タイトル「ノンフィクション」
カタカタカタ、カタカタ、カタ。
薄暗い部屋に、男がキーボードを叩く音が響いていた。
閉め切られたカーテン。足の踏み場もないほど散乱するカップ麺の器とスナックの袋。電気は付けていない。白く光るモニターだけが、唯一の光源だ。
男はパソコンの画面を食い入るように見つめたまま、一心不乱にキーを打ち続ける。
カタカタカタ、カタン。
「ユキ、大丈夫!?」
頭の上から降ってきた声に、ユキはゆっくりと目を開けた。自分をのぞき込んでいる人物、アリスの栗色の髪がサラリと揺れる。
「ああ、大丈夫。僕としたことが、油断したな。あの程度のモンスターに襲われるとは」
ユキはむくりと身を起こす。鬱蒼とした森の緑が二人を取り囲んでいた。鳥の鳴き声一つしない、不気味なほどに静かな空間だ。
ぼんやりした頭で、ユキは状況を整理していく。目的地である城に向かう途中で、バッファローのような見た目をしたモンスターの大群と遭遇してしまった。得意の剣技で応戦し、アリスも魔法で援護してくれたものの、倒しきれなかった一頭の攻撃をまともに食らい、気絶してしまったようだ。
「大丈夫、ユキの怪我はそれほどひどくないわ。あたしの回復魔法も効いたでしょ?」
「どうもそのようだ。助かったよ、ありがとう」
男にしては小柄なユキが立ち上がると、アリスの端麗な顔が目の前にあった。体がどこも痛んでいないことを確かめ、持ち物を確認する。腰にぶら下げた剣、城までの地図、いざという時の薬草、その他冒険に必要な道具はちゃんと揃っていた。
「意識に混濁は無いようだけど、一応テストしてあげるわ。あなたの名前は?」
「……伝説の勇者、ユキ」
「自称はちょっと痛いわね。で?あたしの名前は?」
「アリス。僕の唯一の友人にして、信頼できるパートナー」
「少し棒読みだけど、まあいいわ。最後、冒険の目的は?」
「悪の魔王ダイスを倒し、世界の平和を取り戻すこと」
「はい、合格。じゃあ、休憩はここまでにして、行くわよ」
アリスはレースがあしらわれたスカートを翻すと、森の中を颯爽と歩き出す。ユキは慌てて後を追った。
鈍色をした雲が、重厚な城にのしかかるように広がっている。四本の尖塔を天に向け、頑丈そうな岩造りの壁にはツタが何本も這いまわっている。城の周りには城壁がそびえ立ち、侵入を拒んでいた。
悪の魔王、ダイス。平和だったこの世界を突如絶望と恐怖に陥れ、なおも征服を企んでいる、憎むべき存在である。何人もの人間が彼を倒そうと挑んでは、強力な魔法と人並み外れた戦闘力に圧倒され、未だ目標は達成されていない。
そこで白羽の矢が立ったのが、剣術に長けたユキと、援護魔法に優れ、その可憐な容姿から多くの人に好かれているアリスだった。
「緊張しているの?」
剣を握りしめ、城壁を見上げるユキにアリスが聞いた。
「まさか。これは、ただの武者震いだ」
精一杯笑顔を作るユキ。肩の力を抜き、ざらざらした城壁を手でなぞる。
「しかし、どうやって中に入ろうか?」
「少し城壁を調べてみましょう。崩れているところがあるかもしれないわ」
そう言ってアリスは早速城壁の周りを調べ始める。それに従いつつも、ユキは言った。
「そんな簡単に入れるかな?ロープを使って乗り越えた方が早いんじゃないか?」
石造りの壁は頑丈で、崩れているとは思えない。ユキは剣を抜き、ツタを使ってロープを作ろうとする。
「ユキ、こっち!穴があったわ。何とか通れそうよ」
器用に指先を動かすユキをよそに、アリスは嬉しそうな顔で城壁を指さす。釈然としない顔で、ユキは作りかけのロープを投げ出すとアリスに駆け寄った。
丁度城壁を半周したところの壁が脆くなりところどころ崩れていた。人一人が通れそうな穴が開いている。穴の奥には背が高い草が生い茂る庭が見えた。
「あたしたち、ついているわね」
言うが早いか、アリスは器用に体を捻り、穴を抜ける。小柄なユキも難なく城内に侵入した。途端に空気がスッと冷えたような錯覚に陥る。ユキは慎重に周囲を警戒しながら言った。
「気をつけろ、アリス。どこに敵がいるか分からないぞ」
奇妙な形の木が生えた庭を迷いなく歩いていくアリス。ユキは慌ててそのあとを追う。
「おい、どこに行くんだ?」
「こっちに、裏口があるはずだわ」
アリスに導かれるままに庭を歩く。草をかき分け、隈なく周囲に目をやりながら、ユキはアリスの栗色の髪を追いかけた。間もなく「ここよ」とアリスが指さしたのは、鋼鉄製の頑丈そうな扉。表面には凝った装飾がなされている。扉は隙間なく閉じられ、部外者の侵入を固く拒んでいた。
「ここは、僕に任せて」
ユキは刃渡り二十センチほどの剣、通称スノウソードの柄を握り、その先に意識を集中させる。肩の辺りで構え、数歩下がって助走をつけ、鍵穴部分目がけて振り下ろした。シュン、という音とともに空気が裂かれ、金属同士がぶつかる激しい音が静かな空気を震わせた。ユキが剣を下ろすのと、外れた取っ手が地面に落ちるのが同時だった。
「もう少し穏便に済ませられないの?」
「贅沢を言うな。気づかれるのは時間の問題だ。早く入ろう」
鍵が壊れた扉はあっさりと奥に向かって開く。二人が足を踏み入れると、奥まで続く薄暗い廊下と、仄かな灯りを放つランプが数メートルおきに置かれているのが見えた。
アリスとユキは、どちらからともなく顔を見合わせ、覚悟を確かめるように頷いた。
廊下を抜けると、中央のホールと思わしき場所に出た。吹き抜けになっており、螺旋階段が渦を巻いて上の階に続いている。
「……どっちにいけばいい?」
「とりあえず最上階を目指しましょう。ダイスはそこにいるはずだわ」
アリスに言われ、ユキは階段の手すりに手をかけた。それと同時に、頭上から響く不気味な声。
「我が城へようこそ、勇者君」
そしてくぐもった笑い声が静かなホールに反響した。ユキは咄嗟に身構えたが、ホールには二人以外の姿がない。
「姿を見せろ、ダイス!」
ユキは声がする方に向かって叫んだ。返ってきたのは冷たい言葉。
「断る。君たちから、私のところへ来るがいい。無事に辿り着けたら、相手をしてやろうか。では、お待ちしているよ」
ダイスの言葉が終わると同時に、地面が揺れた。先程通り過ぎてきた廊下から、手に槍を持ち、鎧に身を包んだ男たちが続々と現れる。一人が槍を地面に突き刺すと、再びグラリと地面が揺れ、ユキは思わず手すりにしがみついた。
「な、なんだあいつら?」
「おそらくダイスの下僕ね。ダイスと戦いたければ、まずこいつらを倒せってことでしょう。あの槍さえ無効化したらこっちのものだから、早く片付けましょ」
「ああ……わかった。援護頼むよ」
ユキはそう言って、下僕たちの間に飛び込んだ。
「待ちくたびれたよ、二人とも」
観音開きの扉の向こうで、魔王ダイスの赤い瞳が二人を捉えた。百八十を優に超える長身に黒いロングコートを羽織り、そのフードから銀髪がこぼれる。口元には三日月形の笑みが浮かんでいた。周囲を圧迫するような威圧感に、ユキは気圧されそうになる。
「ダイス……」
それでもユキはスノウソードを握りしめ、倒すべき敵を憎々しげに見た。アリスも、両手を胸の前に組み、いつでも呪文を唱えられるようにしている。言いようのない緊迫感が部屋に満ちた。
城の最上階にある大きな部屋で、二人は魔王と対峙していた。毒々しい色に彩られた調度品は、それでも絢爛と呼べる豪華さを持っている。
「まさか、あの程度の下僕相手に苦戦していたんじゃないだろうね?」
ダイスは赤目に挑発的な光を浮かべた。ユキは顔を歪めながらも答える。
「苦労したが、あんたの手下は全部倒した。それでもあんたが余裕そうにしているのが不思議だ」
手下との戦いで、ユキは激しく体力を消耗していた。それでも傷一つ負っていないのはひとえにユキの実力だった。
