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3回。  作者: 重カ
6/13

第5話:ネリネ


「私ね、幸せ者なんだと思う」

 一通りの説明を終えた後、春川さんはそんな事を言った。

 カランと扉の開く音がして、店の中に新しく客が入ってくる。若い女性の2人組。人生が楽しそうで、生き生きとしている。

「どうして、そう思うの?」

 あんなの、幸せとはまるで正反対じゃないか。そう言うのは春川さんを否定するようになりそうで、やめた。事実とは矛盾した春川さんの発言に疑問を抱く。

「だってさ」俺の拒絶とは違った、ハッキリと揺るぎない声。ひたすらに前だけを見る希望的な姿勢。

「みんな、私のために泣いてくれるんだ。私を、生かせようとしてくれるの。私の今までの努力を認めてくれて、励ましてくれる。それがね、嬉しいの。私にはそれが、とても誇らしい」

 その声は希望に満ちていて、俺には眩しすぎた。頭がクラクラする。

「だから幸せって、単純すぎやしないか」

「そっかな、ポジティブで良い考えだと思ったんだけど」春川さんは、へにゃりと笑う。「周りから見えていない部分はさ、自分の良いようにつくろったって、誰も怒んないよ?」

 俺は春川さんの気持ちを一生理解できないだろう。自分が同じ状況に陥った時、俺は世界で一番不幸で恵まれていない人間なんだ、とあらがなげく姿が目に見える。

「俺には、分からない、もう、どうして」

 倦怠感けんたいかんがそっと渦巻き、座っているダイニングチェアの背もたれに寄りかかった。教室の椅子のようにギシッと軋んだ音を発するわけでも、背もたれに寄りかかった事で、春川さんとの距離が大きく離れるわけでもなかった。

 もし、俺が手を伸ばしたら、彼女に届くだろうか。

「分からないのは当たり前だよ。石田君は私じゃないんだから」

 凛と澄ましたおぼろげな顔。爽やかな言い分は見ていて心地良かった。それと同時に、言い訳を受け入れられた時の、モヤっとした嫌悪感が突き刺さり、胸に鈍い痛みが走った俺は、春川さんにばれない様に顔をゆがめる。

「物事って、結構単純だと思うんだ。それに、案外こういうのってさ、軽く考えた方が良いかもしれないし」

 春川は右手の人差し指を天井に掲げ、「良案だ」と笑ったが、その指が空を指さしているように見えてしまい、無意識に死を連想させた。少し狼狽ろうばいしてしまう。

「不謹慎だと怒られそうだな、そんなの」春川さんから目をそらした。右側の窓から見渡せる遊歩道には、せわしなく道行く人が沢山いる。みんな、自分の事に必死だ。前しか見えていない。いや、前すらも見えてないかもしれない。

「あー、そっか」俺が同情気質なのを悟ったのか、考えるよな素振りを見せる彼女。「じゃあ、まだ死ぬって決まったわけじゃないんだし、ね?」

 ひどく楽観的でお気楽な口調に力なく眉を下げる。顔を見れば、柔らかい笑顔。

「なにも、そんな事」自虐的だと言えばそれまでだ。「何でそんなに、笑っていられるんだ?」自分でも思ってたより声が出てなくて驚いた。小さな声が、地面に落ちて、割れる。

「私は恵まれてたから、幸せだったから。皆から尊敬されて、期待されて、信頼されて。だから、だから仕方ないよ」また、笑う。

「仕方ないって、何が」俺は多分、その明るさに嫉妬した。

「世界って、平等なんだと思うんだ」

「平等?」聞き返すときに少し声が震えた。喉が乾いている事に気付き、あと半分しか残っていないオレンジジュースを体に流し込む。味はよく分からなかった。

「私は幸せすぎたから、きっと、世界を平等にしようって思われちゃったんだ。それで、愛美さんは今まで幸せだったから、あとは不幸で良いですね。って」

「誰に。幸せすぎって、何だよ」

 色の無い俺の声を怖がらないでほしい。何も見えていないんだ。

「誰だろ。私かな」彼女はいつもと変わらず、照れ臭そうに頬を掻いた。

 神や仏を出してこないのは、きっと、誰も責めたくないのだろう。お人好しがこじれてる。今ここで何を言ったって、誰も傷つかないのに。

「よく言うじゃん。幸運な人が居たら不幸な人が必ず存在する、って。それに伴って、ちょっと調整が入ったんだよ。メンテナンス! でも、失敗だよね、私は今も幸せだもん、まあ、前よりは幸福度が減っちゃったかな? 少しだけ」

