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3回。  作者: 重カ
8/13

第7話:ダチュラ


 朝って、こんなに人が少ないのか。

 所々、蛍光灯の光さえ灯っていない廊下。

 照明のスイッチを掲示板の横に発見しては、勝手に点けていいものかと迷い、思い切って点けようとしたら逆に消してしまい、消えた電灯の下で驚く教師を見つけて腰を折ったり、恥ずかしいからもう電灯は点けまいと照明スイッチの前を素通りしたら、「おいおい、電気ぐらい点けろよ」と別の教師に叱られ、どうか消しませんようにと祈りながらスイッチを押して、無事に点いた時の心からの安堵は誰にも共感されなくて。

 窓の外から、グラウンドを走っている陸上部の掛け声がかすかに聞こえてきて、一体、何時に起きてるんだと不思議に思う反面、遊びなんかじゃなく真剣に取り組む姿勢にこっそり圧巻する。

 誰も気にしないのに、格好つかない自分にモヤモヤしながら足を運ぶ。

 春川さんと会うため、朝早く起きて保健室の前に着いたは良いが、通路との間のカーテンは閉まってるし、扉に鍵はかかってるしで、明らかに誰も居ない。

 あー俺、なんかダサいな。

 教室前の廊下にリュックサックをほっぽり出して、真っ直ぐ保健室に来たものだから、余計にそのみっともなさが際立つ。張り切りすぎた。この前、入れ違いになったからと言って、早く来る必要なんて無かったはずなんだ。

 誰も居ない通路を見渡し、保健室の引き戸の横に胡座あぐらをかいた。正面の窓からのそよ風が冷たくて、心地良い。

 顔を少し上げれば、窓から見える雲がゆっくりと動いていく。まるで絵の中にいるみたいだ、と子供みたいな幻想を抱いてみる。青で塗りたくったキャンバスに、白いペンキを置いて、ぼかしを入れて、コマ送りのアニメーション。いや、逆か? 白いキャンバスが先なんだから、わざわざ青で下地を作らなくても。どちらにせよ、ここは現実で、俺は画家でもアニメーターでもない。

 そんな退屈で隔靴掻痒かっかそうようの場所へ、きゃいきゃいとトーンの高い会話が聞こえてきて、誰かが来るが分かる。わざわざ立ち上がって、逃げるように移動するのもどうかと思い、そのまま座っていると、朝練に参加していたであろう、陸上部の女子マネージャー2人が目の前を通り過ぎて行く。

 俺の前を通る時だけ、騒ぎ立てていた声を潜めた2人組を見て、どうしようもなく恥ずかしくなる。絶対に俺、変な奴だと思われたな。1人で早朝に、こんなところに座ってるって、変態かただのヤバい奴だ。

 うつむきがちに女子マネの声が遠ざかったのを確信してから、立ち上がる。

 さーて、どうしようか? このまま座りっぱなしも嫌になった。

 コンビニにでも行く?

いや、外は暑いし、何より買う物が無い。そして金も無い。

 教室に戻る?

いいや、教室に一人でいるとか虚しすぎる。

 ……校舎内を、暇つぶしに歩き回る?

いやいやいや、何をしようとしてるんだ俺は。それこそヤバい奴だろ。

 取り合えず、その場からは離れようと地面を蹴ると

「あれ。累さん! 随分と朝早いねえ! 朝型人間?」

 耳に刺さった声に、内心飛び上がる。

「保健室に何か用? 朝から怪我か体調不良? 相談なら聞くけど、扉の前でボーっと突っ立たれても邪魔になるよー。そうそう、恋の悩みなら大歓迎」

 重そうなトートバックを肩からぶら下げて、保健室の鍵を取り出しながら、養護教諭のサト先が声をかけてきた。まて、いつの間に。

「えあ、すんません。はよざいます」

 心の葛藤を声に出していないか、急に不安になって早口になる。

「はいはい、おはよ」鍵を取り出し、引き戸を勢いよく開けるサト先。「この引き戸、建てつけ悪くってさあ、勢いよく開けないと開かないわけ」いや、それは別に聞いてない。確かにビックリしたけど。「累さんさあ、暇ならそっちの窓開けてくんない? よければ暇じゃなくても」

