第8話:リンゴ
=昨日=
既読 21:34[おまえ風邪ひいてた?]>
既読 21:34[多分、先週のどっかに]>
<〔頭おか、別に風邪なんてひいてないけど。〕21:48
既読 21:50[んじゃあ病院には行ったろ]>
<〔行った。なんで?〕21:51
既読 21:52[その日に春川と会ったって聞いたから]>
<〔成る程それか、でもただのお見舞い。知り合いが入院してんだよ。〕21:52
<〔愛美ちゃん病気なんだってな。累は知ってた?〕21:53
既読 21:54[知ってるよ、想像つかないよな。あの姿から心臓病だなんて言われても。最初は信じられなかった]>
<〔ちなみに聞くけどその病気、緋界雷と関係あったりする?〕21:54
既読 21:55[緋傀儡な。関係は知らん、きっと無いと思うけど]>
<〔絶対に?〕21:55
既読 21:56[そう言われると不安。緋傀儡でググれ]>
<〔おけ〕21:56
既読 21:57[俺がその病気の事をよく知らないのもあるし。病名でいくら調べても出てこなかったんだよな]>
既読 21:58[急性心頭健促って言ってたけど、珍しい病気らしい。それは知ってる?]>
22:49[おーい、誠弘ー。調べた?]>
23:16[おーーーい]>
誰にも読まれない文章は独り言に等しい、とよく言うが、こんな呼びかけの一単語でさえ独り言にされてしまうのはいささか虚しい。
あくびを噛み殺して、左右に揺れる。隣のサラリーマンが持っているビジネスバッグが幾度も足に当たるので、どうにか距離を置けないかと思案するも、通勤ラッシュの電車の混み具合にあえなく断念。
沢山の人の頭の間から覗く窓の外は快いカンカン照りで、近所にある発電所記念公園の記念碑などはたっぷりと熱をため込み、爆発寸前なのではないかと思う。なんなら、今頃爆発してるのではないだろうか。あの中途半端に大きいブロンズ性の四角柱が、帰りに爆発四散していても驚かないようにしよう。
スマホからの音漏れも、親子の小さな会話も、電車が空気を切りレールを進む音で消されてしまう。
ああ、そう言えば、緋傀儡の繁殖期って今頃か。赤い花の髪留めを付けた窮屈そうな女の子を見て、何となく思い出す。
今年は梅雨明けが早かったし、温暖な日が多かったため、絶好の緋傀儡日和と言っても過言ではない。風がそれなりに強くみごとな快晴続き。まさにここ最近のような天気だと、それはそれは花粉がよく飛ぶだろう。もし春川の言っていた研究所が今でも運営していたのなら、自然繁殖の実証実験でもしていただろうか。
この調子なら、金曜日も晴れそうだ。こんな事もあろうかと、肺に欠陥が無いことを専門の医者に診察してもらったし、春川も心臓病だと言っていた。これこそ、備えあれば患いなし。夢見る純情な子供ながらの備えでも、役に立つ日が来るのかと過去の自分に感心する。
窓の外の街路樹が風になびき、地に葉を重ねる。俺の両親も、よく肺の診察を許してくれたものだと思う。
日本政府が処分令を出した最大の理由として、“緋傀儡の花粉が持つ毒”があげられる。風媒花である緋傀儡の繁殖期に、緋傀儡の花粉が生物の『傷ついた肺』に侵入すれば、そこから一気に神経を蝕まれ、体の自由が利かなくなる。摂取する量が多ければ、最悪は命を落としてしまう危険性も十分にあるらしい。
つい数年前までは、ただの神話だと信じられていたが、肺に欠陥を持つ実験用シロネズミによる実証実験を繰り返す事によって、事実だと発覚した。被害者が限定的な上、そもそもの緋傀儡の知名度が低いために目を瞑られ続けていたんだろう。何をきっかけに緋傀儡処分の道へ進んだのかは分からないが、緋傀儡の存在を否定されてしまうのはとても残念だ。
でもついに明後日、液晶画面越しでしか確認できなかった姿を、本物の緋傀儡をお目にかかれる。驚くほど傍にあった。これから夢が叶う。人の夢が儚いと言い出した人には申し訳ないが、俺はすっかり夢の希望に浸っていた。