 まるでお伽話とぎばなしやファンタジーの世界だ。春川の周りに黒い花びらが舞っている。だが、華やかとは言い難い。

「無茶苦茶だ。それなら平等な世界なんて必要ない」

 潤った喉も、緊張して上手く回らない舌も、全部、愚劣ぐれつに思えた。少しだけ? 何を言ってるんだ、気張ってるだけじゃないか。

「必要だよ。平等じゃないと、幸せな人が居なくなっちゃう」

「春川さんは、お前は幸せになれるんだろ?」

「私は、みんな幸せだった方が良いや。悲しい姿は見たくない」

 人間的本能が皆無だ。だからといって春川さんが理性で動いているとは思えない。

「本当は?」

「本当だよ。……本当だってことにしておいて」

「何で生きてるかとか、考えた事ないのか?」

「そりゃあるよ! 思春期の高校生だよ? そりゃ、もう、何回も」

 彼女の声がだんだん小さくなる。

「春川さん?」

「何でもない、とりあえず、考えた結果がこれなんだよ」

 真っ黒な影がうごめいて、彼女を覆い隠してしまう。

 笑顔が一瞬、苦痛でゆがんで見えた。

「生きようと思うぐらい、良いだろ、別に」

 その顔を見て、思わず語勢が強くなる。幸せが平等だなんて、他人が幸せなら自分が死んでも良いだなんて、それこそ綺麗事だ。

 人間らしく汚く生きたって、利己的に周りの事なんて考えないで、自由気ままに生きたって良いじゃないか。少なくとも、春川さんが死ねば、両親は悲しむんだろう? みんな幸せ、なんて、あり得ない。

「幸せって、なんだよ」問いかけるように春川さんの目を見つめる。

「なんだろうね。でも、私は今、幸せだよ?」

 困った顔。俺の言い分に戸惑っている顔。胸が、痛い。

 ああ、違う。俺はこんな顔を見たかったんじゃ無い。

 撤回する? 何を。春川さんに向けた棘を?

「ねえ、石田君、お願い。笑って?」言葉が詰まった俺に、彼女は、初めて弱々しい声を出した。そう言われて、我に返る。頭に血が上っていた。俺は彼女を見ようとしていなかった。よほど酷い顔をしていたんだろう。「笑って」なんて言われたの、16年間生きてきた人生で初めてだ。

 無理やり口角を上げる。うまく出来なかったから、指で押し上げた。

「うん、良い笑顔。その方が素敵」

 今までで、一番下手くそで情けない笑顔だったに違いないが、春川さんは繊細で明るい口調で言った。


「さ、私の話はこれぐらいにして、緋傀儡の話をしよっか」

 俺が笑えば、春川さんも笑顔に戻る。控えめに手を2回叩いて、笑った顔。嬉しそうな顔。どうして、こんな顔ができるんだろう。

「……嫌だ」頭が痛くてどうにかなりそうだ。感情が混ざりに混ざって、自分でもよく分からない。

「石田君がここに来た目的は、それでしょ? 本物の緋傀儡を見ることが夢なら、叶えたいじゃん」

 さっきの会話などまるで無かったかのような陽気な物言い。

「それは俺にしかメリットがない。それこそ不平等だ」

 何度、こうやって気持ちを抑え込んできたのだろうか。

「言ったでしょ? 私は他の人が幸せになってたら良いって」

 口を子供みたいにとがらせる。

 春川さんはきっと、全部分かっているんだろうな、分かってる上で、知ってしまった上で、自分の理想を繰り返し唱えている。そう受け取れた。

 結末が分かってるストーリーを彼女は楽しもうとしてる。胸を躍らせるようなどんでん返しは、はなから期待されていない。

 春川さんが腕を組んで、偉そうな評論家を気取った。

「他人の気持ちはいくら考えたって理解できないでしょう? 私だって石田君の気持ちはあと10年考えたって分からないと思う。でもさ、だからといって私を“可哀そうな人”にしないでいただきたい」

「そんなつもりは」

 俺がモゴモゴ言うと、彼女は口元に弧を描く。鮮やかで、実にきらびびやかだ。「んじゃ、この話は終わりにしよう?」栞を渡され、はい、もうお終い。いつでもこの話は読めるでしょう? 言い方は子を思う母親の様だが、きっと続きなんて存在しない。

「でも」反論しようと声に出した所で、春川さんがまた、か細く笑った。

 彼女の、光の絶えない力強い瞳を見て、いちいち言い返している自分が、急に汚く見えた。自己満足が過ぎている。ああ、理想を言ってるのは、どっちだ。

 俺は、我儘を言って、春川さんを困らせてるだけなんじゃないのか?

