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3回。  作者: 重カ
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第4話:キブシ


 父に買ってもらったばかりでまだ新しいリュックサックに、教科書やノートを乱雑に詰め込み、帰りの支度を調ととのえる。HRホームルームが始まるのを今か今かと待ち設け、いよいよ椅子に体は付いていない。今は、1分1秒でも時間が惜しい。

「今日の放課後は文化部の総務会がある。部長は各自1階の視聴覚室に集合な、用事があって参加不可能の生徒は、誰かしらに委任状を託す事、それから……森、他に何があるか?」

「え、はい。確か、筆記用具と、去年までの計画表の持参もだったはずです」

 田多の話は、曖昧な上にやたらと生徒に絡んでくる為、中々進まない。いつもなら何てこと無しに無心になって聞き流す事が可能だが、一度耳に入れてしまうと、その段取りの悪さに胃がキリキリする。

「うん、たった今、森が言ったとおりだ。忘れないように。えー、森。後は?」

「あ、はい。明日はC日課で、物理のレポートの提出もありますね」

 森は好くやってくれていると思う。適度な距離感。適切な時間調節。

 有能な秘書か。

「はっは、流石は委員長。頼りになるな、明日から森が担任になるか?」

「……先生、そろそろ時間ですよ、遅れます」

「おー怖い怖い。んじゃあ、連絡はそれぞれ確認しろよー。解散!」

 終礼と言って良いのかよく分からない終礼が終わると同時に、俺は弾けるように立ち上がり、ざわつき始める教室から、勢いよく飛び出した。3階から駆け足で昇降口に向かう。

 2,3年を含め、他のクラスのHRはまだ終わっていないようだ。やたらと静かで、俺の足音がいっそう際立つ。廊下は堂々と走ったし、階段は落ちるように下った。無論、2段飛ばしだ。

「おーい、累! 何もそんなに急ぐことないだろ」

 後ろから誠弘の大きな声。俺は後ろを確認するか迷ったが、振り返らない事にした。聞こえた方向と距離感から、あいつも走って追いかけてきているのが分かる。心配してくれるのはありがたいが、今はただただ鬱陶しい。

「ごめん誠弘、今日は部活行けないって顧問に言っといて、俺、春川さんのとこ早く行かないと!」ろくに振り返らずに返事をする。2人とも大声だ。

「オレが愛美ちゃんと連絡とろうか、あれはどういう事かって!」

「いい、直接聞く!」

 サイズが微妙に合っていない上履きが脱げかけ、感情だけが先走りそうになるが、そのまま足で抑え込む。

「せっかちめ。このまま行っても、指定時間の30分前って、早すぎるわ!」

「春川さんがまだ来てなくても、俺が待てば大丈夫!」

「場所、ミスってたらどうすんだ、指定されたカフェ、駅前のだろ、あんなオシャレな場所、累は絶対行ったことない!」

「その時は、その時!」

「変なところ、ポジティブなの止めない?」

 最後の段から足を離した所で後ろを振り返る。俺がスピードを緩めた事で、誠弘の足音がすぐ近くで聞こえた。「んじゃ、俺はこれで」一瞬だけ肩から浮いたリュックが、重力と一緒に落ちてきて、肩にズシッと寄りかかる。

 途端に、背筋が凍った。「あ、誠弘」目が、合った。誠弘の真後ろに、生活指導の堂本どうもとが佇んでいる。明らかに俺たちを見ていて、絶対に目が合った。「え、どうした、累」さんざん大声で会話して、年甲斐も無く走り回っている高校生、「……後ろ」ああ、終わった。

 間抜けな声を上げ、「へ、後ろ?」振り返ったと同時に、見る見ると青ざめていく誠弘。「あー、堂本先生、お久しぶりです、ね」

「ああそうだな、3日ぶりだ」よく通る、堅い声。「木戸、石田。ちょっと来い」ここまで仏頂面が似合う大人も珍しいものだ。

 不幸な事に、次の瞬間には誠弘は腕をガッチリと掴まれ、もう一方の手ではピアスの付いた左耳を摘まれている。「堂本先生ー? どうしたんすか。オレ、何かしましたっけ、最近は大人しくしてた気がするんすけど」ちなみに、ピアスを含むアクセサリー等は全面的に校則違反だ。「分かるだろ? 耳だよ耳。何回目だ。せめて隠すような髪型にしろ」堂本から放たれる威圧感は尋常じゃない。

