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3回。  作者: 重カ
7/13

第6話:ペンタス


 帰宅するなり自室の布団に頭からダイブした。

 安い低反発マットレスが俺の体重を受け止めようと必死になって抵抗するも、俺の体は見る見るうちに沈んでいく。目をつむれば2秒で夢の世界へと案内してもらえそうだが、あいにくながら今はそんな気分ではない。

 右に寝返りをうつ。

 使い古された勉強机がすぐ横にある。連載中の漫画本で埋まりそうだ。

 さらに寝返りをうち、仰向けになる。丸形の蛍光灯と白い天井がある。眩しい。

 そのまま起き上がって、部屋をゆっくりと見渡す。

 ドアの横には、去年貰った額縁付きの自由研究の賞状と、箱に入れられたままの顕微鏡が無造作に置かれている。床に積まれた植物図鑑たちが、こちらをじっと見つめてきた。

「顕微鏡、使ってないな、一回も」

 こもっていて、自分の耳にやっと入った小さな声に、寂しさと消失感で殴られた。疲れているときの独り言ほどむなしいものは無い。

 カチッ、カチッと無情な壁掛け時計の秒針が動く。時間は一定の速度で進むが、与えられた時間は皆違う。時は金なり、なんとも、傲慢ごうまんな格差社会だな。


死ぬのは、逃げる事なんだろうか。


 ……怖い、軽々しく“死”を口にできている、自分が怖い。

漫画では、映画では、小説では、何人も、何回も人が死んだ。

 現実でも、今でもどこかで命が消えている。俺は、間違っているのだろうか。

 彼女の笑顔がまぶたの裏でグルグル回る。眉を下げ、困ったように俺を見る目を、悔しそうに唇を噛んだ後、弱々しく口角を上げたあの顔が。

 今日の出来事を一通り思い出したら、目頭が熱くなったので、慌てて服の袖で押さえてせき止める。俺は恵まれている。恵まれているけれど、彼女を助けられない。雷が鳴り、雨が降ってきた。

 雲から落ちてきた水滴が、部屋の窓をしきりに叩くので俺は、愚直で折り目の無い雨音に包まれてしまう。

 重いまぶたを閉じた。薄く、白っぽい光が見える。


 俺は、夢を見たんだ。とても、懐かしい夢を。


□□


 初めて会った日、なんて覚えていない。何年前だったけか。

 でも、細くて、白い艶やかな手は覚えている。厨房に立った後、すぐに手を拭かないものだから、あっという間に冷たくなってしまう、あの人の指先は覚えていた。

「累くん、いつも誠弘と遊んでくれてありがとうね。誠弘ったら、人見知りが激しいんだから。公園に行っても、誰にも話しかけられなくって。本当に累くんが居てくれて助かったわあ」

 誠弘が居ない時に、こっそりと耳打ちしてくれたあの人の言葉を、今でも覚えている。自分の母親より6歳も若くて、いっつも気配りと笑顔を忘れない人だった。

 整った顔立ちは誠弘への遺伝子を感じさせ、どこか漂う気品は、凛々しかった。

 それは、ひどく冷え込む冬の日の夕方で、俺が木戸家の夕飯にお邪魔した時。

「そういえば累くんって、緋傀儡が好きなの? おばさんもね昔、父に緋傀儡の香水を買ってもらったことがあるの。それがとびきり嬉しくて、とっても、とっても大事に使っていたんだ。使い切った覚えがないから、探してみたら、あるかもしれないわ。ちょっとまっててね、累くん」

 夕飯の時間が迫っているというのに、どこかで遊び惚けていて、中々帰ってこない誠弘を待っている間のこと。俺の母から、例の緋傀儡のインタビューの話を聞いたらしきあの人は、俺にそう言って、しばらくしてから、小さくて透明な香水瓶を持ってきてくれた。

「ほら、見て。まだ半分も使ってない。ふふ、あの頃の私は、若かったのねえ」

 あの人は愛おしそうにその瓶をしばらく眺めてから、真っ赤な液体を、自身の左手首にそっと吹きかけた。

「はあ、とってもいい香り。累くんも付けてみる?」

 恍惚としたため息を吐いたあの人は、俺の腕にも、一吹きだけ緋傀儡の香水を付けてくれた。爽やかなミントに、甘くて舌に残る砂糖を乗せて、その後にお日様を運んで来たような、そんなちぐはぐな香りがした。