◇◇
朝礼が終わり、1限目の移動教室前の、短い準備時間。
鐘が鳴った途端から、少しずつ人が居なくなる教室と、それに比例するようにして騒めき立つ廊下が実に面白い。
「なあ誠弘、昨日のLINE。結局は緋傀儡のこと調べた? それともあれって何かの冗談だった?」
俺も比例に参加するため教室を出ると、廊下で誰かを待っていた様子の“イケメン君”を発見。さっきまでの朝礼には不参加だったのを見ると、どこかでサボっていたんだろう。昨日の突然途切れたメッセージが脳裏をかすめ、問うてみるには絶好のチャンスだと、すかさず声をかける。
「LINEって……。そっか、昨日のやつか」
俺を見ると、居心地の悪そうな顔を浮かべた誠弘、口調もどこかだるそうでハッキリとしない。成る程、朝礼の間はどっかで寝てのだろう。
「そう昨日の。無視したろ」眠かろうと俺の知った事ではない。
「うん、別に冗談でもなかったし、緋傀儡については調べたし、累からメッセ来てたのも知ってるけど。何となく無視した」
「横暴かよ、ヤバお前」無視したことへの怒りも無いし、俺も通知をスルーしてばかりなのでこっちも憤る立場じゃないので軽く応対する。
「オレの自称、傍若無人だから。累が言ってくれたら他称にもなるけど」
「はいはい傍若無人め」
自己中、とかではなく“傍若無人”を出してくるとは変な奴。
「まあいいや、調べたんなら。それにしても、何であんなこと聞いてきたんだ? 春川の病気と、緋傀儡の関係なんて」
無視したというのも特に気に留めず、あの文に既読さえついたら聞こうと思っていた話題を持ち出す。手短に話を済まさないと授業に遅刻するので、少しばかり早口で。
誠弘は気迫無く、ゆったりと言う。
「あんな花だったんだな、緋傀儡って」
「綺麗だろ?」
「昔、家に香水あったし、そんなに凄いもんだとは思わなかった」
言い換えれば生気が無い、だろうか。もしかして寝起きに弱かったり?
いやでも、あんな朝から元気の塊のような奴が? 話の方向性がズレるのはいつもの事だが、そういう時は、もっと生き生きとしていた気がする。
「香水か、そういやお前の家にあったな」
昔からそれとなく避けていた内容に、誠弘自ら触れてきたため、おそるおそる話を広げる。「そういやあれ、どうしたの? まだ結構残ってた気がしたんだけど」これは、踏み込みすぎたかもしれないが。
「えーと、残ってたのか」誠弘は気まずそうに頬を掻き、「さあ、どこいったんだろうな。覚えてない。一人暮らしする時に捨てたのかも」曖昧に言う。
芯が掴めず、フワフワ、フワフワ。
「そっか、それならいいや」丁度いい逃げ道が出来たので、すかさず逃げ込む。このまま深く追求するのは怖い。
それにしても、あの誠弘が話題を見誤ったのだろうか。なんとも歯切れが悪い。俺が眉を下げ、どうしたら話を元に戻せるか探っていると「香水ってさ、そんなん残酷すぎやしないか」誠弘は、蚊の鳴くような声で呟く。
「ん、えっと。誠弘?」伏せられた目は俺の視線と交わらず、もはや何を言っているのか聞こえない。モスキート音。「まだ寝てる?」これぞ放心状態。
「寝てる、そうだな。寝てるんだよ俺」
そんな、会話している状態で寝ていると言われても。しかも断言したぞ。
「いや、寝てないからな?」思わず当たり前にツッコんでしまう。ただ少なくとも、俺の見る限りでは。
「ちょっと前にさ、診断書を見たんだよ」俺がすっかり困惑していると、ぽっと口を開いた誠弘。「緋傀儡って書いてあってさ。何でだろうな、って思ってたら昨日、解決したんだ。そっか、愛美ちゃんもか、って思って」
どうも誠弘の目が見えない。顔色が分からない。
「誠弘それは、なんのこと。昨日?」
どうして、緋傀儡を調べたら春川の事が分かるんだ? それに診断書?