「あ、やっぱり!」誠弘は澄ました顔で言う。あれ、なんだ。誠弘のピアス穴を注意されただけか。俺は別に関係ない……「あと、声が大きいし、足音もうるさい。こら、そこ。逃げるなよ? 石田」違った。これは俺も注意される流れだ。

 誠弘が言い訳をしようと口を開く。「でも、髪の毛は伸ばそうと思って伸ばせるものじゃないっすか。ピアスを隠せる髪型ってそもそも知らないんすけど」

「耳の横を刈り上げてる奴の言葉じゃないだろう。それに、木戸は穴開けてから髪切ったって聞いたんだが、それは誤情報か?」

「よくご存じで」

 こうやって生徒の情報をよく仕入れている所を見ると、見かけによらず情報通なのかもしれない。若者さながら流行の最先端を往くのか? 「他に何か言い訳は?」

「いやあ、どうせバレるんだから見せびらかしたいなあ、なん、いったたた」

 堂本が、誠弘の腕を掴む力を強めたようだ。誠弘がそこまで辛そうな顔をしていないので、痛がっているフリにも見えるけど。

「穴はどうしようも無いとして、ピアスは付けてくるんじゃない」お、甘い。というより、諦めかけている。

「片耳だけっすよ、何で2分の1で当ててくるんすか」

「お前が見せびらかしているせいで両耳ともバッチリと見えるんだよ」

「へー。成る程、先生目が良いっすね」

「老眼はまだだからな」

「かなりお年を召されているように思えますけど?」

「ぬかせ。そうだよなあ? 石田」

 俺の方へ顔を向けてくる堂本。目が怖い。

「あー、自分もそう思います」

 適当に返事をして、少しずつすり足で堂本から距離を離す。

「おっと、逃がさないからな」堂本がそれに気付き、誠弘を掴んだ手はそのままで、俺の方に近づいてきた。獲物を追い詰めるクマのようにジリジリと。無論、俺はクマの狩りなど、一度も見た事は無いが。

 まだ距離はある。よし、これは走れば、逃げられる、な。

「誠弘、ごめんありがとう」

 俺は吐き出すようにそれだけ言って、自分の瞬発力を信じ、出来る限りの力で走り出す。堂本から当然の怒声が飛んだが、今回ばかりは耳に入れるべきでは無い、と、思う。ええい、後の祭りだ。

「おっま、累。覚えてろよ!」

 一度、堂本に捕まってしまうと、とにかく面倒臭い。誠弘は校則破りの常習犯なので、その愚痴をしこたま聞かされてきた。今頃あのネチネチとした、爺くさい説教を聞かされていると思うと……。うわあ、想像しただけで耳が痛い。

 犠牲となってしまった友人に内心感謝しつつ、中履きからローファーに急いで履き替え、外へ勢いよく飛び出す。人気のない校庭を見据え、校門をくぐるのは下校する生徒の中で一番乗りかもな、なんて呑気な事を考えながら、人通りの少ない通学路を、曲がり角だけ注意しながらひたすらに走る。ガタガタとリュックの中で教科書が跳ねる音が聞こえてきた。服とリュックの擦れあう音がやけに大きく響いてきて、地面と足がぶつかるたびに、振動が伝わる。

「あー、やっちまった。明日、学校行きたくねえ」絶対に堂本に締め上げられる。精神的に。

 走って大通りの横断歩道を渡ろうとした時、歩行者用の信号が赤に変わり、慌てて立ち止まる。ああ、急いでるのに。

 ソワソワした気持ちを表に出さないようにしながら、尻ポケットの中の定期入れに手をかざす。ICカードに残金あったっけ。あったよな、あるはずだ。先週チャージしたばっかだもんな。頼む。残っててくれ。

 信号が、青に変わる。車が走り出す。

 それとほぼ同時に右足を出した。段差に引っかかって、前のめりに転びそうになる。斜め横にある踏切警報機の音が、俺の耳に音を詰め込んだ。

 ああ、どうか、どうか緋傀儡の事が、嘘でありませんように。

 背に汗が滲んだ。太陽がらん々と笑っている。

ああもう、溶けてしまいそうだ。


◇◇


「わ。石田君、早いなあ! 学校終わったばっかりのはずなのに。……もしや、石田君サボり?」

 無造作な声掛け。服装も、その雰囲気も、まるで同じ。

 つい一昨日に見た顔が目線の少し下にある。この前と違う点を挙げるとすれば、俺から彼女に会いに来た事ぐらいだろう。

 モダンで落ち着いた雰囲気のカフェ。待ち合わせ時間の30分前。

 春川さんは入り口近くの窓際にある、2人掛けのテーブル席に陣取っていて、入店した時、春川さんだとすぐに分かった。華やかな雰囲気を身にまとい、椅子に腰かけている彼女の一方、俺は肩で息をし、ゼエゼエと乱れた呼吸を少しずつ落ち着かせている。テーブルに片手を置き、手に膝をついた、何とも情けない格好で。

