おかしな友達
その日はいつも通りの賑わい。整然と並べられたマシンが、それぞれ規則的に動き、ソレらに合わせていくつもの荒れた息遣いが空気を揺らす。
麻木キックボクシングジムは、小さいながらも世間の流れ通りに客足を伸ばしていた。ガシャン、ガシャン、と肩を締めていた日向咲良は、フウッと息を吐き締めると、マシンを降りた。広い肩とキュッと締まった腰が、綺麗な逆三角形を作っている。腹のシックスパックも、だいぶキまってきた。咲良は満足そうに口角を上げた。
「そろそろ、かな」
充分に熱くなった上腕二頭筋をゆっくりとさすりながら、視線を挙げた先には、部屋の隅に設置されたリングがあった。青いマットに赤いロープが映えるなか、所々にほつれや汚れが目立つ。どこかのプロレス団体が潰れた際に格安で譲り受けたものらしい。なるほど、よく使いこんである。ただ、格闘技用に改良してあるので、マットから余計な音が出ることはない。
そんなリングの上では、軽快に足音を立ててスパーリングをする二人の姿があった。ヘッドガードしていて顔は見えづらいが、長身のガタイの良い男と、細身で小柄な男、どちらも身体のさばき方は俊敏で、互角に見えた――が、一瞬の隙に長身の相手が腹に拳を入れられて、時間は止まった。
「へぇ!あんた、強いなぁ!」
思わず声に出た咲良。関西弁のよく通る声が、リング上に響いた。小柄な男が、ヘッドガードの隙間からチラッと咲良に視線を送った。そして、礼をするかのようにペコリと頭を下げた。それを見て咲良はひょいっとリングに上がると
「今度はオレとスパーやってや!」
と、意気揚々と腕を回した。するとレフェリー兼コーチをしていた永井が苦言を呈した。
「伊月はまだ終わったばかりだ。少し待ってろ」
確かにまだ息の上がる相手に、すぐに二戦目を要求するのはフェアじゃない。咲良は諦めて踵を返した。その背中に、声が飛んだ。
「いいっすよ」
永井は戸惑った顔を見せたが、伊月の余裕を含んだ口もとに、フッと肩をすくめた。
やった!とばかりに、咲良はヘッドガードを掴んで準備をした。
「いやぁ!ほんま強いな!自分、どっかで選手か何かやってたんか?」
リング上に転がって息を整えながら、咲良は笑った。勝ち負けはどうでも良かった。身体を思い切り動かせる相手と出会えた事が嬉しくて仕方なかった。
身体を起こそうと力を入れると、さっき強烈に入れられたみぞおちが痛んで、小さな声が出た。
「負けておいて、そんな満足そうにするヤツなんて初めて見たぞ」
永井が出っ張った腹を揺らして笑った。
もともとこのキックボクシングジムは、プロ志願がほとんどいない。たまに場所が無くて転がり込んでくる選手もいるが、ほとんどの会員は、ダイエットやカラダ作りが目的で来ている。世間の流行りとはそういう事だ。
「あれ?伊月は?」
ふと辺りを見回すと、彼はすでにヘッドガードを取ってリングを降りていた。
「なんや!愛想悪いなぁ!」
咲良は膨れてあぐらをかいたが、永井がその背中を軽く蹴った。
「次が待ってる!邪魔だ!」
蹴られるままにコロコロとリングを転がりながら、咲良は伊月の背中に声をかけた。
「なぁ!今度またやろうや!」
伊月はタオルで汗を拭きながら振り返ると、ニッと微笑んだ。チラッと見える八重歯が光った。
「いいっすよ」
それから二人は、顔を合わすとなんとなく話すようになっていた。コーチも挟んで、お互いの弱点を強化しようと協力したり、プロ志望ではないにしろ、それでも真剣に強さを求めた。なにより、お互いに気持ちよく力を出し合えるのが、一番の楽しみだった。
佐野伊月は、咲良が通いだす数ヶ月前からジムに通っていた。
最初はヒョロヒョロの頼りない身体だったが、週三で真面目に通ううちに、しっかりと整った筋力をつけていた。何より軽量で素早さを得意としていたから、重いパンチやキックよりは、急所を狙って的確に入れる事を念頭にしていた。
「なぁ、伊月は何を目指してるんや?将来は選手で稼ぐつもりとか?」
「まさか!体力作りと、自己防衛……かな。咲良はどうなんだよ?」
笑いながら伊月は答えた。明るい笑い方が、聞いている方も気持ち良い。
「俺は、まぁ、ストレス発散、やな」
咲良はニッと笑って、ドリンクを飲んだ。頬を伝う汗が気持ち良いくらいに動いた後は、身も心もスッキリする、そんな気持ちを伝える咲良に、伊月も微笑んで頷いた。
「なぁ、この後、用事ある?飯でも食いに行かん?」
「特に用事は無いからオッケー!」
「よっしゃ!いこ!」
パンッと両膝を叩いて、咲良は嬉しそうに立ち上がった。
次の瞬間、彼は思わず伊月の腕を掴んでいた。
「おい!」
「は?」
キョトンと振り返る伊月。目の前には、女子更衣室のドア。
「お前、間違ってるって!男はコッチやろ?」