「窓、はい」

 サト先の言う『そっち』がどこを指すのかは分からなかったが、返事だけして保健室内へ入り『そっち』っぽい窓を適当に開ける。爽やかな風でひらめく、黄緑色のカーテンと一緒に、机の上のプリントの束が飛びそうになったので、慌てて押さえたら笑われた。サト先(いわ)く「押さえる姿が必死すぎて面白かった。でも助かったわ」らしい。ちなみに、開けてほしかったのはその窓ではなかったそうだ。

 サト先は引き出しからUSBメモリを引っさらい、短い時間内で幾度も腕時計を確認しながら「あー、累さん、何か用だった? ごめんねー。今忙しくって。その辺にある紙でも見といて!」と、こちらに叫ぶように言う。バタバタと駆け回るサト先を見て、やっぱり自分の時間設定が甘いことを再確認させられ、どことなく憂鬱である。

 部屋の隅に置かれている全身鏡で、ネクタイが曲がっているのを見つけたが、結び直すのも気分ではなく、かといって指摘されるのも億劫で、強引にそれっぽく見せる。ネクタイピンの有能さには脱帽だ。

 いつの間にやら教室から出て行ったらしきサト先は「あ、でも個人情報っぽいのは見ないでね」ひょこっと戸の影から顔を出してそれだけ言い、俺の返事も待たずにどこかへ走って行った。何故か室内に貼ってある、赤字の『廊下を走るな』の張り紙に、思わず同情したくなる。走っていった方向から察するに、職員室に用でもあるのだろうか。

 嵐の前、ならぬ嵐の後の静けさ。一気に音が無くなった。これは殺音事件。

 さあ、殺音事件でも嵐でも、後片付けが要らないので楽だ。

 でも、『その辺の紙でも見とけ』って、適当すぎやしないか、養護教諭。しかも個人情報がその辺にあるのかもしれないのかよ。冗談か本気かも分からない。

 他人のプライバシーを物色する趣味は無いので、物には触らず、ただ歩く。

 本棚に陳列してある医学書の中に、『日本の天体』とか『解剖のすゝめ』とか、『熱帯雨林と地球温暖化』などが混ざっていて、成る程、科学クラブの顧問をしているだけありそうだ。

 そこで、俺の視界に異彩を放つ何かが入り込む。あれは、袋?

 ……おい、どうして保健室の机の上に、窒素のガスバリアの袋が置いてあるんだよ。ガスボンベとかならまだ、タイヤの空気入れに使ったのか? と予想できるけれど、ガスバリアの袋? 何に使うんだ。スナック菓子の袋でも作るのか? なんでだよ。医療面でも窒素なんて使い道は無いだろうに。

 思いつく限りの活用法を探してみたけど、不穏な使用方法しか思いつかなかったので、考える事をあきらめた。

 早く来すぎた。これだけの事なのに、いささか退屈続きである。これはしばらく続きそうだと、マイナス思考をたずさえて、それを打ち消す。入り口から遠いベットに腰かけ、足をブラブラさせていると、さっきの陸上部女子マネージャー2人組が、仲良く入ってきた。

「すみませーん。さとーせんせー! 絆創膏くださあい」

 これは、今年の憂鬱を更新させた出来事であった。あの時の感情にぴったりの言葉を、俺はまだ見つけられない。

「あー、サト先はいませーん」

 俺の声は後悔の色に染まっていたと思う。



「佐藤先生。春川さんは、流石にまだ来てませんよね」

 背筋を伸ばして、ホッチキスを持つ手を動かしながら俺は、サト先にそう尋ねた。『☆熱中症に気を付けて充実した夏休みを過ごそう☆』とポップなゴシック体で掲載された通知状を、健康診断の勧めと一緒につづる。