 固唾を飲み込んだ俺を一瞥し、彼女が優しく一言。「石田君。私は石田君の質問に答えたんだから、今度は私のお願いを聞いて?」

 懇願するわけでも無く、悲願してるわけでも無い。「この選択肢もありますが、どうなさいますか?」俺に対して敵意を感じさない、ビジネステイクな立ち回り。

 俺に話しかけてきた時も、きっと我慢していたんだろうな。

 あの時も、あれも、あの言葉も。

 風船が、どんどん膨らんでいく。

 どんどん大きくなっていって、はち切れそうになる。

「……ずるい!」はあっと肺の息をいっぺんに吐き出した。風船が割れる前に、風船の口から手をを放す。いきなり空気を奪われた風船は、無様な音を立てて、地面に力なく落ちた。

「ずるいって、どしたの?」180度変わった俺の態度に、ポカンとした顔の春川さん。

「色々」もう諦めた。俺は何も出来ない。無力なくせに出しゃばるなよ、俺。投げやりに口を開けば、

「っふふ、頭だけは回るから」

 嬉しそうな顔で、まるで俺が駄々をこねた様に扱われる。

 確かに質問したのは俺だ。首を突っ込んだのは俺だ。でも誘導されていたような気もする。出会った時の意味深な発言、説明の少なすぎる文章。

「本当に日本にあるのか? 緋傀儡。そんな話聞いたことが無いんだけど」とりあえず、心が折れた。ここで突っ張ったって、俺にはどうする事も出来ない。

「あるんだよね、それが。日本に!」俺が緋傀儡の話を始めたから、嬉々とした表情。「といっても、山奥だけどね」

「山奥じゃないと、不自然だ。あれは標高の高い所に生えるものだから」モヤモヤとした気持ちを追い払う。気分を晴れさせるのには、少しばかり時間がかかった。

「よく知ってるね。流石」

「俺の自由研究、見たんだろ?」

「うん。凄かった。本当に緋傀儡が好きなんだなあって、伝わってきてさ」

 左前方でガタガタと音がして、スーツ姿の男性2人組が席を離れた。そろってレジへと足を運んで行く。

「春川さんは金賞取ってるくせに?」

「石田君は銀賞と特別賞じゃん」

「1位と2位の間には越えられない壁というものがあるんだぞ」

 歴代の内閣総理大臣の名前を覚えてる人は沢山いても、副総理まで覚えてる人はほとんどいない。これを母から聞かされた時は、目からうろこだった。1位じゃなければ関心だってろくに引けない。

「私、ホントは特別賞の顕微鏡狙いだったんだからね?」

「俺は、1位の天体望遠鏡欲しかったんだけどな」

「よーしじゃあ、その2つを交換するか。石田君、住所教えて! 望遠鏡は送るからさ!」冗談だろうが、その発想が出てくる事に感心する。

 まあ、顕微鏡目当てだなんて嘘でもおかしくは無い。俺の天体望遠鏡だって、誠弘にさんざんいらないだろと無下むげにされた。

「なんか呪いの手紙とか一緒に入ってそうだな」

 これは根拠も何もない、ただのいじりだ。

「あ、付ける? 呪いの手紙!良いね、面白そう」何故か乗り気の春川さん。

「いらない」あ、これは冗談にも乗ってくるタイプの人だ。

「呪いの手紙ってどんなやつだろう。あんまり王道とか分かんないんだよね。文字を書くのに髪の毛とか血とか使うのかな?」腕を組んで考え込む姿勢。

「それ、衛生的に悪そう」

 髪の毛でどうやって文字を書くんだ、というツッコミより先にこの感想が出てきた。ゾンビ映画とかを見ていても、ゾンビになるより先に、感染症で死んでしまうんじゃないかと毎回思う。

