アガペーを教えて
午後四時、放課の号鐘を迎えて学校は学習の場としての機能を閉じる。代わりに開かれるのは生徒のための時間であり、学校もまたその為の場所となる。
先ほどまで不良集団の学業からの避難所となっていた中庭は、チアリーディング部のリハーサルの場になり、数学、日本史、英語、折々の地獄の仕置き場として本来用意されている部屋には吹奏楽の部員がそれぞれの役割ごとに練習に励んでいる。
校庭などは言うまでもなく、大勢の体育会系の部活動の生徒たちが各々汗をまき散らしながら、時にアナクロというほかない根性論に虐げられ、時に同じく校庭を活動拠点とする他の部活動との領土、国境問題に取り組みながら彼らなりの青春のために日々精を出している。
僕はこの放課後という時間が好きだ。それは授業時間との相対的な物だけでなく、むしろその授業時間を経て、というところにその本質的な価値があると考えている。日々の労働あってこそ休日に輝きが宿るように、自らの生活をより豊かで快適に、そして怠惰に過ごすために勤勉に励み、忙しない進化をやめない文明のように、皮肉なことに我々人間が望むものはいつでも我々が心から望まないものの腹の中にあるようだ。
話はそれたが僕は放課後が好きだ。僕は楽器の心得もない、運動の方も自慢できるほど不得手だ。それでも、こんな僕にもやはり放課後というのは平等で、僕は僕なりの充実した放課後を過ごしている。
僕は本が好きだ。本は平等だからだ。僕のように特筆すべき特徴や特技のない人間にとって平等であることは最後の救いだ。本は読むのも勿論、書くことも好きだ。いつ始めてもいいし、いつやめてもいい。1からどころか0から自分の思うままだ。それに本を書くこと、読むことは得手不得手はあっても許可不許可はいらない。
僕は本が大好きだ。
だから僕は、文芸同好会を設立する事にした。僕の好きな放課後に、僕の好きなものを添えて、僕は僕の青春の、自給自足を試みた。
学校への事務手続きの結果、三棟横並びの本校の中で最も年季の入った校舎の旧棟の三階、第二数学準備室を部室として提供してもらえることになった。旧棟は電気が通らず、夏は外より暑く、冬は窓の内側に霜が降りるような環境だが、思い立ったが吉日と部員も集めず単身乗り込み交渉した結果としては大健闘といえよう。住めば都、石の上にも三年という。もっとも三年では快適に感じた頃にはこの部屋を去ることになるわけだが…
とにもかくにも始まったのだとこれからは部室と呼ぶべきその部屋のカギを受け取ろうとしたその時、学年主任の先生がこうつぶやいた。
「その部屋はあいにく相部屋となっているから、まあ、後のことは当事者同士で解決するよるように」
かくして僕の放課後は産声を上げたのだった。
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「アガペー、って知ってる?」
それが独り言でなく自分に向けられていると気づいて三秒、反応待ちのうざったい問いかけに僕は声の方に顔を向ける。
「何ですか急に」
声の主は顔を傾けながらこちらを覗き込むような姿勢でこちらを見つめていた。逆光となって差し込む光も相まってかこの部屋の主のような風格を醸し出しており、その右手には短編小説ほどの厚さもない『完全解剖!キリストの教え~よきソマリア人の譬えに倣う現代人の愛の在り方~』という本があった。
「…また本の受け売りですか」
「そう!知ってる?アガペー」
そう言って知ったばかりの知識を小学校男子のように振る舞ってくるこの女子高生は、誉れ高くもこの第一高等学校の『非』公認部活動団体「愛ノ研究室」の創立者にして団体責任者の「鈴笛小織」である。
「知らないです、食べ物ですか?ミミガーみたいな」
「違うよ!…あーでも知らない横文字って、なんとなく食べ物か人名かなって先入観持ちがちだよね」
そう言って彼女はやれやれといった風なそぶりでアガペーとやらの説明を始めてくれた。
「あのね、ミミガーっていうのはね」
「アガペーでしょ」
「死ね」
「ええ」
「あのね、アガペーっていうのはね、キリストの教えの中にある三愛のうちの一つのことなんだよ」