「春川さん……そんな子、2,3年にいた?」

 先ほどの女子マネを引き留めるのに失敗し、俺に雑用を押し付けてきた張本人は、同じく通知状を片手にとぼけた顔をする。

「違いますよ『さん』って言ってますけど、同級生」

 パチン一つ。パチン、二つ。あ、綴る場所を間違えた。

「あー。春川さんって、愛美さんの事ね。分かった分かった」綴る音を覆い隠す様に、サト先はオーバーに声を上げた。「君ら2人、会えたのねえ。良かった良かった」俺に策士的な笑みを見せ、「そんな面白そうなコト、愛美さん教えてくれないの、つれないなあ。今日も来るの遅いし。……嫌われちゃったかしらねえ」と少しだけ寂しそうに言った。

 質問には答えてないよな、なんて、正確さを求めたがる俺の悪い癖が出そうになるが、口の中で噛み砕く。

「それで、佐藤先生に質問なんですけど」春川さんが居ないのなら、それはそれで聞きたい事がわんさかある。この約1週間いろいろと調べてきたが、まだ不透明な部分が数多くあるのだ。「春川さんに、俺の__自由研究の事。どうしてまた、そんな事を教えられたんですか」

 パチン、四つ。パチン五つ。パチン。

「どうしてかあ、難しいことを聞くねえ。本能的と言えば本能的なんだけれど」などど、サト先は独り言なのか、よく意味の分からない前置きをして「あのー教師権限でね、色々知れるわけよ。生徒たちの中学時代の事をね」赤いスカンツを履いている足を組み、ちょっと偉そうに言う。

「はあ、それで」

 パチン、パチン。七つ目パチン。

「君らが賞をとった自由研究の主催って、結構大きいとこなのね? で、うちの高校に金賞銀賞、特別賞をとった人らがここに来る! って、テンション上がっちゃったのよ。先生」

 サト先は作業の手を止め、饒舌に語りだした。語るのは良いが、せめて作業はしてくれ。俺はあくまで手伝いと言う約束だっただろうに。

「はあ、そうなんですか」バタバタと廊下を歩く足音が多く聞こえてくる。陸上部の朝練が終わったのか、それとも他の生徒が登校してくる時間帯になったのか。

 パチン、九つ。パチン。

「そうそう、ここからが大事なのよ」言葉をためて、俺の興味をそばだたせてから口を開く。この人は普段から口達者なのだろう。「金賞をとった子が保健室登校をしてくる。ってことは、そんな天才な子とほぼ毎日話ができるって意味。それって有意義な事この上ないじゃない? まあ、銀賞をとった男の方は、いくら科学クラブに誘っても『興味ないです』ってすまし顔で断り続けてたけど」俺の目を見てきたので、すっと目を反らす。

 そんな肩書などは学校側が喜ぶものであって、教師が“話ができる”と嬉々として語るのは不思議に思えたが、それだけ彼女の作品が素晴らしい物だったのか、サト先の科学への愛が尋常じゃないのか。しかしどちらもあり得るのだから奇妙だ。

「興味ない、というより時間が無かったんですよ」

「ほら、結局は断ってる」

 早くもホッチキスの針が切れたので、箱から針を補充する。針が切れた時に、紙にくぼみができるのが、どうしても気になるが放っておこう。

「でも、話のタネも尽きてきてね。流石に毎日はキツイわあ、入学式からでしょ? ええと、実に3か月。まあ、付きっきりって訳じゃないけど、実際はマンツーマンなわけ。ここだけの話、彼女、いーっつも何かしらの勉強をしてるの。なんだか気の毒に思えてきちゃって。こんな時ぐらい遊んだっていいのに」小さくため息を吐く。「まあ、仲いい子を作るのも気が引けたのかしらねえ」

 ここでサト先が、しまった、と言う顔をしたので「春川さんの病気の事は知ってますよ」と簡単にフォローをする。

 パチンパチン。いくつ目か忘れた。まあ、気にしない。

「へー。2人とも、かなり仲良くなってるじゃない。早速お友達? 累さんが知ってるんなら嬉しいのだけど」失言を打ち消すつもりなのか、少しばかり早口になるサト先。「あ、そうそうそれでね、聞いてよ」