「わー、理系の考えだ。それなら殺菌消毒してればOKなの?」

「ちょっと意味が分からない」

「輸血パックをさ、呪い代わりにできないかな」

「なに? 春川さんから天体望遠鏡と一緒に輸血パック送られてくんの?」

「そういうことになるね」

「呪いの手紙の方がまだ可愛げがある」輸血パックは現実味を帯びてて怖い。

「髪の毛は、かつらとかに使われるようなヤツに加工してもらってさ。ふふ、完璧」自らを主張する含み笑い。

「完璧って、だからそっちの方が怖いって」

「輸血もなあ、私のには病原体あるっぽいから実用性が無いかあ」害がある輸血パックとか迷惑行為でしかない。

「かつらは実用性があるみたいな言い方だな?」

「かつらが嫌なら増毛に使っても良いよ? 石田君の将来のために」

「遠慮しとく」

「遠慮なんかしないで、さ!」

「マジでいらねえ」

「いやいや、断言できないじゃん?」

「それ、あなたは今から禿げますって言ってるもんだぞ?」

 春川さんは目を細めてケラケラと笑った。「面白いなあ、石田君」

「そりゃどうも。俺を褒めても、かつらは被んないからな?」

「はー、ふふ……何の話してたっけ?」

 ふざけた空気に肩の力が抜けた。リラックス効果をあなどってはいけないな。だいぶ気持ちが楽になった。

「はいはい、えっと、緋傀儡だな」

「そうだった、忘れてた」ハッとこちらを見つめてくる。

「俺は覚えてたよ?」それにつられて笑い返す。

「えー、知りたい?」勿体ぶるように話題のカードを俺の鼻の先でヒラヒラ。

「俺の目的を忘れるな?」

「はいはい、承知しました」

 口元と手元が寂しくなったのか、春川さんが店員さんを捕まえて、苺タルトとアイスコーヒーを頼んだところで会話がリセットされた。

 コーヒーの苦い香りと、苺と生クリームの甘い香りが鼻を衝く。

「私がどうして緋傀儡を知ってるかというとね、おじいちゃんが緋傀儡の研究してたんだ」春川の右手に握られている銀色のフォークによって、タルトが小さく分けられた。サクッと小さな音がする。

「へー。研究って、日本で?」俺も何か注文しようと思ったが、どうも食欲が湧かない。今日はもう止しておくか。

「うん。日本ってか、この近くだね」

「この近く?」

「ここから車で1時間もかからない所にあるよ? 研究所」

 タルトが口の中に放り込まれた。

「嘘だろ?」

 これはきっと、俺が知るべきでは無い情報なんだろうとボンヤリ思う。緋傀儡は、日本には無かったはずだ、表向きでは。

「ほんとほんと。今はもう亡くなっちゃってるけど、よく遊びに行ってたんだー。おじいちゃん家にさ、年末とか、夏休みの時とか」

 遠い昔を懐かしむ、あどけない顔。モグモグとタルトを頬張るのは普通の女の子にしか見えない。

「仕事場にも行かせてもらってたの。驚くなかれ。私、緋傀儡の本物を見た事あるんだ」

「は、本当?」

「うん、本当」

「しかも天然の。きっれいだったよ。覚えてる。忘れられないね、あれは」

 今度は苺がブスリと刺された。赤い果汁が生々しい。

「天然!?」

「うん。世間では人工的な奴の方が多いみたいだけど、私が見たのは天然物だけ。ってか、石田君は人工物も見た事ないか。そんな話、聞いたことないもんね」

 開いた口が塞がらない。

 緋傀儡の天然物など、それこそ夢のような存在だ。

「……羨ましい」

 そう呟いてから、急いで口をつぐむ。“羨ましい”だなんて、少なくとも春川さんに言うべきではない。言われた側は複雑だろう。

「いーよいーよ、平気だってば」

 勘が鋭い彼女は、すぐさま俺の気持ちを汲み取って対応してくれた。タルトを食べている外見とその中身はちぐはぐだが、中身は俺なんかより成熟している。

「緋傀儡って、その、春川さんのおじいちゃんの仕事場にまだあったりするか?」

 勢いよく問いただししたい意欲を自制し、希望を持って尋ねてみた。

「うん。だから、見せてあげようと思って」

 俺の心情とは反対に、春川さんはざっくばらんにそう言って、鞄の中からいくつかの資料や写真を取り出した。

 皿とコップが机の隅に寄せられる。

「それは?」

「研究所の資料。遺族が預かってくれってさ」

 大きなターンクリップで留められていても、厚さが3cmほどになっている分厚い紙の束。それに加え、黄色いクリアファイルや、どこの言語かも分からない手書きの書き込みが、所狭しと並んでいる古い写真帖しゃしんちょう