「おばさん、これ、不思議な匂い。なんか、匂いがどんどん変わる」

「でしょう? 不思議で、魅力的よね。素敵でしょう?」

 実を言うと俺は、その匂いがあまり好きではなかったのだけれど、あの人の笑顔を見ると、好きでは無いものも好きになれる気がした。父が、緋傀儡とサザンカが好きな理由を、知れた気がした。


 でも、幸せは長く続かない。

   あの人が倒れたのは、その3日後だった。


 誠弘は、7月の中旬、1週間だけ学校を休んだ。

 どうせ風邪だろうと、俺は誠弘が休んでいる間、お見舞いと言う名の邪魔をしに木戸家の表札がかかった家に何度も訪ねてみたが、インターフォンを鳴らしたって、戸を叩いたって木戸家からは誰も出てこなかったし、電話をいくらかけても、留守電1つさえ残させてはくれなかった。

 そして1週間後、登校してきた誠弘は、何事も無かったかのように「インフルにかかっちゃってさあ、馬鹿は風邪ひかないけど、インフルにはかかるんだな」と、クラスの皆に笑いながら言っていた。誠弘の虚ろな目が痛々しく、それに時折、何も見ずにボーっとつっ立っていた事が幾度かあった。絶対に、インフルエンザにかかっていただなんて、嘘だった。


「誠弘くんのお家に何があったのか、累くん、知らない?」

 誠弘が学校に来た日の放課後、意外な事に俺は、担任に呼び出され、そう問いかけられた。今思い出せば、その担任は、あの女教師だった気がする。詳しいことは何もその教師からは聞かされなかったが、深刻な事態なんだろうと、俺は察した。

「誠弘くんのお母さん、病院に入院してるでしょ? だから累くん。誠弘くんと、ずっと友達でいてあげてね」

 あの人が入院していると知ったのも、担任の発言からだった。

「倒れたって、真知子まちこおばさんが? いつですか、なんで」

 担任は俺が驚いている姿を見て、じゃべって良かったものかと考えるような素振りをし、小さく「この子なら大丈夫か」と呟いて、こう言った。

「誠弘くんからは貧血って聞いたけど……。中々、良くならないみたいね」

 俺は、目の前が真っ白になって、頭がチカチカして、真っ黒な影に飲まれた。


 教師からは、あの人の入院先も聞けなかった。結局のところ、問うてみても、あの人の病態すら分からないままになってしまった。

 日も経たぬ帰り道に俺は、誠弘に思い切って尋ねてみる事にする。何か言えない理由があったんじゃないかとか、そんな器用な事を考えられる頭は無かった。

「なあ、誠弘」

 数歩だけ前を歩く誠弘の背中に、おそるおそる声をかけた。誠弘が、笑って振り向く、いや、笑っていない。

「真知子おばさんが入院したって、何?」誠弘の肩が跳ねた。「それにお前。インフルって、嘘だろ」言っていて、俺も声が震えた。口の中が乾燥しきっていた。「俺、お前の家に何度も行って、電話して、でも、誰も居なかった」半ズボンの裾を握りしめた。デニム生地のそれは、シワもほとんど付かず、手の中で曲がった。

 誠弘は、俺の問いかけに、今にも泣きそうな顔をして「なあ、累」弱々しく言った。「ごめん、言いたくない」一回、言葉をそこで切った。息を詰まらせ、誠弘は声を絞り出す。「累だから、お前と縁は切りたくないから、言わなくても、良いかな」誠弘が、俺から顔を背けた。誠弘の、家の前でのことだった。


 表札からは、真知子さんの名前が無くなっていた。


「ごめん累。許さなくて良いから、でも、母さんの事は、許してあげてくれよ」

 その時の俺には、何の事か、さっぱり分からなかった。


□□


 ゆっくりと閉まっていく誠弘の家のドアの音で、俺は目を覚ます。


 せき止めたはずの涙が、頬をつたっていた。窓から差し込む朝日は、俺の気分に相反して眩しく、昨日の雨のおかげで、ヒンヤリと涼しい。

 頬の涙を拭おうと、上げた手は震えていたので、こぶしを作って、震えを強引に止める。泣くのは、俺じゃない。

 しわだらけになってしまったYシャツを、床に脱ぎ捨てる。

 そうだ、明日にでも彼女に会いに行こう。もう二度と、あんな別れはしたくない。






~ Side B ~


 病院の一階レントゲン室の、すぐ脇の通路。

 ちんつうざいを処方して貰うため、病院と連結している薬局へと、点滴スタンドをガラガラ引きずりながら、1人で移動していた。

 消毒液の香りが目に痛いし、週に1回の通院は億劫で仕方が無い。担当医との会話もあまり弾まないし、看護師さんも日替わりなので顔なじみができないので、つまらない。

 通路の壁に展示してある、とっくにシーズンの終わった七夕の短冊を眺める。『ぷりきゅあになりたい』『けーきやさんになりたい』『さっかーがしたい』などの可愛らしいものから、『○○大学に合格したい』『子どもに恵まれたい』『就職がしたい』といった、現実的であり、それでいて真摯な願いも多かった。