「大丈夫? 死んじゃいそうだけど」彼女の、微塵も心配なんかしてないような無頓着で冗談交じりの口調。

「誰のせいだと、思って、んだ」

 だが今はそれに対してキレのある突っ込みを入れる元気は無い。

 店内に冷房が効いていて、心底助かった。汗だくで入店してきた俺を見かねた、心優しい店員さんが急いでお冷やを持ってきてくれたので、カラカラに渇いた喉を存分に潤す。

「本当に平気?」

「平気ではないけど、死にはしないから大丈夫、だと思う」

 カコンッと氷だけが残ったコップを机に置き、うなだれる。氷水の冷たさで痺れた食道と、前頭部への刺激にクラッとした。ありがたい、だいぶ、マシになった。

「お水のお代わり頼もうか?」

「いいや、大丈夫。もう平気」

 顔に垂れてきた汗を、服の短い袖で拭う。誠弘に見つかったら、女子に汗だくの状態で会うなんて非常識だとぶつくさ言われそうだが、この際仕方が無い。

「まさか石田君、本当に来るとはなあ。ビックリしちゃった」

 彼女は、まさに予想外だ、との顔をして続ける。「私もね、結構怪しい行動しちゃったかなって思ってたし。悪戯だと思われても仕方がないかなー、とか」俺が突っ立っているので彼女の顔が下にあり、その見上げてくるたびに流れる前髪が可愛らしい。

「そりゃまあ、怪しかったけども」俺は整い始めた呼吸で「行くしかないでしょ、あんなの。でも結局、信じる事しかできなかった」特にこれといった根拠も無く言う。

 窓の外には道行く通行人の姿がちらほらと見える。彼女が頼んだであろうレモンティーは半分も減っていないので、長く待たせた訳では無い事が推測された。

 ゆったりとした空気が着々と流れており、言うなれば静穏そのものだ。

 俺の汗もだいぶ引き、呼吸もすっかり整った所で、彼女の目の前の席を手で示し「座っても良いかな」と礼儀を重んじて尋ねると「律儀だね」と、嬉しそうに微笑まれ、え無く許可される。

「でもさ。良かったあ、石田君が来てくれて」この安心したような顔は、本心なのだろうか。「石田君が来てくれなかったら私、ずっと待つところだったよー。夜までさ」

 客は俺たちの他に、家族らしき子供連れ3人組と、仕事の合間に立ち寄ったのであろうスーツ姿の男性2人組がいて、俺が汗だくで店内に入ったときの冷ややかな目は、嬉しい事にもう消えている。

「そっか? 俺、早く来すぎちゃった感じがしたんだけど」

「まあ、確かに30分前は早すぎると思うけど。走るとこんなに早く来れるものなんだ」こうもザックリと切られると、さっきの“夜まで待つところだった”も本気に思えてくる。「でも、そのおかげで私の待ち時間が30分以上減ったんだね。そう考えるとラッキーだ」

「逆にさ、何で春川さんは30分前なのに居るの。そっちこそ早くない?」

「えー、石田君に早く会いたかったから」

「はあ、そりゃどうも」

 鞄を置く場所に少し迷った末、邪魔にならない椅子の足の横に立てかけながら、春川さんの表情を窺ってみたが、特に大きな変化は無く、実に捉えづらい。

 白い磨りガラスで作られた机越しに、今度は正面から春川さんの姿を見据える。制服、は、うちの高校の制服で間違いない。

「そういえば、春川さん制服のままだけど」俺はここまで言ってから、どうやって言葉を繋ぐか少しだけ迷う。「どうしたの? 俺、一番乗りで校舎から出てきた自信あるんだけど」