 その中には、ひどく色あせており、文字かシミかの判別でさえ困難な個所も少なくはなかった。

 彼女が比較的状態の良いものを選び、いくつか資料を見せてくれた。その中には緋傀儡のモノクロ写真もあった。流石だ。たった2色でもその美しさが理解できる。惚れ惚れしていると、俺は別の写真の裏に記載されてある日付に目をいた。

「うっわ。……いつのだよ、これ」

 1890,7,10.17,40,20.

 1890年、7月10日。17時40分20秒。秒単位の記載。

 そんな昔に写真を撮れる技術があったのかとすぐに疑ったが、年季の入り様といい、画質の悪さといい、本物だと信じるにはそれだけで十分だった。

「こんな、貴重な写真、俺が見ても良いのか?」写真からは目を離せずに春川さんと口を利く。こんなにも貴重な資料を、俺がこの手に持っている。こんなカフェの一角で、外気に触れている。

 もしかしたら、表面の酸化が始まり、写真の状態が悪くなってしまうかもしれない。いや、100年以上前の物がこれだけ形を保っているのは、複製の可能性も有り得るか。

「良いの。どうせ需要も無くなっちゃったしさ」サッパリと言い切り、手を左右に振る彼女。「一応言っとくけど、他言厳禁だよ」

「需要が無くなった?」俺は耳を疑う。「どういう意味だ、それ。こんなにも歴史に溢れて、価値があるのに」

「うん。もう誰も、いらないみたい」氷が解け、カコンとコップの中で音がした。「説明するよ、全部」

 写真から目を上げると、春川さんの目とぶつかり、寂しそうに微笑まれた。

 春川さんは、俺がまだ手を付けていない資料を取り出す。クリップを外され、広げられた紙の束には、ちゃんと日本語が書かれていて密かに安堵したが、専門家が使うような用語がたくさん並んでいたため、結局のところ読めなかった。俺が必死に読もうとしていると、春川さんは分かりやすい解説まで入れてくれる。才女の名は伊達じゃない。


 最近になって緋傀儡の毒が問題視されてしまい、春川さんの祖父が勤めていた研究所は、日本政府から天然物処分のめいを受けた事。

 春川さんの祖父ならびに、研究所に所属している団体はそれに反対しており、つい最近までは抵抗しきれていたが、先陣を切っていた春川さんの祖父の死去に伴い、その勢力が衰えてしまった事。

 つい先週・・まで春川さんはその事態を知らなかった事。

 天然物の緋傀儡がこの世から無くなってしまう前に、自分以外の誰かに天然物の緋傀儡の存在を知ってもらいたかった事。

 その誰かに選ばれたのが、俺だという事。


 この資料の山は、遺族が引き取ってくれと、春川さんの祖父の元同僚が突き出してきたのだという。

「今更なんだけど、どうして俺なんだ?」

 聞きながら、春川さんが新しく取り出した資料にも目を通す。こんな機会を逃したくない。

「私が知ってる人の中で、石田君が一番緋傀儡が好きそうだったから」

「一番って、だから、俺のいる高校に来たのか」

「んーん、高校が一緒なのは、本当に偶然。あの高校が、病院から近場で、手ごろなとこだっただけなんだ。実際、私が緋傀儡の処分問題を知る前に、あの高校は受験があったし」春川さんは一度、そこで言葉を切った。「実はね、少しの間だけ、石田君と中学が一緒なんだ」春川さんがちらりと俺の顔を見る。「あ、ちゃんと私の出身は東妥中学校だよ?」

「中学って、転校生とかも居なかったはずだけど」去年の出来後のため、記憶に新しい。「あ、もしかして春川さん、年上?」

「違う違う、同い年。3年の3学期に転校してきた上に、わざと机とかは用意しないで、私は居ないものとして扱ってもらってください、って担任とかに頼んでたから、石田君が私の事を知らなくっても当然かな」