「下僕は所詮、下僕だ。君にやられることが前提の、いわば使い捨ての駒。君がうっかり負けてくれないかなと思っていたが、まあ案の定、足止めくらいにしかならなかったね」
ダイスはあっけらかんと答える。その言葉に手下を気遣う気持ちは含まれていない。
「……随分非道な言いざまだな。手下を駒呼ばわりか」
「そうだよ、何か変かね?私はこの世界を支配する者。代わりの駒などいくらでもいる。当然君たちも駒の一つだ。『無謀にも私に立ち向かう勇者』、それが、君だよ」
「ふざけんな!」
ユキは叫ぶと同時に剣を構えた。一瞬でダイスとの距離を詰め、横薙ぎに振るう。
ダイスは素早い動きでユキの剣撃を交わしたが、ユキは止まらない。片足でブレーキをかけると体を捻り、振り向く勢いを利用して回し蹴りを放った。しかし、ダイスに当てることはできない。
「遅いんだよ、ユキ君。その動きじゃ、いつまでたっても私には通用しないね」
余裕な表情のダイスに対して、ユキの額には汗が滲んでいる。
「ユキ、気をつけて!」
アリスが叫ぶと同時に、ダイスの赤い目が一瞬光ったように見えた。ユキは咄嗟に地面に這いつくばる。ユキの頭上を黒い塊が通り過ぎ、グシャッと音を立てて背後の振り子時計に張り付いた。
「凍結魔法よ。それもとても強力だわ」
時が止まったかのように針の動きを止めた時計を見て、アリスは声を震わせる。アレに触れると動きを封じられてしまう、とユキの頬を冷たい汗が流れた。
「……卑怯な手を……」
ユキは立ち上がると同時に走る。少しでも動きを止めたら凍結魔法の餌食になる。
剣を握りしめ、少しでもダイスに近づこうとするが、すぐに阻まれる。物理的戦闘を得意とするユキは、魔法を相手にするのに不向きなのだ。
ダイスが指先を伸ばし、タクトのように振った。シュン、と空気を切る音がして、次の瞬間、背後にあった竜をかたどったオブジェクトが粉々に砕けた。岩をも砕く衝撃波だ。
「アリス、魔法だ!援護を頼む!」
叫んだユキの右頬を、槍のような衝撃波がかすめた。白い肌にうっすらと血が滲む。ユキは一度防御の構えを取り、必死の形相でアリスの方を振り仰いだ。
そんなユキを見て、それまで両手を組んでいたアリスが顔を上げ、ダイスの方を見た。何かを決心したように、強く頷く。
「わかったわ、任せなさい!」
アリスの声を聞いて、ユキは全ての防御を捨てると、一直線にダイスに向かって突進した。衝撃波が肩や太腿を貫くが、それでも足を止めない。勢いを殺さずに握った剣を振り上げ――、
「うわっ……!?」
次の瞬間、ユキの身体は空中にあった。足元をすくわれるような感覚があり、ふわりと体が浮く。まるで無重力空間にいるように、頭がさかさまになるユキ。体が自分の意志とは無関係に動く。この魔法を、ユキは知っていた。
「……ゼロ・グラビティ……」
それは、アリスが最も得意とする魔法。標的を無重力状態に陥れ、行動不能にする。
天井と床が反転したユキの視界の中で、呪文を唱えたばかりのアリスが、こちらを憎らしげに睨みつけている。何が起こっているのかわからず、ユキは茫然とその顔を見ていた。
「……アリス……どうして?」
ユキの口から素朴な疑問が漏れた。地に足をつけようとするが、できない。剣はとうに手を離れ、生き物のように宙を飛んでいる。血液が頭に流れ、意識がぼんやりしてくる。
「ごくろうさん、アリス君」
ダイスは満足げに口元を歪め、ユキに向かって親指を下に向けた。それを合図に、アリスが無重力を解除する。地面に叩きつけられるユキ。復活した重力で、今度は体が地面に吸い付けられ、ユキは立ち上がることができない。
「理由が知りたいかな、無謀な勇者君」
ダイスは厚底ブーツでユキの頭を押さえつけた。苦しそうに呻くユキに、魔王は冷酷な微笑を向ける。
「君がこの世界を乗っ取るつもりだからだ」
「はぁ……?」
ユキは素っ頓狂な声で聞き返した。彼が何を言っているのかまったくわからない。ただ自分の身に危険が及んでいるということは本能的に理解していた。
「私を倒した君は、英雄として称えられるだろう。君は多くの民に慕われるようになり、膨大な力を手に入れる。この世界を好きなように操れる力をね」
「でたらめを言うな。そりゃ、僕は称賛されるさ。でも、その権力を悪用する気はない。アリスも、それを知っているだろ?」
ダイスの言っていることは的外れにも程がある。自分は正義の勇者として戦ってきたことは、アリスもよく知っているはずだ。懇願するようにユキはアリスを見たが、
「信じないわ」
アリスは冷たい声でそう言った。いつの間にか彼女はダイスの隣に立っている。
「ユキが気を失っている間に、ダイス様にお会いしたの。そして教えてくださったのよ。本当の敵は、あなただってね」
「なんでアリスは、敵の話を信じたんだ!」
「だって、ダイス様のおっしゃることよ、違うはずがないじゃない」
そう答えるアリスの瞳が赤く光った気がした。アリスは狂信的な笑顔でダイスに深々と頭を下げる。狂気めいたその姿にユキは寒いものを感じた。アリスの様子が、明らかにおかしい。
「洗脳だ、アリス。こいつに操られているんだ。僕がそんなことをするはずないだろう」
ユキの必死の訴えは、アリスに届かない。恍惚とした表情で、歌うように言葉を紡ぐ。
「そしてあたしは、ダイス様と約束したの。ユキをここまで連れてくることと、頃合いを見て戦闘不能にすること。そうすれば、ダイス様はあたしを――」
アリスの言葉を、ユキは最後まで聞いていなかった。頭の奥がガンガンと唸る。
アリスが城壁の崩れた場所を知っていたこと、裏口の場所も知っていたこと、戦いには一切参加せずに自分を見ていたこと。
「全部……罠だったのか?」
「罠とは聞き捨てならないね。全部、君という悪をこの世界から排除するために必要なことじゃないか」
嘲笑いとともに、ダイスはユキの身体を蹴り飛ばした。無残に床を転がるユキ。立ち上がろうとしたところに、強烈なかかと落としが降ってくる。呻き声を上げ、ユキはのたうち回った。
「だから……僕は、悪じゃない……」
「驕るのもいい加減にしたまえ。少なくとも無様な格好で床に転がりながら、勇者を名乗るんじゃないよ。君に世界を救うことなどできないし、できたとしてもすぐに退治される側になるさ。そんな駒なら、もっと早く潰しておけばよかった」
ダイスは見せつけるようにアリスの肩を抱く。うっとりとした顔でダイスに身を預けるアリス。胸中は黒々とした怒りで燃えていたが、ユキはもう、何も言えない。何を言っても、アリスに通じる気がしない。
「さあ、遺言を聞こうじゃないか。捨て駒」
赤い瞳を揺らして、ダイスは言った。
……カタ、カタン。
キーの音が止まる。長々と打ち込まれた文章の末尾で、カーソルが点滅している。
「……おかしいな……」
男は呟いて、マウスを右クリック。現れたメニューの中から「全て選択」を選ぶと、迷わずデリートボタンを押した。画面が、一瞬で白紙に戻る。
男は立ち上がると、固まっていた体の節々を伸ばした。パキポキと骨が鳴る。机の隅に置かれた炭酸のペットボトルを掴み、半分近
くを一気飲みした。それから深く息を吐く。
男は椅子に座り直し、机の引き出しを開けた。一冊の古びたアルバムを取り出す。地元の市立中学の名前が書かれた表紙は色褪せ、時の経過を感じさせた。
開き癖のついたページを開く。それは、何気ない日常風景の写真だった。清楚な美少女と精悍な美少年が、ノートを覗き込み、親しげに相談している様子が写っている。
「……おかしい」
男はもう一度言うとアルバムを閉じ、パソコンの真っ白な画面に向き直った。そしてまた、キーを打ち始める。
カタカタ、カタカタ。