そう言いながら指す隣のドア。伊月はそっちを見やると、咲良に視線を戻した。
「……それで?」
「それで?って……えっ?まさか?」
咲良はハッと腕を離すと、蒼い顔で後ずさった。伊月は、ニッコリと微笑んでいる。どこか刺すような光をたたえる瞳に、咲良は視線を泳がした。
「いっ!いや、ごめん!まさかオンナ、とは――すまんっっ!」
そう言って、咲良は慌てて男子更衣室に消えて行った。
ドアを閉めた途端、咲良は高鳴る鼓動を抑えきれなかった。今までどんなに激しいトレーニングをしていても、ここまで荒れたことはない。
気まずい……
しばらく立ち尽くしたまま、茫然としていた。
数十分後、フラッとジムを出た咲良は、再びビクリと体を硬直させた。
出たところの扉の横に、伊月が壁にもたれかかって立っていた。
「うわっっ!伊月!」
帽子を目深にかぶっているからか、細い顎と首すじが余計に華奢に見せる。シャワーも浴びTシャツも着替えて、スッキリした様子で居た伊月は、ニッと笑った。
「遅かったじゃん?受付で聞いたら、まだ出てないって言ってたから、待ってた」
何事も無かったかのように微笑む伊月だったが、咲良にはそれが怒りの笑顔にしか見えていなかった。彼は慌ててまた深々と頭を下げた。
「さ、さっきはホントにすまんかった!てっきり、オトコだと思っててやな……傷ついたよな?」
伊月の顔を見られない咲良を覗き込んで、彼女は言った。
「別に怒ってないよ」
「へ?」
「ほら、名前もこんなだし、胸も無いし、言葉遣い悪いし、オトコと互角に戦えるし、勘違いしても仕方ないよ。それとも、オンナだからもう無理?」
「い、いや、そんな事は、無いけど……」
「じゃあ行こ!腹減ったぁ!」
楽しそうに踵を返す伊月に完全に気圧された咲良は、大人しく付いていくしかなかった。
結局、近所の居酒屋に席を取った二人は、ビールのグラスを鳴らした。
「な、なぁ、ほんまに怒ってへん?」
「うん?まだ言ってんの?気にすんなって!ほら、何にする?」
メニュー表を片手に、もう片方はビール。完全におっさんスタイルでいる伊月。その格好に、咲良はやっと笑いがこみ上げた。
「変なやつやな」
「早く!何にする?」
「そうやな、まず唐揚げやろ?それから焼き鳥も頼もか、それからーー」
「鶏ばっかやな」
まるで漫才のように言い合いながら、二人はすぐに打ち解け、それから他愛のない話をしていると、すぐに時間は過ぎていた。
「また、呑もうね!」
「そうやな、楽しかったわ!」
伊月の八重歯の映える笑顔に、咲良はホッとした。自分の失言で少しでも傷つけてしまった事は申し訳ないが、それを払拭させてくれるほど、楽しい時間を過ごせた。
「送ろか?」
「大丈夫!すぐ近くだから、歩き。咲良は?」
「俺はひと駅向こうや。そっか、じゃ、またな!」
軽く手を振って、二人はお互いに背中を向けた。また少し仲良くなれた嬉しさに、軽い足取りでいた咲良は、はたと立ち止まった。
「連絡先とか、交換するべきやったかな?」
空を仰いで考えたが、すぐに肩をすくめた。
「また、ジムで会えるやろ」
次にジムにおもむくと、楽しそうに伊月と話す受付嬢の平野恭子の姿が見えた。
「あれ?二人、仲良かったんや?」
咲良が話しかけると、伊月はニッと笑った。
「恭子とは同級生」
「あんたが伊月のことしばらくオトコだと思ってたのも、見てて笑えたわ」
意地悪そうに笑って、恭子が細い目をした。咲良はハアッと額に手を当てると
「やめろや!ほんまに申し訳ないと思ってるんや!」
と嘆いた。それに笑いながら伊月が
「もう気にしてないって!恭子もあまりいじめるな!」
といなした。
「で?」
と、恭子は二人を見た。
「付き合うの?」
いきなりそう聞かれ、思わず咲良は息を飲み、言葉を失った。その横で伊月が
「ないない!」
と手を振りながらケラケラと笑った。咲良も思わず、その言葉に同調するように何度も頷いて
「おう、ないない!」
と手を振った。恭子は、なぁんだ!と椅子の背もたれに思い切りもたれて、クルッと回った。
「つまらない」
「やめなって」
伊月はニッと笑って恭子の頭をポンと撫でると、更衣室へと入って行った。
残された咲良に、カウンターに肘をついた恭子が下から見つめた。
「そうなの?」
「えっ?あ、あぁ、俺はそんなつもり、無いからな。向こうはどう思ってるんか知らんけど」
咲良もやっとニッと笑うと、更衣室へと消えて行った。パタンと静かに閉められるドアを細目で見ながら、恭子はフゥ〜ン、と鼻で笑った。
その後も、二人はライバルのように競い合ったり、時には呑みながら親友のように語り合ったりして、お互いの距離は近づいているように見えた。
それでも男女の仲まで行かないのは、理由があってのことで――