「あー。累どうしよう」顔を覆い、深い深いため息を吐く誠弘。「グッシャグシャだわ、この夢。早く覚めないかな。いや逆か。ずっとこのまま平行線たどって行って欲しい」切れる頭が地面に近づいた。
「いやいや、どうしようって、何が?」
もし同級生間の会話の輪に、今の状態の俺が居たら、空気が読めない奴だとハブられるのかもしれないが、どうにも理解できない。
「なあ、累。真剣に答えてほしいんだけどさ」誠弘は短い髪を撫でながら、ゆっくりと顔を上げた。「親友の夢と、親友の精神、どっちとる?」さっきから、出される発言が支離滅裂だ。俺の頭の中で、疑問符が踊り狂う。
「何、それ。今日の誠弘は不思議くんのキャラ? 引かれるから止めとけよ」
手に持つ教科書を持ち換えようとして、筆箱を落としそうになる。かしゃ、と手の中で音がした。
「あー。辛い。お前が何にも知らないの。全部吐き出したいのに、それだと愛美ちゃんを傷つける。でも何がしたいんだよ、あの人は」
“お前が何も知らない”とはどういう事だろう、俺は彼女から全部を聞いたはずだ。フワフワ、モヤモヤ。手を伸ばそうにも、届かない。なんだか今にも引き裂かれそうで、でも繋ぎとめる方法は分からなくて。
「春川が、何か考えてるって話?」
春川について何か悩んでいるのだろうか。件の病院で、何かあったのだろうか。彼女の病気について誠弘も何か言われたのだろうか。
「そうなんだけど、そうじゃなくて」
頭を抱えて、地団駄をおかしく踏む高校生男子に少しばかり引きながら「彼女の病気の事なら俺は話を聞いたし、お前に話し辛かったってのもあるから」外堀から埋めていこうと、どうとでも受け取れる言葉をかけてみるが、これは昨日も話したなと、思い出して話を強引に収束させる。
「俺さ、春川と約束したんだよ」もし誠弘が勘違いをしているようなら、彼女へかけられた誤解を解かなければ。俺を彼女は協力関係にある事を。
「約束?」
「夢を叶えるって約束」誠弘は、眉間のしわを深くした。あれ、これは地雷だったか? 「だからさ何かこう、誠弘は心配しないで大丈夫だと思う」ヒヤヒヤしながら続ける。
「本当に、累は知ってるんだな?」怪しむように俺を見てくる。
「知ってる、大丈夫」
なるたけ明るく振舞おうとした俺は身が凍りそうだ。でも有頂天で、地に落とされるなんて想像もつかない俺は、深く知ることを放棄しただけだった。もう十分だと思っていた。
「大丈夫って、自分の気持ちに正直すぎるんだよ」不自然に上がった口角は、俺を気遣ったように見える。「お前は。なんだか、累も変わっちゃったなあ」数十年前の思い出に思いを馳せる中年のような、誠弘のおじさん臭い口調に噴き出した。
「だって、信じられるのって、嬉しいじゃん」
彼女の笑みを真似して微笑んでみせた。でも誠弘は、顔を少しだけ顰める。
「ちょっと累。信じるって、どういう」「んじゃあ、俺行くよ」そろそろ移動しないと、授業開始に間に合わない。「誠弘も移動、急いだ方が良いんじゃないか?」
背を向け移動しようとすると、「待て待て、累。じゃあ、1つだけ」慌てて止められた。「ん、何?」手早く済ませてくれ、と目で訴える。
「お前は、悪くない。それだけは、覚えておけ」
やけにハッキリとした口調で、射られるような目だった。
「やっぱ誠弘、変だぞ今日。キャラじゃないような気がする」俺がそう言うと、誠弘は手を挙げ微笑んだ。
驚き後ろを振り返ると、誠弘の待っていた相手が、ようやく来たみたいだ。「ごっめん。木戸、待たせた。ちょっと指導されてて」