カチン、と乾いた金属音がした。
鍵が外れ、薄く開いたドアから室内に身を滑らせると、クリスは素早く周囲に目を走らせた。今のところ敵影はない。しかし、侵入がばれるのは時間の問題だ。クリスはピッキング道具をポケットに仕舞い、ドアを閉めて元通り施錠する。
黒いスーツを着こなし、銀縁眼鏡をかけたクリスは大企業のエリートにも見えるが、そうではない。数々の難題を引き受け、容易く解決してきた、超有能スパイとしてその名は知られていた。
「……だからって、無理難題がすぎるぜ」
愚痴を零しつつクリスは照明が絞られた廊下を走る。突き当りの非常階段の扉を開け、その奥に身を隠した。極力身軽になるために持ち物はショルダーバッグだけである。
ドアを閉め、耳をそばだてる。大きな足音に荒い声がクリスの耳に届いた。
「不審者一名、裏口から侵入だ。カメラに映っていた」
「そうか。……畜生、どこに隠れた?」
「わからんが、気をつけろ。おそらく敵国のスパイだ。アレの設計図を盗まれたら、解雇どころではないぞ」
「了解した。警備員を総動員、見つけ次第確保しろ」
バタバタと足音が遠ざかると、クリスは深い溜息をついた。階段を駆け降り、頭の中で館の地図を広げる。上が総帥の部屋、一階が部下と警備員の部屋、そして地下が、大量破壊兵器、核弾頭の試作工房だ。
クリスを雇ったのは、某国の大臣だった。現在緊張状態にある隣国が、秘密裏に兵器を開発しているという噂があり、その真偽を確かめろというのが依頼内容だった。もし真ならその設計図を入手しろと言われている。こちらが先に制作し、牽制の道具にしようというわけだ。
大臣はクリスに一枚の地図を見せた。それは国境付近にある工場のような建物の地図だった。最近人の出入りが多く怪しいという。
以前は合同の工房として使われていたが、関係が悪化してからは閉鎖されたはずだった。
「核弾頭とは、これまた物騒な……」
地下に降り立ったクリスは、大きな機械の影に身を潜め、慎重に周囲の様子を探る。地下には大小さまざまな機械が設置され、油のにおいが漂っていた。勤務時間外なのか人の姿はなく、辺りは闇に包まれている。しかしいつここに警備員が来るかわからない以上、早く設計図を盗んで脱出したいところだ。
闇に目が慣れると、クリスは機械の影から這い出し、室内を奥に向かって進む。乱雑に置かれた机やいす、段ボール箱につまずかないよう、四つん這いになる。
カサコソと床を匍匐前進すること数メートル、クリスは部屋の奥に辿り着いた。金属でできた扉があり、さらに奥の部屋に続いている。開けるにはパスワードが必要だった。その頑丈な警備が物々しさを一層放っていた。何かがあるなら、おそらくこの奥だろう。
クリスは扉に背を預けると、ポケットから通話状態の携帯を取り出す。一階の非常階段に残してきた超小型マイクが拾ったノイズ混じりの音に、クリスは耳を傾けた。
『モニタ室のやつから連絡があった。侵入者は地下に逃げたようだ。聞いたところによると、工房の床をゴキブリのように這っていたらしい。全員、直ちに向かえ』
『了解』
不快な虫に例えられたクリスは一瞬眉を寄せたが、すぐに立ち直る。ここでのんびりしている場合ではない。携帯をポケットにしまうと立ち上がる。
「この厳重な警備……設計図はこの奥か。もしかしたら、完成した核弾頭があるかもしれない。入ってみるしかないな」
立ち上がると扉に触れる。ひやりとした感触が、手のひらから伝わってくる。
「パスワード……は、流石にわからないか」
入口の方から、いくつもの足音が響いてくる。もはやもたついている時間が惜しいと判断したクリスは、バッグから粘土とスティック状の小型爆弾を取り出す。鍵穴の位置がわからないので、中央に粘土を貼り付け、爆弾を挿した。
「事を荒立てたくないけど、仕方ないか」
タイマーを五秒にセットし、扉から離れ、伏せる。足音はどんどん近づいてくる。
「中に入れたら、設計図を盗み、脱出する。邪魔な奴がいたら……殺すしかないな」
クリスは耳を塞ぎ、口を半開きにした。同時に地下工房の灯りがつく。
「こっちだ、侵入者が――」
叫び声を遮るように、爆発音がした。頑丈なドアは全壊まではいかないものの、ロックが外れたらしく傾いている。
クリスはドアを蹴り開け、奥の部屋に飛び込む。蛍光灯の明かりがさっと流れ込んできた。闇になれた目に光は眩しすぎるが、気にしない。
警備員は爆発音で一瞬怯んだが、すぐに態勢を整えてこちらに向かってくる。その数は少なくとも十人だった。警棒を持っているものや、拳銃を下げている者もいる。
部屋の壁は、本棚で埋め尽くされていた。さらに床にも多くの書類が散らばっている。その中から目当てのものを探すのは不可能に近かった。
クリスは振り返る。すぐ背後に迫った警備員が、一様に厳つい顔で自分を睨んでいた。半円状に広がり、距離を詰めてくる。
「油断するな。敵は、爆薬を持っている」
一人の言葉に、全員が重く頷いた。
「……畜生」
クリスは吐き捨てると、男たちと向き合った。こうなった以上、戦うしかない。
(こいつらを全員殺して、書類を持ち帰る。国際問題に発展するかもしれないが、そこら辺は大臣が何とかするだろう)
クリスは自らショルダーバッグを床に置くと、両手を広げて肩の高さにまで上げた。それを降伏の合図と見て取った一人の男がクリスに近づき、肩をつかむ。
「こいつ、どうする?殺すか?」
「ひとまずカーリーのところに連れて行け。彼の判断に従おう」
「了解した。おいお前、さっさと歩――」
男の言葉が止まった。その首筋から血が噴出し、男は苦痛に顔を歪める。
「な、何だ!?」「何が起こった!?」「お前、何をした!」
騒然とする男たちをよそ目に、クリスはその男を蹴飛ばした。地面に頭をぶつけ、そのまま動かない男。クリスは無言で男たちに向かって突っ込む。その顔から銀縁眼鏡が消えていた。右のつるが本体から外れ、男の右手に握られている。その先は針のように尖っていた。針の先には猛毒が塗られていて、今はそこにべったりと血がついていた。
事態を飲み込み、騒然とする男たち。一人が拳銃を抜き、クリスに向けたが、その腕をクリスは蹴り上げた。仰け反る男の鳩尾に強烈な打撃を加え、蹲らせる。
「抵抗するぞ!」「押さえつけろ!」「もう殺してしまえ!」
突進してくる男たちを、奪った拳銃で牽制する。その間に左手でタイピンを抜き、投擲の要領で投げる。先が鋭く尖ったタイピンは先頭にいた男の心臓部に突き刺さり、その動きを止めた。
続けて、発砲音が五回。内二発は男たちが撃ったものだが、クリスは最小限の動きで避けると三回立て続けに発砲。三人のこめかみに穴を開けた。
クリスは続けて撃とうとしたが、カチリと音がしただけだった。弾切れだ。
「使うならちゃんと充填しておけよな」
クリスは愚痴を零すと、なおも発砲を続ける男に銃を投げる。一瞬男の気が逸れた隙をついて、クリスは距離をつめると首筋に一撃を食らわせ、気絶させる。意識を失った男を盾代わりに移動しつつ、腰に巻いたベルトを抜く。中にバネが仕込まれたベルトは、軽く振ると唸りをあげてしなった。右手で鞭のように持ち、左手には男から奪った警棒を構えるとクリスは残りの男たちと対峙する。その口元には、うっすらと笑みが広がっていた。
約五分後、静かになった男たちを前にしてクリスは溜息を吐く。口ほどにもないやつらだ、と吐き捨てるように言った。クリスのスーツは返り血まみれだが、本人の血は一滴もついていない。
「お見事だ、クリス」
突如、背後から現れた男が言った。キンキンと高い声。長身にがっしりした体躯、殺意を剥き出しにした目つきが見るものを圧倒するが、その姿にクリスは見覚えがなかった。