 その中に、1つだけ、異彩を放った願いがあった。

『大人になりたくない』

 とても、綺麗な字だった。でも、何度も書き直した跡があった。

 そして何より、他の短冊はのりで貼られているのに、その短冊だけセロハンテープで乱暴に張り付けられていた。クシャクシャで、今にも剥がれてしまいそうな短冊なのに、端的な願いだった。

 この願いは、叶うのだろうか。

 もしかしたら、私みたいに、もう叶っているのかもしれない。

 ふふ、感傷に浸るなんて、おばあちゃんみたい。

「あ、愛美ちゃんだ、久しぶりー!」

 ボーっと眺めていると、横から、声が跳んできた。驚き目を向けると、黒スキニーにTシャツという、何ともラフな格好の同級生が居た。ヘラりと人懐っこそうな笑顔を浮かべ、手を振りながらこちらへ近づいてくる。

「……わ、ビックリした。えっと、木戸君だったよね? 久しぶりー。って、昨日会ってるじゃん」

 昨日の朝、教室で、石田君に緋傀儡の手紙を渡したくて、配達人を頼んだ相手。高校に入ってから、初めて連絡先を交換した相手。何となく、あの短冊を見ていた事がバレたくなくて、そっと展示から離れる。

「お、やりい。覚えててくれたんだ。私服で会うと忘れてくる人とか、たーまにいるからさあ、愛美ちゃんは記憶力良いな」

 彼の右手には、小さなブーケが握られていた。オレンジのガーベラの造花、だろうか。彼の行く方向には入院室があるし、誰かのお見舞いと考えるのが妥当だろう。

「ふふ、木戸君でも忘れちゃう人って、居るんだね。印象に残りそうなのに」

 私が笑ってそう言うと、木戸君は「それって褒め言葉?」とおちゃらけて、「愛美ちゃんも大概たいがいでしょ」とこちらを指さしてきた。

「えー、それって、褒め言葉?」と私が返すと、「褒め言葉だよ」と真顔で返してくる。はてさて、これがどうして褒め言葉になり得よう。

「それにしても、こんなところで会うなんて奇遇だな。愛美ちゃんはその点滴、どうしたの? 風邪?」

 私が来た方向には診察室と処置室があるので、彼が風邪だと思ってくれているのなら、どうにか病気の事を誤魔化せるので、ありがたい。風邪で点滴を打つこともあると知っているあたり、親族に体の弱い人でもいるのだろうか。

「うん、そうなんだよねー。昨日の夕方、雨降ってたじゃん? それで風邪ひいちゃってさあ。もう大変なんだよー」不自然にならないよう、少しだけだるそうに振舞う。「木戸君はお見舞い? そのブーケ、可愛いね」冗談でも木戸君に「元気そうなのに点滴?」とか勘ぐられないように、話を逸らす。

「お、分かる? 良いでしょ、ブーケ。これ累が選んでくれたんだぜ」

 木戸君がブーケを持ちあげて、こちらに見せてきた。良い香りも花本来の柔らかさも無いが、造花でも気分が安らぐ。

「へえ、石田君が」石田君の下の名前、そうだ、累だ。良かった、覚えていた。「二人って仲良いんだね、初めて知った」

 偶然とは、とても奇妙なものだと思う。一番話しかけやすそうで、一番近くにいた人物に頼んだだけなのに、石田君の友人だったとは。

「そ。ちっちゃい頃から仲良いんだぜ、皆には『意外だ』ってよく言われるけど」

 彼は青年のように、クシャッと破顔させる。

 動物にたとえると、間違いなく犬だろう。

「意外? そっかな、話は合いそうだけど。木戸君が話を盛り上げて、石田君が冷静に対処してそう」まだ見ぬ組み合わせを想像して、笑みが零れる。面白そうなのに、その組み合わせが見られないのが残念だ。