先ほどの本を開き、おそらくその部分に触れているのであろう頁を読み上げながら小織先生の宗教学は続く。
「いっちゃん一般的なのは『セックス』、性愛ね。交際したいとか結婚したいとかそういう類のやつ。」
「年頃の小娘がセックスて」
「お前みたいに言葉一つとっても見境ない男子って国語辞典で抜いたりするの?」
そう吐き捨てる彼女の表情は、宇宙人のうんちを見るような疑問と軽蔑の混じったそれだった。
「…で、次が『フィリア』、友愛。これは友達だけじゃなくて家族愛とかペットに対する好きとかも含むみたい」
「え、フィリアってあれじゃないの?性癖的な奴」
「今だと性癖の種類を表す際に使われがちだけど、元々はこういう意味なんだって」
なるほど、愛と来たら次は性って風潮は根深いなんてどっかで聞いた気もするけどこういうのを聞くとなるほど納得である。
「それで、さっきの『アガペー』は最後の愛。隣人愛なんだって」
「ん、ああそれでキリストか」
汝の敵を愛せ。イエスキリストの凄さ、神聖さを一つも理解できない信仰心0の僕でもこの言葉を口にできる心理だけは共感できなくても感心してしまう、キリストが信仰の対象とされる所以の一端が表れた言葉だと思う。
「この隣人っていうのは、つきつめると自分の敵になる相手を含めることになるんだって。そういう平等で無償の、神様がくれるみたいな愛のことをアガペーっていうんだって!」
前提を踏まえての待望のアガペーのお披露目に小織先輩もご満悦の様子だ。
「そうなんですね、為になりました。明日クラスの友達にでも自慢してみようと思います」
「んもー…あんま興味ないです感が逆に露骨な返しやめてよ…」
あんまりどころかさっぱり興味がない。話しかけられるまでの間、僕は僕で本を読んでいる途中だったのだ。
「…というか、そのアガペーが一体何だっていうんですか。」
「いやさね、あたしらって愛の研究をしてるわけじゃん?」
「わたし、です僕は関係ないでしょう。僕文芸部ですよ何度も言ってますけど」
「やいやいや、ほらナベセンも言ってたじゃん、部室は相部屋だからねって」
「ルームシェアしている者同士でも、最低限譲れないプライベートゾーンがあります。部活のなし崩し的なM&Aには応じれません、完全に領土侵犯です。」
「わっかんないんだけど、何言ってんのか、なに英語?」
分からないのはお前がこの学校の偏差値に届いてないくらい知能が発達してないからだと言い返してやりたかったと後で思った。
「いーじゃん!どうせずっと本読んでるわけじゃないんだしさ、ひまなときにあたしの話に付き合ってくれるみたいな感覚で良いから!」
「…というかその本も僕のために先生が集めてきてくれた本ですからね」
「いやーナベセンもさ、何考えてこんな本買って来たんだろね?洗脳?」
小織先輩の言う事もわからなくはない、この部室の管理担当をしている渡辺先生は、基本的に僕の活動に対して初めからかなり肯定的な感触を示していたひとだった。そして活動が決まってから、初めての活動日まで中古ではあるが本を寄贈してくれているという有り難い人物であり、全く僕は頭が上がらない。
…とはいえ、いやこれほど僕の活動に対して手厚い支援をしてくれている相手に文句を言うのも罰当たり極まりないと思うのだが、渡辺先生の本のセンスはいささか、というかかなり大衆向けではない。海洋哺乳類の生態についての文献や金塊の掘方、軍事関連の歴史の専門書など、逆に世の中にあり触れているような恋愛小説や自己啓発本、SFなどのジャンルの本は寄贈されたものの中でも数えるほどしかない。
今小織先輩の持っている宗教学の本も勿論渡辺先生のセンスである。
「なんかここ難しい本しか置いてないし」
「ねえねえ、後輩はさ、好きな人とかいんの」
「…はい?」
「好きな人、いんのかって」
どうしてこうこの人は自分の中だけの脈絡で話を進めるのか。
「…まあ、そりゃ僕にだって気になる相手ぐらいいますけど」
失敗だった。その答えはどうやら小織先輩の関心の核を的確に刺激してしまったみたいだった。
「まっじ?いるんだ!誰誰誰?同じクラスの子とか?」
「いや言わないでしょ何でですか嫌ですよ」
「゛ええー!いーいじゃーん教えてよ別に誰とかまではわかんないんだしさ」