「どうして、私の名前を知っているんだ?」
「いい友人が、教えてくれた。敵国から有能なスパイが視察に来るとな」
そして男が上げた名前は、クリスに依頼した大臣のものだった。思考が追いつかず、口を開けたまま固まるクリス。男は気にも留めず、話を続ける。
「あいつはいい奴だけど性格が悪くてさ、俺に敵国の内情を逐一報告してくれるんだ。それがどんな裏切り行為なのか分かってるくせに、腐った野郎だぜ」
俺も人のことは言えねえがな、と男は殊勝に笑う。
「貴様……何者だ?」
「俺か?名前はカーリー。この国の防衛府副大臣にしてこの施設の工場長だ。関係が悪化する前からお前ん国の大臣とは親交があってな。なんか嗅ぎ回られたら厄介だから、有能なスパイは潰しておこうぜって話になった。正直期待していなかったが、そこそこ腕は立つようだな」
聞いていないことをもぺらぺらと話すカーリー。クリスはベルトの鞭を構えたまま隙を伺っていたが、カーリーの右手はずっと腰のホルスターから離れない。
「大事な部下だったが、全員やられるとは思ってなかった。仕方ねぇ、俺が敵をとってやるよ」
カーリーが獰猛に笑い、そして次の瞬間、銃声が響いた。
「……なっ……!?」
激痛に顔を歪めつつ、驚愕で目を見開くクリス。そのまま体が前に倒れる。
クリスは肩甲骨から血を流していた。それを見下ろすカーリーの右手は、ホルスターにかかったままだ。そもそも、クリスは背中を斜め上方から撃たれた。自分の前に立つカーリーには不可能なことだ。
茫然としているクリスをよそに、カーリーがポケットに入れていた左手を抜く。その中に納まる、掌サイズのリモコン。
「念には念を入れて、対侵入者用防衛システムを導入して置いてよかったぜ。下手に動くなよ、俺はいつでもお前を蜂の巣にすることができる」
地面に両手をつき、クリスは歯を食いしばる。鞭は手の届く場所にあったが、立ち上がり、距離を詰め、カーリーを仕留めるのは不可能だ。痛みで思考が麻痺する中、クリスは必死で打開策を考える。しかし、一瞬でも気を抜くと、激痛に気が狂いそうになる。
カーリーは拳銃を抜くと、真っすぐにクリスに向けた。
「ま、最後はこの手で屠ってやるのがせめて礼儀ってもんか?」
「……貴様のような奴が礼儀を語るな」
返事は一発の銃声だった。カーリーが躊躇なく引き金を引くと、放たれた弾丸は正確にクリスの右腕を撃ち抜く。
「いっ……!?」
支えの右腕を失ったクリスは、肩から地面に倒れこむ。続いて左手も撃たれ、クリスは額を地面に打ち付けた。
「きさ、ま……」
地の底から呻くような声で、クリスは言った。そんなクリスを、血走った目で見下ろすカーリー。
「仲間を十人以上殺しておいて、楽に死ねると思うなよ」
さらに二発の弾丸が、右の太腿と足首を穿った。流れ出た血が地面に溜りを作るが、致命傷には至らず、ただ地獄のような痛みだけがクリスを襲う。ほとんど拷問だった。いっそ死んで楽になりたい、という考えがクリスの脳内を埋め尽くす。
「はや、く……殺せ……!!」
苦しい息の下からクリスは言ったが、カーリーの耳には届かない。
「悪く思うんじゃねえぞ。俺は友人からお前を殺すように頼まれた。すでに報酬ももらっているんだ。お前だって、金と引き換えに何人も殺めてきたんだろう?」
今度の弾は脇腹を抉った。夥しい量の血が流れ、クリスの意識が途切れかける。
「ああああああ!!」
理性を狂わせるような痛みに、クリスは獣のような咆哮を上げる。しかしそれは体力を無駄に消耗させるだけで、状況を好転させることは全くない。
「安心しなよ。そんだけ血を流してりゃ、そのうち死ぬだろ」
カーリーはそう言い放って、銃をホルスターに仕舞い、クリスをその場に残して歩き去ってしまう。その言葉通り、クリスの叫びがだんだん弱くなり、そして消えた。
カタカタ、バン!
男は苛立たしげにキーボードを叩いた。狭い部屋に大きな音が響き、そして静かになった。
「……おかしい……こんなはずじゃ……」
慣れた動作で、男はキーを操作する。画面を埋め尽くしていた文字列が消え、再び白紙に戻る入力フォーム。
男の周りには空になったペットボトルが数本と菓子の空き袋がいくつか、乱雑に置かれていた。ゴミは増える一方で、仕事は少しも進んでいない。苛立ちを隠さずに男は立ち上がると、ゴミを拾い上げ、分別もしないままゴミ箱に押し込んだ。のっそりした足取りで流しに向かうと、冷水で顔を洗う。
「…………」
男は動きを止めると、ジャージの右袖を肩まで捲し上げた。日に当たっていない、不健康な白い肌が露わになる。そこにクッキリと残る、一筋の縫合痕。その周囲には痣のようなものがいくつも残っている。
男は痛々しい傷痕から目を逸らし、ジャージを戻した。そのまま作業机に戻ると、スクリーンセーバーを解除する。
パソコンの時刻表示は、午後十時過ぎを示していた。ここ二十時間ほど小休憩以外の休息をとっていないが、不規則な生活を送っている男にとって、それは些細なことだった。
この仕事が終われば、二十時間眠ればいいだけの話だ。
男は無機質に光るモニターを睨みつけ、キーボードに指を滑らせる。
カタカタ、カタカタ。
「ねえ、待った?」
現れるや否や、彼女は言った。セミロングの茶髪がふわりと揺れ、白いワンピースが、小麦色の肌に良く映える。
「待ってないよ。今来たところ」
時計を確認することなく、僕は言った。待ち合わせ時間になったことは十分前に確認しているので、見る必要がない。それに、遅刻をいちいち糾弾して、デートの雰囲気を悪くすることは望まない。
「そう、よかった。それじゃ、さっさと行きましょ」
弾けるような笑顔で彼女は言って、僕の腕をとる。女の子と出かけるのが初めての僕は緊張しつつも彼女に笑顔を返した。心臓は、すでにうるさいくらいに高鳴っている。
「それで、どこに行こうか?」
僕が聞いた時には、彼女はすでに歩き出していた。僕を引っ張るように、ずんずんと進む。
「まずは、お洒落な服が見たいな。あと、新しい鞄が欲しいの。服に似合う靴も買いたいし……。それが終わったら、インスタ映えするって有名なケーキ屋さんで休憩しましょ」
僕の意見を聞くこともなく計画を立てる彼女。女心がわからない僕は、引っ張られるままに彼女の後を追う。一緒にいてくれるだけで嬉しいのに、これ以上の贅沢は望むまい。
「あ、この服、可愛い!」
店頭に飾られたブラウスを手に取り、僕に見せる。自分の体に重ねるようにして持つと意見を聞くように僕の方を見た。
「うん、似合うんじゃないかな」
「本当?」
可愛らしく小首をかしげる彼女。あまりにも愛らしいその姿につい、僕は思わず言っていた。
「というか、君は何を着ても可愛いよ」
「やだ、恥ずかしいこと言わないでよ!」
顔を真っ赤にして、僕の背中をバンバン叩く彼女。僕も恥ずかしさに襲われ、目を逸らす。店員さんが、微笑ましげに僕らの方を見ていた。
「うーん、でもこっちもいいな……どうしよう、迷っちゃう」
その隣にあったノースリーブの服を手に取り、僕に見せる。僕は頭の中でその服を着た彼女を想像するが、どちらが似合うか、僕にも決めかねた。
「試着してみたら?」
「そんなこと言って、いろいろな服を着た私が見たいんでしょ?」
「……う」
僕が言葉を詰まらせると、彼女は頬を膨らませ、でも満更でもなさそうな顔をする。そして、いいこと思い付いた、とポンと手を打った。
「そうだ、君にもかっこいい服を選んであげる!」
「ええ……?いいよ、僕は。兄ちゃんのおさがりも持ってるし……」
「いいじゃない。彼女がコーディネートしてくれたって、自慢できるでしょ?」
「それは……いいかも」
でしょ?と彼女は得意げに笑う。僕は財布の中身を思い出しつつ、試着室に向かう彼女の姿を見送った。
