幼馴染と……キス?
翌日の四月八日。まだ水曜だ。休みまであと三日も続くのか……気が滅入る。
「最近ご近所に不届きな輩が現れるらしくて、それが女性の敵でね——」
「そうだな……」
登校途中の通学路。凛の言葉を上の空で受け流しつつ、昨日の夜の出来事を思い起こす。
「(『キスをしなさい』って言われてもなあ……)」
……なんか流れで承諾してしまったけど、俺マジでやるのか? いやだってキスだぞキス? 仲睦まじい男女がする口と口を交わすアレ。
童貞どころかカノジョすら作れたことない俺にそんなことができるとでも? いや絶対無理だろうそんなの。誰だよ、こんな無理難題吹っ掛けられて「やってやる」とか、かっこつけたやつ!
「俺だよ!」
「え、直ちゃんなの? 最近出没する下着泥棒は直ちゃんだったんだ……早く自首してね」
「ちげえよ! 隙あらば罪を被せようとするな」
「パンツは平気で被るのにね」
「誰が上手いこと言えと!?」
俺をからかって楽しむ凛は今日も平常運転のようだ。機嫌良さそうな笑みを浮かべるお前が羨ましいよ。……こっちはキスできるかどうかで悶々としてるというのに。
「……はぁ」
「どうしたの直ちゃん。溜息なんか吐いちゃって」
「……なあ、お前ってキスしたことあるか?」
「え、何その『乙女ゲーに出てくるイケメン男子がおもむろに主人公の女の子抱きしめた後に耳元でそっと囁くときに出てくる殺し文句』みたいな質問は」
「例えがわからねえよ!」
「わからなくて大丈夫。もし直ちゃんがノリノリで乙女ゲー談義してきたら…………」
「…………してきたら?」
「普通に引くね」
「なんで引っ張った!? 無駄に引っ張った挙句に直球で傷つけてくるの止めろ!」
「だって直ちゃんだもん」
「理不尽すぎる!」
今日の凛は絶好調のようだ。弄りのキレがどんどん増してきているような気がする。
「で、どうしたの直ちゃん、いきなりそんなこと訊いて。何かあったの?」
……全くこいつは。ふざけておきながらちゃっかり俺の悩みを見抜いてくる。
「あー実はだな……」
ええい、ままよ! どんな反応をされようが知ったこっちゃない! 半ばやけっぱちの覚悟で、俺は昨日の夜の出来事を全て打ち明けることにした。
「——というわけで、俺は神楽さんとキスしなければならないらしい」
凛は驚きのあまり口を半開きにして立ち止まっていた。二の句が継げない様子だ。まあ無理もない。いきなりこんなこと言われたら、俺だって同じような反応をするだろう。
凛の返答を辛抱強く待つ。自転車に乗った通行人が鈴を鳴らして通り過ぎていく。
それからたっぷり十秒ほど経って、審判が下される。
「ちょっと何言ってるかわかんない」
「ですよね!」
某お笑い芸人の名セリフを決められてしまう。
「直ちゃん、頭大丈夫? ご両親がいなくなったショックでついにおかしくなった?」
「そう言いたいお前の気持ちはわかるが、俺の頭は正常だ」
「え?」
「だから心底意外そうな顔で訊き返すのやめろ。俺の頭が常に異常みたいに思えるだろ」
「まあ、その話を信じるとしても……キスってどういうこと?」
「それが俺の霊力らしい……。なんでも、あの本に触れたら霊力が宿るとかなんとか」
「え、そうなの? じゃあなんでわたしには宿らないの?」
……言われてみれば確かに。凛も霊本に触れていた。
「わからん。その辺りの説明はなかったからな」
「人によって宿ったり宿らなかったりするってこと?」
「かもな。適性みたいなものがあるのかもしれん」
「霊力? の内容も、人それぞれなのかな?」
「それもわからん。なんでこんな意味不明な霊力が宿ったのか、完全に謎だ」
「……ふーん、そっか」
「おい、なぜ一歩離れた」