 中々途切れない話に相槌が面倒になった俺は、耳だけ預ける。

 パチンパチン、パチン。ちょっとズレた。別にいいか。

「愛美さんの他にも銀賞と特別賞をとった子が居るんだ、って愛美さんに教えたのよ。ちなみにこれは、あくまで話題として挙げただけね。そしたら、思いのほか愛美さんの食いつきが良くって。今までは、無理やり笑ってる感じがしたんだけど、その時は可愛く笑ってたね」

 その時の様子を思い出すように、サト先はうんうんと頷く。

「そしたら、研究テーマとかの話になるじゃない? 累さんのテーマは……危険植物だっけ? そのコピーされたデータも、先生が教員研究会とかに出た時、偶然に持ってたから見せたのよ。そしたら緋傀儡のページだけ、のめり込むように見てて。あーれはまあ、ちっちゃい子みたいだった。目がキラキラしてて。まるで恋する女の子」危険植物か。厳密には違うけど、指摘するほどではない。

「俺、沈黙を消すための話題として出されたんですか」

「オブラートに包むって、知ってる?」

 パチン、パチン。

「あれ、美味しくないですよね」

 しかしその尽きた話題が、俺にとっては好都合だったわけだ。

「というよりもね、累さんの調べてた緋傀儡って花、綺麗ねえ。愛美さんに教えてもらったんだけど、ビックリしちゃった。あれに毒なんてあるの?」

 オブラートのボケは無視された。パチン。パチン、パチン。

「ありますよ。肺に疾患を持つ人にだけの毒ですけど」

 無駄に知識を連発するサト先を見て、なんだか、自分のテリトリーに無断で入られた気分がして落ち着かない。でも春川さんが丁寧に教えたのであろう。間違いは一つも無い。

「肺? それって、本当?」

「本当ですよ。聞きますか? 話。長くなると思いますけど」

 どこか表情を曇らせたサト先は、間違いか、とかなんとか呟いた後「いいえ、長くなるんだったら良いわ」と、いつもの調子で言ってくる。どうしたんだろうか。

 パチンパチン。パチン、 パチン。

 ここで、ホッチキスの作業が終わった。作業も無しに教師と一対一になるのは気まずいなと、密かに静思していれば「あ、終わった? 仕事が速いねえ累さんは」秒の速さでこちらの変化に気付く。

「じゃあそんな社畜には、この仕事もお願いしようかしら」

 俺の手元にある紙束と、サト先の手元にある半分も終わていない紙束を、当たり前のように交換させられそうになったので「いや佐藤先生、俺まだ作業終わってないんで、仕事の追加は大丈夫です」と、分かりやすい拒絶を見せる。

「あら、子供が遠慮なんかしないで! はいはい、これとこれも」

 はあ。この人の辞書に載っている『遠慮』の説明文を拝見したいものだ。サト先の作業だったはずの物を押し付けられた。ぱっと見でも分かる。何もやってないな、この人。

「佐藤先生もお若いじゃないですかあ、そんなこと言わずに」

 しぶしぶ紙束を受け取って応対する。

 まあこの際、俺の辞書の『若い』も、確認し直した方が良いかもしれない。とっさに出た一言だったが、……無理がありそうだ。

「わはは、青二才に言われることじゃないね」

 意外にも、豪快に笑い声をあげるサト先。

「その巧言こうげんは誠弘さんからの受け売り? なかなか良いセンスしてるじゃない」

 どこか嬉しそうに話す姿に、この先生には大げさな褒め言葉でも通用するんだと、今後必要なさそうな知識を身に着けてしまう。別に知りたくは無かった。

「誠弘の事、知ってるんですね」

 パチン、パチン。

 これと言って、関りは無さそうに見えるけど。サト先がわざわざ提示してきた話題を広げるため、それとなく掘り下げる。

「直接本人と話したわけじゃないけどね、ほらあのイケメン君」声を潜め、さながら噂話風に話し出すサト先。「モテるじゃない?」この一文を聞いただけで、すでになんとなく予想が出来てしまった答えを待つ。