通りに面したカフェの、お洒落なテラス席に僕と彼女は座っていた。
彼女の前には、生クリームがたっぷりと使用され、ベリーソースがこれでもかとかけられたパフェが置かれている。さすがにそんなこってりしたものを食べきる自信がない僕はチーズケーキを注文した。
いろいろな角度から、パシャパシャと写真を撮る彼女。僕も付き合わされる。早く食べたかったけど、仕方がない。
五枚ほど写真を撮り、最後に自撮りでツーショットを撮った後、彼女はようやくスプーンを持った。
「んー、おいしい!幸せ!」
うっとりと目を細める彼女は、日溜りにいる猫のような、幸せそうな表情をしている。こっちまで楽しい気分になりそうだ。
「ほら、君にも一口あげる!」
彼女はそう言って、スプーンですくったパフェを僕に差し出した。
「はい、あーんってして」
「ええ……恥ずかしいよ」
思いっきり、他の人に見られる場所だ。そうでなくても、あーんしてもらうのは恥ずかしい。
「いいじゃんいいじゃん。ほら早く、クリームが溶けちゃうよ」
彼女に催促されるままに、僕はパフェを頬張った。ふわふわした生クリームが、確かにおいしい。
「ね、おいしいでしょ?」
キラキラした笑顔で小首をかしげる彼女に僕は頷きを返した。そのまま二人で見つめあっていると、本当に好きな子と一緒にいるんだなという実感がようやく湧いてきた。
彼女がとろんとした笑顔のまま僕の肩に顔を預ける。そこから伝わる体温に、僕の気持ちはさらに高鳴った。
僕は、テーブルの上に置かれた彼女の手にそっと自分の手を重ね
ブツン。
小さな音を立てて、画面が暗転した。黒いスクリーンに男の汗ばんだ顔がうつる。
「……違う」
男は息を荒げながらも、電源ボタンを押していた手を離した。上書き保存をしていなかった文章は、全て泡と消えた。
「違う……僕が書きたいのは、こんな話じゃない。こんな、つまらない話じゃない……」
男はぼさぼさの髪を無造作にかき乱すと、大きな溜息を吐いた。パソコンの隣に置かれたアナログ時計は、深夜二時を指している。しかし男は微塵も眠気を感じていなかった。むしろ、信じられないくらいの気力に満ちていた。この仕事が終わるまでは、意地でも寝るものか、と男は呟く。
男は新しい炭酸飲料のキャップを開けると半分近くを一気飲みした。渇いたのどが甘ったるい液体で刺激される。
「どうして……どうして、毎回うまくいかないんだ……あんまりじゃないか。こんなことをしたくて作家をやっているわけじゃない」
考えていることが、そのまま口から出てくる。その呟きを拾うものも止める者もいないので、男の口は塞がらない。
「このままじゃ駄目だ……何か、いいネタはないか?僕が満足して書き切れるようなネタは……」
男は引き出しを開け、アルバムを引っ張り出し、もう見飽きるほどに見たページを開くと、清楚な美少女が微笑んでいる。
続いて男は、腕まくりをして、これまた見飽きた縫合痕に目を落とした。醜い痣を男は憎々しげに睨みつける。
「……まったく、ロクなことがないな」
そう自虐的に笑うと同時に、男の頭に閃くものがあった。ペットボトルを握ったまま硬直し、頭を高速回転させる。働き続けて動きが鈍い頭にむち打ち、今思い付いたことの検証を続けた。
「これは……いける」
男は炭酸飲料を飲み干すと、床の上に放り投げた。カランという音を聞きながら、パソコンの電源を入れる。画面を見つめる男の目は、長時間の執筆活動の疲れからか、赤く血走っていた。
「やってやる……これが、最後だ……!」
男は荒々しい動作で、キーを抉るような勢いで打ち始める。
カタカタカタカタ、カタカタカタカタ。
例えば、鏡に映った自分の顔。
例えば、暗転した液晶に映った自分の顔。
例えば、アルバムの集合写真に写った自分の顔。
とにかく、僕は自分の顔が大嫌いだった。他の何より醜いものだと思っていた。
別に、僕は太っているわけでもないし、客観的に見れば「謙遜するなボケ!」とか罵られるかもしれないけど、それでも嫌なものは嫌なのだ。
人に写真を撮られるのも嫌だし、自撮りなんてもってのほかだから、僕の写真はほとんど残っていない。それに、写真に残すような思い出なんて、僕にあるのだろうか。
子供の頃から、本当に、石を投げたら当たるような平凡な男だった。それでいていつも周囲に劣等感を抱いていたし、実際、上手くいかないことが多かった。友達の輪にうまく馴染めず、教室の隅っこで本を読んでいるのが日常だった。根暗な子供として周囲に認識されていたし、自分でもそう思っていた。ネクラという言葉の意味は、よくわからなかったけど。
何かにつけて自分に自信がなく、一歩踏み出せないでいたのだ。気がつけば流行の波に乗り遅れ、空気が読めない奴と思われないよう、口をつぐんで生きてきた。
そんな僕だったが、当然成長して中学生になり、年頃の男子として発情期を迎え、当然のように初恋をした。
その子はクラスでも人気の可愛い子で、席替えでたまたま席が隣になったときに、消しゴムを貸してくれたり、ノートを写させてもらったりした。彼女はとても優しくて、時折見せる無邪気な笑顔に、僕は一瞬で惚れ込んでしまった。我ながらちょろいものだ。
栗色でサラサラの髪を持った、清楚な女の子だった。名前は、有珠ちゃん。
教室に入り、席につく。僕より早い有珠ちゃんは、毎朝、凛とした笑顔で言う。
「おはよう。元気?」
「う、うん。元気だよ」
ガチガチに緊張した僕は、それでも必死に返事を返す。鞄を下ろしていると、たいてい有珠ちゃんの方から世間話を振ってくる。僕はそれを、楽しみに待っていた。
「ねえ、昨日の特番観た?」
「いや、録画してて……まだ観てないんだ」
「そうなの。もう、とっても面白くて、あたしお腹を抱えて笑っちゃったの。そしたらそこをお母さんに見られて、恥ずかしい思いをしたわ」
彼女が笑うと、つられて僕まで笑顔になってしまう。本当は興味もなければ録画もしていないんだけど、彼女に話を合わせるのに必死な僕は相槌を打ちながら聞き役に徹する。
恋に落ちた僕は、彼女と話すたびに舞い上がったり、放課後は彼女の隣にいることを妄想して幸福感を得たり、純情な片思いライフを満喫していた。告白する勇気はなかったけど、それでも満喫していた。もしかしたら彼女も僕のことを気にしてくれているかもしれないと淡い期待を抱いたこともあった。
しかし、有珠ちゃんが僕に見せる優しさは誰にでも平等に向けられるもので、別に僕が特別なわけではないと気付くのに、それほど時間はかからなかった。有珠ちゃんは美少女で男女問わず人気があったから、尚更だ。
僕が必死で彼女との会話のネタを探している間に、有珠ちゃんはおちゃらけた男子と軽口を叩きあっている。その笑顔は、僕に向けるよそ行きの表情とはまったく別のものだ。その様子を、僕は遠巻きに眺めることしかできない。
大して進展もないまま、時間は流れ、あっという間に来月になった。
席替えは月ごとに行われるので、僕と有珠ちゃんはすぐに離れ離れになった。この時有珠ちゃんの隣になったのが、忌々しい恋敵、大輔という男子だった。
大輔は、ノリが軽くてチャラチャラしていて、それでいて容姿がいいから、女子からの支持は高かった。一方で、男子からの評価はゼロに等しかった。
やれ女たらしだの、軽いのは上っ面だけの腹黒だの、女子たちを思い通りに動かしてクラスの影の支配者になろうとしているだの、半ば憶測に近い噂が男子を中心に広まっていた。むろん、僕もその一人だった。
ある日の休み時間のことだ。僕がトイレから戻り、教室のドアを開けると、教科書を挟んで何やら会話している有珠ちゃんと大輔の姿が見えた。
「ねえ、大輔くん。さっきの続きなんだけどここ、どうしてサインシータを使うの?」
