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「友だち」という名の幻影

作者: Yushi


磯倉哲成 

 磯倉哲成(いそくらてつなり)の新しい住処は、最寄駅から徒歩十分、築二十年の鉄筋コンクリート造のアパートの一室だった。家賃は五万五千円。この地域で住むにはちょうどいい金額だ。部屋には、引越屋さんが運んできてくれた段ボール十数個、ベッドや冷蔵庫などの段ボールに入りきらなかった荷物たち、そして哲成が一人いるだけであった。外は雲ひとつない快晴で、太陽の光が、まだ誰のものにもなっていない、空気の澄んだきれいな部屋を明るくしていた。


人は、真っ白なキャンバスが与えられ「自由に描いていいですよ」と言われたとき、大きく次の二つのグループに分けられる。「なにをかけばいいんだよ」と開始早々筆を投げてしまう人たち、黙々と筆を進める人たち。この二つだ。高校を卒業して大学進学のために一人暮らしを始めた哲成は明らかに後者であった。彼は、部屋を遠慮なく占める無機質な段ボールたちを早く片付けたかったので、引越屋さんが自分の部屋を出て行ってくれたのを確認してから、すぐに作業を開始した。


 部屋にあったほとんどの段ボールが箱から板へと変化していったころ、部屋の窓からは、青から橙へとグラデーションがかけられていた空が見えた。昼前から黙々と作業をしていた哲成はここで一休み入れようと、ベッドの上に倒れこんでうつぶせになった。そしてちょうど近くにあった黒色のリュックサックの中に、実家を出る前に入れておいた文庫本を探していると、リュックサックがブーという音を出し、震えた。彼は小さいポケットに入れておいたスマートフォンが震源地であることを理解し、面倒くさそうにスマホを取り出した。買ってからのままである色とりどりで抽象画的な待ち受け画面は、「父」からのLINEが「今」来ていたことを通知していた。

「お疲れ様。引っ越し作業は順調?

これからは、今までの生活がリセットされた、新しい人生が始まるから。

友達作って、大学生活楽しんで。」

 哲成は、誰かにグッと髪の毛を思いっきりつかまれて、後ろに引っ張られたような感覚を覚えた。それは、誰かが自分の部屋にノックもせずに入り込んできたときの感覚にも似ていた。彼は、スマートフォンを見てしまったことを心底後悔し右側面のボタンを長押しして、それがもうこれ以上震えないようにしておいた。哲成は、自分の部屋に入り込んできた父親を追い出そうとした。しかし、その父親は部屋の真ん中で腕を組みながらあぐらをかいており、どうやらいつまでも居座ってやろうという魂胆らしかった。哲成はなぜ父親がそこまで堂々としていられるのかが全然理解できなかったが、しばらくして、どうやら先ほどのLINEの最後の行が父親の存在証明であるらしいということに気が付いた。

「友達作って」

 友達友達友達友達友達ともだちともだちともだちともだちともだち……


「友達って、なんだったっけ。」

 哲成は、その意味を考えるために、スリープモードになっていた脳みそをかったるそうに起動させた。

 

哲成には、中学一年生から現在に至るまでのおよそ六年間、友達がいない。


小学生の頃は哲成にも友達はいた。毎日一緒に下校して、そのまま友達の家で夕方の鐘が鳴るまで(鳴ってからも、あたりが真っ暗になってともだちの顔が識別できなくなる時間まで遊んでいたのが常であった)、ゲームをしてワイワイと遊ぶような友達が、哲成にはいた。しかし、小学校から中学校へと上がる階段で、哲成は大きく躓いてしまった。小学校ではいつも一緒にいた友達が、そろいもそろって別々の中学校に行ってしまったのである。特に仲の良かった人たちからは、中学では別々になってしまうと卒業前に知らされていたのだが、まあまあ仲の良いと哲成が思っていた友達からはなんの知らせもなかった。その程度の仲であったといってしまえばそれまでであるが、しかしそれでも、中学校の入学式でそのことを知ったときの衝撃を、哲成は今も忘れることができないでいた。

入学式の日、一か月くらい前まではパステルカラーだった同級生たちが急に真っ黒に武装し始めていたことに恐怖を感じていた哲成は、心の安らぎを下駄箱前に掲示されていた新しいクラス表の中に見つけ出そうとしていた。しかし、彼と同じクラスの名簿には自分に安心を与えてくれるような名前は無く、小学校の時に苦手だった名前や、初めて見た名前たちが、彼の恐怖心をさらにかき立てた。そして、4クラス全部のクラス名簿を、紙に一つの小さい穴が空いてしまうくらいに見ていた哲成は、そこでようやくまあまあ仲の良かった友達の状況を把握した。小学校の卒業式の日、彼らの色とりどりのアルバムの隅に黒いペンで周りよりも小さくかいた「中学校でもよろしく! 磯倉哲成」という文字、あれは「同じ中学校でも」という意味のはずだったのになあ、と、あの日を思い出すと、哲成の胸に刻まれた古傷はわずかながらに疼きだす。

