アメのアメ
初投稿です。読んでいただけたら幸いです。
「知ってるかい? 一番始めに落ちた雨粒を掴むと、それが飴玉に変わるんだよ」
そう言って青年は、目の前に手を掲げ、手のひらを上に向ける。
空には、今にも泣き出しそうな雲が一面を覆っていた。今の私のようだ。
すると、青年が手を出すのを待っていたかのように、どんよりとした雲から雨が降り出した。その最初の一滴が、青年の手のひらに落ちる。
青年はまるで、始めからそうなることがわかったいたかのように、それを受け止める。そして、手を包み込むと、次の雨粒が落ちてくる前に、その手を引っ込めた。
そのすぐ後に、土砂降りの雨が勢いよく降り出した。
空が泣き出してしまったかのような雨だったが、私はそれよりも、今引っ込めたばかりの青年の手に気を取られていた。
青年は隣りにいる私の方に向き直り、しゃがんで私の目線の高さに合わせると、握り込んだ手を私の前に出した。さっき雨粒を掴んだ方の手だ。
まさか雨粒が飴玉に変わるなんて。そんな気持ちがないわけではなかった。でも私は、自然と期待していた。
青年が手を開くと、そこには飴玉が一つ乗っていた。
私は驚嘆して、青年と飴玉を交互に見る。まるで絵本に出てくる魔法使いみたいだ。
そんな私を、青年は優しそうな笑顔で見ていた。
不意に青年が、はい、と言って飴玉を私の目の前に持ってくる。
私は顔を上げ青年に、いいの?、と聞くと、青年は、うん、とうなづいてくれた。
私は笑顔で嬉しさを表し、青年の手から飴玉を受け取ると、すぐにそれを口に入れた。
不思議な味だった。甘かったり、しょっぱかったり、辛かったり、酸っぱかったり。舌で転がす度にいろんな味が出てきて、でもそれらが全て混ざり合い、見事な調和を作り出していた。
この間母から教わった、ほっぺが落ちてしまう、という言葉を思い出す。本当にほっぺが落ちてしまうくらいおいしかった。
そのときの飴玉の味は、今はもう忘れてしまった。
あれから二十年も経った今から思えば、何とも可愛らしい記憶だろう。
雨粒一つから飴玉ができるはずがない。あれは多分、私がちょっと目を放した隙に、ポケットから飴玉を取り出したに違いない。
しかも、“雨”を“飴”に変えるだなんて。駄洒落もいいところだ。
ただ、あの飴玉の味が未だに思い出せない。不思議な味だったことは覚えているけれど、そこまでだ。きっとすごく珍しい味だったのだろう。あれと同じ味の飴を、私は知らない。まあ、子供の頃の記憶だから、あてにならないけれど。
とそこでちょうど、電車がプラットホームに滑り入ってきた。
私は思考を切り上げ、空気の抜ける音と共に開いた乗車口へ、人の流れに乗って入る。
座席に座るのは、入る前に車窓を覗いてすでに諦めている。入ってすぐ、向かいの乗車口に寄って、近くの手摺に掴まりながら閉じられたままのドアに寄り掛かった。
そういえば、あのあとしばらくして青年はいなくなり、入れ替わりに母親が来て、迷子の私を迎えに来てくれたんだっけ。
あのとき私は、駅前で母親と別れて迷子になり、駅の出入り口の前で必死になって母親を探していた。
途方に暮れて、今にも泣き出しそうな私のところに、あの青年が現れたんだ。
青年は私から事情を聞くと、大丈夫だよ、きっとお母さんすぐ来るから、それまで良い子で待ってよう、そう言ってその後ずっと、私の隣りにいてくれたんだっけ。
青年には失礼だけど、普通迷子は駅員とかに預けないだろうか。駅の入口で母親が探しに来るまで待っているというのは、常識的にどうかと思うが。
そういえば、あの青年は今どうしているだろう。あれから二十年も経っているから、今ごろは四十代前後のおじさんか。会っても私のことなんて覚えていないだろうし、そもそもどこの誰だかもわからないわけだし。
ふと、ドアの窓から外を覗くと、灰色の空が見えた。
この電車、終点近くになると線路が地下から地上へ出るようになっている。地下鉄なのになぜ、わざわざ地上に出るのだろう、不思議だ。
空には、今にも泣き出しそうな雲が一面を覆っていた。今の私のようだ。
子供の頃の思い出が、幾分か気分を軽くしてくれたが、今なお私の心は、雲が重く垂れ込んでいる。