 春川さんは、透明なガラスのコップに注がれたレモンティーをストローでゆっくりかき回しながら、自身の頬に垂れてきた黒い髪を、慣れたように耳にかけた。

「うん、まあ。サボりみたいなものだよ」

「みたいな、もの?」曖昧でフヨフヨしている彼女の言葉がもどかしい。「んじゃあ、俺とは違ってサボりではないんだ」

「んー。どうだろう」口をへの字に曲げて、腕を組む彼女。「早退、が近いのかな。体調不良?」

 曖昧過ぎる語尾に、すっかり困惑させられる。自身の体調不良を漠然とされては、教師も早退のさせようが無いな。

「その体調不良って、今は平気なの?」とりあえず、口先だけの心配をしておく。どう見ても体調が悪そうには思えないけど。

「あれだ、単刀直入に言いますと、保健室登校ってやつをしてるんだ、私」

 思い切ったように口火を切る春川さん。事実をぼかすのが億劫になったのか、元から俺に言うつもりだったのか。

 “保健室登校”馴染みの無い言葉が耳に突っかかり、入り口で残留する。「保健室登校というと、あの?」何しろ、経験が無いものだから想像力が働かない。

「うん。あの保健室登校」

 腕組されていた手がほどかれて、机の上に出される。

「へえ」自分でも「そうなんだ」気の抜けたような声だったと思う。

「……なんか、石田君。ちょっと反応薄いね」

 意外そうだが、不服そうな表情ではない。

「いや、逆に、どうやって反応するのが正解? これ」

「『えーっ! そうだったの!?』って」机の上の手は広げられて、口元に持っていかれる。「ほら、アニメとかでよくあるやつ」

「アニメみたいって自分で言っちゃうんだ」

 こうした言い方は、他人事に聞こえてくる。

「漫画でも良いけど、ドラマとかさ、取り合えず二次元」映画でも良い? と問いたかったが、「現実味は無いよね。自分でもそう思うよ」春川さんが話し始めたので閉口する。

「春川さんへのちゃんとしたイメージが無いし、俺は別に、何とも」

「そっか。んじゃ、石田君の反応が正しいってことで良いや」

「いや、良いのかよ」

 今、街角インタビューとかで『あなたにとってマイペースな人とはどんな人ですか』と訊かれたら、春川さんの顔が一番に思い浮かびそうだ。春川さんと答えるかどうかは別として。

「ま、取り合えず」春川さんはキリッとした顔に戻して言う。「多分同じクラス、1年3組の人も、私の事を知らない人がほとんどだと思う」

「じゃあ、3組の教室には行ってもないって事?」

 しかし、保健室登校なんて、病弱な人のイメージがあるのに、春川さんからはそんな色は窺えない。むしろ普通を上回る、健康そうな女の子。

「うん、机とかも邪魔だし、けといてもらってる」

「それでか、春川さんを見た覚えが無かったのは」

 彼女への疑惑が、一つ消え、どこか安心する。皆が見た事が無いと言ってた上に、誠弘でさえ存在を知らなかったのも、それでだろう。

「いつも午前中しか学校に居ないの。する事もほとんど無いし、制服なのもそれで」彼女は自分のブラウスの襟を摘まんで、軽くクイと引っ張った。「今日はB日課で終わるのも早かったし、家に帰るのも億劫おっくうだったからね。ここで昼食がてらゆっくりしてたの。この店、私の知り合いが経営しててねー。優遇してもらってるんだあ」

 成る程これは、春川さんは午前中から、かなりの時間俺を待っていたのか。

 もしも、俺がこの場所へ来なかったらどうしたんだろう。それこそ夜まで待つつもりだったのか?

「春川さん、もしかして。いや、絶対に、俺が来る事分かってたでしょ」

 彼女の得意げな笑みから何となく想像ができる。緋傀儡の名を出せば、俺が必ず釣られる事に確信を持っての行動に違いない。

「まっさかあ。超能力者でもないんだし、ないない」春川さんは柔らかく笑って言う。「でもさ、未来が分かったら便利だよね。一度で良いから、宝クジの一等とか当ててみたい」特に、俺を持ち上げようとしてる気もしないし「だって、億万長者とか憧れない?」嬉々とした表情を見ると、壁が作られている気もしない。

