちらが許可している。」

「きょか……?」

「ああ」

 シュンの動揺を見て、少年が意味の足りない補足を入れる。

 火事にならないかと焦るシュンは隣を見る。エフはまるで花火を眺めるかのように、その光景を見つめていた。

 困惑も動揺も束の間、契約書は灰も残さずあっという間に消えてしまった。

 部屋がふっと暗くなり、完全に明かりの消えた空間を、少年の煙管の先が再度照らし始めた。

 例の白い炎がなんの前触れもなく現れたことに、シュンは息を呑んで、なんとなく、ようやく、勘付く。

「これにて【契約】は結ばれた。内容は覚えているな?」

「──それを記録するために、書類があるんじゃ?」

「単なる記録をするなら他の紙でも役割を全うできる。いま終わらせたこの行為は、世界に記録を残すということだ。」

「世界に?」

「これよりそちらの業は清算され、違反が起きた際に罰が下されるという概念と成る。人と人との公平を、【契約】は謳う。」

 ここは異世界で、自身の無知も付け足された概念も、須らく受け入れなくてはならないのだ。

 突きつけられた白い炎を、見つめる。

「さて、名乗るのを忘れていたな。ラディアだ。」

 少年──ラディアは指先で宙に浮く炎をふわふわと操りながら、さらりと自己紹介をし、それを瓶の中へするりと入れると、

「そして、これから行うのは尋問だ」

「へ?」

 ふ、と一息ついて煙管を灰皿に下ろし、シュンを咎めるような白い視線で見つめる。

 エフが素早くシュンの横にぴったりくっついて、勝手に腕を絡むように回して悪戯に笑みを浮かべると

「抵抗したら痛い目見るよ?」

 なんて脅し文句を向けてきた。

 じわじわとシュンは納得する。最初からこの契約とやらは、不平等で、自身は罠にかかってしまったのだという自覚を。

「【契約】は、違反すると直ちに体のどこかが発火して火傷をつくるので、本当に抵抗はしないほうがいい。」

「なんでそれ最初に言わないの?」

「言ったら話が進まないだろう。そちらが【契約】は知らん、故に実名は簡単に明かす、文字は知らないのに母音と子音のことは知っているなど、奇怪すぎて疑うのにも気が疲れるからな」

 床に腰を下ろし、指折り数えながらラディアは言う。

 それについてシュンは、特に後者のものに関して「たしかに変かも……」と小声に出して納得した。

「ではそちら、何の目的でここへ来た。何を企んでいる。」

「あ、案内はどうしたんですか。それも契約でしょ?」

「時間はまだある。尋問の後だ。まずはこちらの質問に答えてもらわなくては」

 何の疑いをかけられているのか全くもって想像できないが、ひとまずは正直に答えるしかない。

 エフがシュンの頭の上に大きな耳を乗せてふわふわと遊びながら、尋問は始まる。

「……もくてきと、たくらみ?」

「そうだ」

「ないよ、ふつうに」

「とぼけるな。そちら、流れ着いた孤児などではないのだろう」

 一瞬、シュンの頭の中が固まる。しかし、朝目を覚ましたらここにいたということは、何度考えても意味がわからない、言えば混乱を招くだけだ。

「いや? みなしごだよ?」

「嘘を吐いたな? であればもう少しみすぼらしい姿をしているだろう」

「ぅぐ」

「ほらな」

 納得感が心の中の別の部分を押して、変な声が出た。しかし疑いを持たれるような行為をした記憶はない。それに加え、シュンはこういった追い詰められるような会話は慣れていない。

 しかし、ひとまずはこの最底辺にある信頼度を上げなくてはならない。

「全く話にならんな……では、どこから来た?」

「国の名前ならいえる」

「ああ」

「日本、っていうところ」

「そんな国はない。」

「どこそこ?」

 二人に疑問符が浮かび、自身の間違えを自覚するシュン。

「このままだと泥沼だ。そちらが正直に話さない限り、こちらも動くつもりはない。」

「【契約】をしてくれたのは助かるけど、シュンさんは少し、得体が知れなすぎるよ。だからなにか、知ってることがあったら話してくれるといいな」

 ラディアは堅い姿勢のままシュンを見つめ、エフは甘い声音で、懐柔をするような言葉をシュンに向ける。

 シュンは数秒、口をつぐむ。

 自身が生み出した停滞、説得という名の壁。しかし本当のことも、知っていることも、困惑を生むだけだ。自身が持っている情報の中で、使える手は無いに等しい。

 ──だとすれば、思考する場所はここではない。この向けられた矢印の性質を疑う、そもそもの話が、シュンには足りなかった。

「あの、どうして、じぶんはこう、疑われてるの? その、今までにも流れ着いた人たちはいたんだよね……?」

「それはそちらが知っているのではないか?」

「知らなかったら訊いてないよ。あの、じぶんは服とかへんな知識とかいろいろあるけど、そこだけ変ならこうして、【契約】して、抵抗できなくしてまで疑いを晴らす必要、なくない?」

 言いながら頭の中が冴えていくのを感じる。それが気のせいかどうか、今はどうでもいい。

 いまは、彼らの答えが、聞きたい。

「──こちらは、貴様のそういうところが恐い。獣のように赤い眼をして、理性を保ったまま会話をできる、今の不可解な状況が、恐い。」

「あかい、め?」

 ラディアは、自身を守るように腕を組みながら、様々な感情を孕んだ視線をシュンに向ける。

 それに含まれたものを直感的に、シュンは理解する。理解したところで、困惑が成長する。

「充血してるってこと?」

「違うよ、瞳の色が赤いんだよ」

「ひとみの色……?」

「うん。ほら」

 そう言って、エフは手鏡を懐から出してシュンに向ける。

 そこにいた自分の虹彩は、確かに血のように赤かった。

「え……っと、なに、これ」

「じゃあ無差別な殺人願望とか、なんか破壊の衝動が抑えきれないとか、いつの間にか意識を失ってて、起きたら周りのものが色々壊れてることとかある?」

「ないないないよ! どこの厨二病だよ!」

 エフの述べる物騒な興奮の具体例に、シュンは強く否定した。ちょうど、自身の瞳を見て思っていることがそのまま言葉にされながら。

「やっぱり、何もわからないみたいだよ? ラディ」

「……そうか」

 エフは「なにか、勘違いかもよ?」だなんて言いながら腕を解いて、手鏡を仕舞うと、

「そういえばシュンさん、その紙はなに? なんか飛ばしてたけど」

「ただのカスです。なんか持ってて」

「なんか持ってたの?」

 なんかなんかとエフが指をさしたのは、シュンが現実逃避のために折った紙飛行機だ。【契約】の締結や尋問をされている間、気づけば床の上にてきとうに放置されていた。

 シュンはそれを掴んで、エフに渡すといきさつを説明する。

「もともと誰かに貰った手紙で、けれど内容が読めないから、イラついて気づいたらそういう形になったよ」

 脱力して、少し支離滅裂になった説明をエフはあまり聞いていない。

「あんまり見たことないなぁ、こういうの」

「……その手紙とやら、何が書いてあるんだ?」

「あ、たしかに気になる。シュンさん、見ていい?」

「もちろん」

 ラディアもやや気分の沈み気味で疑問を呈し、活発なエフが紙飛行機を無慈悲に解剖する。


 開かれた文字群の、たった一行には、少年らの疑問と困惑を晴らすには十分な情報が詰まっていたらしい。


「それ、なんてかいてあるの?」

 無邪気に二人へ訊くシュンに、彼らはゆっくりと、揃って視線を合わせる。ラディアのそこに、恐怖の感情はなく、

「えっと、つうほ──」

「えふ」

 静かに名前を呼んで、エフの長く垂れた耳を引っ張る。

「ここはひとつ、作戦会議だ」

「あの、なんて」

「そちらには知らないほうがいいことだ。そこら辺の白紙でも使って、暇を潰していろ。」

 なりふり構わずのラディアに、エフが痛そうに喘ぐのをシュンはじっと心配することしかできない。

「ら、ラディ、いたいよ」

「いいからさっさと来い」

 ラディアはもう片方の手にその便箋を取り、嵐のような慌ただしさで、二人は二階へと消えていった。

 当然、この室に疑問は残ったまま。

「まぁ、なんかうまくいった……のかな」

 シュンはひとり、そう呟きながら、しばらく経って円卓の下を覗き、一枚てきとうに取り出して。

 鶴を折り始めるのだった。


   二


 シュンが軽く作品をひとつ作り上げたところで、二階から二人が降りてきた。

「支度は整った。行くぞ、しゅん」

「あれ、尋問は」

「終わりだ。もうそちらの事情ははっきりと解った、する必要はない」

 ラディアはこれからのことを告げて、大きな杖を持って降りてきた。

 エフはそのままの姿でうつむき気味に、なにか考え事をしているようだ。

「……それはなんだ」

 ラディアは円卓の上に置いてある照明の瓶を手に取りながら、シュンの手に持っているそれに指をさして、関心を告げる。

「鶴だよ」

「あー、鳥の形には見えるが……」

 シュンの作った折り鶴には、明らかに蛇足的な部分が付け足されており、

「その、足のようなのはなんだ。三本くらい」

「地元にヤタガラスっていう足が三本ある鳥がいてさ。それの鶴版、ヤタタヅルね。あげる」

「いらん」

 ヤタタヅルを差し出して笑うシュンにラディアは興味が途絶えたらしく即答すると、玄関のほうへ向かう。

 エフも靴を履いて、準備万端といったところだ。

「ほら、いくぞ」

「うん」

 返事をして、シュンは室にそっとヤタタヅルを置いて、二人のもとへ向かった。


     *


 三人で街を歩く。シュンはラディアに貰った古びた靴の履き心地を逐一確認しながら、二人の話と背を追っていた。ラディアはさっきの杖を横向きに背負っており、取り付けられていた照明器具の瓶の中にある、小さな二藍の炎が揺れている。