末期癌の患者だった。三ヵ月、必死に癌と闘ったが、今朝、亡くなった。
私が担当していた患者だった。
余命いくばくかも無いと知りながらも、その人は最後の最後まで諦めなかった。私もそばで必死に応援した。けれど、結局逝ってしまった。
どんなに頑張っても、最後に死は訪れる。理解したつもりだった。けど、どんなに死を理解し受け入れても、この虚無感だけは慣れたくない。この空虚な気持ちにだけは、どうしても慣れたくない。
悲しみを通り越した虚無感は、私の心を蝕み、からっぽにしていく。
電車が止まった。終点だそうだ。アナウンスがそう告げている。
ドアが開き、乗客が皆、電車から降りていく。乗客のほとんどが降りたころになってようやく、私は重たい身体を引きずって、電車を降りた。
とりあえず、家に帰ったら美味しいものを食べよう。作るのが面倒だから、出前でも取ろう。
そう心に決めて、階段を下りていく。
乗ったときは駅は地下にあったはずなのに、やはり不思議だ。
階段を下りた先の改札を抜け、入口の前で止まって空を見上げる。
相変わらず重そうな雲だ。家に着くまで降らないといいけれど。
不意に、患者さんの最後の笑顔が、頭を過ぎる。同時に、涙が込み上げてきた。
ダメだ。今泣いたら、抑え切れない。気持ちが、心が、壊れる――――
そのとき。
「知ってるかい? 一番始めに落ちた雨粒を掴むと、それが飴玉に変わるんだよ」
横から、声がした。
振り向くと、青年が一人、空を見上げて立っていた。
あのときと同じ、あのときの姿のままの、あのときの青年が、そこにいた。
私は驚き、固まってしまった。直前のこともあって、頭が働かない。
青年は一度、こちらを見て微笑むとと、またすぐ視線を空へと戻す。目の前に手を掲げ、手のひらを上に向ける。
すると、青年が手を出すのを待っていたかのように、どんよりとした雲から雨が降り出した。その最初の一滴が、青年の手のひらに落ちた。
青年はまるで、始めからそうなることがわかったいたかのように、それを受け止める。そして、手を包み込むと、次の雨粒が落ちてくる前に、その手を引っ込める。
そのすぐ後に、土砂降りの雨が勢いよく降り出した。
空が泣き出してしまったかのような雨だったが、私はそれよりも、今引っ込めたばかりの青年の手に、というよりも、青年自身に気を取られていた。
青年はこちらに向き直ると、再び微笑んだ。
「大きくなったね。それに、きれいになった」
青年が話しかけてきたのだとようやく理解し、私は慌てて口を開いたが、何を喋っていいのか分からない。あ、だとか、う、だとか、言葉にならない声しか出ない。
そんな私を気にすることなく、青年は目の前に握り込んだ手を出した。雨粒を掴んだ方の手だ。
握り込んだ手を広げると、そこには飴玉が一つ乗っていた。あのときと同じだ。
意識して見てはいなかったが、青年は現れてから一度も、手をポケットには入れなかった。
そしてやはり、あのときと同じように、はい、と言って、飴玉を私の目の前に持ってくる。
私は頭が混乱していて、何をしたらいいのかわからなかったが、身体が無意識の内に動いていた。青年の手から飴玉を受け取り、口には入れず、手に乗せてそれを観察した。
飴玉は、きれいで透明な無色だった。ガラス玉みたいだ。
「大丈夫だよ。きっと、大丈夫」
そう、聞こえた。
顔を上げると、青年はいなくなっていた。辺りを見回すが、青年の姿はなかった。
まるで夢か幻だったみたいに、青年の姿は跡形もなく消えていた。
けど、私の手の上に乗っている飴玉は、まだそこにあった。その飴玉を、思い切って口に入れる。
不思議な、そして、懐かしい味だった。甘かったり、しょっぱかったり、辛かったり、酸っぱかったり。舌で転がす度にいろんな味が出てきて、でもそれらが全て混ざり合い、見事な調和を作り出していた。
ほっぺが落ちそうなくらいおいしい。
顔を上げる。まだ雨は降っている。思い切って、足を踏み出した。
三月の雨が、私に降り注ぐ。冷たくて気持ちいい。
傘を刺していないので、一分と経たずにずぶ濡れになったが、それほど気にならなかった。
大丈夫。きっと、大丈夫。
飴玉の味は、もう忘れない。