 3年の3学期とか、受験間際すぎる。

 そんな状態で一発合格とは、化け物なのか否か。

「それで、こっちに来てからサト先に聞いたのか。俺が緋傀儡を知らべていたって」

「そゆこと。何となくは分かった?」

「漠然としか分からん」

「あはは、正直! 素直でよろしい」

 春川さんがタルトの最後の一口を放り込み、フラットな皿が現れた。

「まーね、大丈夫だよ。知らなくても良いことは、ずっと知らないままでも」

 彼女はそう淡白に言い放って、机に広げた紙の束を片付け始めた。緋傀儡の資料があまり他の人の目に着いたら困るからだろうか。

「とりあえず、石田君は緋傀儡が見たいなら、私についてきて」

 そう言って、顔を上げた彼女が俺に向けてきたのは、とびきりの笑顔。愛らしくて、まるで屈託が無い。柔らかくて、きっと、想像以上にもろい。

「ああ、分かった」

 俺は、そんな素晴らしい笑顔に思考回路を溶かされて、意図せず二つ返事をしてしまう。

「そういえば、病院と研究所が近かったのも偶然だなあ。ラッキーだよ、石田君」最後の紙の束を気リップで留める春川さん。

「そうだな、俺もそう思う」気軽に便乗する。

「ま、主要な建造物とかは都市部に集まるものだけどね」

 同意したら急に冷たい。いきなりの温度差に戸惑ってしまう。

「まあ、確かにそうだけど」

「じゃあさ、石田君の予定教えてよ、一緒に、緋傀儡を見に行こう?」

 資料と交代で春川さんが取り出した手帳型のスマホケース。保健室登校だからって所持品検査しないのは不平等じゃないか。校長。

「明日。明日が良い」まあ、いずれにせよ、俺の答えは変わらない。

「明日!?」

「ああ。なんなら、今すぐにでも見たい。……今からじゃダメか」

「ダメだよ。でも、へえ、そっか、明日かあ」

 彼女は、俺の発言を冗談だと捉えるような生半可な事もせず、深く考え込むような雰囲気だったので「あ、春川さんがダメだった?」予定があるのかと慌てる。

「んー、明日は私がちょっとなあ、他の日でも良い?」

 あっぶね、俺の要求を押し通すところだった。まあ、残りの人生でやりたい事なんて、山ほど有るだろう。悲しいが、山ほど、絶対に。

「俺ならいつでも」

「んーと、来週の金曜とかかなー、平日だけど、大丈夫?」

「ああ、大丈夫」そこまで言って、来週の金曜日は終業式だったと思い出す。「俺が頼む立場なのに悪いんだけど、午後からでも良いか?」流石に休めない。

「勿論。登校をさえぎる必要は無いだろうし。じゃ、決定!」

 春川さんの明るい一言で、疲れが波のように押し寄せてきた。ここまで、ひどく長かった。重い息を吐き出した。

「ね、石田君」

「なんだ?」小さな声に返事をする。

「うん、良いや! 石田君なら分かってくれそう」

 俺の返事に2度頷いて、眩しく笑う彼女。

「へ、何が」

「じゃあ、お疲れさまでした。解散!」

 彼女は、いつも俺に疑問を残していく。

 勢いよく席を立ち、春川が伝票を手に取ったので、そっと取り返す。

「おごるよ、話してくれてありがと」


 カランコロンと店の扉をくぐり、街中の暑さを身に受け止めて、自分の頬をつねった。青い空に、真っ白な入道雲。それから突き出る飛行機雲。

 なかなか消えない飛行機雲を見つめる。成る程。これから雨が降るかもしれないな。だから彼女は今日、緋傀儡を見ない決断をしたのだろうか。


 こんなに長く会話をしたのは久しぶりで、こんなに人と真剣に向き合ったのは生まれて初めてだった。

 つねっていた頬から手を離す。とても痛い。良かった、夢じゃ無い。

 でも、夢であってほしかった。


 どの夢も、夢の中に居る時が一番幸せだと、どこかの偉人が言っていた。

 あれは、何の偉人だったっけ。



 *



第5話:ネリネ

〇ネリネの花言葉

・またあう日を楽しみに

・忍耐

・箱入り娘

・華やか


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