 太陽はかなり高い位置で輝いており、昼手前といったところか。その概念さえ間違っている気もする。

「どこの家にいくんだっけ?」

「そちらの知り合いが多くいるとこだ」

「ああ、レビリさんとこ? いいね」

 歩道橋のような、長く伸びた金属の道にさしかかる。階段を上って、高くなった辺りの景色を見回す。

「そういえば、その前にどこか寄り道してくって」

「ああ、そうだ」

 シュンはぼうっと、立方体の家々にさしかかる金属の橋を眺めていると、

「山羊に会いにいく」

「……やぎ?」

 ラディアの突拍子のない発言に、思わず反芻した。

「いきつけの山羊がいるんだ」

「いきつけの……?」

「そうだ」

 半信半疑でいるシュンは、きっぱりと応じられて困惑を強いるしかない。特にラディアは淡々と、同じ調子で話すので、シュンはまた自身が異常識人をしているのか、それとも聞き間違いをしたのだろうかと考える。

「しゅんは、山羊は知っているのか?」

 どうやら、後者ではないらしい。

「えっと、羊に似てる、高いところが好きなどうぶつ、ですよね」

「おお」

 前者でもない。ラディアは感心したような声を出して、シュンは安心しているのか、困惑しているのかわからなくなる。

「いきなりどうして、やぎに?」

「山羊はいい。眺めていると、癒される」

 かなり私的な理由の寄り道だった。

「一応、そちらの住む家の道中にあるから安心しろ」

「あ、はい」

 変わらない声音で振り向きながら言って、話は終わり、彼は前を向いて長い三つ編みの髪を揺らす。

 今度はエフがシュンと歩幅を合わせながら、

「動物はわかるんだね」

「たしかに」

「今のうちに、何がわからないか訊いてよ。今なら教えるからさ」

 にっこりと笑いながら言い、じっとシュンの顔を見つめる。

 シュンはぼうっとラディアの足元を見つめながら、「あ」と声を出した。

「じぶんの、目について、とか。……今もあかい?」

「会ったときからずっと赤いよ」

「ヤだなぁ」

 軽く言いながら、瞼を触る。この現象については何が何だかわからないが、おそらくこの世界に来てからのことだ。それくらいしかわからない。

「目の色って、なんか意味があるの?」

 歩道橋を下りつつ、シュンはラディアのあの視線を思い出しながら訊いた。エフがちらりとラディアの方を向く。

「眼というのは、からだのなかで唯一透明の器官だ。であるから、その者の中身を覗ける部分でもある」

「なかみ?」

「言い換えると、こころのいろだ。」

 言い換えられてもシュンはぴんときていない。きょとんと首をかしげながら、次の言葉を待つ。

「瞳の色というのは、その者の精神状態、身体に浸透している魔力の種類をはかる大まかな指標となる。」

「はぁ」

「順番に説明していくと、例えば精神の著しい不満、嫌悪、疲弊、悪いことなどでの衝撃などがあると、気を病むだろう。そういったのを積み重ねると、徐々に瞳が赤くなる。」

 石造りの道に這った蔦の葉を、ラディアは容赦なく踏みながら行く。

「また加齢、危険思想の持主、住んでいる土壌が肌に合わない、実は既に死んでいるなど様々あるが、特にしゅんのはわからないし、わからなくても問題ない。特に希死念慮など持ち合わせていないのだろう?」

「な、ないはたしかにないけど、なんか、よくないというか、すでに死んでるって何……?」

「そういうときもあるというだけだ」

 てきとうに応じられるが、シュンは一つの疑問の説明にこれまた疑問を枝分かれさせてはかえって面倒だと思い、口をつぐんだ。

「深く知ろうとするとかなり曖昧で、かなり面倒臭いのが解るから、精神状態に関してはこれくらいだ」

「後者のほうは? まりょくとか」

「大抵のおヒトさんの目の色は、青とか、緑とか、黒なんだよ。青い瞳だと、水に関する魔法が使えるとかだけど、あんまりこの街では関係ないよ」

「場所によって関係するんだ」

「案外ここら辺はてきとうだよ。というか、魔法っていうのは、なんだかはっきりしないの」

 後者の説明はエフがバトンタッチをし、やっぱり曖昧、はっきりしない、ということをはっきりと説明される。魔法やら魔力やら、なんだかゲームのような話だと思う。

 なんだかもやもやとした納得感を抱えながら、シュンはエフの瞳、ラディアの後頭部を交互に見ては、そういえばと首を傾げ

「……なんか、エフさんもラディアさんも、目の色、あかみがかってない?」

「ボクたち特別だから」

「年齢と経験だ」

 桃色の瞳をしているエフが笑って答え、紫色の瞳をしているラディアがきっと真実を答えた。エフからふっと笑みが消える。

「あんまりそういうこと言わないでよっ」

「こちらも若返りたい……」

 ラディアの肩を揺さぶって軽く怒るエフと、無気力に呟くラディアを見て、シュンはまた知らない世界が増えたことを感じた。


     *


「あ。」

 しばらく二人のたわいのない話を聞きながら歩いていると、通りに甲高い繰り返しの機械音が響いた。エフが立ち止まって、懐から携帯電話のようなものを出すと、人間の耳がある位置にそれをあてる。

 シュンはその光景に、何故だか懐かしさを覚えた。

「ごめん出るね。……あーはい。そう、だね。うん。うんうん。いや? べつにサボってないよ? ほんとに。ちゃんと仕事してるって」

「そういえば、今日は祭りの日だったな」

「まつり?」

 責められているらしい、薄っぺらい否定の言葉を繰り返すエフは、焦ったような表情で二人をちらちらと見たり、目を離したりしている。

「ちゃんとしてるよ! 今だって、ひとり案内していて──わ、わかったよ、そっちいくって! ほ、ほんとだよ!」

 エフは短く叫んで、ため息をつきながら電話を離した。

「……叱られちゃった。向こう、人手が足りないんだって」

「じぶん、ちゃんと案内されてるのに」

「そうだよねシュンさん! わかってるぅ」

「しゅんのことはこちらが案内するから、そちらは向こうに行くといい。」

 焦ったり、喜んだり、最後はラディアの言葉に固まったりで、エフは忙しい。

「……で、でもな~」

「忙しさで苦しいだろうが、これ以上行動を一緒にすると、家に入れさせてもらえなくなるぞ。はやく行ったほうがいい。」

「ぐ、ぐにゅにゅ……!」

「ぐにゅっても無駄だ」

 本気で嫌そうに顔をしかめて、救いを求めるような目でラディアを数回見た後、諦めがついたらしい。

 エフは息をこぼして、笑顔でシュンの隣に立つと、

「それじゃあ、あとは色々がんばってね。シュンさん」

「ああ、うん。こちらこそありがとう」

「これ、応援ね。ボク、この街にいるから」

 大きな耳で頭を撫でられて、シュンはなんだか不思議な気分になる。ぽんぽんと軽く触られると、来た道を走って行き、

「またこんど会おうねー!」

「お達者でー」

 手を振って叫ぶエフに、シュンも言葉と手を振り返した。足が速い、もう背中が見えない。

 ちらりとラディアのほうを見やると、既に歩き始めていた。マイペースが過ぎる彼に、シュンは小走りで隣へ向かう。

「は、はやいよラディアさん。余韻がないね」

「はやく山羊に会いたい」

「友人より山羊優先なんだ……」

 エフが表情豊かなのと対照的に、ラディアは無表情で言葉(もの)を言うので、何を考えているのかわからない。

 なんだか共通の友人が抜けたような感覚だ。じっと並んで歩いていると、特に彼からは何も切り出さないのでシュンから何か言うことにする。

「……ラディアさんも、あの耳でもふもふされたことある?」

「ある」

「あるんだ」

「けっこうすきだ」

 意外と言葉が返ってきて、シュンは驚いた。様々なものに厳しい性格なのかと思ったが、単純に素直なのかもしれない。

「あいつの中の規則的なもので、子ども相手には別れ際にああしているらしい」

「そんなふうなんだ」

「そんなふうだ。会いたかったら迷子になっているか、喫茶店などの菓子のある店に行くと、たいてい会える」

「へぇ~」

 余韻が無いのは頻繁に会うからなのだろうと、シュンは納得した声を出す。

 そんなふうに二人は進むが、話題がなくなり話はそこで終わる。空気はどっちつかずの意味でとまったまま、それぞれはそれぞれに視線を向け始めた。

 シュンはさっきのことを思い出しながら、「そういえば、」と声に出し、

「今日はなんか、お祭りがあるの?」

「ああ、そうだな」

「エフさんはなんか、それの係か何かってこと?」

「そうだ」

 なんだか無関心そうに答えるラディアに、シュンはどんどん疑問が沸き上がるので質問をしていく。

「なんのお祭りをしているの?」

「異境の旅人を祝福する祭りだ」

「冒険してる人を祝ってるの?」

「……あまりこの祭りに詳しくないので、いずれ詳しいのに訊くといい」

 ちらりとシュンの目を見て、ラディアは困ったように言った。

「ラディアさんでも、知らないことあるんだね」

「なんでも堪能なのは、いずれ狂うと思っている」

「……目が赤くなるってこと?」

「あかくなりたくない」

「なるほど?」

 シュンはなんとなくな相槌を打つ。エフとしていた会話、若返りたいと言っていたこととなにか繋がるだろうか。

「失礼かもしれないけどさ、」

「なんだ」

「ラディアさんって今いくつなの?」

 特に断りをされなかったのでシュンは素直に訊いた。

 ラディアは意外にすぐに答える。

「おぼえてない」

「それくらい、長く生きているの?」

 異世界なのだしとんでもない長寿の種族がいてもおかしくないと、シュンのファンタジー脳はあっさりと納得した。魔法もあるのだから。

「長く生きていると、年齢なんて飾りどころかまがいものになる。真面目に数えていると狂う」

「たしかに、節分がこわくなりそう」

「せつぶん?」

 今度はラディアがシュンの言葉を聞き返す。

「故郷の、自分の年齢分の豆を食べる行事だよ」

「それは……狂うな」

「でしょ」

 シュンは、苦笑交じりに言うラディアを見て笑った。それからラディアの目をじっと見て、

「ラディアさんって、もともとはどんな色をしていたの?」

 関心のままについて出た言葉が、少年の歩を止めた。

「あ、よくなかった……?」

「……いや、そんなことはない。あまりおぼえていないので、」

 後悔を感じ始めるシュンに、ラディアはそんなシュンの目を見返して、微笑むと、


「言語道断のあおをしていたとだけ、言っておく」


 また形の曖昧で、的確らしい言葉を答えにした。


     *


 心地よい風の吹く昼時。

 幅の広い、静かな流れの水路のほとり、堤防を越えるための階段に二人は腰を下ろして休憩中。シュンはこの世界について、ラディアにちらちらと教えてもらっていた。

「ここって、トペリっていう名前の町なんだよね?」

「そうだ」

「町っていうからには、なんていう国の中にあるの?」

 春なのだろうか。太陽の光があたたかい。

「国ではないな。元は小さな王国だったのだが、外交で諸外国ととある【契約】をして、なんやかんや安定的な情勢になったので国を主張しなくなった。なので、まち、という括りで呼ぶのが一般的になった。」