「そりゃ憧れるよな、億万長者。なんでも出来そうだし、なんにでもなれそう」春川さんに便乗して、意味の無い羨望せんぼうを口にしてみる。

「うんうん、そうだよねえ。お金の力は偉大だもん」

 春川さんの何かを悟ったような顔が、どこか哀愁あいしゅう漂っていて、俺はその見た目との不釣り合いさに笑ってしまう。

「一生、遊んで暮らすとかが出来るもんな」

「うん。例えば、通訳を何人も引き連れて、地球一周してみたりとか」

「良いな、それ。東京ドームを貸し切って、ど真ん中で意味の無い単語を叫んでみたりとかは?」

「ふふっ、何それ。んじゃ私は、大量の札束を積み上げて、火遊びしてみたり。勿論、安全面には配慮してだよ?」

「え、怖……。じゃ、じゃあ、俺は迷うぐらいの広さの家に住むとか」

「私は後ねー、10年ぐらいずっと円高にしてみたい。出来そうじゃない?」

「うわ怖い。着眼点が怖い」

「まあ、私は普通の生活だけで充分なんだけどね」

 『札束で火遊び』と『10年間の円高』を聞いた後だと、随分な綺麗事に聞こえるのだから奇妙だ。

「さんざん言っといて。でも俺はなってみたいな、億万長者」そこまで言い終わってから、俺は冷静に戻る。「って、何の話だったっけ」

「石田君は、私と緋傀儡の話をしに来たはずなのに、普通に談笑してるねーって話」彼女は楽しそうに続ける。「楽しいから良いんだけど」

「そうだよ、緋傀儡、忘れてた」思わず自分で自分に驚いてしまう。あの溢れんばかりの熱意はどこへやら。

「そうだねえ、緋傀儡だね」

「うっわ、本当に忘れてた。おかしいな、こんなの初めてだ」

「時間はまだまだあるんだし、緋傀儡は逃げないよ?」春川さんは俺を見て、今にも笑い出しそうな顔をしている。

「そうなんだけど、うわあ、普通に談笑してたな、俺」

「ふふっは、どれだけ動揺してるの」春川さんはついに噴き出した。「石田君の、自分の熱意を考えると、緋傀儡の事なんか忘れるはずは無いって事? それで、忘れてた自分に戸惑ってるの?」

「え、うん。そうだけど」

「あっはは、受け入れちゃったよ、石田君」可笑しそうに腹を抱える彼女。「自信満々すぎ。いやー、流石だなあ」

「いやまあ、だって……なあ」特にこれと言った反論も無いので、ただただ言い淀む。「一応、それ相応の賞は取ったし」

「ふふ、まさか、石田君が本来の目的を忘れてるとは」まだ少し緩んでいる口元を隠しながら、春川さんは言う。「私、質問攻めにあうことを覚悟してたから、ちょっと予想外」

「質問攻め? って、何で?」

 だいぶ笑いはおさまってきたようで、口元を覆っていた手は、再び机上に乗せられていた。

「いや、だってさ」春川さんは、今度はちょっとだけ呆れたような目で俺を見つめる。「私がどうして石田君の事を知ってたかとか、保健室登校って私は言ったのに、石田君と会ったあの日に学校に来ていたのはどうしてか、とか」

「そっか。って、質問していいの? それ」

 俺の食い気味の発言に、目を細める彼女。

「別に遠慮しなくたっていいのに」

「いやだって、質問攻めされるのが苦手な人もいるから」

 こんな悠長な事を言ってはいるが、俺は、依然として緋傀儡ひかいらいの事を今すぐ彼女に問いただしたいし、春川さんが緋傀儡について詳しいのなら、日が暮れるまでその魅力について語り合いたいぐらいだが、物事には大抵、順序と言うものがある。まずは春川さんの事をもっと知ろう。この人と話していると、疑問が絶えない。

「それはそうと、何か飲み物でも頼んでさ、質疑応答はリラックスしながらでも良いんじゃない? はい、メニュー。ここの店、飲み物から食べ物まで全部おいしいんだよ」

 このまま話し込む勢いだったため、春川さんにメニューを手渡され、自分が何も注文していない事に気が付く。水だけ飲んで何も頼まずに帰るとは、店からしたら、迷惑な客だろう。

「んじゃ、そうしようかな」こっそりと、メニューの値札を見ながら財布の残金と相談。よし、これなら大丈夫そうだ。学生にも優しい、良心的な価格。

「コーヒーとかも香りが良くって。そうだ、私のオススメはね」

 ソフトドリンクのページを開いて、ニコニコとしている姿は、どうにも普通の女の子にしか見えない。椅子にぶら下がっていた春川さんの鞄は、やけに重そうだった。彼女は、何を隠し持っているのだろうか。

 春川さんのグラスに映った、俺の顔は歪んでいた。


「ああ、そうだ。私への質疑応答の前にさ、私から石田君に質問してもいい?」

 店員さんを捕まえ、俺が飲み物を注文したところで春川さんが口を開く。コーヒーメーカーが豆を削るガリガリとした音が、カウンター席の奥からコーヒーの匂いと一緒に届いて、穏健おんけんなムードを俺達が壊してしまわないだろうかと、どうにもならない心配をする。

「俺に?」彼女は、気味が悪いほどに俺の事を知っていたため、まさか自分が質問されるとは思わなかった。「別に良いけど、どうしたの?」勝手な考えだが、彼女にはすべて見透されているように思えてはならない。