「はは、結構当たってるわ。愛美ちゃん、探偵?」

「えー、私の将来は名探偵? なれるかなあ」

 そう言いながら、腕を組み頭に手を当てる。私なりの探偵のポーズだ。

「じゃあオレ、ワトソン役になるよ。愛美ちゃんがホームズで」

 木戸君は小脇にブーケを移して、エア眼鏡をクイっと上げる。ワトソンよりも、どこかの秘書みたいだ。

「私、ホームズより明智小五郎派なんだ」

 別に明智小五郎に思い入れがあるわけではないけれど、秘書ワトソンが付いてこられても困る。

「あー、愛美ちゃんはミステリアスだから、逆に怪盗側にも居そう」明智小五郎をよく知らないのか、話題を変えてきた。

 盛り上がっている私たちを、看護師さんが一瞥いちべつし、颯爽と横を通る。

「ミステリアス? 初めて言われたや。謎多き女」

「はは、そう。謎が多いんだよね、愛美ちゃん」

 少しかがんで、私の目を覗き込んできた木戸君。あれ、ピアス。昨日は分からなかったけど、してる。

「謎? ああ、私が教室に居ない理由とか?」

 石田君と仲が良いのなら、その疑問を抱いていてもおかしくはない。

 しかし、探るような視線がむず痒い。フワフワした尻尾を濡らされそうになる子猫は、こんな気持ちなのだろうか。

「違うなー、それは累から聞いたから、解決してるんだ」

 スパっと言い切る木戸君。ならばどうしたのかと、私が眉を下げると、彼は点滴バッグを指さす。

「ほら、これとか」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

「木戸君、どしたの? これって?」

「点滴。分かるでしょ?」

 心臓が少しだけ跳ねる。

 もしかしたら、この人は全部知ってるんじゃないだろうか。石田君から聞いた? いやでも、あの人に他言できる度胸があるとは思えない。

「点滴が、どうしたの?」

「いやー、俺の思い違いだったら悪いんだけど」

 木戸君は、そう前置きをして言う。

「点滴のこの袋ってさ、中の液体が無くなったら終わりじゃん?」彼の瞳に確信の意が見えた。「でもこれは愛美ちゃんとオレと会った時から空っぽだった」

「……ああ、きっと。もう無くなっちゃったんだよ」

 固唾を飲み込む。実に物騒だが、喉元に、鋭いナイフを突き付けられているような感覚に陥った。

「処置室から薬局までの間の、短い距離で無くなるような点滴って事? ほぼあり得ないんだよ、それが」

 うわあ、冷たい。真っ直ぐ、縦に裂かれてしまうんじゃないか。

「別に、私が薬局に行くと決まったわけじゃ無いじゃん、やだなあ、木戸君」

 鼻がツンとする。あー、しくっちゃった。木戸君、頭良いよ、絶対。

「風邪ひいて、診察が終わって、じゃあ会計か。それ点滴しながら?」

「木戸君さ、私に何が言いたいの?」じれったくて、少しだけ後悔して、言葉を切り捨てる。「ごめんね、簡潔に言って欲しくってさ。探り合いは苦手なんだよー」思ったより、張り詰めた声になってしまった。

 木戸君が、驚いたように私を見る。「おっと、ごめん」眉を下げ、後悔したような顔。「責めるつもりじゃなかったんだ、その、色々と重ねちゃってさ」

 重ねるとは、どういう事だろうか。木戸君は、背筋を伸ばして自身の頭に手をやる。鋭いナイフは、いつのまにやら仕舞われた。

「その袋に入ってるの、窒素でしょ」

 やっぱり、知ってるんだ。……いや、ラベルを読んだだけだろうか。木戸君がカマをかけているだけなら、私から語るのは危険でしかない。

「う、うん。書いてある通り」

 彼に言われ、点滴バッグのラベルを指さす。『Nitrogen』と元素番号7。時間が経つにつれしぼんでいく姿は儚げだ。

「じゃあさ、愛美ちゃん、病名は何?」私が病を患っていると確信しての発言。

 こんなの、探偵は木戸君の方じゃないか。

「知ってるんだ」

「知ってるって、何のこと? 愛美ちゃん」

 あくまで白を切るつもりか。自分が下らなくて、大きく息を付いた。前髪が目にかかり、それを除ける。

「うん、心臓病。急性きゅうせい心頭しんとう健促けんそくだよ」

 昨日、石田君に言ったばかりの病名を口にする。この単語を口に出したのは、これで二回目だ。__なんとなく、木戸君と目が合わせられない。真っ直ぐな瞳に射られてしまいそうだ。