「まず、左辺を移行して、二乗するんだ。するとこっちに――」
ノートを指さして説明する大輔と、それを覗き込む有珠ちゃん。二人の距離は、額同士が触れ合うほどに近い。その距離が開いたり縮んだりするたびに僕はひやひやした。
この日はたまたま、卒業アルバムに載せる写真を撮るということで、カメラマンが教室や廊下などあちこちでカメラを構えていた。美少女の有珠ちゃんと見た目だけはいい大輔は絶好の被写体となり、カメラマンは手慣れた様子で教え合う二人を撮影していた。きっとアルバムの日常風景のページに載せられるんだろう。
「――とまあ、そういうことだよ。わかったかい?」
「うん、ありがとう!賢いわね、大輔君」
「いやー、それほどでも、あるかな!」
満面の笑顔で言う有珠ちゃんと、テレテレになって後頭部を掻く大輔。心なしか、有珠ちゃんの笑顔は僕に見せたものより輝いて見えた。
心のうちに沸々と湧き上がる嫉妬心を隠して僕は着席した。その後、授業を終えて家に帰っても、そのわだかまりが消えることはなかった。食事は喉を通らず、夜は良く眠れない。それほどまでに僕は有珠ちゃんが好きだったし、大輔が憎かった。
有珠ちゃんが、大輔と付き合っている。そんな噂が流れたのは、それから数日後のことだった。近くの席で女子たちが楽しそうに話していたのだ。
「ねえねえ、それでどうなったって?」
「大輔君、すぐにオッケーしたみたいよ。ちょっと前からいい感じだったもんね」
「確かに二人とも顔がいいし、お似合いって感じ?」
「いいなー、幸せになってほしい!」
心底楽しそうに話す女子たちに、聞いていられなくなった僕はトイレに行くふりをして席を立った。その時一緒に登校してきた有珠ちゃんと大輔とすれ違った。
それは、僕が自分の失恋を実感した瞬間だった。同時に、大輔を明確な敵として認識した瞬間でもあった。
性悪のくせに、いい人ぶって、有珠ちゃんを誑かしたな。内心そう決めつけて、僕はずっと、敵視していた。もっとも、面と向かって敵意をぶつける勇気はなかったけど。大輔を敵に回すということは、大輔の手中にあるすべての女子を相手にしないといけないということだ。それがどんなことなのか、僕には想像もつかない。
結局、醜い嫉妬の炎を宿したまま、僕は中学を卒業することになった。この件によって一層自信を無くした僕は、ますます根暗で陰気な野郎として皆に認識されることになる。
友達もほとんどできなかったし、誰とも口を利かない日が続いた。それでも唯一励みになったのが、副室長の親切な気遣いだった。
副室長という立場上かもしれないが、彼はいつも僕に優しかった。グループワークでペアが作れない僕をチームにいれてくれたこともあった。僕が不登校にならなかったのは、彼のおかげといってもいいかもしれない。
そんなある日、突然僕はいじめに遭った。何の前触れもなかった。学校を出たとたんクラスの男子数人に囲まれ、横腹を蹴り上げられた。訳が分からずうずくまる僕を見て、彼らは下卑た笑い声をあげた。
「よお、根暗君。元気してっかあ?」
そう言って僕の胸倉をつかんだのは、クラス内でも凶暴なことで有名な問題児、狩井だった。
「……急に、何?」
戸惑いと恐怖に襲われる中、僕はかろうじてそれだけを聞いた。狩井は、僕を締め上げる力を強めると、ドスが聞いた声で言う。
「俺らこれからカラオケ行くんだけどさ、残念ながら金が足りねぇんだ。貸してくんねえか?いいだろ別に、一緒に遊ぶ友人だっていないんだろオメェ」
彼の言葉に、取り巻きがゲラゲラと笑う。なんで僕がお金を出さなきゃいけないんだとか、友人がいないのは関係ないだろとか、言いたいことは一杯あったが、喉の奥がカラカラに乾いて言葉が出てこない。
「んーまあ、今日は千円でいいや。さっさと出せやオラ、ぶん殴るぞ」
そう言われたときには、僕は突き飛ばされていた。そのまま腹や背中を蹴られる。恐怖で叫び声も出せないまま、財布から千円札を取り出して命乞いするように言った。
「……やめて、ください……」
掠れた声で訴えると、狩井は僕からお札を奪うと蔑んだ目で見下ろした。
「けっ、タマ無しが。しゃーねえなあ、これで勘弁してやらぁ。あと、このことは誰にも言うんじゃねえぞ。もしチクったら容赦しねぇからな。おいお前ら、行くぞ」
そう言って狩井は踵を返すと突っ伏している僕には目もくれずにどこかへ行ってしまった。体の痛みとショックで僕は暫く動くことができなかった。それでも、狩井が残していった言葉を思い出して、身が震えた。
今日は、千円でいいや――。
台風の前のような暗雲が心にのしかかってくるように感じた。
その嫌な予感は、翌日には現実となっていた。机の上は暴言で埋め尽くされ、持ち物は不自然に壊れ、露骨にぶつかられて突き飛ばされた。
カツアゲにも頻繁にあった。狩井は僕の帰宅を待ち伏せしては、千円、二千円と金をせびった。多いときで一万五千円をガッツリ持って行かれたこともある。そして仕返しが怖くて、僕は誰にも助けを求められなかった。
悔しいことに狩井が言う通り、親身になってくれる友達もいなかった。
なんで、僕がいじめられているんだ。
その理不尽さの答えを誰に聞けばいいのかもわからず、暴言と暴力に怯えながら日々を繰り返していた。
そんな中、僕の異変に唯一気づいてくれたのは、例の副室長だった。ある日、登校した僕が机上の落書きを消していると、彼は背後からのぞき込み、声をかけてきた。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫って、何が?」
「狩井たちにいじめられてんだろ。最近あいつら変だからな。全然金持ちじゃないくせにしょっちゅうカラオケやら焼肉やら出歩いてるし。俺でよければ相談に乗るよ」
その言葉に、僕の心は簡単に揺れた。狩井にカツアゲに遭ってからの経緯を、余すことなく彼に伝えた。誰でもいいからすがりたいという気持ちもあったし、実際、少し気が楽になれた。副室長も、協力すると言ってくれた。
相変わらずカツアゲは続いたけど、副室長という相談相手を得た僕は、何とか耐えしのぐことができた。だから、彼から「話があるから、放課後屋上に来てくれ」といわれたときも、のこのこと向かってしまった。
「それで、話って――」
屋上のドアを開けた僕は、三秒後には凍り付いてしまった。一瞬で心臓が跳ね上がり、全身から冷や汗が噴き出す。
腕を組み、仁王立ちして僕のほうをにらんできたのは副室長ではなかった。
「遅ぇよ陰気君。暇なんだろ、さっさと来いや」
狩井は嘲るように僕を一笑して、挨拶代わりとでも言うように僕の鳩尾を殴りつけた。
「なん……で……?」
もはや慣れてしまった痛みは、しかし苦しいことに変わりない。それでも苦しい息の下から僕は聞いた。副室長が僕を呼び出したんじゃなかったのか……?
「俺のダチが教えてくれたよ。放課後オメェがここに来るってさ」
そういって狩井は僕を蹴り倒した。背中を地面に打ちつけ、ズキズキした痛みが走る。それでも僕はようやく、副室長に嵌められたことを理解した。
彼は、僕の相談に乗るフリをして、僕の動向を全部狩井に伝えていたんだ。道理で、荘何度も帰り際に邂逅するわけだ。
そして、副室長は――狩井は、僕を屋上に呼び出した。一体、何のために?
「オメェ、チクっただろ?」
「……は?」
「今日担任に呼び出されてよ、いじめがあるらしいがほんとかって言われて、みっちり説教されたんだ。オメェのせいだろ?」
狩井は僕を睨み付けて言うけど、僕には覚えがない。いじめに気づいた良心的なクラスメイトがいたか、先生の目にいじめが留まったかのどちらかだろう。……それとも、これも副室長の仕業か?