思うが知人の意中の相手というだけで名前まで特定したがる風潮は何なのか、今わからなくても後々情報を元に特定作業を始めだすとしか思えない。どれだけ他人の交際関係を把握したくたまらないというのか。
「言いませんて、先輩みたいな人に好きな人教えるのなんてFXくらい危ないですよ」
「あ、知ってるよそれ株でしょ」
株は株だろ、あんまり詳しくないけど。
先輩は先ほどまで流行語を生みだすほど興味のあった本を既にうちわ代わりに自分を扇ぎだしている。
「ええーつまんな。たまにはさ後輩も自分のこと喋ってくれてもよくない?学校ある日はほぼ毎日ここで会ってるんだし、割と仲良くなった気でいたんだけどあたし」
僕が毎日部活に来ているのは僕自身の活動をしたいからに他ならない、僕に言わせれば逆に小織先輩の方が毎日この部屋を訪れるのかの方が疑問である。
「や、まあ確かに部室来るときはもう先輩は居るものとして考えてますけど」
「え、なになにそうなん?じゃさ、私が学校ブッチして部活来なかったりしたら後輩寂しい?その日は帰ったりするん?」
何やらからかったような笑顔で煽ってくる先輩の問に自分の何かが引っ掛かった。
「いやそれは全く、本来の部活動の姿に戻るだけですし、一人でも部活動は続けますよ。勧誘活動をするのもいいかもしれませんね」
「うっそ何それ、あたしいんのに別の部員欲しがるの?」
いやあなたは文芸部員じゃないでしょうが…。
「じゃあ逆に先輩は僕いなかったら部活切り上げて帰るんですか?」
…言ってから気づいたがなんだかとても自惚れた質問ではないか。なにやらとてつもないチャンスボールを渡してしまった気がする。この言い方ではまるで先輩と同じように返してほしい答えが決まっているような物言いではないか。
いや、そもそも僕には望んでいる返答などない。何より先輩と同じようにとはどういうことだ?先輩はどう返答してほしかったというのか、自分は今の問でどう返してほしかったというのか。知らん。全く見当がつかないしそのような邪なことは考えを働かせたこともない。待て邪とはどういうことだ。先輩は邪な事を考えていたのか?いや分からんが、だが先輩が邪な事を考えていたと言う事は先輩の考え=自分の考えならば、邪なのは僕?僕が邪なのか?先輩の邪な考えはそのまま僕の考え?僕は先輩なのか?邪な先輩とは僕のことだったのか?まずい、手に負えなくなってきたがとにかくこのままなのはまずい、とにかく先ほどの質問をなかったことにしなくては。
「えーどうしよ、んーーー…後輩居ないんならつまんないし帰るかな」
邪な先輩だった。
「…い、いやおかしいでしょ、部員でもない僕がいるいないで部活休まないでくださいよ」
「え、後輩ってうちの部員じゃないの?」
「それは本当におかしいでしょ」
「冗談だって、でもやっぱり普通に帰るかな後輩居なかったら」
どうして僕にそこまでこだわるんだこの先輩は、まただ、自分の中の何かが所在なさげな、落ち着かない感じだ。
「だって後輩好きであたしここに来てるし」
「……え、」
何ていったんだ今?なんだか聞き取りにくい、耳もとで換気扇のようなものがなっているように何かの音がうるさい。反対に視界は人生で一番鮮明かもしれないほど、角膜が4kになっているのかというほどに。
「あたし好きだよ、後輩のこと」
ざわつく、何かがずっと鳴っている。
「や、やめてくださいよそういうの、あんま好きじゃないですよそういう系」
やまない、しっかりと鳴っている
「後輩はさ、あたしのことさ、…嫌い?」
こみあげてくる、なんなんだ、何かが、多分良いもの…だけではないものだ
「嫌いではない、です…それは、はい、そうですね、間違いなく」
言葉が出るとなんだかしっかりとした感覚を取り戻せる。ざわつきはさっきよりも強くなっている、視界も鮮明だけどなんとなく視野狭窄な感覚に陥る。
「そっか、じゃあ」
「いや!」
「えっ」
自分でも突然でた声に驚いた。
「やっ、あの…えと、多分、何ですけと嫌いじゃないっていうのは、その今先輩が言おうとしたことに直結している、かは、わからないです」
「…そっか」