「はあ、そうですね」

「女の子たちがねえ、相談に来るのよ。恋愛相談! 累さんと仲が良いって知ったのは最近だけどね」

 恋愛に過剰反応するのは、キャラだろうか、素だろうか。前者だったら成る程女子受けはしそうだ。

「最近って……。何でだろう、俺、別に目立ってるわけでも無いですけど」

 仲の良いらしいあいつが、歩く発煙筒なのは言うまでもないが。パチン。

「愛美さんから聞いたわよ?」

 あー、確かあの二人、連絡先を交換したって言ってたな。じゃあ、不思議でも何でもないか。そうだ、そうだわ。

「へえ、いつですか?」

 でも、誠弘なら春川さん連絡を取ったのなら、逐一俺に報告とかしてきそうなのに。そこだけは引っかかる。

「先週の、確か火曜日。誠弘さんと病院で会ったって。そこで累さんと誠弘さんが仲良いって知ったって言ってたはずよ」

 ガゴッ。手元で怖い音がした。うわ、ホッチキス変な方向に押したわ。

「ちょっと、累さん大丈夫?」俺の手からホッチキスを取り上げ、壊れていないことを確認すれば「そんなに衝撃的な事だった?」と、心配してくるサト先。

 まあ、動揺してしまったのは否めない。備品を壊しかけてしまった事への照れ隠しに見えるよう、語を濁らせて開口する。「いえ、別に大丈夫です、ちょっと加減が出来てないだけなので」「さっきまで平気だったのに?」「大丈夫です」「本当は?」「いや、大丈夫」

 無数に小さな穴の開いた紙を見て、この通知文を受け取るであろう人に謝罪する。ごめん、でもどうせ、そんなに気にしないだろう。いや、気にしないでくれ。

「あの、病院って、誠弘がですか?」

 折れた芯を慎重に外しながら動揺する俺は、そんな俺に対して困惑を隠しきれていないサト先に尋ねた。

「ええ、愛美さんの病気の事は知ってるんでしょ?」

「知ってますよ、急性心頭健促って。心臓の病気でしょう?」

 じれったくて、先を急ぐ。今聞きたいのは、春川さんの事ではなく、誠弘の事。

「……え? 今、なんて?」

「だから急性心頭健促。長いんで、何回も言わせないでくださいよ、それに連呼するような事でもないじゃないですか」

 俺の焦りとは相反して、困惑の表情をより強めたサト先。「違う。その後の」

 俺をからかう様子も無く、ただただ、疑問の目を向けてくる。

「えっと。心臓の、病気」

 一瞬だけ、両者無言になる。また世界から音が消えた。「先生?」恐る恐る口を開く。「どうされたんですか」通知文が一枚、風に飛ばされふわりと飛んだ。でも今度は、拾いに行く余裕さえない。

「だって、愛美さんの病気は__」

 不安に押しつぶされてしまいそうだ。視界から色が消える。

 サト先の唇が、かすかに動いた。「たしか、肺の」

 あれ今、なんて言って


「おっはよーございまーす! さとー先生!」

 勢いよく扉が開け放たれ、そこから音が弾け飛んだ。その圧力で重い空気が割れる。音の根源には、俺たちにとびきりの笑顔を向けた、一人の少女。

「あれ、石田君が居る! ひょっとして、私に会いに来てくれたとか?」

「春川、さん」

 以前と変わらぬ様子の彼女の声は、こちらを安心させるほど明るく朗らかで、でもあの時より不気味で。

「あ、あらあら、愛美さん」サト先は、いきなりの春川さんの登場に少しばかり言葉に迷い「おはよう、ちょうど、あなたの話をしてたのよ」自然な笑顔を取り付けた。さっきは一体、何を言おうとしたのだろうか。俺が頭を捻って考えれば、その答えにたどり着きそうな気がするのだけど、たどり着いたところで、それは有益でない気がして。隠された事実の覆いを外す勇気が、俺には無い。