そう言いたかったけど、狩井は僕の言い分など聞くつもりもないようだった。
「俺、言ったよな?チクったら容赦しないってさ」
狩井はそう言って、地面に背をつけている僕の肩を踏みつけた。よく見ると手に何かを持っている。その先が、太陽の光を受けてキラリと光った。あれは、カッターナイフだ。
「もっと痛い目に遭わねぇと、わかんないのか?」
僕は、恐怖のあまり声が出せなかった。ただ、狩井がナイフを振り上げるのを、絶望的な目で見上げていた。
そこで何が起こったか、正直覚えていないが、意識を失いそうなほど暴行を加えられ、最終的に先生が駆けつけ、救急車で運ばれたのは覚えている。右腕がざっくりと切られ、縫合手術をする羽目になった。両親は泣き叫んでいたし、狩井は母親に羽交い絞めにされ強制的に頭を下げさせられていた。
高校は、そのまま中退した。狩井やその一味の顔を見るたびに恐怖でひざが震えたし、副室長に裏切られたことが大きなショックにもなっていた。軽い人間不信に陥った。
暫くは部屋に引きこもる日々が続いていたが、共働きの両親の収入だけでは心もとなくこれ以上二人に迷惑をかけたくもなかったので、僕は働く決心をした。しかし当然ながら高校中退の僕がまともに就職できるはずがなく、小さなバイトを転々とすることになる。
これではいけないな、と路頭に暮れていた僕は、ある職業に出会った。
基本、家で仕事できる。面倒な上下関係も煩わしい同僚もいない。締め切りさえ守れば、割と自由に過ごせる。
それは、小説家だった。
幼い頃から本を読んでいた僕は、小説という不思議な世界の魅力にとり憑かれた。その中では、現実では起こり得ないことだって、簡単に起きてしまう。異世界での冒険だったり、タイムスリップだったり。現実よりあっけなく人は死に、現実よりスムーズに男女が近づく。何をやっても上手くいかなかった僕は、そんな小説の世界に憧れた。
だったら、自分で書けばいいじゃないか。そういう結論に至るのに、それほど時間はかからなかった。父親が使わなくなったパソコンを借りると、思いつくままに物語を書き殴った。
主人公は、かっこいい男の子。異世界に転生し、ヒロインを助けながら未知の世界を冒険するファンタジーだ。
一ヶ月ほどで完成したこの話を、僕は出版社の大賞に応募してみた。かなり駄目元だったのだが、なんと大賞を受賞してしまった。
フリーターの僕が、手に職をつけるチャンスを得たわけだ。
最初、両親は反対した。小説家なんて不安定な仕事だ。心配するのも無理はない。
しかし、受賞したことで舞い上がっていた僕は、是非作家として生きたいと主張した。小説を書くことの楽しさに目覚めてしまったせいもあった。
その熱意が通じたのか、最終的に両親は賛成してくれた。母なんかはノリノリでペンネームを考えてくれた。まあ、本名が一番しっくりくるので、本名でデビューしたけど。
出版した本は、そこそこの売れ行きを記録した。ベストセラーなんてものは程遠かったけど、バイトで食いつないできた僕にとっては、信じられない額の収入があった。
これを機に、僕は一人暮らしを始めた。二十歳になったばかりのことだった。ワンルームのアパートを借りてそこに引っ越した。両親は不安そうな顔をしつつも、盛大に送り出してくれた。今まで散々迷惑をかけてきたから、これからは二人の時間を過ごしてほしいと思った。
作家として少しずつ名が広まっていき、シリーズものをいくつか抱えるようになったときが、おそらく絶頂だった。僕が頭の中に作り上げた、非現実の世界。それを自分の言葉で綴り、読者に提供できるという楽しみは、小説を書くことが生きがいと思えるほどに僕を魅了した。
小説を書いているとき、僕は神になれる。登場人物の運命も、二人の出会いや別れも、何なら世界の滅亡さえも好きにすることができる。ペンは剣よりも強しという言葉があったが、まさにその通りだ。勇者が振りかざした剣を、僕は指先一つでへし折ることだってできる。まあ、使うのはパソコンだけど。
そうやって作家生活を満喫していた僕だったが、当然のように、壁にぶち当たった。
簡単に言うと、スランプだった。
出版社二十周年記念の、書き下ろし短編を書いているときだった。突然、頭の中が消しゴムで消したみたいに真っ白になった。担当編集者からはどんな話でもいいと言われていたのだが、まったく文章が書けなくなってしまった。パソコンを前に、硬直する日々が続いた。
締め切りはあと一か月と迫っている。大切なイベントなので、間違っても落とすわけにはいかない。行き詰った僕は、昔のアルバムの整理をしているときに、あるヒントを得た。
何気なく開いた中学の卒業アルバムに、有珠ちゃんと大輔が写っている。順調な生活の中で忘れ去っていた苦々しい記憶が、一瞬で頭の中に流れ込んできた。右腕の古傷が痛みその夜は一晩中、煎餅布団の上を転がりまわった。
そして翌朝、寝不足の頭でパソコンに向かった僕は閃いたのだ。僕をモデルにした話を書けばいい、というように。
空しく散った初恋も、いじめられていた屈辱も、小説の中ではひっくり返せるのではないか。大輔を破り、狩井をボコボコにすることもできるのではないか。なんせ、話を作るのは僕なのだ。
思い立ったが吉日、僕は早速書き始めることにした。主人公の勇者は正義の味方。大切な相棒のヒロインと一緒に、悪の魔王を成敗するという話だ。ベタかもしれないが、字数的にも下手に凝ったことはできない。王道を行かせてもらおう。
勇者ユキは、襲い来る敵をなぎ倒し、魔王ダイスの居城へと歩を進めた。あとはダイスを打ちのめせばめでたしめでたし、ハッピーエンドとなったのだが。
自分でも、なぜかわからなかった。いつの間にかアリスはダイスに寝返り、ユキは押さえられていた。これじゃ、僕の書きたい話とは程遠い。僕は、ユキにダイスを倒させないといけないのだ。
パソコンを前に、僕は頭を悩ませた。そして一つの、原因のようなものに行きついた。
小説の中なら何でもできる。これは僕の信念であり座右の銘だ。しかし一方で、現実でできないことが作中でできるはずがない、とも思っている。小説の中でだけ好きな人と上手くいくはずがないし、嫌いな奴に打ち勝つこともできないのではないか。
完全に一から考えたオリジナルキャラを動かしているうちは、僕は前者だった。フィクションなんだからいいじゃない、の一点張りで、好きなように話を書いてきた。でも、モデルが自分となれば話は別だ。
有珠ちゃんに好かれることはできなかったし、大輔に勝つなんて夢のまた夢だった。それがどうして、小説の中だと、思い通りになるというのか。僕は散々苦労してきたのに、作中の自分にだけいい思いをさせていいものか。
完全に筆が止まってしまった僕は、その話を没にして代わりに新しい話を書いてみることにした。題材はまだまだある。
次に僕が思い出したのは、高校時代に僕を嬲った、いじめっ子の狩井のことだった。今彼がどうしているのか何て知らないが、彼に人生を狂わされた僕は、当然復讐の機会を狙っていた。小説の中なら、あいつを痛い目に合わせることができるかもしれない。それで少しは気が晴れればいいと思った。
主人公は、超有能スパイのクリス。僕をモデルにした割には美化しすぎだが、そこは目を瞑ろう。そうじゃないと、話が進まない。
クリスが鮮やかな格闘術でカーリーの手下を一掃したところまでは調子が良かった。その勢いでカーリーを亡き者にしたクリスは、無事設計図を盗んで脱出、という流れを想定していたのだ。
まさか、大臣が裏切るとは。彼は、単にクリスの協力者にしようと思っていたのに。副室長の気の良さそうな笑顔を思い出した僕は胃の中のものを吐き出しそうになった。さらにあの日屋上で狩井に振るわれた暴力の数々を思い出して、僕は恐怖で歯が鳴った。気づかないうちに、カーリーはクリスを残忍に痛めつけていた。呼び起された記憶が、無意識に指を動かしたのだ。僕はまったく狩井に太刀打ちできなかった。クリスも同じ目に遭うべきだ、と。挙句クリスは無残な死に様を晒し、物語から消えた。
主役が死んでしまった以上、もう話にならない。僕はこの話を没にすると、締め切りまでの日数を思い出して青ざめた。早くめどをつけないと、間に合いそうにない。
結局僕は、無難な恋愛物語を書くことにした。ラブコメならいくつかのお約束があるしさらっと完成させられると思ったからだ。僕が書きたいものとはかけ離れてしまうが、この際仕方のないことだった。
高校生の男女の初デート。活発な彼女に振り回されつつも楽しそうな主人公。街を歩けばどこにでも見つかりそうな、なんてことのないカップルの一日。
ありきたりな話は、手が止まることなく書き進んでいたが、段々と僕の中に黒いもやもやが生まれ始める。
生まれてから、彼女なんてできたことがない。根暗だと揶揄され、友達も少なく、好きな子は他の男子に取られ、高校ではいじめられ、中退してからは引きこもってばかりだった。バイト先で新しい出会いに恵まれることもなかった。
幸せな男女って、いったい何なんだろう。
もちろん、本や漫画、ネットなどで、恋愛に関する知識はあった。それでも、付き合うという行為がどんなものなのかてんで分からなかったし、主人公と彼女を近づけるほどに胸がムカムカとした。こっちの苦労も知らないで、いい気なものだ。そんなのは認めたくない。あり得ない。許さない。どうして、薄暗いワンルームで、幸せな男女なんて腹の足しにもならないような話を書かないといけないんだ……?