「とあるとなんやかんやが気になるね」

「今日は暖かくて天気もよくて、眠くなる」

 頭があまり働かないのか、ラディアは目をこすりながら懐から煙管を取り出すと、

「なので、少し吸っていいか」

「……なんの関係性が?」

「こちらは喫煙すると目が冴える性質だ。それに、そちらの健康に害はない」

「いちおう大丈夫、だよ」

 目をぱちぱちとしながら、手際よく喫煙の準備をするラディアをシュンは観察する。

 ラディアは、極めて自然な動作でぱちんと指を鳴らして炎を繰り出すと、それを煙管の雁首に薄く重ねて、煙管の中のものを静かに堪能した。

 煙をゆっくりと吐き出して、数回瞬きを繰り返すと、

「──、それで、なんだったか」

「ラディアさんのそれは、魔法?」

「どれがだ」

「指パッチンで炎だすやつ」

「魔法じゃない、ただの契約のための炎だ」

「契約の……?」

 もう一度吸い込み、吐く。

「さっきの、【契約】をする際に必要な炎だ。紙に書いた内容と、本人の直筆による署名をした後に、この炎で燃やすことで【契約】は成立する。」

「その割には喫煙に利用するんだね」

「普通の火にもなる。おかげで着火具も油も生活に必要ない。念じれば燃やすものも指定でき、炎の温度も変えられる」

「便利すぎない? やっぱり魔法じゃないのそれ」

「……。」

 ラディアは言葉に詰まったのか、シュンから視線をそらして、再度吸い口を咥え、一服を済ませると

「……まほうかもしれん」

「どっちなの」

「多分魔法だ」

「じゃあ、ラディアさんは、魔法使い?」

「そうかも」

 なんだかまたどっちつかずの話をして、煙管の片づけをする。

 その横顔を見つめ、シュンはきらきらとした視線でラディアに言った。

「じぶんも魔法つかいたい!」

「こちらの魔法は理論じゃない。教えるのは無理だ」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、シュンの期待が一気に冷やされる。嫌な雰囲気の興奮がシュンの背筋を伝った。

「む、むしろ理論とか、学問的? な魔法もあるんですか?」

「感覚的なものが魔法、ある程度筋の通ったものが魔術、といった印象だ。トペリは前者で自身の力を活かすのが多いな」

「その、後者の魔法ならじぶんもできる?」

「いや、無理そうだ。なんだか」

「え?」

 容赦なく切り捨てるように、かつ曖昧に否定されて、シュンはわっと頭に血が上ると、

「は、なに? 無理そうって。まだやってもないじゃんか」

「そんなに魔法が使いたいのか」

「つかいたいだろ! ふつう! こどもはみんな、つかいたいだろ!」

「そ、そうか」

 叫んだ拍子にラディアが困惑しているのをよそに、シュンは衝動のまま立ち上がり、堤防の階段をくだる。そのまま川の縁に沿うようにある、薄い草地を歩いていくと、

「行こう、ラディアさん。日本の(ジャパニーズ・)伝統的な(トラディショナル)魔法(・マジック)を見せてあげるよ」

「何を言っているのかわからんが、そっちじゃないぞ」

「……。」

 ラディアの指摘にそそくさと方向変換をし、何事もなかったかのように平たい石を探す。

 ただ川の周辺は整備されており、ちっぽけな小石しか見当たらない。そもそもこの川自体、ごろごろとした丸っこい石がそこら中に落ちているという雰囲気ではない。

「しゅん? 何を探している?」

 ラディアはシュンを追いかけながら訊いた。

「石だよ。手のひらサイズの、できるだけ平べったいやつ」

「自然の河川などではないのだから、ここにはあまりないと思うが」

「えぇ?」

 苛ついた様子で、けれどもなんとなくそう察していた諦観もあって、シュンはラディアの言葉にすぐさま振り返る。

「ここはトペリの運搬用水路、すなわち運河だ。」

「運河ってあの、給水や物資を船に乗せて運ぶなどの目的のために、人工的に造った水路ってこと?」

「なんで文盲なのにそういう知識はあるんだ」

 地面に腰を下ろして、小さな石を持ったり落としたりしているシュンにラディアは追いつき、隣で腰を下ろして不思議そうにシュンを見る。

「どうりで石子しかないわけだ。川の流れに運搬されて、年月をかけてすり減った丸っこい川の石が恋しい……」

「……」

 ため息をついて立ち上がり、とぼとぼと歩き出すシュン。先ほどと同じ疑問を脳内で復唱しながらラディアはついていく。

「しゅんは、石が好きなのか?」

「好きかと言われたら、どうだろう」

 たわいのない話をする雰囲気に戻って、二人は歩いた。

 しばらくどうでもいい話をしたりしなかったりして、堤防を登って工場のような雰囲気の広い場所に出る。くすんだ金属のようなにおいが漂う中、それでもどこでも人は少ない。祭りの影響だろうか。

「ラディアさんって、火を出す以外の魔法使えるの?」

 シュンはふっと、なんとなく思い浮かんで、さっきの話を蒸し返す。

「使えない。こちらが貰った力は炎のだけだ」

「誰にもらったの?」

 ラディアはぼんやり遠くの空を眺めながら、

「……親だな」

「それは、魔法は遺伝する的な」

「あまり詳しくないが、こちらの魔法は特殊で、【契約】を護るためにある」

「まもる?」

「ああ」

 滑らかに話を続ける。

「【契約】のことを少し深く言うと、あれは始祖のつくった人工概念だ。【契約】を交わし合った者は、内容によっては拘束し、また拘束される。世界を変えるような、重いものだ」

「破ると火傷するんだっけ」

「そうだ。だので、不公平な契約を生まないために、こちらが番人として契る者を見張っている。それがこちらの仕事だ。」

 その真っ直ぐな声音には、シュンへ公平を伝える義務感と重い責任が含まれていた。

「……その割には、一方的だったような」

「それはそちらが文盲なのが悪い」

「いろいろ納得いかないけど」

「いろいろあやしいのも悪い」

 ついさっきの出来事は、単純にシュンの運がなかっただけだろうと、二人は思いながら言い合う。

「あと、ほんとうに些細なことだが、信用のおけない人物に実名を明かすのもやめておいたほうがいい。」

「それはどうして?」

 雰囲気は一歩下がって、ラディアは答えた。

「始祖の遺物が最近みつかったらしい。それがかなり特殊な筆で、【契約】の本人の直筆署名の部分を他人が代わりに書くことができるという。始祖がなにを考えてそれをつくったのか憶えていないが、その筆は現在行方知らずになっているらしい。」

「なるほど、こわいね」

「まぁ、この世にひとつしかないものだが」

 さらりとした手触りの小さな警鐘に感謝しつつ、シュンはふと彼の杖に視線を向ける。瓶の中の二藍の炎は確か、契約をする際に必要だと言っていた。シュンは「そういえば」と切り出し、

「あの火は、ラディアさんにしか出せないってこと?」

「【契約】がそこらじゅうでされたら、なんか大変なことになるからな。そういうことだ」

「そういう、ことか」

 ふわふわとした曖昧な言い方をするので、シュンは首をかしげながらなんとなく飲み込む。この概念をのさばらしにすると、あまりよろしくないといった理解はした。

「ちなみに、シソってのは? つま?」

「それは紫蘇だ。こちらが言ったのは一番最初の人間という意味での始祖だ。」

「ああ、始祖鳥のシソね」

 自身の知っていることを相手も知っていることがあることに、シュンは少しだけ安心感を覚える。

「──ちなみに、じぶんの母国のさいしょは葦だったらしいよ」

「ぁ……? あし?」

「うん」

 調子に乗っておかしなことを言うシュンに、ラディアは立ち止まって下を向き、シュンもそれに合わせて彼の足を見る。

 揃って何とも言えない顔を上げて、見合わせて、妙な空気が流れた。


     *


 工場の景色も段々広く、大胆になってきた。骨組みの辺が立方体や直方体の輪郭をつくり、積みあがっているといった風景だ。その形ごとに様々な錆びた機械が入っており、至るところに階段や梯子、配管、煙突が伸びている。

 付近は先ほどの通りより人がちらちらといた。

「山羊はこの付近だ」

「こんな人間臭さ百パーセントみたいなところに……?」

 植物と共生していると言っていいほど建造物に複雑に絡みついた街並みは、完全に人工物の世界とは言えないとシュンは気付くが、それにしてもこんなところに山羊がいるとは到底思えない。

 そう思いながらしばらくラディアについていくと、

「ほらしゅん、山羊だ」

 ──やけに違和感のあるぽっかりとあいた草地に、山羊たちはいた。

 都会で例えるなら、背の高いビル群の中に緑地がぽつんと混じっているような、そんな景色の中だった。

 柵の中で能天気に草を食む三匹ほどの山羊たちに、ラディアは真っ直ぐに向かっていく。柵に腕を乗せて、彼らのむしゃむしゃと咀嚼する姿をじっと見る後ろ姿は、動物好きの子どもに等しい。

 シュンはその後ろ姿の、特にフードから生えているそれと山羊を交互に見ながら訊く。

「ラディアさんって、やぎが好きだから角つけてるの?」

「何も関係ない」

「あれ、そうなの」

 山羊への好意を象徴したものかと勝手に推察するが、振り払うような言い方の答えに、シュンは呆気にとられる。恣意的に動き、柵越しに近くにいる山羊を見つめ、少年は腰を下ろす。

