すべてがバターになる日
あまりにも暑い夏だった。
地球温暖化の影響で一秒ごとに気温が上がっていた。
暑さでおかしくなった僕たちは、まともにものを考えられなくなったのだった。
***
「センプーキ!」
とリンちゃんが言った。
「うん? 扇風機? ないよ?」
僕の部屋には扇風機はない。
クーラーがあるので必要ないと判断したのだ。
だが、本当に必要なかっただろうか。
扇風機があったほうがいいのかもしれない、と僕は思った。
「センプーキ! センプーキって、なんか、変じゃない?」
リンちゃんはテーブルに突っ伏したまま言った。
「変? 扇風機……扇風機。なにか変かな?」
「センプーキのプーキのところ、変だよ。日本語っぽくない。プーキって聞いたことないよ?」
「プーキ……プーキ」
言われてみればそうかもしれない。
「何かのメッセージかな?」
とリンちゃんが言った。
僕は扇風機の名前の中にメッセージを込める人物のことと、扇風機の名前の中に込められるメッセージのことを考えた。
「プーキ。プーキ」
「プーキ」
「プーキ?」
「プーキ」
僕らは「プーキ」と言い合った。
何かがつかめそうで、だが、それは形にはならなかった。
「もういいや。アイス食べていい?」
「いいよ」
と僕は答えたのだった。
***
冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「熱中症にならないために、こまめに水分補給をしましょう」というメッセージを、スマホで受け取ったからだ。
僕は熱中症になったことはない。
脱水症状になったこともない。
このなったことはないというのが曲者で、どうなったら脱水症状なのか知らないわけだから、「あっ、これはあぶない」と判断して対処することができないのだ。
仕方がないので、メッセージの通りにこまめに水分補給をするしかない。
手の甲辺りにメーターがついていて、「このラインを下回ったら水分を補給してください」と教えてくれたらいいのにな、と思った。
そういう家電製品はけっこうあるような気がする。
あれこれ考えながらペットボトルに口をつけると、「ピヨピヨピヨ」と音が鳴った。
ガバッとリンちゃんが起き上がった。
「なに、いまの音?」
「うん……僕だね……」
ペットボトルの水を飲んでみせる。
「ピヨピヨピヨ」と音がした。
リンちゃんは目を輝かせた。
「えっ、どうやるの!?」
「僕にもわからないよ……」
そう、わからないのだ。
子供のころからペットボトルで水を飲むと「ピヨピヨピヨ」と音がした。
やり方がわからないから、止めることもできない。
たまたま音が鳴ることもあるし、ならないこともある。
本当にどうにもならないのだ。
「ピヨピヨピヨ」と音が鳴ることで村を焼き払われ、見世物小屋に売られ、そこで世界的な音楽家との運命的な出会いをし、つかの間の栄光、そして思い通りの「ピヨピヨピヨ」を出せないことによる挫折、巨大なホール、埋め尽くされた観客、どう頑張っても出てこない「ピヨピヨピヨ」、「ピヨピヨピヨ」なんて、そんなものなかったんだという評論家と観客たちの嘲笑、最後まで僕を信じてくれた音楽家。
波乱万丈の人生を思い浮かべていると、リンちゃんが冷蔵庫からペットボトルを持ってきた。
そして思い切り吸い込んで、のどに詰まらせて、ケホッケホッとのたうち回るのだった。
「あぶないからやめようね」
「うん。やめとく。アイス食べていい?」
「いいよ」
と僕は答えるのだった。
***
「ねえねえ! あれなにかなあ?」
リンちゃんが窓の外を指さす。
道路に薄い黄色の液体が広がっていた。
「ああ、あれはバターだね」
「バター?」
「そう。暑すぎたから、歩いてた人が溶けたんでしょ」
「へー!?」
リンちゃんは道路を見つめる。
窓から見える空は青一色。
建物の輪郭はわざとらしいくらいにくっきりとしている。
部屋の中はクーラーをかけているからそれほど暑くないけれど、外に出たら大変な暑さだろうな、と思う。
「人間って暑いとバターになるんだね?」
「そうだよ? いま海に行ったら、たぶんバターの味がするよ?」
「へー!?」
リンちゃんが目を輝かせた。
余計なことを言ってしまった、と思って、
「でも海に行くまでに溶けちゃうから、今日は外に出るのはやめようね」
となだめるのだった。
リンちゃんはしばらく考えて、
「あそこにジャガイモを投げ込んだら、バター焼きができるかな?」
と言った。
「たぶんできるけど、あんまり食べたくなるようなものでもないし、やめようね」
と僕は答えた。
「このままどんどん暑くなると、みんなバターになっちゃうのかなあ」
「たぶんなるだろうね」
僕らは窓の外を見つめた。
特別悲しい気分にはならなかった。
「バターかあ……」という気分だった。
リンちゃんは振り返り、パッとリモコンを拾って操作する。
そして、
「どんどん暑くなって世界中のみんながバターになって、最後の生き残りになるまでゲームしようね」
と言った。
「よーし、やるか」
と僕は答える。
ゲームを起動して、リンちゃんがつぶやく。
「そうだ、アイス食べていい?」
「いいよ。僕のもお願い」
と答えるのだった。