耐えられなくなった僕は、その話を途中で投げ出してしまった。これ以上書き進めていたら、精神が壊れてしまいそうだった。
では、何を書けばいいのか?残された選択肢は、もはやなかった。時間も、もうなかった。次のを決定稿にしないと間に合わない。
僕に書けそうなのは、これしかなかった。上手くいかない僕の人生を出汁にして、実質ノンフィクションの物語を書こう。
執筆は、信じられないくらいスムーズに進んだ。徹夜をして、頭が変になったのかもしれない。とにかく、気が狂ったような勢いでキーボードを叩き続けた。
時間が経つのも忘れ、一心不乱に画面とにらめっこしていた僕を現実に引き戻したのは携帯電話の着信音だった。
机の上に置いた携帯が着信を告げた。男は携帯を取り上げ、キーを打つ手を止める。とたんに、部屋が静かになる。液晶に表示されているのは、担当編集者の名前だった。嫌な予感を抱きつつ、男は電話に出る。
「夜分遅くにすみません。でも、どうせ起きていらっしゃるでしょう?」
男は時計に目をやった。深夜三時、電話をかけるにはあまりにも非常識がすぎる時間だった。しかし編集者は、締め切りが迫ると時折こうして電話をかけてくる。元々は眠ってしまわないように男が頼んだことだったが、今は誰とも話したくない気分だった。
「ああ、今書いているところだ。なんとか間に合いそうだよ」
「それは良かったです。最近不調だと聞いていたので不安だったんですが。ええと、王道のファンタジーものでしたっけ?」
編集者の言葉に、男は顔をしかめた。確かに少し前にそう伝えてあったのだが、予定が変わったのだ。そう言えば内容の変更をまだ言ってなかったなと男は思い出した。
「いや、それはやめた」
「えっ?やめたんですか?」
編集者は素っ頓狂な声を上げる。締め切り間際にそんなことをいうのだから無理はないか。男は他人事のようにそう思い、スリープ状態へと移行したモニターを眺めながら言った。
「少し事情があってね。その話は書けなくなったんだ。でも大丈夫、新しい話を思い付いたから」
「新しい話の中身を聞いてもいいですか?」
「……ある小説家が主人公の、日常ものにするつもりなんだ」
少しためらったあと、男は言った。やや間が空き、編集者の戸惑った声が聞こえる。
「先生は今まで、非現実的な世界観が魅力のファンタジーで売れてきたじゃないですか。ファンもそれを期待していると思います。どうして日常ものなんて書こうと思ったんですか?」
「……色々あってね」
「その色々を説明してくれませんか。締め切りが近いので没にすることは難しいですが、せめてこちらが納得するだけの理由が欲しいです」
編集者の言葉には非難する響きがあった。
男は早く作業に戻りたいという一心で、これまでの経緯を話すことにする。そうでもしないと、編集者は引き下がりそうになかった。
「……最近、スランプ気味なのは知っているだろ。だから、自分をモデルにしたら、書きやすいかと思ったんだ」
「それは悪くないと思います。主人公に感情移入もしやすくなるでしょう。でも、それならファンタジーでもいいじゃないですか」
納得していない編集者に、男は自分が抱いている劣等感と、小説の中でだけ幸せな自分は書けないということを手短に説明した。
「なんか、癪に障るんだよ。僕が散々苦労してきたことが、話の中だとなんでもうまくいってしまうのがさ。ご都合主義っていうのかな?とにかく、書けないんだ。だから、自分のこれまでの人生を出汁にしようってわけ」
徹夜のせいで頭が回らなくなっていた男は普段の数倍もの饒舌で言葉を並べた。言いたいことが次々に口をついて出てくる。編集者は相槌もなく黙って聞いていたが、やがて心底呆れたようなコメントを寄越した。
「そんな話、誰が読みたいんですか?」
冷ややかな声に、男の口が止まる。
「私は賛成できませんね。なんでもできるのが、小説というものじゃないですか。苦い過去に縋りつくのは結構ですが、小説の中にまで持ち込まないでほしいものです」
男は茫然とその言葉を聞いていたが、すぐに我を取り戻すと反論を始めた。
「いや、そうはいってもだよ。僕が苦労してきたのに、主人公はピンチになれば助けてもらえるし、抜群の身体能力で敵を蹴散らすこともできる。どうしてそんなに思うようになるんだい?」
感情が乗った男の声に対して、返事は冷淡で素っ気ないものだった。
「それは、彼が主人公だからでしょう。彼がいなければ話そのものが成り立ちません。そこに自分を投影して、妙な制約をかけるのはやめてもらえませんか」
「いや、しかし――」
「それに、全ての主人公が万能なわけがないでしょう。人間関係に苦しむ主人公も、仲間を救えなくて自分を責める主人公も、思い通りにならない主役なんていくらでもいます。彼をどんな主役にするのかは、先生、あなたが決めることですよ」
編集者も、心なしか口数が多い。深夜という時間がそうさせているのかもしれない、と男は回らない頭で考える。
「この際、大事なのはそんなことじゃないでしょう。わからないようですので、端的に聞きます。先生、あなたは、」
編集者は一度言葉を切ると、一言一言、言い聞かせるように言った。
「あなたは、自分の人生が、読者に楽しんでもらえるほど魅力的だと思っているんですか?」
「どういうことだい?」
「最初に言ったじゃないですか。誰が、そんな話を読みたいんですか。あなたの人生は、読者が楽しめるようなエンタメ性に富んだものなのですか?」
男は携帯を握りしめたまま、必死で言葉を探していた。それは反論なのか言い訳なのか自己弁護なのか、男にもわからなかった。ただ明らかなのは、自分は編集者の言葉に納得してしまっているということだ。
男があまりにも何も言わないので、痺れを切らしたように編集者が溜息をついた。
「もう時間がないので、それで書き上げてくださって結構です。私が言ったことが正しいのかどうかは、読者の反応を見ればすぐにわかりますよ」
「いや……でも、それじゃあ面白くないんだろう?」
男はようやく口を開いた。その言葉は藁にも縋るほど弱々しく、頼りなかった。
編集者の溜息が、携帯越しに聞こえる。
「さあ、案外ヒットするかもしれませんよ。私には何とも言えません。あなたの人生を全て知っているわけではありませんから。ただ一つ言えるのは、先生はその話を書くしかないということです。時間的にも、先生の精神的にも」
ギリ、と男の奥歯が鳴る。散々非難しておいて、結局書けとはあまりではないか。こうなったら、自分にできることは一つだ。自分を主人公にした物語で、編集者や読者に面白いと言わせてやる。
男の目は、かつてないほどの闘志で満ちていた。みなぎる創作意欲が、男の疲れを全て忘れさせる。
「じゃあ、もう切っていいかな。僕も、作業に戻りたいんだ」
「そうですか。それでは、頑張ってくださいね。締め切りはすぐそこですよ」
「大丈夫。悪かったね、こんな時間に電話させて」
「……慣れていますから」
軽い調子で言った労いの言葉に、編集者は諦めが混ざった溜息を漏らした。が、それで男の心が揺らぐことはない。自分の方がよほど大変なのだ。
「では、いい原稿を期待していますよ。栗須雪弥先生」
そう言って通話は切れた。男は携帯を乱暴に放り出すと、スクリーンセーバーを解除する。すっかり炭酸が抜けたジュースを飲み干し、肩を軽く回してほぐすと、男は液晶を睨みつける。次に自分が立ち上がるのは、この話が完成したときだ。何時間でも、書き続けてやる。
男は口元を笑みの形に歪めると、一心不乱にキーを叩き始めた。
カタカタカタカタカタカタカタカタ。
「……ふう」
僕はパソコンの電源を切り、椅子から腰を上げた。黒くなった画面に、冴えない男の顔がうつる。やっぱり嫌いだ。僕はパソコンを閉じると大きく伸びをした。
閉じ切ったカーテンの隙間が、白み始めた外の光を取り入れて明るい。机上や床にはペットボトルやお菓子の袋が散乱していてとても汚いが、今は掃除をしようという気分ではない。今はただ、眠りたい。
一仕事終えた達成感からか、急激に睡魔が襲ってきた。そういえばもう、二十四時間ほど寝ていない気がする。編集さんに電話するのはあとでいいや、と思いつつ、僕は部屋の隅に敷いてあった煎餅布団を広げた。
果たして僕の書いた小説を編集さんや読者は気に入ってくれるのか。正直不安も大きいが、それも踏まえてこれは正真正銘の僕、栗須雪弥の物語だ。後悔はしていない。
布団に寝そべって目を閉じると、深い海の底に沈んでいくような心地よさと共に眠りの渦に引き込まれていった。シーンとした静けさが僕を包む。寝返りをうつと、右腕の傷痕がかすかに痛む。それすらも何故か許せるような気持ちになっていた。
久しぶりに、よく眠れそうだ。