 春川さんは、先ほどとは違い、とても真剣な面持ちだった。

「石田君は私の事を、さ。なんで信じたの?」正面からの弱々しくも真っ直ぐな視線が、俺を突き刺した。「さっきも言ったけど私、石田君に曖昧な態度を取っちゃったでしょ。そんな簡単に信じられるものじゃないから、知りたくて」俺が何と返すか不安そうで、答えに怯えているみたいで。春川さん自身の袖をつかんだ手は、やけに力が入っていた。

「なんでって、うーん。なんでだろうなあ」彼女の緊張が伝播でんぱしてきそうだが、ここで俺が引いた態度をとるのはお門違いである。

「きっとそれは」ゆっくりと口を開く。決して重い空気にはしたくない。重い空気にしてしまったら、彼女の本心を聞けなくなるような気がした。「俺が、春川さんを」口角を上げる。春川さんの目を見つめ返す。「信じたかったからだと思う」そして、嘘をついてはいけない。幸いな事に俺は、嘘を吐く必要が無い。

 春川さんは、驚いた顔をして俺をしばらく見つめ、唇を優しく噛み締めてから、とても嬉しそうに相好そこうを崩した。

「そっか、うん、そっかあ」彼女は、目を細めて「石田君、ありがとう。信じてくれて」そうハッキリと言った。俺は、人にこんなにも正面からお礼を言われたことが無かったものだから、面はゆい。

「えっと、どういたしまして?」

「でも石田君、それってさ、私が本当の事を言ってる確証は無かったんでしょ?」御満悦そうな顔のままで、春川さんは続ける。「石田君、相当見たいんだねえ、緋傀儡。ちょっとだけ羨ましいや」

 さっきよりも穏やかな口調。

 コーヒーメーカーの音はいつの間にか止まっていて、かすかなドリップ音が聞こえてくる。コーヒーの香りはおのずと強くなっていた。

「そりゃまあ、当たり前だ」沈みそうだった空気が元に戻り、軽くなった胸を張って肯定する。「俺は、捨てた夢を忘れられるほど薄情じゃないから」

「っふふ、捨てた夢って。気取った言い方するなあ」意図せずに出てしまった戯画ぎが的な発言をほころんだ顔で指摘され、こっちも気が緩む。

「な、良いだろ別に。諦めないといけない事の一つや二つ、誰にでもあるものだし」顔がほんのり熱いのは、さっき走ったせいか、恥ずかしいせいか。まあ、絶対に後者だ。

「そうだねえ、うん。夢は忘れたくないよね」あれ、やんわりと肯定された。

「え、うん。そうだそうだ」

 からかわれるのを覚悟してたので、ちょっと拍子抜けする。

「諦めないといけない事か。ああ、たっくさんあるなー」そう言った後のふと回想に浸るような、凛とした姿は大人びていて 思わず恍惚こうこつした。

「うん、たくさん、諦めないとな。酷な世の中だよ、本当に」

「わー、ネガティブ。だってさ石田君、失わないと見えない物があるって言うでしょ?」

「めっちゃ達観してるな、俺だったら無理」

「もっと前向きにさ。一日一日を大切に」

「はは、ポジティブすぎ」

 と、他愛もない雑談もほどほどに、店員さんが俺の注文した飲み物を運んできた。袖に“研修中”との記載があるプレートがクリップで留めてあって、そんなプレートなど見なくとも新人だと分かるような、初々しい足取りでやって来た。


 カランと氷の溶ける軽い音が、水に沈む。窓からの光がグラスに少しだけ反射して、鮮やかな影を作りだした。

「まずは最初の質問。春川さんはどうやって俺の事を知ったの?」

 アイスコーヒーと迷った末、どうせ砂糖を入れないと飲めないからと、気取らず頼んだオレンジジュースをストローで意味も無くかき回しながら、根本的な質問を彼女に投げかける。

「んとねー、石田君の自由研究を見たのがきっかけかな」レモンティーの入っていたグラスの中の、小さくなった氷を覗き込みながら彼女は言う。「特別審査員賞を取った作品なんて、興味をそそられるじゃん」

「そこが問題なんだ、春川さん」

 オレンジジュースは程よい酸味があり、かといってしつこさの無い、夏らしい爽やかな風味だった。挿してある緑色のストローには、オレンジの葉がモチーフとなっているであろう、プラスチックの飾りがこしらえてあって、円柱グラスのふちにチョコンと乗っかっている。

