暖炉(赤ⅴ)
その夜、祖母は暖炉に小さな火を灯した。
薪が静かに爆ぜ、煙は時間の縁をなぞるようにゆっくりと立ち上った。
「入ってるわよ」
祖母はそう言いながら、編み物の手を止めずにいた。
狼は扉を静かに開けた。
スーツの襟にうっすら霧がついていた。
彼はそのまま、暖炉のそばの古いロッキングチェアに腰を下ろした。
「君は変わらないな」
「変わらないのは、ここよ」
祖母は穏やかに笑った。「この場所は、役割から自由なの。あなたが“狼”じゃなくてもいいように、私も“祖母”じゃなくていい」
「じゃあ、君は今、誰なんだ?」
「誰でもなく、ただここにいる人。それで足りているのよ。あなたは?」
狼は少し黙ってから、ポケットから何かを取り出した。
ジム・モリソンの詩集。ページの角がすっかり丸くなっていた。
「読めるようになったんだ」
そう言って狼は、静かに一節を読み上げた。
> We are from the night, we are from the stars, and we forget everything by morning.
祖母は編み針を置き、コーヒーを二杯入れた。
片方にミルクを少しだけ。
「覚えてる?」
と祖母が訊いた。「最初に出会ったとき、あなたは私を食べようとしてた」
狼はかすかに笑った。「役割のひとつだった。今となっては、不思議な夢のように思える」
「たいていの物語はそうよ」
祖母はカップを手に取った。
「でも夢の中で会い直せるのなら、それは悪くないことだわ」
外では風が吹き、森の木々が揺れていた。
その音も、まるで二人の会話に耳を澄ませているかのようだった。
「あの子は、時々ここに来るのよ」
祖母が言った。「…まだ自分が“物語”から抜け出したことに気づいていない」
「そのほうがいい」
狼は言った。「覚めない夢も、たまには必要だ。特に、現実がまったく正確すぎるときにはね」
しばらく、沈黙が二人を包んだ。けれどその沈黙は、心地よく、やさしかった。
まるで、お互いを赦し合うのに、もう言葉はいらないと知っているようだった。