 しばらくシュンも遠くの山羊をぼうっと観察しつつ、のんびりとした雰囲気にすぐに飽きてラディアに近づくと、

「それにしても、やぎが好きなのってなんだか意外──、なんか食わせとる!」

「あまり大きい声を出すな」

 ラディアはただただ淡々と紙を山羊に捧げていた。紙をよく見ると、シュンのつくった紙飛行機である。

 シュンはその様子を見ながら、純粋な疑問を真っ直ぐに少年に向ける。

「あれほど契約が大事なものとか話しておいて、人のもの山羊に食わす性格だったの……?」

「その割にそちら、これのことをカスなど言っていたではないか」

「確かにじぶんにとっては手紙でありながら読めないっていう本末転倒のゴミカスだけど、いずれ文字の問題は解決すると思わない? 流石に読めるようにはするよ?」

 白黒つかない灰色の山羊はもちゃもちゃと手紙の咀嚼と嚥下を繰り返している。童謡で知ったような光景だ。

「いや、これに関してそちらは文盲でいることに感謝したほうがいい。この手紙の内容は知らないほうがいいし、この手紙は存在しないほうがいい。」

「何が書いてあったんだよ」

「文盲に利点があってよかったな」

 特に馬鹿にするわけでもない言い方なので、何を思えばいいのかシュンは困った。

 山羊が手紙をまるまると完食したところで、満足げに高らかに鳴くと、

「ちょっとちょっと? あなたたちなにしてるの?」

 明らかに山羊の管理をしているらしき繋ぎ姿の青年が声をかけてきた。シュンは小さくあっと声を上げて、ラディアからすこし距離を取ってよそ見をする。ラディアはなんの動揺も見せず、じっと青年のほうを見ていた。

「ラディアさんは普段こんなことしないでしょう……? 勝手に紙を与えないでくださいよ」

「しかし、そちらも子どもたちの前で山羊に紙を与えているではないか」

「あれはヒツジとヤギの違いについて、動物に関心を持ってもらいたくてこどもたちに解説しているんです。ぼくが言ってるのは無関係な人が勝手に紙を与えるのをやめてくださいってことですよ。なんか手紙とかなんとか知りませんけど、書かれた文字の、鉛塊とかヤギの体に悪いんですからねぇ」

「あまりこちらは注意されないので、わすれていたな」

「こっちもまさかラディアさんがやらかすとは思ってなかったですよ」

 とぼけたようなラディアと、よほど勝手に山羊に紙を与えられているらしい青年の二人だけの世界を残して、シュンは手紙を食べてしまった山羊の顔を屈んで見つめる。無関係者の顔をしながら。

「それにしても、教育の一環として紙を与えるところを見せるというのは、勝手に紙を与えられる要因になるのではないか?」

「それに関してはぼくも四年くらい悩んでるんですよ」

 山羊が柵の隙間から首を伸ばし、シュンの腹部辺りでふらふらと頭を動かしている。シュンは二人と山羊を交互に意識して、妙な緊張感に包まれた。

「こどもたちに好奇心を持ってほしいんですけどねぇ。それが逆に悪さしてるっていうか」

「ふむ、この状況があまりよろしくないのなら、もっと厳しく対策すべきだろう」

「ですよねぇ。はぁ」

 なんだか口先を細かく動かして、山羊はシュンのポケットからボロボロになった封筒を引きずり出した。シュンは思わず「ぁ」と声を上げる。

 横目で二人を見て、山羊から紙を引きはがそうとしつつ、シュンは言い訳を考える。

「対策って言ってもなんんも思いつかないですよ。大体やるのは子どもたちなので、罰金とか払えないし」

「根絶は難しいだろう。簡単に張り紙などで注意喚起してみたらどうだ。好奇心をあおる可能性もあるが、多少なりとも情報は抑止力になる」

「え、ラディアさんが張り紙作ってくれたりするんですか」

「いやしないが」

 周囲に草が生えているのにも関わらず、山羊は紙に夢中だ。焦って引きちぎった紙の屑が地面に散らばる。

 これでは逆に紙を与えた痕跡となって、ばれてしまう。幸いにも二人には何故かまだ認識されておらず、青年もおそらく文字などのインク等が身体に悪いと言っていたらしいので、シュンは山羊に封筒のすべてを与えて証拠隠滅することへと舵を切った。

「いまの完全に宣伝文句でしたよ?」

「宣伝などするわけがない。働きたくない。」

「でもあなたヤギに紙与えてましたよね」

「そちらが注意書きを貼っていないのが悪い。」

 どうやらこの山羊は紙を与えられ慣れているというか、紙が好きなようだ。差し出した紙屑が着実に手元から失われる光景に、シュンは徐々に安心していく。

「でも手紙の処理していたじゃないですか。前科ですよこれ」

「はぁ……、仕方がない。納期と案を後で連絡してくれ」

「助かりますよぉ。ぼくもいろいろ試してみようと思います」

 細かい紙くずを山羊に与え終わったところで、ラディアがシュンの肩に触れた。

「山羊とはどうだ」

「えぁ、あ、ああ! ちゃんとものすごいとてもめちゃくちゃ仲良く戯れてましたよ!?」

「なにをそんなに驚く必要がある」

 思わず心臓が飛び跳ねたような心地がして、シュンはつい声を荒げてしまう。

「うちの子たちかわいいでしょ」

「いやぁほんとに、こんな間近に来るもんなんですねぇあはは」

 冷や汗を浮かべながら必死に作り笑いをして、シュンは山羊と青年を交互に見る。山羊は物足りなさそうに草を食んでいた。

「そろそろ行くか、しゅん」

「あ、うん」

「またいつでものんびりしにきてねぇ」

 笑って手を振る青年にシュンは礼を言って、二人は山羊たちを後にした。

 笑顔で見送ってくれる青年が見えなくなりしばらくしたところで、二人は疲れたような表情を見せあう。

「仕事が増えたな……」

「……そうなの?」

「ああ」

 シュンはシュンで、よく考えれば封筒自体にも糊付けがされていたので、山羊の体に悪いかもしれないと後悔しだす。正直に言ったほうが山羊の身のためだったかもしれない。

「……ラディアさんはどうして手紙食わせちゃったの?」

「嫌がらせだ。書いた人物に対する」

「独特なやり方だね」

「このやり方はお勧めしない」

 何があったのか深く聞く気力はなかった。

 結局癒されるものとは正反対のことを摂取した二人は深い息をつきながら歩く。周囲にも人が増えてきた。

「そういえば、この辺りは名所だったな」

「……めいしょ?」

 ラディアの独り言に、シュンが関心を示す。曲がり角を行って、その意味がよくわかった。

 段々になる立体の建築群を裂くような通りのずっと先に、時計塔がある。周囲の建築物が半円を描くようにできており、そのおよそ中心にそれがそびえているため、シュンは計算されたような景色に思わず息を呑んだ。

 しかし空まで届くような高い塔の頭頂部はなんだか歪で、崩れているようだ。

「──時計塔が、欠けているな」

「前々からじゃないんだ」

「街の象徴なのだから、かなりの大ごとのはずだ。そういった情報はすぐ回ってくるので、あそこが崩れたのは昨日や今日ほどの、つい最近だろう。」

 言葉にただならぬ雰囲気を感じて、シュンはラディアの方を向く。

「事件かな」

「事故でも事件でも、この時期にこういうのはよくあることだ。気を付けたほうがいい」

「そうなんだ」

 他人事のように言って、あっさりと関心は尽きたらしく彼は言う。

「今日は人が多いな」

 人々の間を縫いながら二人は進む。

「今日がお祭りだから?」

「だろう」

「祭りってどういうことをするの?」

「基本は駅前の大通りで屋台が出たり、有名な劇団が来て劇をするなどだ。そうしてこの日はとんでもなく観光客が来る。この辺りは名所なので特にだな」

トペリ(このまち)は、有名なところなの?」

「有名と言えば、そうだろうな」

 ふわりとした答えに、シュンはふうんとふわり返す。

 人ごみからあけて、建物の背が少し低くなったところで、遠くに時計塔よりも背の低いもうひとつの塔が見える。時計塔は真っ直ぐ、その役目を周囲にはっきりと示すような立ち姿だが、その塔は様々な物体が乱雑にくっついており、一見して機能がわからない見た目をしていた。

「ラディアさん、あの時計塔の隣にある建物はなに?」

「王宮という名で、この街の中心機関だ」

「そういえば、もともと王国なんだっけ。その名残って感じ?」

「そうだな」

「何をしているところなの?」

 興味津々なシュンからラディアは視線を合わせず、腕を組みながら数秒間を置くと、

「街の治安維持や軽い(まつりごと)……、簡単にまとめれば街の面倒事の掃除役だな」

「警察署と国会が一緒になってるって感じ?」

「ここでの警察は騎士と呼ばれているな。あの中には騎士団と政所に加え、宗教施設と孤児院と保健所などがある。」

「ショッピングモールかなにか?」

 ラディアのすらすらとした説明の中の、掃除役にしては規模が大きく、意外に多い情報量にシュンは頭がくらくらしそうになる。

「なんだそれは」

「地元にある、いろんなお店が集まってできてる複合施設のことだよ」

「便利そうだな」

「すごい便利だよ」

 疲れない、内容のない話を再開して、二人はゆっくりと目的地へ向かうのだった。


   三


 太陽がちょうど空を登りきった時間帯。

 活気づいた街の中は色とりどりの花で飾られており、なんだか気分が回復してきた。シュンはきらきらとした赤い瞳で、周囲の様子を眺める。

「ラディアさんはお祭り、いかないの?」

「雑踏は苦手だ」

「あー、人が多いんだっけ」

 この世界の祭りというのを少しだけ見ていきたい気分はあったが、今は他人に迷惑をかけたくない気持ちが強い。シュンは歩きながら伸びをして、善処に勤めることとする。

 そう切り替えた途端、腹から気の抜けた音が自己主張を始め、シュンは咄嗟に両腕で腹部をおさえる。思わず二人とも足を止める。

「……あの──」

「何か奢ってやる。」

 羞恥心で目をそらすシュンの姿を、ラディアはじっと見つめながら、特に表情を変えずに言った。

「おご……え?」

「近くにいい店がある。ついでに紹介しよう」

「いや、悪いよ……」

「訳あって多くの人に行きつけてほしい店だ。こちらのほうが悪い」

 ひょんなことを言われて困惑するシュンに構わずラディアは歩き出す。

「ど、どういうわけ……?」

「話すと長くなりそうな訳だ」

 斯くして、ラディアの行きつけの店とやらに向かうこととなった。


     *


「ほら、しゅん。買ってきた」

 ぼうっと通りを眺めていたところ、ラディアが紙袋を見せびらかしながら声をかける。

 この世界の文字も読めず、食べ物も知らないので注文はラディアにすべて投げて、シュンは建物の壁に背を預けて座って待っていたところだった。

 ラディアがシュンの隣に座って、紙袋の中のものをごそごそと取り出そうとする。

「どっちがいい」

「なにがあるの?」

「パンに野菜など挟んだものと、蜥蜴の丸焼き」

「ぱ、パンがいい」

 シュンは後者の怪しさから逃れるように即答した。

「ほら」

「ありがとう」

 ラディアからもらったそれは、茶色い薄い紙で食べやすいように挟まれており、一見するとサンドイッチに似ている。意外に厚く、重なったパンの隙間から緑がはみ出しているボリューミーな一品。