絞り出すように出る言葉の一つ一つが静電気のようにピリピリと妙な不快感を走らせる。先ほどからの原因不明で前例のない心境だが、自然と受け入れているような、どうすればいいかがなんとなくはっきりしているような気がしていた。
「わからないんです。嫌いじゃないことははっきりしているのに、それだけがどうしてもはっきりとわからないんです」
「うん」
「先輩」
「なに?」
「僕は、先輩のことが好きなんですか?」
「…あはは!何それ、フツーこういうのって疑問形じゃなくない?」
「す、すいません」
「…いいよそれで、嫌われてはないんだよねあたし」
その言葉は僕に向けられたものなのか、そうでないのかはなぜかわからなかった。けどその時の小織先輩の表情は、なんだか神聖さを感じさせるようなもので、微笑みのような、悲しいのを我慢しているような、そんな表情だけが夕暮れ時の赤橙の逆光の中さえ視界に映る何よりも鮮明に映っていた。
「じゃあ教えてあげるよあたしが、君の私に対する思いが何なのか、あなたがあたしのことをどう『好き』なのか」
「や、あの好きって言葉出されるとなんか恥ずかしいです」
「あははいーじゃん、あたしも言ったんだし」
「そういう問題ですかね」
「だからさ。あたしが教えてあげるよ、愛ノ研究室の代表責任者としても、君の問題解決は活動の本分になるわけだし」
「…前から思ってたんですけど、その新興宗教団体みたいな部活の団体名ダサすぎるんでやめた方がいいですよ、怖いし」
「えっ割とありじゃない?」
部活勧誘の時とかどうする気なんだろうこの人。
「…まあとりあえずじゃあ、そこまで言うなら教えてもらうとします。このす…気持ちが具体的に何なのか」
「そだねー、どうする?セックス的な意味合いだったら?」
「本当やめてください今それ出すのありえないです最低ですよ」
「いやきみも反応してたのにズルじゃないそれ?」
いやそうだけど、今の状況ではなんか一番駄目だろ、気まずいばかりだろ
「えーじゃあ、フィリアみたいに友達とかみたいな感じのすきなの?」
「そ、そういわれるとなんかそれもしっくりこない、…というかそれをこれから調べてくってことじゃなかったんですか?」
「あっ確かに」
この人って研究者とか求道者の持ってるはずの忍耐力が足りなすぎるんじゃないのか。小織先輩はあーそうかとか結局かとか訳の分からないことをつぶやきながら教室内を熊のようにぐるぐるとうろつき始めた。
その時、最終下校時間を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、もうそんな時間か」
「本当だ、じゃあ続きはまた明日から考えてく、ってことで」
そういわれてふと、さっきまでのざわめきや視野狭窄のような感覚がなくなっていたことに気づいた。
と、同時にさっきまでの先輩とのやり取りがなんとなくむず痒いような、結局いろいろと先輩のペースに流されていて、それをなんとなく気持ちよく受け入れてしまっている自分がいたような気がして、
「先輩」
「ん?どしたん」
「もしも僕の好き、がアガペーだったらどうします?」
なんだか一つだけ、反撃してみたくなってしまって、そう聞いてみた。
「…んふふ」
「ん?」
「そしたら後輩は、あたしでアガペーを知るんだね」
…しまった。
「先生から教えてもらうよりも先に、何かの宗教の神様を信じたりするよりも早く、後輩の大好きな本から知るより前に、私と触れ合って初めて後輩は、アガペーを理解するの」
この人はもしかして
「そうだよねだって、後輩はさ、好きって何なのか知らないんだもんね、いいよ、あたしが教えたげるよ、あたしで教えたげるよ」
この人のこの思いこそが、もしかして、誰よりも
「早くわかると良いね、あたしも楽しみ」
先輩は笑っていた。さっきよりも優しい表情で、優しすぎて恐ろしくなるような表情で。
「あっ!ほら、帰ろ帰ろ!早よ閉めないと職員室にナベセン居なくなっちゃうよ」
「…先輩」
「んー?」
「もしかしてなんですけど、先輩が僕のことを『好き』な気持ちがアガペーなんじゃないですか」
先輩は笑っていた。笑って答えてくれた。」
「教えてあげない」
高校の頃から4年ぶりに1作書き上げました。
誤用や脱字誤字などあるかもしれませんが楽しんでもらえれば幸いです。