「いいよ、筆記用具さっさと取ってこい」
さあ、こいつの言葉は巧みである。せいぜい、掌で踊らされないように気を付けよう。かしゃ。手の中でまた、音がした。
~ Side B ~
“善悪の判断とは、己の育った環境に依存する物であり、決して己だけの価値観ではない。そして同時に、その環境に優劣は存在しない”
理科室にあった、立てかけ式の日めくりカレンダーをめくったら、そんな事が書いてあった。科学に貢献した偉人の名言と言うわけでもなく、何かの本の一文のようだった。
「ねー、先生。これってどんな本?」埃っぽい理科準備室に入り込み、棚に並ぶビーカーに入った割れ目を眺めて「何をしたら、こんなヒビが入るのかしらねえ」と杞憂にぼやく、科学クラブの顧問に少し大きな声で問いかける。
「はいはい、なあに? 愛美さん」
ビーカーからは顔を背けず、空返事をする佐藤先生。ビーカーを割りかけた犯人の目星でも付けているのか、上の空だ。仕方がないので、カレンダーを先生の目の前に持って行く。「これ、この文」
棚に向いた顔を下から覗き込めば、ようやく私の方へ振り向いてくれた。
「日めくりカレンダーって、今日一日の希望を持たせる目的が多いのに、これは理屈っぽくて面白いね、この本、先生は知ってる?」
気難しそうな表情だった先生は、私の持つカレンダーを見た途端、表情がパッと明るくなった。「あー、懐かしい! 一時期話題になったわよね、この本」
ビーカーを棚に戻し、私の手からカレンダーを受け取る。棚の曇りガラス製の戸が閉められ、さっきのビーカーは姿を隠した。
「へー、そうなんだ」
パラパラと明日の日付の分もめくり、この一文が他とは明らかに特色が違う事を再確認したらしく「愛美さん、逆に知らないの?」常識を疑うような目をされた。
「知らないや、何年前?」
言いながらちょっとだけ口を尖らせる。「知ってる?」「知らない」の会話になるだろうと思っていたため、そんなに深掘りされるとは思ってもみなかった。
棚から、埃の匂いが不意に鼻に来て、まともに吸い込まないよう気を付けながら、すっと準備室から離れる。倒れて救急車に乗るのは、もうごめんだ。
「いつだったかしら、忘れちゃった」
私に続いて準備室から出てきながら、先生はとぼけた様子で肩を上げた。「でも、そんなに昔でもないと思うけれどね。えーと、6年ぐらい前?」
あまり知っていて当然のような情報じゃなさそうなので、内心ほっとする。「6年って、けっこう昔じゃん。私達にとってはさ。だって6年あったら、小学校だって卒業しちゃう」
ゴム手袋を億劫そうに外しながら、佐藤先生は言う。
「ええ、でも、テレビとかで取り扱われたりもするじゃない」カレンダーを私に差し出し、「これって動物たちの政治物語でしょう? ファンシーな動物が出てくる世界観に差し込まれる、重い政治の話。そのアンバランスが面白いって話題になった気がするの」準備室の戸を後ろ手で閉めた。
「ふうん、そうなんだ」政治系の話が話題になるなんて珍しいから、一部からは批判されたんだろうけど。「そんな内容の話なら、こんな理屈っぽい文章が出てきてもおかしく無さそうだね」差し出されたカレンダーからほのかに香る薬品の匂いに、病院みたい、なんて思ってみる。消毒液の、ツンとした香り。ちょっとだけ、胸がざわついた。
「結構面白いわよ、読んでみたらいいのに」
「その話って長い?」
「あー、結構長い、長編の話だった気がする」