まわりをきょろきょろと見ながら、大きな看板の前で両親と写真を撮った哲成は、左胸に桃色の花のついた黒色の体をしたゴキブリたちがうじゃうじゃとうごめいている教室の中へと入り、一人音を立てずに椅子を引き、座った。「第一印象が大事」と両親からは念を押されていたので、ゴキブリたちが相も変わらずうじゃうじゃと騒ぎ立てていた教室の中で、彼は一人静かに座ったまま、背筋を伸ばし、口角を何とか上げようと頬の筋肉に意識を注いでいた。しかし、彼がどんなに口角を上げようとしても、そしてどんなにその口角に彼の心を合わせようとしても、真っ黒な空気は哲成の心へと無慈悲に侵食していく。そしてなぜか目の奥からこみあげて来るものを感じた哲成は、トイレへと駆け込み、個室へと入り鍵を閉め便座に座り込むと、まだお店の匂いのするハンカチに顔をうずめて、うっうっうっうっうっ、と、自分の声を押し殺しながら、震えた。ハンカチが次第に濡れ、お店の匂いが徐々に消えていくのを、彼は震えながらに感じていた。

結局、哲成は誰とも話さずに入学式を終え、逃げるように家へと帰った。「友達はできそう?」ときいてくる母親に適当に返事をしながら階段を上り、彼の部屋のベッドに倒れこみ、枕に顔をうずめて、その匂いにようやく心を落ち着かせることができた。彼は、頭の中の真っ黒なモヤモヤが次第になくなっていくのを感じていたが、せっかくできた空白に明日からの生活というさらに真っ黒としたモヤモヤが入り込んでいくのも感じ取っていた。思わず、

「入ってこないで!お願いだから、入ってこないで!」

と声高に叫んでいたのだが、数分後には彼の頭の中は真っ黒なモヤモヤで充満してしまっていた。そして、その日から哲成は何も考えることのできない、そして何も感じることのできない、すっからかんの抜け殻のようになっていた。彼の頭の中には、文字を書いたり絵を描いたりすることでこの窮地を抜け出すための策をかくための空白が無く、窮地を笑い飛ばせるほどの空白もなかった。真っ黒の頭を使って辛うじてできたのが、うじゃうじゃとうごめくゴキブリたちと同じ空間に、何一つ表情を変えず長時間居座ることであった。しかし、週に一回くらいは気持ちが悪くて吐きそうでどうしても我慢できないときがあり、そういうときは真っ先に保健室へと駆け込んでいた。そしてその日は早退し、翌日の学校も休んでいた。

 休みが多かったため彼は卒業が危ぶまれていたのだが、卒業式の後に補習を組んでもらうことで、なんとか3月いっぱいには卒業条件を満たすことができた。彼は1年生の冬ごろには両親に学校での苦しさを正直に伝えていたので、高校では校舎にいる時間が少なくなるようにと通信制の高校に行くことが決まっていた。


高校生になってほとんどの時間を自分の部屋で過ごしていた哲成は、自分の真っ黒だった頭の中に次第に空白が生まれていくのを感じていた。しかし、頭の中に五百円玉くらいの空白ができてしまうと、今度はその空白を何かで埋めてほしいという強い欲求に襲われ、彼は急いで部屋中の荷物をひっかきまわして何か空白を埋めてくれそうなものを探した。床の上に散乱していた荷物の下に、卒業記念に父親が哲成に渡していた一冊の本の存在を知った。その本をひったくると表紙が彼の目に入ってきた。

『堕落論 坂口安吾』

卒業式というお祝い事には似合わぬ題名だと思ったので、それは哲成が父親からもらった早々床に放り投げておいた文庫本であったのだが、大量の荷物の下から見つけ出したときには、なぜかその本が急に愛おしく思いはじめ、むさぼるようにページをめくっていた。時々目に入るデジタル時計の示す数字の意味が分からなくなるほど夢中になって読んでいた。そして、読み終えたあと、空白が黒色ではない何かで満たされているのを感じ、そして体が軽くなるのを感じていた。その日の晩ごはんのときに父親にこのことについて話すと、翌朝、哲成は目を覚ますと、机の上に一冊の本が置いてあることに気がついた。

『人間失格 太宰治』

この本が目に入るとすぐに、椅子に座ってページをめくり始めた。顔を洗っていないことやパジャマでいることが何も気にならなかったくらい本の世界にはまり込み、母親の「ご飯食べちゃってー」という声で彼はようやく現実の世界に戻った。それは、ちょうど文庫本の半分程度まで読み進めていたころであった。朝ご飯を食べたあとは歯を磨かずに二階へと上りすぐ本の世界に入りなおし、母親が昼ご飯のできたことを告げる前までにはその本を読み終えていた。このことをその日の晩ごはんのときに父親に話すと、これからはその二人の作品を中心に本を読むといいということを父親は哲成に教えた。翌日は週に一回の登校日であったので、授業が終わった後に彼はその二人の本を貸し出し可能冊数ぎりぎりまで借りた。そして家に帰り自分の机の上に借りてきた何冊もの文庫本を積み立てて、上から順に読み進めていった。彼は文庫本の山がどんどんどんどん崩れていくのを気持ちよく感じ、その日のうちに借りてきた本をすべて読んでしまい、翌日、さらに翌日と、登校日でない日も学校に行き、既に彼のものになっていた本たちを図書室へと戻し、そしてまだ彼のものになっていない本たちを持って帰るという日々を繰り返していった。そしてしばらくして図書室においてある二人の本をすべて読んでしまうと、哲成は、すっかり心が何か温かいものでいっぱいになったような、そんな充実感、安心感を覚えることができたのであった。そしてその温かさのおかげで、頭の中に空白があっても全く心配することはなくなり、すっかり心の安らぎを得られるようになった。