「私の話? やだなー。佐藤先生、人の個人情報をペラペラ喋るから」

 春川さんはこちの方向に歩いてきながら可笑しそうに笑って「ほら、この前の石田君の事みたいに」通学鞄を慣れた様子でベッドに置いた。

「二人が仲良くなれたんなら、結果オーライって事で良いじゃない」春川さんの方は見るが、俺と向き合おうとしないサト先。腕を組み、目を控えめに伏せている。

「あ、仲良く見える? やった、この学校での初めての友達」

 破顔させた春川さんが、「わーい、友達ー!」俺にハイタッチを求めてきたので、数秒戸惑い、右手を差し出し打ち当てる。「はいはい、友達」こんなに真っ直ぐに『友達』と言われたことが、過去に有っただろうか。いや、無いな。

「友達一号って、遅くない?」

 気が緩み、冗談交じりでそう揶揄えば「だってさ、仲良い人を悲しませるのは嫌だから」なんて『冗談だろ!』と笑い飛ばすには、少々重い話を持ち出してきた。

「おおい? それ、俺だったら良いのかよ」

 だが、春川さんの場合、笑い飛ばした方が良さそうだ。人を傷つける行為を、蛇蝎だかつのごとく嫌厭けんえんするような彼女には。

「あはは、ダメだけど、交換条件って事でね。ほら、あの緋傀儡と交換! 大体同じぐらいの価値があるんじゃない? 多分」

 「緋傀儡と交換?」と首をかしげているサト先を置き去りにして、俺は春川さんとの会話を進める。この事はサト先に話してないんだな。

「交換って、それは俺にお釣りが来るな。同じじゃないよ」やんわりと否定すると、意外な返答が返ってきた、と喜ぶような顔を見せる彼女。

「仮に『緋傀儡』と『友達』の価値を同じにしたとしてだぞ、結局は俺にも友達ができるんだから。俺のがラッキーじゃん」感情的な考えを、理性的に解説するちぐはぐさに自分でも違和感を感じる。

「何それ、こんな所に優男が居るんだけど、ねえ先生」

 会話の輪から仕方なく外されたサト先が、春川さんに話題をふられた途端、表情を明るくする。喋りながらパタパタと手を上下に動かす様子は、必死に羽ばたこうとする雛鳥ひなどりみたいだ。

「やっぱり誠弘さんの受け売りよお。累さんがこんなに口が上手いとは思えない、それとも誠弘さんの生霊とかに憑依された?」

 あー、この人、浮かれると言葉が雑になっちゃうタイプの人だ。もしかしたら、春川さんは俺の情報をこうして聞き出したのかもしれない。

「えー、木戸君はもっと嘘っぽいことを言いそうだもん」

 さらりとディスられてしまった誠弘。病院であいつの裏面を見たのかな、春川さんは。何があったのだろうか、気になる。

「ええ、そう?」

 噂話だけだと、良い話とプチ素行不良の話しかないのだろう。サト先は信じられない、という顔をしている。まあ、関りがないのなら仕方ない。

 春川さんは、うんうんと深く何度も頷く。


「そうだよー。私、石田君のそういうとこが好きなんだから」



“好き”


