CASE3-29 「……やだ、枯れちまうよ」
「……ん」
埃臭い空気の中で目を醒ましたリイドは、大きく伸びをしながら、軋むベッドの上に起き上がる。
彼女は、赤茶色のショートヘアに指を突っ込んでワシワシと掻きながら、寝惚け眼で部屋を見回した。
空になった酒瓶がそこかしこに転がり、紐で括った衣服の束が、先日引っ越してきたままの状態でぞんざいに投げ出されている。
前の部屋を引き払って、ここに引っ越してきてからまだ一週間も経っていないが、早くも以前と同じように汚部屋化しそうな状態だ。
もっとも、この部屋にも長居する気はない。
先方との話がつき次第、交渉で得た莫大な金を抱えて、こんなみすぼらしいウサギ小屋のような下宿などさっさと引き払うつもりだ。
そして、南地方のソーンダクル辺りのリゾート地に移り住み、余生を悠々自適に過ごす――それが、彼女が立てた人生プランだった。
と、
「……あ」
彼女は、小さく叫ぶと、ベッドから飛び起き、その場所を覗き込み、彼女の希望ともいえる“それ”がある事を確認する。
“それ”――聖遺物の長剣・通称“ガルムの爪”は、変わらずそこで鈍い光を放っていた。
リイドは、小さく安堵の溜息を吐くと、“ガルムの爪”の古ぼけた鞘を愛おしげに撫でる。
「……アンタとも、そろそろお別れしないとねェ……」
そう独りごちた彼女は、そのそばかすの浮かんだ顔を曇らせた。
(ふう……やっぱり、あの爺さんが言った通りの値段で折れた方が――良いのかねェ……)
ここ数日の間、ずっと彼女の心を千々に乱れさせ続けているその迷いが、また思考に浮かび上がる。
――あの日、アナークス・RWの会長室で“ガルムの爪”の買い取り交渉が決裂した後、彼女は自分なりに、聖剣・聖遺物と呼ばれる類のものの“適正価格”について調べてみたのだ。
慣れない勉強と情報収集の末に、「どうやら、いかに聖遺物といえども、億単位の価値は付かないらしい」という結論に達したリイドは、いたく気を落とした。
無理もない。――期待していたお宝が、その期待の四分の一ほどの価格しか無い事が判明したのだから。
……いや、それだけではない。
一端の詐欺師・リイドともあろう者が、タダの冴えない中年の男が口にした「この“ガルムの爪”は、億は下らない価値があるのでスヨ~」という口からでまかせの言葉を、何であんなにあっさりと信じ込んでしまったのか……。
彼女は、自分の迂闊さが信じられないと共に……いや、そんな事以上に、あの人が良さそうなオッサンが、涼しい顔をして己を騙していた――という事実に、ずっとモヤモヤした気分を抱えていたのだ。
と――。
ふと彼女は、柔らかな陽の光が射す出窓に目を遣る。
小さな出窓には、一輪の紫色の花が、花瓶の代わりにした酒瓶に活けられていた。
が――、
「……あ」
その花が、明らかに萎れているのに気付いたリイドの口から、思わず息が漏れた。
「……やだ、枯れちまうよ」
あの花は、スマラクトと最後にあった日に、いつもと同じようにプレゼントされた花束の中の一輪だった。前の下宿から引っ越した時に、後ろ髪を引かれる思いがして、何故かわざわざ持ってきたのだ。
もちろん、切り花なので、すぐに萎れて枯れてしまうのは分かっていた。……分かってはいたが、それでも、むざむざと枯れさせてしまうのは、何故だかとても嫌だった。
「どうしよう……! 取り敢えず、水を替えて……」
彼女はオタオタと狼狽えながら、大事そうに花を活けた酒瓶を持ち上げる。と、すっかりシワシワになってしまった紫色の花を見た彼女の脳裏に、あの日花束を差し出してきた中年男の、いかにも間抜けそうだが、底抜けに人の良さそうな笑顔が浮かんだ。
(今頃……どうしてるんだろう、スマスマは……)
ふと、そんな思いが彼女の胸を過ぎったが、どうしてるもこうしてるも無い。
――考えるまでもなく、彼の信頼を手酷く裏切った自分の事を、さぞや恨み憎んでいる事に決まっているではないか。……いや、今回の顛末の責任を取らされて、せっかくの働き口を喪ってしまい、今ごろは路頭に迷ってそれどころではないのかも……。
そう考えると、何故か彼女の心は酷く締め付けられた。
(――って、どうしちまったんだい、アタシは……!)
まったく、どうかしている。詐欺師のクセに、自分がハメた被害者のその後の事を思い患うなんて……。
(笑い話だよ、まったくさ……)
リイドは、小さな台所で酒瓶の水を替えながら、そう皮肉気に嗤おうとした。――が、彼女の口元は、まったく別の感情によって、小さく戦慄く。
(……本当に……どうしちゃったんだろう、アタシ……)
――新鮮な水に替えられた酒瓶。その口に刺さった紫の花弁に、透明な滴が一滴垂れた。