「では、いただきます。……いつかお返しするね」

「別にいい」

 ちらりと横を向くと、ラディアは既にもごもごと口を動かし蜥蜴を食していた。腹のふっくらした大きな蜥蜴を、口から腹にかけて串で貫きまるまる焼いたと思われる、ボリューミーな一品──

「……」

 シュンは初めて、異世界と自国の食文化の乖離を認識する。

「なんだ」

「いや? なんでもないよ?」

 この感情の正体は軽い絶望に近いが、シュンはそれを特に認知せず自身のもっているそれに向き直る。

 シュンはそのサンドイッチにかぶりつくと、

「ん、おいひぃ」

 久しぶりの食物を口に含みながら感想を述べる。簡素な野菜のサンドイッチなのかと思えば、中に入っている調味料が味蕾を高揚させたことによる意外から出た言葉だ。

「ならよかった」

「知らない味がする。けっこうすき」

「であれば、そこの店の常連になってくれるとうれしい」

 ラディアが蜥蜴の足を口で引きちぎった後に言う。

「なんか、さっきもだけど、どうしてそんなにオススメるの?」

「これがすきだからだ。しかし、店の経営困難などで食えなくなるのが困るので、色々な奴に隙があれば勧めるようにしている。」

「そういうワケね」

 納得の返事をしつつ、シュンは再度かぶりつく。

「これを売っている場所があまりなくてだな……そこの店ではないが、一回、これを含めた様々な生物の肉を売っている商社が不祥事を起こした際に、様々あってこれが食えなくなった時がこわかった」

「それは原因が経営不振というより、企業側のやらかしなんじゃ……?」

「それでも物は買わなくては売ってくれない。こちらのそちらに対する欲をもっと深く言えば、たとえ提供側が軽いやらかしをしても反省を信じて買ってほしいという思考だ。無論、その失敗がそちらの精神、価値観にそぐわないことであれば無理にとは言わない。」

「確かに好物が食べられないのは、楽しみが減っちゃうね」

「んむ」

 シュンはラディアの話にすっきり納得しつつ、美味を頬張る。美味しい食事を摂るというのに、安心感と楽しさがあることをぼんやりと認識した。

 少年は少年で、蜥蜴の四肢を丁寧に引きちぎる惨い食し方をしている。シュンはあまり見ないようにする。

「ちなみに……それは、どういう味なの?」

 しかし視線では見ないようにしながらも、好奇心はそれをじっとそれを見つめていた。

「今度食ってみるといい」

「おお、ドストレートな宣伝……」

「味というのを伝えるのなら、食わせるのが最も手っ取り早い。」

 蜥蜴の前足を咥えながら、にやりと口角を上げて言うラディアに、シュンは「ごもっともです」とサンドイッチに噛みつきながら返す。

 すっかり昼食を食べ終えて、再出発をしようとするとき、シュンはなんとなく思いついた好奇心を軽い気持ちでラディアに向けると、

「ちなみに、そこは何をやらかしたの?」

「人倫のはずれに抵触した。」

「あっ……」

 淡々と放たれた回答に、なんとなくピンと内容の予想がついて、これ以上は触れないこととした。

 半ズボンについた目に見えないほこりを手で払い、シュンは少年のもとへと向かう。ふと、ラディアがシュンの元いた場所に目を落とした。

「しゅん、なにか落としたぞ」

「あれ」

 ラディアがそれのもとへ歩き、手を伸ばして拾い上げ、シュンに差し出す。

「ほら」

「うわぁ! なんか腰が軽いなと思ったら……マジでありがとうラディアさん」

「そんなに大切なものなのか?」

 少年に深く感謝し、スマートフォンの土ぼこりを執拗に払い、息を吹きかけたシュンはそれを懐に戻す。どう答えるかの思考の時間でもあった。

「命と同等、もしくはそれ以上だね」

「ただの連絡機器に見えたが」

「確かに電話も言葉のやりとりもできるし、ネットに繫げば辞書や事典にもなるし、買い物もできるしカメラもあるし、なにより娯楽がある」

「なんでそんなもの持っているんだ。便利なようだが、別に命とはまた別のものではないか……?」

「ちがうよ」

 困惑するラディアに、シュンは言葉を重ねに重ねる。

「人生においての強い希望や目標を見いだせなかったうすっぺらいじぶんが、それを介して雑な目で世間を見てソシャゲの推しで必死に豊かさを得るための道具だよ。もうこれがないと、生きていけないんだ。」

「何を言っているのか理解できないが、むなしくなりそうなことを言うな。」

 シュンは自分で言っておきながら卑屈な客観性を感じていたので、返ってきた言葉通りになんとなくな納得をしておいた。

「でも実際じぶんにはなんにもないからさ、それを埋めてくれるって意味で依存かもなぁ」

「道具も人に使われるので依存する」

「じゃあ共依存だ」

 二人は歩き出しながら、くだらない会話を続ける。

「しかし、理想や尊い将来のためになにか目標を掲げる必要はないと思うが」

「享楽思想ってこと?」

「ん……、あぁ、こちらが言いたいのは、よりよい人生というのは大きい目標などで成り立っているわけではないだろう、ということ。」

 話がなんだか入り組んできた。揃って立ち止まり、難しい顔を見合わせる。

「確かにそれだけで成り立っているわけじゃないだろうけど」

「意外と世の中はなんとなくで回っているものだ。未来について深く考える必要は、あんまりない。」

「未来について、というよりかはなぁ……」

「なんだ」

 シュンのその三点リーダー(沈黙)は飲み込みにくい、というよりは差し出されたものが想定より違う着地点だったという意味だ。

 腕を組んでどう答えるか唸りながら、シュンは歩き出す。ラディアは神妙な顔つきでそれについていく。

「……お風呂に入りながら、じぶんってなんだろうって考えだしたときに、つい長湯してしまうのをやめたいって感じ」

「随分具体的だが、たとえ話でないのなら何も考えずに出ればいいだろう」

「意外とこれがじぶんのなかでは深刻な気がしてならないの。将来の夢とか、じぶんの才能に直結するじゃない?」

「はぁ……」

 ラディアは興味がなさそうに息をつく。この感覚の違いは生きている時間の量と質の差だろうと二人は直感で思いながら、次に吐く言葉を思考する。

「であれば尚更、深く考える必要はないだろう。」

「そうかな」

「深く考えたいのであればそうすればいい。」

「どっちだよ」

「こちらには共感のできない話だ。しゅんがこの先、何を選択し、どう流れたとしても、こちらはなんとも思わないし、思う必要もない。」

「────」

 理解のしたい、しかし難しい言葉を垂れるラディアに、シュンはつい歩を止めた。少年はその二藍を一心に覗かれて、静止を指示されたような感覚になりながら立ち止まり、その赤い瞳をじっと待つ。

「──意外と、てきとうに生きてていいもんなんだなぁ」

「いきなりどうした」

 呟くように言うシュンは、ラディアに向かってふっと笑みを浮かべると、

「じぶんが欲しかった言葉は、それかもしれない」

 てきとうな言葉を口にした。

 ラディアは目をぱちぱちとさせてそれから視線をゆっくりとそらし、「そうか」とだけ呟きながら歩き出した。


     *


 しばらくゆっくり街を眺めながら、シュンはラディアの後をついていく。

 ラディアは知り合いが多い。かなりの頻度で、すれ違った人物に挨拶をしている。当然シュンはそのことを疑問に思い、ラディアに訊いてみると仕事柄なのだそうだ。どういった仕事をしているのか尋ねると、説明が怠い、いずれわかるなどと言って放棄した。

 王宮の広大な庭の横を通り過ぎ、祭りの舞台から少し外れの繁華街らしい、ちらちらと店らしい施設がある通りだった。

「あ、ラディアさーん!」

 また声を掛けられ、二人は声の主のほうへ顔を向けた。

 本屋のような様相の建物の中から、髪を一つ結びにしたエプロン姿の女性が手を振りながらこちらに向かってくる。ラディアは一瞬だけ目を背けた。

「今からお祭りに行くんですか? あら、その子は?」

「孤児だ。こちらは孤児院まで案内しているだけなので、祭りに行く気はない」

 出会った知り合い一人一人に同じような言葉で挨拶しているので、シュンは大変そうだと他人事に思いながらラディアを見る。

「あれ、もったいない。数十年に一度あるかないかの、勇者さまのお祭りなのに」

「ゆうしゃ……?」

「……、こちらは何度も経験済みなので、もう飽きたといったところだ」

 言葉にならない、しかし緊張感を孕んだ一瞥をシュンにしながらラディアは言った。シュンは好奇心を誘う単語を発す女性に視線を向けていて、少年に気づいていない。

「そうだ、あいつは最近どうしている。元気か?」

「え、ラディアさんがおじいちゃんの心配するなんて珍しいですね。最近は調子いいってわけじゃなくて……長い間会ってもいないので、会って元気づけてあげてくれませんか?」