「違うよね、それ。累にもそう言ったの?」

 ああ、合わせずとも射られてしまった。心臓に、体に大きな穴が開く。

「違うって、珍しい病気だもん。木戸君が知らなくても無理ないよー」

 笑顔をつくろう。開いた風穴に自分の声が侵食していく。

「あー。愛美ちゃん、時間ちょうだい。ちょっと、付いてきて」

 木戸君は小さくため息をついて、入院室の方向へと私を手招きした。

「え、点滴」

 この状況で、普通なら「どこへ?」とか、「何をしに?」とかの質問をするべきなんだろうけど、とっさに半分ほど萎んだ点滴バックを見る。だって、薬局行かなきゃ。

「それ点滴って言うのか?」彼はそう言いながら「忘れてた」と頬を掻く。

「まあ、その後でもいいや。用が終わったら連絡して。そのために連絡先交換したんだから」するとそこへ、予期せぬ発言。だから、初対面で連絡先の交換を提案してきたの? ただの連絡先の交換であんなにしつこかったのは、実はわざとなの?

「えー、木戸君、腹黒い」

 些細ささいな突っかかりが胸の中で解けていくが、残ったのはモヤモヤした何か。

「黒くて結構。こう見えてオレ、トモダチ思いだから」

 このモヤモヤの正体を、人は時にストレスと呼ぶ。

「いやまあ、友達思いには見えるけど」

「見えるんだ、やり。んじゃあ、また後で」

 木戸君は、いたずらっぽくそう言うと、エレベーターの方向へと軽快に歩いていった。広い病院での迷いない足取り。これは病院慣れしてるな、あの人。

 長身の背中を見送り、七夕の展示に語り掛ける。

「うーん、誰にも言うつもりじゃなかったんだけどなあ」

 光りもしない星と、フリー素材を拡大した簡素な七夕竹だが、大勢の人のすがる思いが沢山詰まっている。しばらく二度目の感傷に浸り、再びガラガラと点滴を引きずり歩き始めると、正面から車いすに乗った少年がやって来てすれ違う。

 名も知らぬ少年があの展示を眺めているのを知り、とても心が痛くなった。あの短冊は撤去してもらった方が良い。

 自分が望んでいる未来を、他人に要らないと言われたら嫌になるだけだ。

 もっとも、あの願いの主が少年ならば問題は無いのだけれど。

 


◇◇


「あの部屋、あの、角にあるやつ」そう言って彼は振り向く。「愛美ちゃん、入院室に来るのは初めて?」

 私は、振り向いた木戸君に相槌を打ちながら、薬の入ったビニール袋を持ち、腕に点滴後のガーゼを当てて、4階角部屋の『木戸 真知子』とのプレートが掲げられた扉の前に立つ。

「ううん。昔、同級生が骨折して、それのお見舞いで一回だけ」

 木戸君の手からはブーケが無くなっていて、一度この部屋に入ったんだろうと予想が出来た。

「へえ、それって前の学校で?」

「うん、中学の時」

「愛美ちゃんの中学って東妥中学校だっけ」

「知ってるんだ。そ、その中学」

「累から聞いたから」

「成る程ね。確かに言ったや」

 木戸君は「そゆこと」と軽い口調で言い、ドアノブに手をかける。『木戸 真知子』が誰であるのかは、説明してくれなかった。

 扉が開き、風の通り道が出来た事で、手に持つビニール袋が風にあおられ、カサッと小さな音を立てる。蛍光灯の光と共に私の目に入ってきたのは、淡い黄色のカーテンと、明るいフローリングの床。壁には数個の千羽鶴と、棚の上に木戸君が持っていたガーベラの造花のブーケ。

 真っ白な特殊寝台からは、何を目的とするのか分からない透明な管が何本も伸びていて、ベットに横になっている女性に繋がっていた。木戸君は「失礼しまーす」と一言いい、部屋の中へズカズカと入る。私もそれに習い「失礼します」と一礼してから、おそるおそる中に入った。

 彼の後に続き、特殊寝台の女性へと近づく。その女性はとても端正たんせいな顔つきで、静かに眠っていた。微かな聞こえてくる心電図の機械音が耳に反響し、ボタン式のナースコールが、ぐったりと枕元にかけられている。

「愛美ちゃん、この人さ、オレの母親なんだよね」木戸君はベットの端に手を置き、私に向かってさらりと言った。「戸籍上ではもう、関わりは無いけど」

 言い方があまりにもサッパリとしていて、私を揶揄っているのかと眉を顰めたが、確かに、双方の雰囲気は酷似しているし、苗字も『木戸』と、同じである。「戸籍上では」と強調された言葉は、風に運ばれて飛んで行った。