哲成は、これを有効利用しない手はないと、何か新しいことをしようと考え、そうだ、と忘れ物を思い出したかのように、自分の部屋のたんすの奥に押し込んでおいた教科書たちを引っ張り出して、それを開き始めた。中学校ではそこに書かれている文字たちが槍や棒で突っついてきて自分を攻撃していると感じていたのに、そのときは文字たちが自分を歓迎してくれている、おいしそうな料理を用意して待ってくれている、と哲成は感じた。その歓迎に導かれるまま、彼は教科書をめくっていった。彼のいる部屋に、綺麗な教科書の紙をめくる音、真っ白なノートに漢字や計算式を2Bの鉛筆で書き込んでいく音が、立体的に重層的に、響き渡っていく。今まで中学校でできなかったのがまるで嘘であったかのように、教科書にかいてある内容がみるみると頭の中に吸い込まれていく。彼はこれにまた気持ちよさを感じ、すぐに部屋にあった教科書を一通り読んでしまい、その後は学校の近くの本屋で見かけた面白そうな本をおこづかいで買って、彼の気のゆくままにひたすら勉強を続けていった。

二年生の冬にあった初めての三者面談の日、高校生の範囲の勉強はすでに終了していた哲成は担任の先生にこのことを伝えると、三十代くらいの若々しい先生はたいそう驚いた様子で、一月後にあるモシというものを受けることを哲成に勧めた。そしてそのモシのさらに一月後、その結果が学校に送られてきたらしく、担任の先生はまた哲成と哲成の母を学校に呼び出した。ヘンサチが英語数学国語三教科とも七十を超えていて、国語はセイセキユウシュウシャの欄に名前が載っていたと、先生は興奮を隠しきれない様子だった。哲成はというと、ヘンサチというものがどうもよく消化できておらず、それはテストの点数と同じようなものなのかなと、そしたらたいしてよくない数字のはずなのになぜ目の前の男はこれほどまで興奮しているのだろうと、あまり状況を理解していていない様子だった。隣を見ると、母親もなんだかよくわかっていない様子で、担任の先生が話している内容にただただ相槌を打つばかりであった。そして先生はダイガクのパンフレット数冊を職員室から運んできて、机に広げるなりドコのダイガクがイイカ、とまるでファミレスで食べるものをきくような態度で哲成にきいた。哲成は目がちかちかするようなパンフレットをパラパラと見てみたのだが、どのパンフレットにも同じことがかいてあるようにしか思えず、あえて違いを言うのであれば一ページ目の白髪だらけのおじさんの顔が若干違うかな、ということくらいだった。どこでもいいです、と彼の率直な感想を先生に伝えた。先生はというと、そしたらこのダイガクがイイダロウと、都道府県の名前に「大学」という単語をつけただけの、なんとも安直な名前のダイガクを哲成に勧めた。そのダイガクはレベルがタカク、シュウショクにツヨイから、イイダイガクである、と先生は言った。哲成は、先生が言っていることの意味を全く理解することができなかった。それは、三者面談の前の週の日曜日に家族三人で映画館に行ったときに、スクリーンから発せられる英語の台詞のうち自分の知っている英単語だけが頭に入ってくるような、そんな感覚に近かった。

三者面談が終わり、電車で家に向かっているあいだ、まだ何のことだかよくわかっていなかった哲成は、同じくよくわかっていなさそうな母親の隣に座り、先生から渡されたアカホンというこれまた安直な名前の、気持ち悪いほど真っ赤っかで分厚い本をパラパラとめくっていた。しばらくして、アカホンというものがただ問題とその解説がかいているだけの、本の厚さからは想像もできないほどの内容の薄い至極つまらない本であることに気づきアカホンを、入学祝いに両親から買ってもらった黒色のリュックサックの中へと押し込み、代わりに茶色い紙のカバーのかかった文庫本を取り出した。

先生からは、アカホンをとにかくやりこむようにと言われていたので、哲成は三年生に進級する前にとりあえずその本に書かれていた問題を三周ほど解いてみた。最初のころは確かに今まで彼が解いてきたものよりも難しい問題が多く、その難しさに熱中していたのだが、やっていくうちに全部の問題が同じことをきいているようにしか思えなくなり、だんだんつまらなくなっていった。しかも、つまらなくなればなるほど問題が解けるようになっているので、三周目を終え、もうすでにその血のように赤い本を開く意義を見いだせずにいた。

その後、哲成は先生からあれよこれよと言われるがままにサンコウショを解いたりモシを受けたりして、そうこうしているうちにニュウガクシケンの日が来ていた。左右対称の無駄に大きくて色の薄くて古臭い建物の前には、つまらなそうにサンコウショを開いているたいして面白く無さそうな人たちがうじゃうじゃといた。黒色に武装して眼鏡をかけた面白く無さそうな人が建物内から出てきて、つまらなそうに、言語が日本語であるということしか哲成には理解することのできない、言葉という形式をとった何かを、そのねちょねちょしていて臭そうな口から発した。その言葉をきいた面白く無さそうな人たちは、何の返事を発することなく、まるで無言無表情でいることが暗黙のルールであるかのように、ぞろぞろと面白く無さそうな建物の中へと吸い込まれるようにして入っていった。この一連の流れをじっと見ていた哲成は、なんだか可笑しくなり思わず笑いそうになった。