「問題って、私何かしちゃった?」

「したっていうか、春川さんの状況が分からないから、その方法によるけど」

 春川さんが、何も身に覚えが無いと頭を捻る姿を見て、俺の記憶違いかと数秒だけ回顧かいこしたが、多分、俺は間違っていない。

 今度は確信をちゃんと持って口を開く。「その問題って言うか、疑問なんだけど、俺の作品はどうやって見たの? あの自由研究、どこにも展示なんかされてなかったと思うんだよ」

 その上、個人名も公表されないような自由研究を通して俺の事を知る方法と言えば、それこそ自由研究の団体に直接聞くとか、俺の中学の頃の理科教諭から教えてもらうとか。ふむ、どうにも考えにくい。

 緋傀儡を出してきた時点で、情報源はそこからだろうと想像は付いていたけど、その方法が分からない。

 いずれにせよ、東北の中学出身の春川には知り得ない話だ。これは昨日の夜調べて分かった事だが、これは関東限定の募集だったらしい。

「成る程、それでかあ」春川さんが、苦虫を噛み潰したような顔に変化する。「色々と辻褄が合うな。あの先生、どうしてくれようか」

「えーと、あの先生って?」状況が分かっていないので、置いて行かれまいと、すかさず問いかける。

「えっとね、養護教諭の佐藤先生っているじゃん?」

「いるな、サト先がどうかしたの?」茶色い髪を後ろで束ねている、サバサバとした性格の佐藤先生を思い浮かべる。おばちゃん特有のマシンガントークは、掴まるとなかなか抜け出せない。

「元凶は全部その人」

「ごめん、その結論に至るまでの経緯が分からない」

 ……そういえば、サト先は科学の教員免許も持っていた気がする。それで科学クラブの顧問もしていたような気がしなくもない。むしろ俺は、科学クラブに何回かサト先直々に勧誘されたような気もする。断ったけど。

「もしかして、サト先が俺の事を?」

「そのもしかして。まさか、展示もされてなかったとはなあ。完全な個人情報を聞いちゃったじゃん、私」困った顔をしつつ、「えーと、あとはね」春川さんが言葉を濁す。

「私その時、金賞をとったんだ」

 唇に手を当て、少し考えこむ彼女。「表彰式には行けなかったけど」

「えーと、それって、自由研究の話?」

「うん。金賞の人には最新型の天体望遠鏡が貰えたでしょ? ……私、持ってる」

 照れ臭そうに自身の髪をもてあそぶ彼女。

「いや。待って、状況整理が出来て、ない」

「石田君は、審査員特別賞と銀賞をとって、顕微鏡を賞品としてもらってたよね?」

 出会った時の会話が思い返される。

「ああ。もらった」俺はそれに端的な返ししかできない。

「もっかい言うけど、金賞の賞品が、私の家にあるんだよね。天体望遠鏡」

 呆然としている俺を見かねた春川さん。聞こえていなかったと思ったのか、大事な事だから2回言ったのか。

「待って、春川さん。中学は東北だって、言ってたよな?」

「うん。そうだよ」

「あれって、地区でのヤツだったから、春川は参加どころか、認知さえ出来ないんじゃ」眉をひそめて彼女の目を見る。

「でも知ってるんだよなあ。参加、ちゃんとしたよー」

 やっぱり、嘘じゃなさそうだ。

「……何で?」

「ふはっ」俺の面食らった表情に、堪えきれないと吹き出した春川さん。顔を左にそらし、口元をおさえて笑っている。俺がポカンとしていると、笑いすぎて出たであろう涙をぬぐいながら、「ゴメンゴメン、からかった。ちゃんと話すよ」と。まだ笑いが収まってない。

「うわ、は?」掌で転がして楽しんでるだろ、絶対。自分だけ楽しんでるだろ。

 でもこちらを傷つけようとする悪意は少しも感じられないので、距離を縮めてきてくれた、のか。多分。

「どうしよう春川に殺意が湧いたんだんだけど」

 楽観的に受け取ろう。こちらは冗談で返す。

「急に辛辣だあ。これが石田君の本性かあ」

 口を手で押さえて肩を震わせている春川さん。

「あー、本性、か。あながち、間違っては無いと思う」

「っふふ、否定はしないんだ」


「良いなあ。好きだよ、石田君のその人間性」



“好き”