「木戸君の、お母さん」口の中で復唱する。

 枕元にかけられた診断表を見てしまった。女性の腕に繋がる点滴、は、ゆっくり萎んでいく。点滴バックのラベルは怖くて、見たくない。ああ、どうしよう私、この人の病名を、分かってしまったかもしれない。

「そう。愛美ちゃんと、おんなじ病気」

 木戸君は、私の視線の先を捉え、穏やかに言う。「愛美ちゃんの病気、急性心頭健促とかいう病名なんかじゃないよね。それ、何の病気? オレ、一応医者志望だから、聞いておきたいんだけどさ」木戸君が、分からない。この女性を、木戸君のお母さんを、どうして私に会わせたのだろうか。

「うん、それはね、私が適当に考えた病名なんだ。もし石田君が病名を検索しても、出てこないように。それで、珍しい病気だからって、念を押した」洗いざらい全部を正直に話す。

「ヒカイライが関係してるの? この病気」

 彼の口から零れ落ちた、緋傀儡と言う単語に耳を疑う。これは、私の考えも探偵に見破られてしまった? 思わず木戸君の目を見る。彼は、どこまで知っている? 何を、どこまで。……全部? ありえない、だって、そんな事。

「どうして、木戸君が」

「オレは知ってるよ。多分、ほとんど」

 簡単に、超えられてしまった。追い越されてしまった。

 いやでも、そんなの、あり得ないはずだ。彼にあの情報があるとは思えないし、それに、だったら、何で私を止めてこないの?

「本当に?」

「うん、本当」

 心臓がバクバクする、あれ。

「そっか、緋傀儡かあ。すごいね、木戸君」声が、上手く出ない。私は、何を言っているのだろうか。「私が必死に調べた事をさ、たった1日? で、調べちゃうんだもん」前が見えない。「頭良いなあ、賢いなあ、木戸君」止めて、私の口が饒舌に語りだす。「私も、私だって」やだ。こんな事、言いたくない。

「天才に、木戸君みたいになりたかったなあ」

 違う。ちがう、夢なんて、憧れなんて、私にはもう要らない。

 足に力が入らなくなった。しゃがみ込んで、口を覆った。もう、何も言いたくない。嫌だ、いやだ、助けて。

「愛美ちゃん」

 彼が、あわれみの目で私を見る。

 止めて、その眼はもう、見飽きたんだ。痛い、怖い。

 しゃがみ込んだ私に、彼は言葉をかけた。

「そのままでいいから、オレの話を聞いてくれる?」

 慰められたら拒絶しようと思っていた。同情されれば走って逃げようと思っていた。でも、その心配は無かった。


「この人さ、良いとこのお嬢さんなんだよ、本当なら」

 彼は、私が返事をしなくとも、女性の心電図を眺めながら、ある話をした。ノンフィクションでおまけに実体験の、昔話を。

「んで、そのお嬢さんは、とある絵描きに恋をしたんだ。ま、それがオレの父親ね」スラスラと語りだす彼に困惑したが、私は素直に耳を傾けた。

「それで、そのお嬢さんは絵描きと結婚がしたかったんだけど、その絵描きが、それはそれは貧乏な奴で。今ならデザイナーとか多いけど、そんなのでもなくて。それで、お嬢さんは親を必死で説得するんだよ、この人の絵は売れる、いずれ金持ちになる、だから結婚させろ、って」

 木戸君は私を見た。柔らかな笑顔だった。

「でも実際、絵はそれほど上手くないんだよね、その絵描き。でも、べっぴんで、良いとこのお嬢さんに言われたら舞い上がっちゃうわけ。もしかしたら、自分には才能があるかもしれない、って。お嬢さんの親も、ついには言い負けて、絵描きは自信満々。でもお嬢さんの親も、タダで絵描きに自分の娘をやるわけにはいかないっしょ?」木戸君は、そこで大きなため息を吐いた。