そして問題が配られ、配り始めた時間が早すぎたのか、シケン開始前に数分くらい静寂な時間が訪れていた。何なんだこの時間は、とさっきまで読んでいた本の続きが読みたくてうずうずしていた哲成は、周りを見渡してみると、膝あたりに手を置いて背中をピンと伸ばして目を瞑っているつまらなそうな男、机に置いた数本のシャープペンシルを一本ずつカチカチカチカチとやっているつまらなそうな男、手作りと思われるボロボロのお守りのようなものを両手で握りしめてこれまた目を瞑っているつまらなそうな男の姿が目に入ってきた。つまらない人たちしかここにはいないのかと、哲成は残念に思った。しかし、思い返してみると、彼が前日に買った茶色い紙のカバーがかかった新書を開いて、病院の待合室のように静かな空間を一応配慮して、声は出さずにニヤニヤと笑っているなか、あのアカホンやサンコウショをなめまわすかのように熟読していた人たちだからそれも当然か、と思った。そして部屋全体を見まわして時計を探していたのだが、ダイガクニュウシでは時計は各自で用意するものだということを思い出した哲成は、あーあ、と両腕を天井へと伸ばして上半身を伸ばした。そのときに腕を組み足も組んでじーっと真正面を向いている男の姿がちらっと目に入り、これは少し面白そうだと思い始めていたころ、哲成たちの前にいた、自分がこの中で一番偉いのだといわんばかりに腕を組み直立不動していた男の、耳をつんざくような馬鹿みたいに大きな声が、それがまるで今日の仕事のすべてであるかのようにエネルギーのこもった大きな声が、部屋全体に響き渡った。その声が発せられると、哲成の周りの人たちは一斉に、まるで目の前の紙をめくる速さを競う競争でもするかのように、バッと紙を表にし、ガリガリガリガリと何かを書き始めた。そんな光景を見てまた可笑しくなった哲成は、ニヤニヤしながら、ゆっくりと、目の前にある異様なほどつるつるで真っ白な紙を表にした。

哲成はゴウカクした。彼はいつも通り正午前ごろに目が覚め、顔を洗い、パジャマのままリビングのテーブルの上に置いてあった朝なのか昼なのか分からないごはんを食べていると、その日がゴウカクハッピョウの日であるということを、何となくつけたテレビに映し出された、掲示板の前で泣きながら抱き合っている生徒たちの姿を見て思い出した。哲成はその姿を見て、「本当かよ」、とつぶやいて笑っていると、テレビの映像は切り替わりアナウンサーの機械が発するような無機質な声の中に「コクリツダイガク」「ゴウカクハッピョウ」という単語を耳にして、冷蔵庫の近くの壁に貼ってあったカレンダーを目にし、ああそうだった、とスマートフォンで検索してみると、ゴキブリみたいにうじゃうじゃしている文字の中に、ちょうどテーブルの上にあった「受験番号」と大きくかかれている紙に載った文字と同じものを見つけた。哲成は、あっそうなんだ、と思い、一応事前に言われたとおりに先生に電話をした。先生は、すごいすごい、よくやったよくやった、ドリョクが実ったな、とまるで先生自身が合格したかのような興奮ぶりを受話器越しに見せた。哲成はその声にうんざりしながらも、しかしながら次の自分の生きる道が決まったことに、少なからず喜んでいた。


目が開き、そこから入ってきた情報が頭の中に映像となって流れ始めたとき、哲成は周囲がすっかり暗くなっていることに気が付いた。おなかに力を入れ、ベッドの奥深くに沈んでいた身体を起き上がらせて、近くにあったリュックサックのポケットをガサゴソして小さな板のようなものが認識できたのでそれを取り出した。右横側面のボタンを長押しすると、まぶしい画面に、まず白い欠けたリンゴが現れ、「もういいよ」と思い始めたころ、抽象画的待ち受け画面と「20:34」という数字が表示された。その数字が、「只今の時刻は午後8時34分です」ということを意味していることに数秒経って気が付いた哲成は、全身の力が抜けて、ベッドのもつ引力に抗えなくなり、仰向けになった。そして、彼のまぶたは次第に下がっていった。


河合草介

テレビで最近よく耳にするが歌っている人の名前も曲の名前もよく知らない音楽が、スマホの小さな穴たちから、河合草介(かわいそうすけ)の新しい部屋全体へと広がっていく。草介はそのスマホを段ボールに収まりきらなかったベッドの上にポーンと放り投げて、肩を揺らしながら時々口ずさみながら荷物の整理を開始した。雲一つない青空の下、彼は、ひどく激しく、興奮していた。


「LINE」という、ささやくような声が、最近ツイッターのトレンドでよくその名前を見るアイドルの嘘みたいな歌声を一時的に黙らせたとき、部屋にあったほとんどの段ボールは空になっていた。昼前から、ベッドへと放り投げたスマホが目に入るたびに手に取っては作業を止めてツイッターやインスタの新しい投稿が無いかチェックを行い、またポーンとベッドへと放り投げる動作を繰り返していた草介であったが、ここらへんで長めの休憩をとることを考えて、ベッドの上に倒れこんですぐ横にあったスマホの右横側面のボタンを押した。映し出された画面には、春休みに友達とディズニーランドに行った時にシンデレラ城をバックにして撮った写真と、17:50という数字、そして「今」LINEが来たことを知らせる通知が一件表示されていた。