「じゃあ、読み切れる気がしないし、いいや」
元あった机にカレンダーを戻し、佐藤先生の元へ戻ってくると、先生は理科室の椅子に座って、ノートパソコンと向かい合っていた。授業中なので驚くほど音が少なく、廊下に出れば真夜中の道路を彷彿とさせるだろう。
「ねー、佐藤せんせ。先生って今、幸せ?」
思ったことを、そのまま口に出してみる。佐藤先生の正面の席に腰かけ、頬杖をつく。私もここで授業を受けてみたかったが、それはもう叶いそうにない。
ここの生徒は、授業態度が悪かったりするのだろうか、先生の話を聞かないで後ろを向いたり、勉強なんて馬鹿馬鹿しいと、ふざけたりするのだろうか。それで赤点取って、騒いだり。__ああ、それって、とっても羨ましい。
「あら、ずいぶん急ね。それに道徳の授業で訊きそうなこと」
カタカタと、キーボードを叩く音が耳に残る。時折その手が止まって、手元の資料とにらめっこをしている先生の顔が面白くて笑いそうになるけれど、邪魔をしてはいけないと我慢した。
「道徳の授業でこんな難しい事は訊かないよ、きっと」
背を丸めてはにかみながら、パソコンに貼られた有名キャラクターのシールを指でなぞる。ふざけてるんだと馬鹿にしないような先生で、本当に良かったと思う。
「そお? 教える人によると思うけれどね。先生が幸せか、確かに難しい質問」
エンターキーを押す音に次いで、ピロン、とPCから高い音がした。「うーん、ヒントを頂戴。愛美さんにとっての幸せってなあに?」そう言いながら、“事務用ファイル”と書かれたUSBメモリを、1度だけ方向を間違えて差し込む。おかしくて笑ったら「2回間違えてないから、成長した方なのよ」と気取って返された。
「私にとっての幸せかー」これを訊き返してきたって事は、私の返答によって絶対に先生の答えも変わるんだろうな。佐藤先生の本心は聞けそうにないので、少々残念だ。「うーん、誰かに褒められたときかな」少し考えて、無難で、確かに幸せな記憶を提示する。「あ、あと優しくされたときと、何かで一番になったとき」
「ふふ、愛美さんっぽい。良いわね、それ」先生は嬉しそうに笑って、こちらを見る。目線が合ったので、私も笑顔を作る。
「私っぽい? へへ、そんなこと初めて言われた」地区のスピーカーから正午を伝える鐘が鳴った。音質の悪い音は、僅かに耳を刺激する。
「愛美さんも、同じようにしているじゃない。人を褒めて、とびきり優しくしてる」柔らかくて棘の無い声に、睡魔が覆いかぶさってくる。
「そっかな。そうだったら嬉しいや」気が緩み、大きなあくびが洩れた。
「ええ、そうよ。愛美ちゃんは優しい子」
キーボードの音が、マウスのクリック音に変わる。耳を机にくっつけたら、小さな振動が甲高い機械的な音に変身した。
「……先生。私ね、大切なものを忘れちゃってる気がするんだ」
きっと私の声は眠そうで、目はウトウトしているだろう。まぶたが少しずつ重くなって、呼吸が遅くなっていく。そう言えば、先生が幸せかどうかの答えを聞いていないのだけれど、答えてくれなさそうだ。
「またまた急ね、その大切なものって?」
声が遠くから聞こえてくるような、不思議な感覚。例えるなら、静かな水面に水滴を垂らしたような。こんなにリラックスしたのって、久しぶりかも。
「分かんない、でも、きっと大切なもの」
目を閉じたら、視界が真っ暗になる代わりに、静かだった教室が音で溢れ出す。右耳からのクリック音はそのままだけど、左から、これは何だろう。空気の音?