 とても上手な喋りとは言えないけど、ペラペラと言いまわるような話ではない。きっと、私のために話をまとめてくれたのだろうか。

「子供だけは、……その子供って、オレね。子供だけは、医者にさせろ、って。ホント、馬鹿みてえ」

 乱暴に吐き捨てる。でもそのイラつきの矛先は、別に私ではない。

「んで、子供が小学校低学年ぐらいの頃、そのお嬢さんは倒れちゃうんだよね、その病気で」頭の中て、何年前なのか考えてみる。単純計算でも、6年、以上。

 ゾッとした。現に木戸君のお母さんはここに居るわけだから、治療費はどこから? 『戸籍上ではもう、関わりは無いけど』木戸君の発言を思い出す、ああ、だから。

「愛美ちゃんも知ってるでしょ? 治療費、頭おかしいんじゃないか、ってぐらいするよね。親父の絵も相変わらず売れない、母さんの実家からの仕送りも限られてる」木戸君の呼び方が“お嬢さん”から“母さん”に、“絵描き”から“親父”に変わって、より現実味を帯びる。もっとも、現実らしいが。

「最初は、母さんの持ち物を売ったんだよ。宝石から、服から、本から、ほとんど。……結婚指輪だけは売れなかったみたいだけど」

 そっと女性の左手の薬指を見たが、結婚指輪ははめられていなかった。

「でさ、結局オカネモチに頼るわけ。海外の有名な医者呼んで、見てもらって、でも病状はずっと平行線で。勿論、祖父ちゃん達はカンカンに怒るわけよ。どうしてここまで放っておいたのか、って。それに、自分の大切な娘の宝物をほぼ売ってるわけだし」医者志望の彼は、何が見えているのか、遠い目をする。

「親父と血が繋がってるのが許せないから、せめて戸籍だけは別にしろって言われて、その代わり、母さんの医療費はこっちが出すからって。そんなん、分かりきった答えだよな。生まれて初めて自分と認めてくれた妻の命を、絵描きは何が何でも救いたかった」

 そうか。この部分、木戸君に真実は分からないから“絵描き”とか、“お嬢さん”って呼ぶんだ。とっても、他人事みたい。

「累には言ってない。あいつは、何も知らない」

 驚いた私は、そこで口から手を離す。今の話に石田君が関係しているとは思えなかったけど、木戸君が名前を上げるのなら、何か接点があるのだろう。それこそ、緋傀儡が関わっているのだろうか。

 しかし、幼い頃から付き合いがあるというのなら、その家庭環境の変化を話していても、何らおかしくはない。

「それは、どうして?」

 私は、彼が昔話を始めてから初めて声を出した。「やっと喋ってくれた」と、私にはにかむ青年と目が合う。

「累はさ、母さんに懐いてたんだよな、そうだ、あれもヒカイライだった」木戸君は思い出した、と再び口を開く。「オレは小さい頃、ヒカイライの漢字が分かんなかったんだよ、診断書に『緋傀儡』って書いてあって、どっかで見た事あるなあって思ってたら、愛美ちゃんからの手紙。あれに書いてあったろ? 漢字で。それで、確信した。……ずいぶんな皮肉だよな、親友の好きな花のせいで、家庭が壊れるとか」木戸君は、笑顔を歪めた。

「最高に、ふざけてる」

「えっと、木戸君」

 「ならそれは、私のせい?」思ったけど、言わなかった。だって、それより先に木戸君が「愛美ちゃんのせいじゃない」と言ってくれたから。

「そうだ、親父の絵、見る?」

 彼は思い出したように提案する。ころころ変わる話題の矛先に、この人の頭の中を見てみたいと思案する。

「え、うん。見る。見ても良いなら、見せてもらいたい」

 木戸君がベットの横のダッシュボードから、沢山の絵を出してきて、私に見せてくれた。そのなかに一枚も、下手な絵は無かった。

「今も、木戸君のお父さんは絵を描いてるの? この絵、古そうだけど」

 船着き場や、花壇に植わっているガーベラの絵、木戸真知子さんの似顔絵らしきものもあった。古い紙の香りがする。

「いや、描いてない。『見せる相手が居ない』だってさ。母さんが“視覚を捉える方法”を忘れてからは、落書きさえも見てないな。今は飲食店を開いてるよ、金にもなるからって」