SHOUHEI.I 「4/10のクラス会、草介くんは行く感じ?」

草介はすぐさまその通知をタッチし、巧みなフリック技術を駆使して、「SHOUHEI.I」との「トーク」を開始した。

河合草介   「行くよー!」

SHOUHEI.I 「俺も!」

       「よかったら一緒に行かない?」

河合草介   「もちろん!」

SHOUHEI.I 「よかったー」

       「あぶねーさっそくぼっちになるとこやった笑」 

河合草介   「笑笑」

そしてこの後、集合場所や時間を決めて、草介は「トーク」を終了した。

 「SHOUHEI.I」は、草介が入学前に大学の友達を作るためにつくったツイッターのアカウント「大学垢」で知り合った、これから同じクラスになる予定の人だ。草介は、大学のクラスというものが正直よくわかっていなかったのだが、なんとなく高校の時のクラスの延長みたいなものなのかなーと考えていて、そうするならば早めにLINEのクラスグループに入っておいた方が安心だろうと思い、「大学垢」を検索したときにプロフィールで同じクラスであることを知った「SHOUHEI.I」をフォローして、クラスのLINEグループがあれば招待してほしいとDMを送った。メンバーが二十人くらいいるクラスグループがすでにできていたのを知ったときには彼も少し焦りを感じたが、なんとかみんなと同じグループに入ることができてほっとしていた。

……「SHOUHEI.I」とは何回か「トーク」を繰り返しているけど、いつも結構盛り上がるし、彼とはどうやら友達になれそう。

草介はグループのメンバー欄を見て、本人の顔が映っているであろう写真をプロフィール画像にしている女子のアカウントをタッチして、プロフィール画像を拡大して、その()がどんな人であるのかを、可愛く加工されている写真を見ながら想像し、口角を少し上げた。

……高校まではうじうじとした暗いグループに入っていたけれど、大学に入ればもしかしたらキラキラしたイケているグループに入ることができるのかもしれない。大学の長い机の横と前後ろでみんなで固まって座って講義を受けて、つまらない講義だったら小さい声でこそこそと教授の悪口とか言い合ってクスクス笑って、時々サボって誰かの部屋でゲームをしたり、近くのコンビニで買ったお酒とおつまみを床に広げて将来のこととかを朝まで語り合ったり、夏休みは誰かが運転する車でみんなで海行ってBBQして、冬休みはスキー、スノボー、外国に行くのもいいけど、とにかくみんなでいろいろなところに行きたい。そのグループの中に女子がいたら、仲良くなっていい感じになって、高校まではできなかった彼女もできてしまうのかもしれない。でも、たとえ彼女ができなくても、みんなで楽しく、とにかく楽しい充実したキャンパスライフを送りたいなあ……。  

草介は、これからの全く新しい生活に、真っ白なキャンバスの前で、緊張と期待とで胸が破裂してしまいそうだった。


河合草介

 自己紹介も一通り済んでからずいぶん時間がたった。もうすでに、どんどん机に運ばれてくるアルコールがみんなの顔を赤くしている。今、草介の周りでは彼女・彼氏がいるかどうか、いるならどんな彼氏・彼女か、という話になっている。みんな酔いが回っていて頭が十分に働いていないのか、写真やLINEのトーク履歴を見せ合って、ゲラゲラと笑いあって、すっかり盛り上がっていた。草介もえーとかなんだよーとか大きな声を出して、みんなが笑うところでしっかり笑ったりして場の空気感を保とうとしていたものの、しかしなぜかどこかに空虚感を感じずにはいられなかった。空気の中に自分を溶け込ませることを忘れずに、なんとなく壁にかかっている時計を見つけるために居酒屋全体をきょろきょろとしていたところ、居酒屋の入り口から一番遠い席に座っている男が目に入った。

草介は、ちょっと席外すわーと一声かけ、グラスを持ってその男の方に近づいた。男は一人で、机に置いてある唐揚げを箸でつまみながら、ビールの入った大きなジョッキを手に持ち、それを傾けていた。その姿が目に入ったとき、草介はその男のいる空間だけ居酒屋ではないどこか別の遠い場所の空間であるかのように感じていた。草介が一歩一歩近づくごとに、その男の容姿が詳細に見えてきた。しばらく切っていないであろうぼさぼさとした髪の毛、黒色で縁の厚いレンズの汚れた眼鏡、ニキビがぽつぽつあるざらざらの肌、引き締まっているわけでもないが太っているわけでもない微妙な体形、そして両親に買ってもらったであろうということが何となくわかる、可もなく不可もない地味な服装。この男の周りに誰も寄り付かない理由が何となくわかってきたころ、草介はその男の隣に座っていた。

「河合草介といいまーす!よろしくー!」

初対面の人に適当な調子と大きさになることを意識して、草介は声をかけた。隣の男は、ゆっくりと草介の方に首を向け、草介が思った以上の大きな声と高い調子でこう言った。

「……(わたくし)、ですか?」

「え?」

草介は思わず未加工のまま言葉を発していた。

「私が一人でいるから、寂しそうだと思って、そのために声をかけられたのですか?」

「え⁉」

草介はまた工場に運ぶのを忘れてしまった。

「残念ながら、私は寂しくなんかございません。むしろ、只今の状況を一人楽しんでおりました。彼女がいるのだの何が面白いのだか私には皆目見当のつかない話でゲラゲラゲラゲラと笑っておられる方々を見て、どこか滑稽だなと、そう思いつつお酒を飲んでいたわけでございますが、しかしながら御年十八の私がこのようにお酒を飲めている姿も、これまた滑稽だなと思いながら、皆さんががぶがぶと飲んでおられるが私にはそのおいしさの分からないお酒を、ちょびちょびと飲んでいたわけでございますが、確かに、こうして飲んでいますと頭に靄がかかったような、そんな不思議な感覚を覚えるわけでございまして、だとするならばあのように盛り上がっておられる方々のことも、少しは理解がいくなあと思っていたわけでございますが、しか…」

