おかえり!
彼女の墓の前で、咲良は息を整えた。
取るものもとらず、彼は生まれ故郷へと帰ってきていた。実家へ行く前にまず足を運んだのは、彼女の墓の前だった。家族が綺麗にしているからか、まだ生き生きと花びらを広げている仏花。線香を差す穴も綺麗に掃除されている。咲良は花の水を替えると、改めて灰色の墓を見上げた。
「ごめんな、すっかり弱っちい男になってたわ」
苦笑いでそう言って手を合わせる咲良の鼻を、線香の香りがくすぐった。
それからしばらく、語りかけるように言葉を紡ぎながら、咲良は自分の心も少しずつ洗われていくような気がしていた。
「全部受け止める。それで、また前に進む。やっぱりアイツの方が、ずっと男前やわ」
咲良は、ニッと彼女の墓に微笑みかけ、踵を返した。
実家の両親も、驚きの声を抑えられなかった。
「あんた、帰ってくるなら来るって言うて!なんかあったんか?金なら無いけどな!」
「お前の部屋、片付けようと思ってたんやで!ワシの書斎にしよう思って」
「あんた、本も読まんのにか?」
「新聞は読んどるやろ」
相変わらずの両親のやり取りに、咲良はホッとして肩を下ろした。
一人息子の咲良だったが、過保護にはされず、むしろお互いを干渉しない家族の中で育っていた。だが、彼女を亡くした時の落胆ぶりには流石に動揺し、一緒に悩んでくれた。家を出たいと言った時も、さほど強くは止めず、何かあったらすぐ帰ってこいと送り出してくれた両親に、咲良は感謝しかなかった。
「ほんま、俺は幸せもんやな」
ポツリとそう言って、半年ぶりの実家のコタツに潜り込んだ。
その頃伊月は、恭子に食事に誘われていた。とはいえ、居酒屋でほろ酔い状態での他愛もない会話。その日はもちろん、咲良の話が多く出ていた。
「ったく!怪我させた相手を放っておいて、一体どこに行ったのかしら!伊月に何かあったら、責任取れるの?気が知れないわ!」
肩をすくめて大手を振ったり、大袈裟に見える手振りでハイボールに口をつける恭子。それを苦笑しながらなだめる伊月。
「仕方ないよ。すっごく大事な用事を思い出したみたいでね。」
「人の命より?」
「大袈裟だなぁ。あの後ちゃんと病院行って診てもらったし、大丈夫だってば。」
「はぁ〜〜あんたってお人好しだねぇ。もしこのまま帰ってこなかったらどうするのよ?」
「う〜〜ん……」
伊月は、ビールの泡を通して遠くを見た。
「帰って来ないかもねぇ〜〜」
「いいの?」
「え?」
「帰って来なかったら、あんたの相手誰がやるのよ?」
「まぁその時はその時で」
伊月は小さく笑った。恭子は
「ホントは寂しいくせに」
と、鼻で笑った。それには答えず、伊月は微笑みながらビールを飲んだ。
それから一週間経っても、ジムに咲良の姿は無かった。表情を読むかのように視線を送る恭子に構わず、伊月は前と変わらず身体を動かしていた。バシンバシンとサンドバッグに蹴りを入れ、ほどよくほぐれたところで、リングに上がった。
女性でスパーリングをしようとする人はほとんどいないので、伊月はいつも男性と拳を合わせていた。コーチの永井が、伊月に無理の無いレベルを考えて人選するので、滅多に怪我をすることはなかった。
この日も、永井が指名したまだ通い始めて間もない男性が、伊月の前に立った。
「なんでこんな細いやつと……しかも女だなんて」
彼は少しふてくされた様子で鼻息を荒くして、バンバンとグローブを合わせる。特に気にする様子もなく、伊月は肩を回してゴングを待っている。
いつもの光景だ。
そして数分後。
リング上に倒れていたのは、男の方だった。
「ふう……」
大きく息を吐いて、グローブを外す伊月。すると
「相変わらず、容赦ないなぁ!」
覚えのある声が響いた。
視線を移すと、リングの端に寄りかかりながら、ニヤニヤと笑う咲良の姿があった。少し目を見開きながら、伊月はヘッドガードを脱いだ。
「なんで、戻って来た?」
汗を拭きながら淡々と言う伊月に、咲良は目を丸くした。
「え〜〜!さみしかったんちゃうん?驚いたやろ?嬉しかったやろ〜〜?また相手したるで!」
満面の笑顔で腕を回す咲良に、伊月はため息をついた。
「もうここに居る理由は無くなったはずだろ?」
その言葉に、咲良はフッと口元を緩ませた。
いつもの居酒屋で二人は並んで酒を酌み交わしていた。あの後、咲良は以前のように軽い口調で伊月を飲みに誘った。伊月もまた、ニッと笑って、うなずいた。少し離れた受付に座っていた恭子が、カウンターに両肘をついてニコニコと頷いていた。