 そっか、あの治療薬は、昔からなんだ。どんな薬なんだろう、苦いのかな、苦しいのかな、窒素の点滴をしてる、って事は、まだ肺は悪いんだろうか。

「やっぱり記憶、消えちゃうんだね」

 言い方は、選んだ。傷つけないように、壊さないように。

「……ああ、そう。オレは、親父より早く忘れられて。あれは悔しかったなあ。実の母親に『君は病院の子? 部屋を間違えちゃったの?』なんて。あー、辛いね」

 忘れられる悲しさを、私は知らない。

「そっか、うん。そう」

 最後の1枚の絵を見終わって、女性の顔を改めて眺める。とっても綺麗。でも、似顔絵にあったような透き通った瞳を、私は見られないんだろうな。


「んじゃあ、愛美ちゃん、ありがとう」

 彼は、しゃがんだままの私に手を差し出す。私は少し迷って、その手をとらずに立ち上がった。彼の差し出してきた手には絵を預ける。

「うん、ありがとう。この事、石田君には内緒ね?」私は彼に笑顔を向ける。

 木戸君は、「オーケー、累には内緒」と眉を下げて笑い返した。


「ところでさ木戸君。実際、どこまで知ってるの?」

 入院室から出て、木戸君に尋ねる。私も、真知子さんに鶴を一匹だけ折り、棚の上に残してきた。赤い小さな鶴。千羽鶴の足しにしてと、無茶なお願いをして。

「どこまでって、だから、多分ほとんど」

 木戸君は不思議そうな顔をする、やっぱり私には、木戸君が全てを知っているとは思えないのだ。

「緋傀儡の、毒の事も?」

「それで、愛美ちゃんと母さんが被害に遭ったんだろ?」

 ああ。やっぱり彼も、全部は知らないんだ。

「うん、そっか。やっぱりすごいや、木戸君は」

「愛美ちゃんさ、それ、嘘でしょ」

 彼の声に、また揶揄ったのかと憤慨ふんがいし、私は木戸君の目を見る。「やっぱり」と私に笑う木戸君は、実に意地が悪い。

「愛美ちゃん、知ってる? 人の目を見て堂々と嘘が言えるのは、政治家しかいないんだぜ」彼は、何の根拠もないような事を言い、私を困らせる。

 「じゃあ私は、政治家に向いているかもね」との自虐は飲み込み、「どうして政治家は言えるの?」と訊いてみた。

「政治家って、自分の希望が全部通るわけじゃないじゃん。事前に大衆に向かって宣言しちゃってるから、結果的には嘘になる」

「でもたまに、政治家でも言える人が居るんだよね、そういう人は大抵、詐欺師か、その嘘が現実になってほしい、って願ってる人なんだよ」

 願ってる、私が?

「ふうん。それで、私の嘘は追求しないでも良いの?」

「だって愛美ちゃんが吐く嘘には、何かの意味がありそうなんだ」

 彼の発言に返す言葉も見つからず、私が黙りこくっていると、木戸君は、私の履いている靴を見て「そのブランド、良いやつだよね“ハルカワ製”。そういえば、愛美ちゃんと同じ苗字だ。凄い偶然だよね。それとも、わざと?」と、話題が尽きた事が分かりやすい台詞を吐いてきた。

「ハルカワ製? そうだったんだ、有名なの?」

 私も話題は尽きていたので、助け船に喜んで乗るが、いまいち広がりそうにない会話だ。ハルカワ製、なんてあるんだ。

「そりゃもう、知らない方が驚きだよ。さては累みたいに、ファッションとか疎いタイプ?」この靴をどこで買ったのか、思い出せない。貰い物だっただろうか。

「うーん、そうかも」

「ほら昨日、都心でも講演会とか開いてたでしょ、春川 陽咲ひさきって人が、この靴のデザイナーさん」

 講演会……。あの、街中にポスターとか貼ってある、あれか。

 うーん、顔も分からない。

「ヒサキって人、私の知り合いにもいるよー。苗字は知らないけど、あの人、私の親戚なのかなあ」つい最近、知り合った女性の顔が頭に浮かぶ。あの人の名前もヒサキだったはずだ。どんな字を書くのかは知らないけれど。「だとしたら同姓同名かも。それこそ凄い偶然なんだけど」

「もしかしたら、本人かもよ」

 木戸君は、悪戯っぽく笑う。

「ふふっ、まさかあ。そんな話、聞いたことないもん」

 その後も木戸君に様々なヒントを貰うが、全然思い出せない、というか、知らなかった。これは実に残念に思う。

 だって、これが木戸君との最後の、会話らしい会話だったからだ。


 それから、私が彼と出会うことは二度となく、彼からメッセージが送られてくる事も、こちらからメッセージを送る事も無かった。

 もしも私に、二度目の人生があったら、政治家になってみようか。

 嘘をつかない、政治家に。

 間違っても探偵は止めておこう、あれは、もっと向いている人が居る。




 *



第6話:ペンタス

〇ペンタスの花言葉

・願い事

・あざやかな行動

・誠実


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