「ちょっと待って!」

なんとか男の話を区切ることができた草介は、とりあえず自分の頭の中を整理することに努めた。彼の頭の中に無慈悲に入り込んできた言葉たちを掃除機でせっせと吸い込んでいくうちに、埋もれていた一つの考えが見えてきた。「ヤバいやつ」という言葉を確認できた草介は、彼が言った通りに両手の平を膝の上にのせて真正面を向きながら「待って」をしている男からスルスルっと逃げ出そうと立ち上がった。

「ご自分から話しかけられたのにも関わらず何も言わずに立ち去るとは、無礼であると私は思ってしまいますが。」

右腕を男につかまれた瞬間、草介は試験問題が最後まで解けきれずにチャイムが鳴ったときのような、諦観の念を覚えた。そして、たいそう早口でしゃべるんだなあ、と思いながら、ゆっくり男の横に座りなおした。

「……えっと……君の…名前は?」

とりあえず定石通りに、草介は相手の名をきいた。

「磯倉哲成と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」

哲成はゆっくりとお辞儀をしたので、条件反射的に草介もお辞儀をした。そして哲成はまっすぐ右の手を差し出してきた。これまた条件反射的に草介は握り返した。そして哲成のお酒の入ったグラスくらい冷たい手の平にびっくりしていた。

「そういたしましたら、…河合、くん、のご用件をお聞かせ願いたいのですが。」

手に冷たい感触が消えないうちに、哲成は草介にきいてきた。草介はさっきまで一ミリも動いていなかった脳みそを、コーヒー豆を挽くような速さで、グルグルグルグルと回転させた。

「……要件というか、なんか面白そうだったから、話しかけてみようかな、って思っただけで……」

「ははあ、そうだったのでございますか。私は自分が面白い人間などと思ったことは一度たりともないのでございますが、しかしながらそういってくださると不思議とうれしいものでございますね。」

「…ははは……」

草介はとりあえず笑っておこうと、笑い声を口から出そうとするが、なんの感情も付加されていない、記号のような声が出てしまったことにいくばくか恥ずかしさを感じていた。今までの流れ通りには絶対行きそうにないと、この窮地を抜け出すための策を何とか考えようとしていたところ、意外にも向こうから声がかかってきた。

「そう致しましたら、『らいん交換』、というものをなさいますかね?」

「え⁉」

また未加工のままの言葉が口から出てきてしまった。草介は、哲成の口から『LINE』という単語が、少し違和感があるが出てきたことに驚いていた。

「なんかこうみなさんを観察しておりますと、みなさんとりあえず『らいん交換』、というものをなさるではございませんか?そこで『友だち登録』、というものをなさるではございませんか?今はそんないとも簡単に『友達』、というものがつくれるとはなんて便利な時代になったのだろうと、恥ずかしながら私感心を致していたわけではございますが、しかしながら私の今までの『友達』と申しますものは、そんな簡単には作れた記憶が無いわけでございまして、もっと手間暇かけて『友達』というものをつくったといいますか、気がついたら『友達』という状態に『なっていた』ものであったなあと思っていたわけでございます。『俺たち、友達だよな!』と無理くり肩を組まされて言われた時もございましたが、しかしそういう方たちというものはごくごく少数でございまして、まあそういう方に限ってあまり私のお好きではないお方であったりするのですが、しかし本当に仲の良かった人たちとはそんなことは一切合切言いませんでしたし、一緒にいることが当たり前だったと申しますか……まあとりあえずは、いったんはその『友だち登録』、というものをしておきますかね?」

哲成がズボンのポケットからスマホを取り出そうとしていたので、草介はなんとなくその腕を制しておいた。

「えっと…演芸とかやられてます?」

草介は自分の言葉を加工する工場を今だけ差し押さえることにした。

「演芸ですか。そういったものは特にやっているわけではございませんが、先日家族で講談師の方の公演というものに行かせていただき、その公演がたいそう面白いものでございましたので、家に帰ってからもその講談師の公演を、いまは『ゆうちゅうぶ』、で観れるわけではございますが、それを永遠と観ていたわけでございます。両親からも、私の話し方が変わったといわれたわけでございますので、確かに河合くんがそう思われるのも無理はないと思った次第でありますが。」

草介は、哲成の口から「LINE」や「You Tube」といった、ときどき自分の知っている横文字の単語が出て来ることがなんだかおもしろいと思った。そして、哲成について純粋な興味がわき始めた。

「LINE交換、しよう!」

草介はスマホを取り出しLINEを開いた。

「『らいん交換』、と言いますと、先ほど私がお願い申したものではございますが、河合くんが私の腕を止めていらしたわけでございますので、河合くんとは『友だち』、になる資格が残念ながら今の私には持ち合わせていなかったのだと、少々気を落としたわけではございますが。」

相変わらずの早口で哲成はべらべらと口を動かしながらも、無事LINE交換を行った。

「インスタとかツイッターとかは?やってないの?」

草介はきく。

「なるほど。『いんすたぐらむ』、『ついったあ』、などの『えす・えぬ・えす』、についてではございますが、残念ながら私『らいん』、以外のものをやっていないわけでございます。といいますのも、数日間大学の敷地内を歩いていますと、周辺では、河合くんと同じようなことをおっしゃっている方々がたいへん多かったわけでありましたので、ならば私も、と思い先ほど申した『えす・えぬ・えす』、というものを『だうんろうど』、致したわけではございますが、どうやってそれらで遊んで自分を楽しませるのかがこれまた皆目見当つかなかったわけでございまして、しぶしぶ『あん・いんすとおる』、致したわけでございますが、ちょうどいい機会ですので、河合殿、私に『えす・えぬ・えす』、の『遊び方』なるものをお教え願いたいわけでございます。」