「……この前ね、木戸君に会った時の話したじゃん。その時に私、気付いたの。何だか大切な事を忘れてるんだろうなって」
机を小さく叩くような音がして、驚き目を開けると、先生がキーボードを叩いていただけだった。なんだ、その音か。
「それでね、靴の話をしたの」
机からそっと耳を離す。机越しのキーボードの音は、あまり好みじゃなかった。「私の履いてた靴の話。木戸君は『有名なメーカーだ』って言うんだけど、私は買った覚えがなくて、貰った覚えも無いんだ」1拍だけ間を置く。相槌を打つ姿を確認してから、話を続ける。
「調べてみたら確かに有名な会社で、値段もとても高いの、学生には手が届かないような。だったらさ、それって、誰かに貰ったって事でしょ?」
キーボードの音が止んだ。私の話に耳を傾けてくれているようだ。
「でも、覚えてないんだよなー!」不安になって、服の短い袖をつかむ。「しかもね、その靴が発売されたのって、最近なんだ」前髪が左目にかかって、視界が悪くなる。頭を少しだけ動かしても払えなかったので、背を起こした。「本当に、覚えてない」
「それはまあ、何とも……」佐藤先生は言葉を選ぶように、目線を宙に漂わせる。「不思議な話ねえ。その靴をくれた人が、まるで愛美さんの中から居なくなっちゃったみたい」腕を組み、首を傾げた。
「そうなんだよ。とっても怖い、あーあ、嫌だなあ」
伸びをして上を向いたら、白い蛍光灯が眩しくて、すっかり目が覚める。「お母さんとかに聞いてみようかな」天井に向かって呟く。「でも、お母さんからプレゼントしてもらった、とかだったら気まずいしね。やっぱり止めておこっと」自分の声が重力で降ってきた。
「確かに。それは気まずいわね」眉を下げていた先生の表情が柔らかくなる。良かった、笑ってくれた。
「へへ、そうでしょ」私も笑って誤魔化す。自分の不安をさらけ出して、この人を困らせたくない。もう二度と、誰の笑顔を奪いたくない。
自分の笑顔が不自然にならないよう、話題を探す。
「そうだよ! 先生のとっての、幸せってなあに?」
先生と目を合わせる。ノートパソコンは隅に置かれ、私は起き上がっていたから、その間に障害物は無かった。化粧の薄い質素な顔は私にニッコリと微笑んで「そっか、答えてなかったわね」と優しく言う。
考えるような素振りを数秒。良い答えが思いついたとほくそ笑み、言った。
「愛美さんの、幸せな姿を見る事かな」
「ふふ。何それー! 絶対嘘だあ」
やっぱり本音を答えてくれなかった。私がケタケタと笑っていると
「あら、本当だって。誰かが幸せな姿を見ると、こっちまで幸せになるものよ?」
と、補強して良い話にすり替えてくるのだから流石だ。
「ほらこの前も、累さんと夢を叶えるって言ってたじゃない? あれ先生、すっごく楽しみにしているのよ?」
「あ、っと」息が詰まった。一瞬だけ笑顔を消してしまい、慌てて取り繕う。「そっか、明日だもんね。私も楽しみ!」
先生は、そんな私を見て作り笑いをした。私の目を見なかった。「さて、仕事も終わったし、帰る? 愛美さん」立ち上がり、資料を片付け、パソコンと一緒にトートバッグに入れる。
「うん、帰る」
授業終了の3分前。私は、人生で最後の理科室を後にした。
*
第8話:リンゴ
〇リンゴの花言葉
・好み
・優先
・後悔
・最も美しい女性へ