「そこまでの心配じゃない」

「あ、そこまでじゃないんですね」

 シュンはまた二人だけの世界を感じて、空気でも装うように周囲をきょろきょろと見回し始める。ふわふわと飛ぶ翅の黄色い蝶々を見つけ、なんとなく追いかけてみる。

「けれどほら、あれでしょ? ラディアさんは」

「なんだ」

「また今度とかって、いつになるかわからないでしょう? 少しの時間だけでいいから、会ってあげてくれません?」

「…………。」

 少年は珍しく言葉を詰まらせ、思考に時間を費やしている。

 シュンは立ち止まり、そんなラディアを見る。隣にいる人物に説得が上手いななどと部外者らしい高所からの感心と、少年とはどういった関係なのだろうという純粋な関心を抱く。

「……しゅん?」

 案外そんなに時間がかからず、ラディアが口を開き、

「んぁ? はい」

「すこし、寄り道していいか?」

 シュンの目を見つめながら訊いた。

「どうぞ」

「すまない」

「わぁ、おじいちゃん喜びますよ!」

 女性は嬉々とした声を上げながら元いた建物へと向かう。二人はそれについていく。

 建物の前には本がずらりと並んだ棚と、処分のためか建物の端のほうに土の地面の上で山積みになった本たちがある。

「ここは、本屋さん?」

 シュンは独り言のように言った。

「そうよ、本が売ってあるお店」

 女性が拾って、丁寧に答える。

 店内は所狭しと本が置いてある。棚、広い机上、とにかくその「間」を抹殺したように敷き詰められた様々な本を、シュンは気圧されたように眺めていると、

「それでは、そいつを頼む。また蝶など追いかけて迷子になられたら困るので」

「はい、ラディアさんも、よろしくお願いしますね」

 さらりとラディアがシュンを子ども扱いしつつ、店の奥へ行ってしまった。シュンはなんだか眉毛を八の字にさせながら、残った女性のほうを見る。彼女はくすりと笑った。

「ええと、私はヒネっていうの。あなたは?」

「しゅんです。路頭に迷っています」

「シュンちゃんね。待っている間、自由に立ち読みしていていいからね。私はお店の掃除をしているから、何かあったときとかに声をかけてね」

「はーい」

 シュンは判断された強がりを無視されたが、それを無視し眉を戻して返事をする。周囲の関心を吟味したいと思っていたのだ。

 はたきを持って掃除を開始するヒネを横目に、シュンも手当たり次第に本に視線を注がせていく。

 布、丈夫そうな紙、巻物、生き物の革らしきものなど、様々な素材で作られた表紙が立ち並び、日本の書店にある本の完璧な形のひとつひとつというような雰囲気が、ここには一切流れていない。個性豊かな本たちのつくるなんだか気の抜けたようなこの雰囲気と、見事なまでに視覚化された文化の乖離は、シュンの世界をひどく新鮮に見せた。

 なにか適当な本を一つ手に取ってみると、その下にはまた違う本がある。それを戻して、隣の本を手に取ってみる。その下にはやはり別の本がある。どうやら、この店には同じ本が二冊以上はないらしい。個数よりは品ぞろえを優先する主義のようだ。それか、印刷技術がないらしい。

 しかし、字が読めない。当然だが、本の表紙も開いた中身も何が書いてあるのかわからない。シュンはぱらぱらと適当に本をめくりながら、文字が情報を伝える基なのだということを深く理解する。

 とすると、かなり暇だ。図書館や本屋などにいると、表紙だけ眺めていても様々なことを知った気になって楽しいものだったことを思い、文字が読めないことがここまでつまらないことだとは思ってもみなかった。読めない本の表紙、背表紙を眺めながらシュンはどう暇を潰そうか悩む。文盲でも何か、わかるものがいい。

 そんな欲求を抱えながら今持っている本を戻し、シュンは多様な本の表紙を視線で巡る。ふと、とある一冊に目が食いつく。

 表紙に一冊の小鳥が描かれている厚い本だ。紺色の背景に白い輪郭で存在しており、それに関する本だということが解る。文字が読めないのなら興味の湧く要因は絵だけしかないという事実は、なんとも自身を子どもたらしめているなどと考えながら、シュンはその扉を開いた。

 表紙と同様の輪郭だけの風景がある。トペリを遠くから見たようだ、二つの塔と多くの煙突、四角い建物のまち。それといくつかの言葉が添えられてある。

 捲る、表紙にいた小鳥の絵に加えて、様々な種類の鳥が数匹。

 捲る、また鳥の絵。次頁も鳥。

 捲る、今度は魚だ。成長過程を表したような図がある。

 捲る、次は蝶──

「それ、ラディアさんが描いたんだよ。」

 隣からの声に、シュンが「わっ」と声を上げる。

「ああ、ごめん。シュンちゃんがいま見てるのがね」

「いや……、それよりこの本、ラディアさんが?」

「そうなの」

 シュンは本に描かれている絵の前に立っていた偶然と、ヒネの顔を交互に見る。繊細に、鱗のひとつひとつにまで書き込まれた魚の絵は、生きているようだ。

「おじいちゃんとラディアさんがつくった、このまちの図鑑なんだ。景色や生き物、植物、建物の絵は、実際にラディアさんがぜんぶ描いたんだ」

「これを、ぜんぶ?」

「うん。ひどいよね、おじいちゃん」

 ヒネはぺらぺらと分厚い図鑑をめくりながら言う。見た頁はすべて、絵が描きこまれていた。

 すごいよね、というような言葉が出てくるのかと思いきや、反対の方向を向いたヒネの矢印に、シュンは目を丸くする。

「どうしてもラディアさんの描いた絵じゃなきゃ嫌だってわがままに説得し続けて、ラディアさんが折れたらしいの。写画(しゃが)でもなんでも使えばよかったのに」

「すごい執念ですね」

「ほんとに。気持ちはまぁ、わからなくもないけど……、」

 ヒネはなんだか複雑そうな心境を表情で出しながら、頁を捲ると

「この絵が、すきなの。鳥みたいな気持ちになれて」

 とん、と人差し指をそれの手前に置いて言う。

 街を見下ろしたような広大で繊細な景色が、そこには広がっていた。

「私も、正直わくわくしてたんだ。たまにここに絵を持ってくるラディアさんに。見慣れた景色とかも、うまく言えないけれど、特別な気分にさせてくれるの。」

「……」

 ヒネはシュンに微笑みながら言った。シュンもつられて、笑みをこぼす。言葉にはできないが、決して悪いはずがない感動に触れた気がした。

「他には、どんなのがあるんですか?」

「えっとね、私はどれも好きなんだけど、どういうのが見たい?」

「風景とか、生き物とかがあるんでしたっけ」

 彼女は様々な頁を捲って、様々な景色を巡りながら答える。

「うん。あとはざっくりとしたトペリの歴史。たしか教堂のところに、勇者さまのお話が載ってるんだよ。」

「あ」

 ちょうどついさっきシュンの中で引っかかっていた疑問を晴らす機会が舞い降りてきた。思わず声をこぼすシュンを、ヒネが頁を捲る手を止めて見る。

「ん? なにかあった?」

「えっと、ゆうしゃさまっていうのは……?」

「ああ、勇者さまはね、簡単に言うとこの世界を救ってくれる人。はるか遠くの世界からやってきて、この世界の病を治してくれるの。ちょうどいま、勇者さまのためのお祭りをしているのよ」

 言いながら、にぎやかな街の様子の絵をヒネはシュンに見せる。

「こんなふうにね。人混みがすごくて大変よ」

「あー、ラディアさんも言ってました。お祭りは一年に何回くらいでやっているんですか?」

「うーん……、勇者さまがこの世界にやってきたらだけど、とりあえず今回のは、前来たときから数百年くらい経ってるかな」

「えっ」

 なんとなく訊いた問いの答えは、想像以上のものでシュンは思わず固まってしまう。その代わり、人混みがすごいということにとてつもない納得感を感じた。

「でも、また近々やるかも」

「それは、どうして?」

 ぽつりと溢したヒネの言葉に、シュンは訊くが、

「それは私もわかんない。ごめんね、あんまり詳しくないんだ」

 彼女は申し訳なさそうに言って、図鑑を捲る。

「でも、きれいな場所ならいろいろ知ってるよ」

「え、みたいみたい」

 ヒネの差し出した頁にシュンが食らいつくように顔を覗かせる。

 そうして二人は、その図鑑の作者の一人が戻ってくるまで、会話に花を咲かせたのだった。


     *


「はぁ……まさか向こうと話している間に、こちらの絵について話しているとは思わなかった」

「人に見せる用の絵だし、いいじゃん。」

「別に見られたくないわけではないが……はぁ」

 ヒネの見送りが曲がり角によって終わったところで、ラディアが息をついた。彼は人と接するのに苦労する性質らしいと、シュンはその姿を見て思う。

「ラディアさんて普段なにしてるの」

「情報屋だ」

「それってなにしてんの? 裏社会関係?」

「どうしてそうなる」

 疲れが顔に出ている少年にシュンは曲解の軽い言葉を送って、答えを探ろうとする。その平和な企みは思い通りに、ラディアは困惑したような顔をして、仕方がなさそうに口を開いた。