草介はまず哲成の言いたいことを理解することに努めていたが、なんせとてつもない速さで哲成の口からは言葉が流れていくので、草介は話の真ん中あたりを理解することはあきらめて話の最後だと思われるところを集中して聴くことにした。

「ええ……?『遊び方』っていわれても…。」

しかしそれでもすぐに返答することはできずにいた。悩んだ末、草介は自分のツイッターを見せることにした。

「えっと……まずこれが『ツイッター』っていうもので、自分が『フォロー』した人の『ツイート』が『タイムライン』に表示されていくわけなんだけど…」

草介は、しまった、と思った。恐る恐る横を見てみると、案の定、哲成は文字通り目を丸くして草介の方を見ていた。

「大変申し訳ない。私の理解能力が稚拙なもので……ええっと、『ふぉろお』、と言いますものは、『らいん』、の『友だち登録』、と同じようなものである、そう解するところで良いわけでございますか?」

「うーん……まあ、とりあえず、そんな感じ。」

「なるほど。……はああ、ここでもいとも簡単に『友達』をつくれるなんて、まったくたいそう立派な文化を人間というものは作ったわけでございますね。そういたしましたら、つづいては『ついいと』、というものについてお聞かせ願いたい。」

「えっと……『ツイート』っていうのは、…なんだろ、…自分が思っていることを書き込んで投稿したもので…『フォロー』した人の『ツイート』が見れるわけなんだけど……」

「なるほど!『友達』、の雑感のようなものを覗き見ることができる、そういったわけでございますか?!」

「まあ、そんな感じ。……それで、その『ツイート』が面白いなあ、いいなあ、って思ったら、このハートマークをタッチして、『いいね』をするわけなんだけど。」

ここで哲成は顎に手のひらをくっつけて首をひねった。

「んんん?……なぜ、『友達』の雑感ごときに『いいね』、というものをしなくてはならないのだ?」

彼がそう言ってからしばらくして、確かに、と草介は思った。……確かに、なぜ僕は、大したことを言っているわけではないものに、…心に刺さるものも中にはあるが、それでも多くのツイートが取るに足らないもののはずなのに、なぜ僕はそんなものに「いいね」をしているのだろう。少し考えた末、まだ自分の考えが定まっていないものの、でも話すことでそれが定まるのではないかと思い、言葉を発し始めた。

「………共感したよ!っていうことを、ツイートした人に知らせるため、かな?……いや、そうでもないか…。……ううん、今まで無意識的にやってきたことだったから、考えたこともなかったんだけど……。……承認欲求を満たしてあげるため、というか……いやこれも…」

「承認欲求、ですか?」

哲成が「承認欲求」という言葉に食いついてきたのを草介は感じた。そしてそれを軸にして話を進めていくことを決めた。

「そう、承認欲求。あなたは一人じゃないよ、私も同じこと考えているよ、っていうことを、『いいね』をすることで知らせてあげるというか……」

「『一人じゃないことを知らせてあげる』……」

ここで、また哲成は先ほどと同じ姿勢で止まってしまった。うーんうーんと考え込んでしまっていたので、草介は何か声をかけるべきだと思い始めたころ、哲成は下を向きながらつぶやいた。

「一人では、駄目なのですか?」

「え?」

草介も止まってしまった。

「一人でいることは、いけないことなのですか?」

「えぇ?」

ここで哲成は姿勢を正して、草介の方をまっすぐ向いて、話し始めた。

「私は、この六年間ほど、その、『友達』、というものがいなく、ずっと一人でおりました。……最初のころは、寂しかったといいますか、なにかいけないことをしていると感じていた記憶も僅かながらにございますが、しかしながら、今日この頃は、一人でいることになんの後ろめたさも感じていないわけでございます。確かに、大学の敷地内で、皆さんががやがやとなされているなか一人食堂で(さば)の味噌煮定食を食べているのは、客観的に見てみますと、皆さんとは違うことをしているようで確かに少し悪い気持ちも働くわけではございますが、しかしそれは客観的に自分を見たときでございまして、人間というのは客観的な態度をもって生きているわけでは無く、そんなことをしていたら楽しくなんか生きていられないと考えるわけでございまして、だとするならば一人でいることに何の問題があるのかと、そう思った次第でございますが。」

草介は、思わず唸ってしまいそうになった。しかし、それでも、何か重要なことを、哲成は忘れているのではないかと思い、反論することにした。

「……でも、『人は一人では生きていけない』って、よくいうじゃん?……困ったときに助けてくれる人が近くにいてくれないと、もし何かあったときに、大変じゃないかって思うんだ。」