「そういうのってさ、なんか潜在意識が影響を与えるみたいな話をよく聞くよね。ということはさ、つまり……そういうことだよね」
「おい待て! 憐憫を込めたジト目で見るな! 断じてそんなことは考えていない!」
「本当? 直ちゃん、自分に嘘ついてない?」
「うっ! いや、ほんと……だとも! 俺は清廉潔白を地でいく男だ!」
「ふーん、じゃあさ」
そこで言葉を切って目の前に回り込んでくる凛。そして俺に向かい合い、目と鼻の先まで近づいてくる。
「キス……しよっか?」
「——!?」
上目遣いでそっと囁いてくる凛。その声はとても色っぽく、直接脳に染みわたってくるような艶やかさを帯びていた。
「お前、何言って——」
「直ちゃん……?」
凛は俺の胸に手を添えて上目遣いで見つめてくる。至近距離にあるプルっとした唇は健康的なピンクでとても魅力的だ。……まずい、気を抜くとまた目を奪われそうになる。
「凛、ふざけるのはよせ。本気にしちまうぞ?」
「わたしはいつだって本気だよ? 直ちゃん——目を閉じて」
俺は無意識に目を閉じてしまう。……なぜだ? 凛の甘い囁きに抗うことができない。
数瞬の間の後——ピトっと、唇に何かが触れた。それは唇にしてはやや硬い感触で、違和感を覚えた俺はすぐに目を開け、その正体を確認する。
「どう? わたしの指、キレイでしょ?」
凛は右手の人差し指を俺の唇に当てて、いたずらっぽく微笑んでいる。
……やはり、な。こいつがキスしてくるとは万に一つも考えていない。ならば——
「わたしが直ちゃんとキスするわけないじゃない。これだから鈍い——って、ひゃあ!?」
俺は唇に押し当てられた凛の指を咥えた。そしてストローからジュースを吸うかの如くチュウチュウとすすってやる。
「んっ! ちょっと……直ちゃん、止めて……んんっ! ちょ、止めてってば!」
左手でポンポンと叩いてくる凛は頬をほんのりと上気させ、若干目をトロンとさせている。指が性感帯なのか、朝の通学路でとんでもなく色っぽい声を出す凛。すぐ近くの家の窓がピシャっと勢いよく閉まる音が聞こえた。……あーこれは少しまずいかもしれない。
だが止めない。
「ちょっと……あっ、ほんとに……んんっ! 止めてって……んっ、あっ、止めてって——言ってるでしょ!」
凛は左手で俺の胸を突き飛ばし、拘束から逃れる。……くそ、もう少しイジメたかったのに。
「信じらんない!」
凛は声を荒げて俺の奇行を非難してくる。だが、俺は真っ向から反論する。
「お前がキスするフリしてからかうのは目に見えてた。だからこれは天誅だ」
「そんなこと言ってわたしの指しゃぶりたかっただけでしょ! この妖怪指しゃぶり!」
「俺が『妖怪指しゃぶり』なら、お前は『淫乱キス未遂』だな」
「誰が淫乱よ! ていうか、女の子に向かってなんてこと言うの!? 最低!」
「お前が変なことするからだろう! 大体——」
そのままヒートアップする俺たち。ちなみにただいま学園に向かう途中の通学路であり、それも往来のど真ん中、朝八時十分の出来事である。
『はあ……はあ……』
何の生産性もないやり取りを延々と続け、さすがに息が切れてきた俺と凛。……だが、ここで諦めるわけにはいかない。
「凛、どうしても非を認めないんだな?」
「直ちゃんこそ、さっさと自らの過ちに気付いたらどう?」
お互いに譲歩しない。もう一度、俺たちは戦いに身をやつそうとするも——
「いつまで大声で痴話喧嘩してんだい! 非を認めて過ちに気付くのはあんたたち二人ともだよ!」
『ごめんなさい!』
窓からおばちゃんに怒鳴られてしまった。ほんとすいません……。
でもおばちゃん、一つだけ訂正させて下さい。……これは痴話喧嘩ではないです。