ついに、2回目。あと、たったの1回。


とめたい、もう、やめてくれ。



 正面から言われなかった分、よけいに気恥しくなる。あれ、そうか、これは“友達として”って意味だ。成る程、変化球を投げてくるものだ。

「あーらら、累くん、随分と見初みそめられているのねえ」

 ニヤニヤとしたサト先の顔がやけに鬱陶しいが、

「そうですか、素直で悪かったな」と、変化球を打ち返す。ホームランとはいかずとも、ヒットにはなっていてほしい。

 ボールの飛んで行った先を見る。彼女ならフライを余裕で捕りそうだ。

「ふふ、褒めてるから! 良い人材は褒めて伸ばそうって言うでしょう?」

 あ、ファール。一瞬だけ、春川さんの曇った表情が見えたような気もしたが、それは俺の自意識過剰だったかもしれないと、あまり気にも留めずに会話のキャッチボールをする。

「伸びない伸びない。俺、天狗になっちゃうタイプだから、自分でも抑制してんの」そこまで意識はしてないが、あながち間違いでもない。

「あー、天狗かあ。じゃあ自由研究の時とか、天狗だった?」

 そうやって聞く事じゃないよなあ。それって。春川さんめっちゃ笑ってるし、言い方もわざとと見た。

「いや、別に。覚えてないしなあ」天狗だった気がするが、とぼける。

「んー、質問を変えよう。『科学オタク君』って言われて嬉しかった?」

「嬉しくねーだろ」

 ほぼ反射でそう答えたら、意外にもサト先が頬を膨らませた。

「気に入らなかった? その呼び方」

「あっれ、まさかのネーミング、先生からなんですか!?」

「どういう意味よお、どういう」

 俺とサト先のやりとりに、笑いで肩を震わせている春川さんから話を聞くと、彼女は俺に審査員特別賞をとられたのがよほど悔しかったようで、賞をとったやつは科学オタクに違いないと、腰を落ち着かせたのだと言う。

「私も良いと思ったんだけどな、科学オタク君」

「良くないって。普通に名前で呼んでよ、石田って」

 すると今度は、春川さんが頬を膨らませる。

「私はいまだにさん付けで呼ぶくせに?」意表を突いた一言に、俺は少しうろたえてしまった。そうか確かに、ずっとそう呼んでいた。

「あー、もう、癖になってたわ」言い訳のように口を開くが、別にこのままでも良い気もする。「じゃあ、春川って呼ぶよ」

 俺の発言に、「よーし。友達っぽい!」合格のピースサインをこちらに向ける彼女。細まった目からは輝きが溢れ出そうな錯覚を覚える。

 パチン。

 聞きなれてしまった音がして、サト先が伸びをしながら声を上げた。

「よーし、作業終了!」机の上には、通知文の紙の束が一か所に積まれていて、さっき飛んで行った紙もいつの間にだか拾われていた。

「あ、お疲れ様です」

 俺の元管轄の作業だが、サト先の元々管轄であるため、俺が礼を言うのは意に反す。かと言って謝罪をするのも嫌なので、いたわりの言葉だけ投げかけておく。

「そういえば社畜くん、ここへの用って何だったっけ」

 オフィス用の回転イスの背もたれにもたれかかったサト先は、含んだ笑いを浮かべて言う。

「社畜もやめてくださいよ? 確かに否定しませんでしたけど」話のきっかけ作りをしてくれた事には感謝しつつ、あくまで潤滑な受け答えをする。

「はいはい。累さん、何の用?」

「今日は春川さん……春川に会いに来たんですよ。聞きたい事があって」

 俺とサト先の間に、ズイと好奇心の塊が入り込んできた。

「へえ、私に聞きたい事? なになに?」

「うん。えっとさ」一週間、悩み考えた末に、やっとたどり着いた答えのはずなのに、口に出すのを今更、躊躇する。「春川は何かしたい事とか、これだけは叶えておきたい。って思ってる事とかある?」上から目線にならないように。俺の傲慢ごうまんにならないように。「その、聞いた話だと家庭環境が、えーっとその、あまり」「貧乏?」「ああもう、せっかく言葉を選んでたのに」

 彼女の竹を割ったような性格は、たまに度が過ぎている気がする。そんなストレートに言わなくても。働いているのは彼女の親なんだろうし。

「優しいな、石田君は」春川はにっこりと笑い、俺に言う。

「だからさ、俺に出来る事が何かあれば。って思って」

 ただのお節介になり得るのは分かっているし、俺の自己満足の一種なのも承知している。春川の顔をうかがいながら、返事を待つ。

「確かに、お金さえあったら治療はしてもらいたかったし、なんなら病院にも希望したんだ。どうにかして支援してもらいませんか? ってさ。ほら、聞くだけ聞いてみないとでしょ、人間的本質としてもさ」窓から微かな風が吹き、春川の襟足をすくう。黒い髪が陽に透かされて、俺の目に茶色っぽく映った。