「このまちのほぼほとんどの人物の戸籍的な記録づけ、地区ごとで問題がないかなどの状況把握、記録、共有が主な仕事だな。」

「こうむいんみたい。図鑑はどうして?」

「あれは趣味を勝手に延長させられた……絵や文など、かきものがすきなのは、トペリ(ここ)では隙になるのでやめといたほうがいい。つけこまれる。」

「ダジャレで印象付けるレベルの注意喚起……?」

 言いながらどこか、頭の中がふわふわしていそうな様子に見えたので、シュンはその姿を尊重して話題を変えようと思い立つ。

「と、ところでラディアさん」

「なんだ」

「さっき色々教えてもらう途中で、勇者について話題が出てさ。ラディアさんは何か知ってないかなって」

 視線をそのまま慎重にラディアの方へ向けながらシュンは言った。彼は二藍の瞳をゆったりとシュンに向け、そのままの表情で、

「訊き返すので悪いが、何故知りたい?」

「言葉が悪いかもしれないけど、あんまりヒネさんが詳しくなかったのと、単純な好奇心。」

「だとしたら悪いが、こちらもあまり詳しくない。他をあたれ。」

 ばっさりとシュンの好奇心を切り捨て、前へ向き直る。

 シュンはその言葉に、むずむずと表情を動かしながら返答の言葉を喉奥にて探る。この煩わしい感情の原因は、この少年と隔たれた際に生まれたものだった。

「……狂うから?」

「そうだ」

「その割に図鑑の内容は充実してたね」

「……あれのことはよく憶えていない」

 少年はなんだか懐かしむように、また苦でも示すかのように目を細めながら答える。その目をシュンはじっくりと見つめながら、

「ラディアさん、嘘ついてない?」

 立ち止まり、これまで気にも留めなかった場所で勝手に膨らんでいたそれを、簡単に露呈した。

「何故そう思う。」

 少し遅れて立ち止まったラディアが、変わらぬ無表情のまま問い返す。

「嘘というか、隠し事? なんか色々はっきり言わないし、どこからかなんだか地に足つかない感じがする。」

「『なんか』やら『どこから』やら『なんだか』など押しつけられても困る。もっと具体的にしてから話せ。」

「そうだなぁ」

 あまりくどいようなことはしたくないと思いながら、シュンは記憶を探った。

「契約のさせ方が誘導的というか、あれは単純に自分が悪いけど」

「そうだな」

「魔法の話も曖昧に否定されたし」

「専門ではないので」

「あ、やぎに手紙食わせたのはなんだったの?」

「そんなことあっただろうか」

「そうだよ、手紙!」

 はっきりとした違和感の元凶的な何かを見出して、シュンはぽんと手を叩いて叫ぶ。

「あれ、実際は何だったの?」

「もうおぼえてない」

「たった一行ぽっちの内容忘れたの?」

「年だからな」

 のらりくらりと向けられた疑問符を躱し続けるラディアに、シュンは少しずつ苛立ちを募らせていく。

「便利な年齢だね」

「トペリが生まれる前から生きているからな」

「だったら尚更知ってるでしょ……」

「そうでもない。記憶というのは重ねるほど、過去のものが抜け落ちてしまうものだ」

 言いながら、気を取り直してとでも背中で呟くようにラディアは歩き出した。

 シュンはそれを追いかけず、

「だとしたら、たった一、二時間ほど前の出来事を忘れるのはありえないよ。はっきり答えるまで、じぶんは動かない」

 頭の中で何がそうしたのかわからなかったが、赤い瞳を真っ直ぐに彼へ向けて、突き刺すように鋭い声音で繰り出した。

 少年は固まる。シュンが自身のことが我儘であることを理解しながら、それでもついさっきの【契約】を利用したからだ。

「ここまで色々教えてもらってなんだけどさ、その部分がいま猛烈に引っかかってるんだ。ラディアさんを悪い人だと思わないし、思う気もないけど、疑いたくないよ。たったの短い間だけどさ、根っから大切だっていうことは教えてほしいんだ。」

「……随分と傲慢な言い方だな。しかし、その原因がこちらにあるのも自覚している」

 ラディアはゆったりと振り返り、気怠そうに息をついてからシュンを見る。

「手紙の件だったか、」

「うん。」

「さっきも言った通り、知らなくてもいいこと……いや、知らないほうがいいことだ。」

 二藍は真っ赤な瞳を射貫くようだった。

「そこまで?」

「ふむ」

 それは純粋な疑念を晴らすための返事なのか、それとも彼自身に向いた鳴き声なのか、ちょうど境界に位置していた。

「……そちらのため、と考えていたが、どうやらこちらも恣意的な感情でそちらに無知を押しつけているような、感覚がわいてきた。」

 ラディアは額に指を当てながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだす。

 薄く開いた二藍が微妙に赤い濃度を増していた。

「しかし、この件について答えを出すとすれば、こちらは、詳細を何も言いたくない。それだけだ。」

「……え」

「そちらの期待違いの言葉で申し訳ないが、諦めてくれ。これ以上の言葉は、詳細を伝えるよりもそちらの説得となる。」

「ぇ、あ……あれ。」

 目的の内容を聞き出せずに、目をぱちぱちさせて困惑するシュン。予想以上に萎んでいる割にはその恣意性を貫く少年に問いかける。

「それは、どうして……?」

「こちらの感情的な問題だ。それしか言えない。しゅんの抱いている疑問、関心は、こちらではない人物に訊いてほしい。掘り起こすには、言葉にするには、複雑すぎる。」

「……。」

 諭すようにラディアは言い、シュンの腕を掴んで歩き出す。

 まるで自分が悪者みたいだと子どもじみた焦燥を若干肌におぼえたので、シュンはそのまま引っ張られる形になる。

「そんなにマズいこときいた……?」

「こちらにとってはな。それと、内容のよく知らない【契約】を差し出して脅すような真似もやめたほうがいい、今のそちらに限定する話だとは思うが。結局そちらから離れれば再度迷子になるだけだ。」

「ああ、はい……。」

 なんだかんだ企みを見透かされていたようで、シュンはその心に恥ずかしさが乗せられる。少年の隣を歩きさらりと顔を覗くと、特に何の変哲もないゆるい無表情があった。それにシュンは、安心も不安も感じるのだった。

「……ラディアさんってさ、」

 その曖昧さを覆い隠したい気持ちが、シュンを熱心に動かす。ラディアが「ん。」と簡単に返事を済ませた。

「それ以外だと、どうして色々教えてくれるの?」

「どうして……、そんなことを訊く?」

「──なんとなく?」

 ふわふわとした会話が、シュンにやさしく触れた気がした。

「はぁ。ふつう、なにか訊かれたら答えるだろう。そちらは路頭に迷っているし、知らないことがありすぎるのも当然のことだ。このまちは歪で、不変で、しかし平和な、唯一無二の世界なのだから、無理もない。」

 ラディアはシュンの目をじっくりと見つめながら言う。

「……たしかに」

 シュンはゆっくり空を見上げて、不思議な建造物の眺めに視線を滑らして、ラディアの二藍に着地してから返した。

「ありがとう、ラディアさん。」

「……、何故、礼を言った?」

「なんとなく。」

 不思議な心持ちで、神妙な顔つきで二人は見つめあった。ふと、どちらかの蹴った石が通りのさきを緩やかに駆けて行ったのをそれぞれは見つめて、その雰囲気はやわらかく溶けた。

 少年が掴んでいた腕を放し、再度シュンが口を開く。

「あと、どれぐらいで着く?」

「もうすぐだ。この通りを下って、しばらく──」

 ラディアの言葉が途切れる。歩いていた足が止まる。表情は絵のように固まり、その二藍は何故だかさっきよりも濃く、赤がにじんでいた。

「……ラディアさん?」

「────どうしてここで、あのにおいがするんだ……?」

「におい?」

 おそるおそる背後を振り返りながら、ラディアは独り言ちた。

 シュンも訊き返しつつ、来た道を振り返ってみる。なだらかな坂、静かで緑が多く這った、もう見慣れた景色に異変は何一つ感じ取れない。試しに鼻ですんすんと音を立てそのなにかを嗅ぎとろうとしてみるが、これも意味がなかった。

 シュンは再度ラディアの顔を見る。凍りついたかのように固まったその様子は、自分の中を必死に見つめていた。

「ラディアさ」

 呼びかける最中に気づく。じんわりと、だんだんと、彼の瞳の赤い光が濃くなっていることに。

 ようやく異常を認識し、

「──しゅん、」

 久しぶりに聞いた声になんの形容も持てぬまま──

「息をするな!!」

 脳を貫くような勢いで少年は叫んだ。

 ラディアがとびかかるようにシュンの顔めがけて手を差し伸べた刹那、坂の上から濁流のように白い霧が流れ込んだ。

 肌を突き刺すような冷たい暴風の中、バランスを崩したひとりは尻もちをついており、もうひとりはその人物の身体を押さえつけるようにして留まる。それから数秒。

 ぴたりと風が止む。真っ白い霧のなか、シュンは混乱しながら声を、

「────ら」

「喋るな。しばらく、呼吸もするな、口も開くなよ。」

 口と鼻を、片手で封じられる。緊張ですでに苦しい。

「霧状の睡眠剤だ。些細な量なら、いいが、大きく吸うと、しばらくねむって、帰れなくなる。」

「……?」

 瞳を真っ赤にさせて言うラディアは、呼吸が浅く、声が震えている。

 その言葉と目の前の症状の矛盾にシュンはまた疑問が生まれたのを感じながら、それを無視して息を止めることに専念する。

「悪いが、こちらはもう、うごけそうに、ない……だから、」

 言いながら、ラディアはシュンの口を押さえていた手を離し、

「あたまの、中で、たすけてと、さけびながら、」

 自身の胸をおさえながら、へたりこんだまま、続ける。

「はしれ。はやく、はなれろ。」

 大きく開いた瞼の中の、震える真っ赤な瞳にうつった自身の姿を、シュンは見つめる。

 ──こんなことをしている場合じゃない。

「やめろ、さっさといけ……!」

 シュンがラディアの腕を掴んだのを、少年は言葉と力で振りほどいた。排他するような視線で「間違っている」という圧力を感じるが、シュンも負けじと似たような視線をラディアに送りつける。

「こちらはいい! きっとこれの目的は──」

 ぴたり。ラディアの抵抗が終わる。シュンの瞳を見つめたまま、静かに固まった。

 わからないことだらけが、シュンの中を蠢いている。喉の奥が締め付けられるような感覚をどうにかしたい気持ちを、必死に抑えようとする。

「しゅん、」

 何故か、やさしい声でラディアは呼んだ。シュンは、嫌な予感を感じ取った。


「……また会える日を、たのしみにしている。」


 ラディアの理解が、悟りが、結果の諦観が、シュンに伝染する。どうにもならないそれを、どうにかする術など思いつく隙などなく──、

 目の前を白が覆いつくして、ふわりとどこにでもない場所にいるような、心地の良いような感覚がしたかと思うと、本能が警鐘を鳴らすほどの落下感が突然シュンを襲った。重力の存在を無意識に再確認し、いつの間にか暗くて固い地面に横たわっていることに気づくと、今度は喉奥に迫る猛烈な嫌悪感を察知し、すぐさまそれを逃がす姿勢をとった。