「ま、とりあえずのビールや!おかえり〜〜、俺!」
「相変わらず阿呆だな」
「お!アホは最高の褒め言葉なんやで」
咲良は伊月のグラスに自分のソレを軽く当てて、美味しそうに呑んだ。それを横目に、伊月も乾いた喉を潤す。汗をかいた後のビールが、身体中に吸い込まれていく。
フゥ、と一息ついた伊月に、咲良の声が届いた。
「しばらくな、あっちで思い出巡りしてたんや……」
しんみりとした声だった。
ーーーー
彼女の墓参りの後、しばらく実家に泊まりながら、咲良は生前彼女と一緒に行った場所を回っていた。全部とはいかなかったが、ランドマークや商店街、季節の移り変わりとともに二人が近づき楽しかった日々を、思い返していた。そうする事で、必死に忘れようとしていた自分がスッキリと洗われるようだった。
「忘れるなんて出来ん。ずっと心に張り付いたままや。どうやっても離れん。……でも、根底から間違っとった。そう気づかされたんや」
コトン、とビールのグラスを置いて、咲良は伊月を見た。
「伊月、お前にな」
「おう」
彼女は、ニッと八重歯を見せて微笑んだ。
「それを伝えにわざわざ?」
「いや。それもあるけど、もうひとつ。この間聞きそびれたやろ?伊月のこと、教えてや」
「何を?」
「伊月、何か隠してないか?ちゅうか、抑えてる……気がするんや。俺と同じように、それを振り切りたくて、無茶してるようにみえる」
「考えすぎだよ」
伊月は、フッと笑ってビールを飲み切った。そうやろか、と咲良は首を傾げたが、それ以上聞いてももう何も返ってこないと分かって、言葉を止めた。その時
「おっと!ごめんよ〜〜」
咲良の背中に、男が寄りかかった。酔って足元がふらついていた。ぶつかった拍子に、咲良のグラスからビールが溢れ、シャツが濡れてしまった。そのまま去ろうとする男。
「おい!」
立ち上がって声を上げたのは伊月だった。
「言い方があるだろうが!見ろよ!シャツが濡れて台無しだ!」
「はぁ?なに?」
酔っ払いは、開き直ったように伊月に振り向いた。そして取り持とうとする咲良と交互に見て、ニヤァと口元を歪めると
「最近多いんだよなぁ〜〜ゲイっていうの?気持ち悪ぃやつらがよぉ?ちょっと頭冷やしたほうが良いんじゃないのぉ〜〜?ちょうど良かったじゃねぇかぁ」
と、酒臭い息を吐きながら笑った。それにプチンとキレた伊月。思わず握った拳を男に見舞おうとしたが、すんでのところで咲良に止められた。
「やめとけ伊月」
「なんで!」
「はははぁ〜〜意気地なしか。来いよ」
ふらつきながら椅子に手をつき、片手をチョイチョイと振りながら煽る男。唇をキュッと結んで、今にも殴りかかろうとする伊月を制しながら、
「いいからいいから。ここはひとつーー」
と言いつつ、咲良は手元のグラスに入った水を男にかけた。
「うわぁぁっ!」
「あんたが頭を冷やすってことで」
ニヤッと笑って、咲良は伊月の頭をポンポンと撫でた。
「追い出されたな……」
ポツリと言う咲良。
「結果、そうなるだろうね。パンチが当たってもそうなってたさ」
しばらくの沈黙の後、二人は弾けるように笑った。
「咲良もひどいね!よくもあんな……」
「伊月だって、あいつの顔潰そうとしてたやろ!あかんでそれは!」
「だってーー」
伊月は言葉を失った。咲良はもう笑っていなくて、まっすぐ彼女を見つめていた。まるで、蛇に睨まれたカエルのように、伊月は固まってしまった。
「ありがとな」
突然の優しい言葉に、伊月は動揺していた。それを見て、咲良は微笑んだ。
「可愛いな、伊月」
「や、やめろ気持ち悪い」
慌てて取り繕う伊月を、咲良は思わず抱きしめていた。
「俺が協力したる」
「え?何を?」
「女にしたる、言うてんねん」
「はぁ?」
驚いて離れようとするが、咲良は腕の力を緩めようとしなかった。
「おい、離れろって!」
「まずは、その成りやなぁ〜〜もうちょっと可愛らしい格好をしてやな、メイクもちゃんとしたら〜〜もっとええんちゃうかと思うんやけどな」
伊月がもがくのも気にせず、独り言のように言う咲良。やがて諦めて大人しくなった伊月が、ポツリと言った。
「臭い……」
「は?」
「ビール臭い」
「うわぁっ!」
慌てて離れる咲良。さっき引っ掛かったビールは、まだシャツに染み付いたままだった。
「す、すまん……」
フゥ、と息を吐いて、伊月は髪の毛をかきあげた。
「風邪引く前に、早く着替えたら?」
「んじゃ、近くのホテルへーー」
みぞおちに拳を入れられて悶絶する咲良を置いて、伊月は去って行った。