哲成はまた、うーんうーんと言い始めた。草介は、磯倉くんは相手の言ったことをしっかり受け止めてくれる人なんだな、と思った。

「確かにそうですね。それも一理あると思います。しかしながら私が思いますのは、多くの『困難』、といったものは、助けを請う必要もなく、自分一人の力で何とかなってしまうのではないかと、そう思うわけでございます。自分一人というと語弊が生じてしまいますが、本であったり、今では『ねっと』、という便利なものもあるわけではございますが、人類の叡智を集結させたものが私たちの身の回りにはあるわけでございまして、これらを自分の中に取り入れて、そうしていろいろと一人で考えなすって、そうして行動に移すことさえしてしまえば、自分以外の物理的な人の力を借りずとも多くの困難というものは何とかなってしまうのではないかと考えているわけでございます。以上のことをもってしても、それでもどうにもこうにもいかないということであれば、他人の手を借りる必要が出てくるわけではございますが、しかし、ずっと一人でいるような私も、他人と関わらないようにと意識しているわけではなく、窓口を閉めているわけではなく、両親や大家さんなど、自然発生的に繋がってしまった人との関係というのは大事にしていきたいと考えているわけでございまして、なので、もしも(、、、)のときはそういった人の手を借りてしまえばいいと考えているわけでございます。なので……なんでございましたっけ、……ああ、…その、『ふぉろお』、とか『友だち登録』、とか、そういったものは無理してなさるようなものでは無いのではないかと、皆さんを見ていて思っていたわけではございますが。」

草介は、今度こそ感嘆の声を出してしまいそうになった。しかし、喉元をギューッと縛って、それでもまだ何か大事なことを忘れているはずだと、哲成にさらに反論した。

「でも、そんなずっと一匹狼のようにしていると、社会では生きていけないと思うんだ。社会では、『人脈づくりが大事』、っていうのをどこかできいたことがあって、なんでそれが大事なのか僕もよく分かっていないんだけど、それでもなんか『人脈』、というものが大事らしいんだ、社会では。だから、みんな、社会で生きていくために、無理してでも『友だち登録』をしているんじゃないかって、思うんだけど。」

哲成は、またまた、うーんうーんと言い口を手のひらで覆った。しばらくして腕を組み、下を向き、そしてまた草介の目を見て話し始めた。

「『シャカイ』、といいますと、黒色に武装された方々が大変忙しそうに歩き回っておられる、あの殺伐としてたいそう窮屈で息苦しそうな世界のことでございますか?私はそのような『シャカイ』、といった世界に出たいとは微かたりとも思っていないわけではございますが、しかしながら今の時代、『シャカイ』、に出ていくことが当たり前であるかのような空気を感じているわけでございまして、その『シャカイ』、で大事とされているらしい、私はたった今初めて聞いたわけではございますが、その『人脈』、というものをつくっていかなければならないと、そう皆さんが考えるのも当然のことではないかと、だとするならば『友だち登録』、を必死になってなさっている皆さんというのは、なんて勉強熱心な方々なのかと、頭の下がる思いではございますが、しかし、それでもやはり無理して作った『人脈』、というものには、私にはたいして価値の無いもののように思われて仕方がありません。やはり、人間も動物の一種でありますから、自然法則に従ったものをやるべきであると考えているわけでございまして、動物が厳しい自然界を生き抜くために『自然と』群れをつくるように、人間も無理をなさらず『自然と』できる人間同士のつながりというものを大事にしていくべきであると、私はそう考えているわけではございますが。」

草介は、今度こそ、

「……確かに……」

という声を出してしまった。もう、何も言うことはないと、そう思いそうになったのだが、頭の片隅にモヤモヤとしたものを見つけたので、それを引っ張り出し、言語化してみた。

「……社会には出たくないって、河合くんはさっき言ってたけど、社会に出ずに、これからどう生きていくつもり?」

哲郎はそのことを聞き、しばらくしてから額に手を当て、クククククッ、と小さな声を漏らしながら笑った。そして、また腕を組んで、今度は腕を組みながら草介の方を見ずに、こう言った。

「まったく、その通りのわけでございます。黒色に武装して、その『シャカイ』、という世界に出て生きていく、これが当たり前、とされる世界で、その路線から外れてどうやって生きていけばいいのかと、そうきかれれば確かにその通りであると、こうとしか言いようがないわけではございますが。……」

哲郎は、文字通り頭を抱えて、しばらく考えた末、草介の方に向きなおしてこう言った。

「……そのようなことを考えるのが、この大学生という、ベドベドとされた変な膜で外部から守られている不安定な立場に置かれた者たちの、『義務』、なのではないでしょうか。……『シャカイ』、に出るのは嫌だ。ならばどうするか。…四年間という無駄と思われるほどに長い時間をもってすれば、それに対する自分なりの考えがまとまるのではないかと、そう、思ったわけでございます。」

哲郎は、満足したように、二つの鼻の穴からぷしゅーっと、空気を排出した。

「……なるほど……。」

草介も、どこか腑に落ちたような感じを覚えた。

「では、私はそろそろお暇しておきますかね。」

「え⁉」

もっと二人で話したいと思っていた矢先、哲成は立ち上がってしまった。そして、黒のリュックサックから黒の長財布を取り出し、そこからお金を出して机の上に置いた。

「幹事の方がいらしたら、どうか私の帰宅をお知らせ願いたい。私はもう十分楽しませてもらいましたので。…またどこかでお会いすることがありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。」

ぺこりと、哲成はお辞儀をした。また条件反射的に草介もお辞儀をしてしまった。草介が頭を下げている間に、哲成は草介と机のわずかな隙間を器用に抜け、そそくさと出口へと向かっていった。誰かが、え、ちょっと、と言ったものの誰も彼を止めることはなく、気づいた時には哲成は外に出ていた。

 窓ガラス越しに見える、何の鎖の繋がれていない動物のように、居酒屋から遠くに向かっててくてくと歩いていく哲成の姿に、草介は、いつまでも目を離すことができなかった。

                                        (終)










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