「──ほんとに、このやり方でよかったの……?」

 暗い、湿った空気の路地裏の奥へ、少女は静かに問いかける。

 この空間にはほかに二人、人物がいた。

「どうしてそう思ったの?」

 無意味に吐瀉物が生産される中、女の冷たい、棘の生えた声が響く。

「……、もっと、いい方法があったんじゃないのかな、って。こんなに、辛い思いをさせるひつよう──」

「あったわ。最善の方法をとっているの、もう既に何度も話した気がするのだけれど。」

「でも、」

「今更文句垂れないでよ。変なことも考えないでくれるかしら。兎が来ちゃう」

 女は少女に嫌悪を孕んだ視線で突き刺しながら接近し、

「そうね、納得は重要ね。何回でも言ってあげるわ」

 勝手に食べたくもない食事を用意し、強引に口の中へ突っ込むが如く、言葉を続けた。

「まず私たちの目的は、勇者の同行者を引き剥がし、これをあの人のもとに繫ぐ道をつくること。それを果たす最中、私たちはこの街の兎、また騎士団に見つかってはいけない。同行者が兎じゃなかったのは運が良かったわね。」

 少女は俯いて、嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるかのように動けなくなる。

「引き剥がす方法は、極北で奪った催眠剤をレトの風でばら撒いて、誰も寄せ付けないかつ、誰にも私たちの存在を知られずに、レトが防護面をつけて迅速に勇者を回収する」

「……。」

「そして、薬を吸った勇者をまた薬で強引に起こして、軽い尋問の後にシエプで眠らせ、身体に石を埋めて放置する。そうしたらあの怪物に見つかる前にトペリから離れる。これでこの計画はおしまい」

 シュンが体内のものを吐ききって、吐瀉物の枕にぐったりと倒れる。その音で、二人の間に一瞬だけ静寂が顔を出す。

「都合よく人が起きるようなものなんてないけれど、ちょうどこうして弱らせることができたでしょう? 目的は、すべてあの人の助けになるために。それに、今回は誰も殺していないじゃない。」

「……! それは確かにそうだけれど、でも、最初からこんなことしていいわけじゃ──!」

「うるさい」

 怒鳴る少女の頬を、女は低い声で言いながらはたいた。奥にいる人物がびくっと身体を震わせて瞼を開き、落ちているシュンは咄嗟に目をつむった。

 静かになった少女は、女を見ないままでいる。

「最初からこういったことを嫌うなら、最初からついてこなければよかったじゃない。わたし、あなたのそういうところが嫌い。」

「…………。」

「文句ならあとでいくらでも聞いてあげるから、さっさと消えなさい。今のあなたは雑音になってるから。」

 最後の一文ははきはきと、突き放すように告げる。

 畏縮した少女は後ずさり、顔を見せないように俯き、後ろを向いて駆けだした。その後ろ姿が見えなくなったところで、女は落ちているぼろ雑巾の如くに目を向ける。

「次はこっちの番、」

 淡々とした声で女は言う。

「あなたゲロ臭いわ。立てる?」

 ──そっちが吐かせておいて? なんて問う思考は出てこない。今のシュンのなかにあるのは倦怠と疲労、凍ったように働かない脳と身体、そして、鮮やかな恐怖。

「……はぁ、体力ないのね」

 女はシュンのパーカーのフードを掴み、小さな体の踵を引きずらせるようにして路地裏の奥へと移動し、その行き止まりにゴミでも捨てるかのようにシュンを放った。

 背中から壁に強くぶつかり、壁に寄りかかって座る体勢になるシュンに、女はナイフを向け、もう一つの手で頭を壁に押しつける。その様子を、幼い少女が隣でじっと見ていた。

「おとなしくしていれば、痛くも苦しくもしないわ。おとなしくしていればね。」

「────」

 首元にあるそれをシュンは正しく恐れて、その言葉の通りにする。冷や汗を垂らして、目の前の人物をおそるおそる見る。真っ黒い瞳と、長い髪。ぶかぶかのローブの中にはなにもない。くだらない思考を呼び覚まそうとするのは冷たい策略か。

「シエプ、灯りを持ってきてくれる?」

「はい」

 幼い、感情を忘れたような声が、すぐさま懐中電灯らしきものを持ってくる。強烈な光を突然浴びせられ、シュンが瞼を閉じようとするのを女が「みせて」と、無理やりこじ開けてくる。

「うん。もういいわ。ねぇあなた、本名は?」

「……ぁ」

 光が消え、動揺の絶えないシュンに女は伝えなおす。

「ほんとうの名前、おしえてくれる? 言わないと、きる。」

「────」

 この空間よりも、女の目は暗い。ブラックホールを彷彿とさせるような、深い黒の底を何をいまさら、シュンは案じながら、

「……しゅ」

 最適解を口に出そうとした途端、静電気のようなささいな電撃が脳を突き刺した。

 ──あと、ほんとうに些細なことだが、信用のおけない人物に実名を明かすのもやめておいたほうがいい──そんな警鐘を、思い出した。

「なに? どうしたの?」

「…………」

 シュンは、女から目をそらした。

 小さな停滞の間に、女への疑問が渦巻くのをやめなかった。何故、本名を尋ねるのか。

「言わないと、何もわからないわ」

「ぃ──ッ!?」

 停滞に耐えかねた女が、シュンの頬を浅く切りつけた。

 じわり、しかし、急激に熱くなるその感覚に、シュンは理解が足りないと発する視線を女にぶつける。女はその頭を掴む手を強くする。

 傷を手で押さえようとしながら、たったの刹那に、ようやく判断を誤ったことにシュンは気づく。

「なんで動くのかしら、鈍感なの?」

 首元に、それと言葉を突きつけられて、シュンは氷のように動きを止めた。

 あふれ出そうな涙も、鼓動も呼吸もおとなしくさせようとしながら、ようやく焦りを自覚する。命の侵害を、自身の無力さを、目の前の脅威を払う手段をひとつしか持っていないことを。

「さ、はやくおしえて?」

 女は弄ぶかのように問いかける。子供にやさしく尋ねるようにはっきりとその音を発する、使い道の違うその外面は、ここでは恐怖しか与えない。

 だからこそシュンはその言葉の意図を、歪んだ思考で、正しく受け取った。

「──しゅ」

「きこえない」

「……!」

 また誤った。首に刃物の迫る感覚がして、いしゅくした喉奥を強引に拡げ

「しゅんです……っ! なまえ、しゅんっていうから──」

「そう、シュンね。」

 叫ぶように告げると、女は笑った。

「それじゃあ、シエプ」

「うん」

「あとはお願い」

 隣で二人の様子を見ていた、無機質な返事を繰り返す少女が、女と場所を入れ替える。女は横でナイフを向けたままだ。

「うごかないで、じっとしてて」

 長くてまっすぐの髪、側頭部に羊のような大きな角がついている。プラスマークの瞳孔が、じっとシュンを見つめている。

 両のてのひらを、静かに向けて、

「めをみてて? それで、そらさないで。なにも、わるいことじゃないから」

 ふわふわとした言いかたで、言い聞かせる。

 シュンはただぼんやりと、その不思議な瞳孔をみつめかえしていた。

「ゆめのせかいは、たましいのせかい。さいごになったら、だれもがひとしく、だれもがいきつく、えいえんのせかい」

 その瞳が妖しく光りだし、意識が吸い込まれるような錯覚をする。

「わたしたちのゆめのせかいは、ねがいのせかい。たのしいことも、かなしいことも、ぜんぶおいてあるせかい。すくいも、じごくも、びょうどうに」

 視界がぼやけてきた。

 ぼんやりとした薄紫の光と、幼い声だけを感じる。

「りそうも、れっとうも、こうふくも、さびしさも、すべてがつどう。そのなかでも、いっぱいのしあわせをみられますように」

 視界がほとんど判断できない黒に染まって、声しか届かない。

「おやすみなさい。」

 その声も、もう聞こえなくなった。

あとがき

 本作は西暦2023年4月19日に投稿されたものの改稿です。主に設定、展開の仕方に頭痛を感じて書き直した次第です。相当気が狂わない限りは残ります。旧作を非公開?(作品自体は残してある)設定にしてからの新作設定としての投稿ですから、利用規約に反しないかなァ。一応流し目で確認してきましたが、そういう旨は見当たりませんでしたね。違反していたら組織から言ってくれるだろうし、まぁ、いいか。


 それにしても、怠い「あらすじ」を経てここに顔を覗かせ、約四万文字にまで盛り込まれた本文を乗り越えここにまでたどり着いたアナタ。大好きですよ。あらすじのアレは、読まなくても作品の鑑賞に今のところあまり影響しませんがね。ごめんね。『デルタルーン』みたいなオープニングにしたかったけれど、文字数が多くてギチギチになってしまった結果でした。


 さて、オープニングも本文も長ければあとがきも長い小説ですよ。考えすぎるあまり、歌詞みたいに簡単に上手に飾れないのです。あとがきに書きたい言葉、いっぱいあるよ。

 旧作では三話の途中まで、といったところを本作は書いているわけですが、「一」の括りについて色々書きます。

 まぁ既に見ての通りだと思うのですが、この異世界モノは「ぼくのかんがえたさいきょーのいせかい」という感じで、見ての通り設定を馬鹿馬鹿と詰め込んだ挙句作者はショートしています。しかし、異世界モノというのはもっと世界に色々振り回されるべきで、現実と似て非なる複雑さや得体のしれない狂気がたくさんあるべき、というのがこの作品です。それにしても、困惑という言葉が多いなァ~。写実的を求めすぎていることに悩んでもいます。

 あんまり自分の文を客観視できていないので、良ければ感想、レビューなどでご意見くれるとありがたいです。またXもやっているので、暇なときに覗いてみてください。たまに登場人物たちの絵を投稿しています。多分。


 ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

 次回はうまくいけば師走に投稿します。


2025/10/31 更新

 バカ長「あらすじ」が消えました。理由はなんか、小説を他サイトに投稿する際のしらせなどが書けないからです。かといってきちんとしたあらすじを書くつもりもない。読む人にはなんの事前準備もなくここには来てほしいからです。傲慢だけれど、それを決める権利が私にはある。


 また、ちらちら読んでくれている方に申し訳ありませんが、改変があります。主に、ラディアが本名をあまり言いふらすなとシュンに教えるといった内容が追加されています。そして細々とした部分もまた改めていく可能性がありますので、このあたりをゆるく把握しながら本作を楽しんでくれると幸いです。

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