「うん、聞いてみないと分からない」

 俺はそう言いながら、春川の、すがりりついたわらを取り払われた気持ちを想像し、胃に石が詰められたような重い気分になる。

「知ってた? 私がしたい事はね、石田君に緋傀儡を見せる事なんだよ?」


 “以上の文章から分かるように、僕の夢は緋傀儡の花を見ることである。国内での栽培の例はありませんので、植物の研究者になって海外での活躍ができるように、奮励努力をしていきたいと思います。”

 自由研究、感想文の最後にこんなことを書いた。俺の本心だけれど、実は本当に研究者になれるだなんて思っていない。

 『なれない』なんて陰気なコトを言いたくなかったものだから、「あれは本気じゃないし、研究者なんて不安定な職業には『ならない』」と皆に言った。でも、『なりたくない』とは言いたくなかった。言えなかった。言いたくなかった。

 彼女は、俺の夢を叶えようとしてくれている。捨てたはずの、大きくて釣り合っていない夢を。俺が諦めようとしていた壮大な夢を。

「だから、それは不公平なんだって」思った事が、そのまま口から滑り落ちる。それは、地に落ち跳ねて、見えなくなった。

「あのね」俺の声を包むように、春川の声が耳に馴染む。「“誰かの夢を叶える”事が、私の夢なんだよね」彼女は柔らかく微笑み「なんだかヒーローみたいじゃない? 自らを滅ぼし、夢を叶える。最高にかっこいいじゃん!」明るくて眩しい声を上げる。

 唇を軽く噛んだ。眉間によりそうになったシワをこらえた。「じゃあ、春川の夢はヒーローって事? 俺より、大きな夢だな」俺に気を使ったのかもしれない。そんなの綺麗事で、嘘っぱちかもしれない。でも俺は、春川をむやみに問い正して真実を知る気は無いし、彼女が選ぶ道から逸れるつもりも無い。

「そ。だから石田君、私の夢を叶えてよ! これだったら平等じゃない? 一緒に夢を叶えようよ、石田君」

 恍惚として幸せを噛み締めるような、こちらまで頬が緩む愛らしい顔。サト先の言っていた表情は、この顔だろうか。“恋する女の子”。成る程それは的を射ている。夢に恋する、普通の、おんなのこ。

「ふふ、素敵な夢ね。叶う事を願っているわ」

 クシャッと自身の髪を撫でたサト先が、状況を察知したように付け加える。

「だから、石田君は私と緋傀儡を見に行こう?」

 今日の突っかかりが全て拭い去られて、真っ新な白紙になる。この人なら大丈夫だ。春川なら、彼女の言葉には、信じるだけの価値がある。

「おっけ、分かった」

 春川が出してきたグーサインに、今度は躊躇なく応じる。頼り気の無いその腕が、俺の拳に当たって、小さく揺れた。

「今週の金曜日、時瀬下じせか駅前で集合ね。ちなみに17:30に!」

「ん。分かってる」

 目尻が下がり、綻んだ顔をした彼女は、俺を見て控えめに笑う。

 また、風が吹いた。少しばかり強い風だった。


 周囲に真っ赤な絨毯じゅうたんが見える。緋傀儡特有の白い種子がその風で宙を鮮やかに舞い、地に落ちた。すると彼女はそれを吸い込み、傷ついた肺に根付いた花粉が、ゆっくりと体中をむしばんでいく。


 悪い夢を見た、白昼夢。

 だがそれは、今となってこその、付け加えた記憶なのかもしれない。悲しいことだが、それを見ていたとしても俺は、彼女を救う術を知らない。


「晴れるといいな」彼女は能天気に言った。

 でも俺は、その横顔が今にも壊れてしまいそうで、不安を覚える。

「きっと晴れるよ、俺、晴れ男だから」

 天気予報さえ疑う俺は、特に考えずに言う。


 予鈴が鳴った。俺は急いで、保健室を後にした。



 *



第7話:ダチュラ

〇ダチュラの花言葉

・夢の中

・陶酔、あなたを酔わせる

・偽りの魅力

・愛嬌


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