これは、1回目。あと、たったの2回だけ。


この残酷なカウントダウンを、君は知っていたのだろうか。



「それは単純な好意として受け取って良いのか? 嫌味に聞こえるんだけど」

「お。人間不信?」

「俺が本当に人間不信だったらシャレにならない」

「話してて楽しかったら良いの」

「……そうですか」

 俺の気の抜けた返事で、一旦 春川との話に区切りが付いた。会話のラッシュが途切れる。

 ん? 待て、会話途切れてる場合じゃ無い。

「忘れる所だった。春川さんの事、教えろって。まだ聞いてないぞ」

「ああ。そうだったねー」

お互いに話の論点をすっぽかしていた。

「じゃあ、話す前にさ、約束してくれない?」

先に口を開いたのは春川さん。声のトーンがだいぶ下がっていて、ドキッとする。

「どうしたんだよ、急に。……約束?」

「私は、今から一つも嘘を吐かない。いや、吐きたくない」

 かしこまった顔してこちらを見据えてきた。

 周りの空気が、一気にピリッとした鮮烈な感覚。数秒前の弛緩しかんした雰囲気を記憶の中から引っ張り出して、自身を落ち着かせる。

「私の話を、静かに聞いてほしいの。もし私を信じられなくなったら、その場で帰っても良い」

 息を大きく吸い込んで、ゆっくりと、まるで小さな子にでもに言い聞かせるように。

「あ、ああ。分かった。約束するよ」いきなり変わった口調に少しばかり怯む。気分はさながら蛇に見込まれた蛙。ココまで来たらもう逃げられない。後戻りをする気は無いし、覚悟はとっくに決めていたつもりだが、こうやって再確認されると、たじろいでしまった自分の心の弱さに嫌気が差す。

「俺は春川さんを信じたし、だからここまで来た。俺の為にも、俺の夢の為にも。途中で帰るつもりはさらさら無い」

 声に出して、春川さんへのフォローがてら自らの気を引き締める。

「春川さんは、話をしてくれるだけで良い。何か俺に言いたい事があるんだろ?」

 ここで俺が春川さんを茶化したりなんかしたら、もうこのチャンスには二度とありつけないだろう。慎重に言葉を選ぶ。

「ありがとう。そうやって真っ正面から言われると、何だか照れるなあ」

 へへ、と顔をクシャっとして笑う姿は、幼い子供みたいだった。

「本当のことだろ。俺も嘘は吐きたくない」最後の一押し。

 小さくため息をついた春川は、真っ直ぐに俺の目を見た。

吸い込まれるような、艶やかな目。


「私ね、心臓病なんだ」

「……え?」

「病気。だいたい半年とちょっと前からかな、そうは見えないでしょ、驚いた?」


ポツリポツリと語り出した話の内容は、どれも思いもよらないなものばかりだった。

現実とかけ離れた、俺とは一生無縁だと思っていた世界を目の当たりにし、夢を見ているのではないかと錯覚さえした。

 春川さんが、「冗談冗談! からかっただけ、石田君の反応が楽しくってさ」と言い出すのを長いこと待っていたが、それを言われる場面は一生訪れなかった。

 俺の浅はかで薄っぺらい好奇心のせいで、彼女を傷つけてしまったのではないだろうか。

 少なくとも、春川と出会って間もない俺が軽率に聞いて良い話では無かった。

 後悔の意が俺を飲み込んだ。俺の夢だなんて、ただの幻想に過ぎなかった。


□□


彼女は、才女だった。少なくとも、春川さんの住んでいた地域では、1番だった。


 海外の留学も簡単だろうと周囲から期待されていたし、実際にそれぐらいの実力があった。「文武両道、才色兼備とは、彼女のために作られた言葉なのではないか」そんな事さえ豪語ごうごされていたそうだ。その上、人望にも恵まれていたため、もはや嫉妬なんて芽生えないような、遠い存在になっていたんだろうな。嫌がらせを受けていた、とは一言も言わなかったし、そんな口調でもなかった。

「こんな田舎から天才が生まれるだなんて、鳶が鷹を生んだようだ」彼女の両親の口癖はそれだった。家庭はとても裕福とは言えなかったが、とても恵まれていた。

 聞いてる俺が惨めに感じてしまうほどに。

 そこまでの彼女は、時折笑顔も見せるし、冗談をはさんだり、こちらの表情を確認してくるような余裕もあった。


__倒れたのは去年の10月。ちょうど中学校最後の体育祭の日で、気の良いほどに晴れていたそうだ。

 800mの中距離走を100mも走らないうちに。養護教諭の適切な応急処置の後、市内の病院へ救急搬送されるも、ただの貧血だと診断され、その場では30分間の点滴と処方薬の投与だけで対応された。だが数日たっても数週間たっても一向に体調は良くならない。

 むしろ日に日に悪い方向へと進んでいく病状に、担当医もこれは只事ただことでは無いと、春川さんは都内にある大型の病院に緊急入院。精密検査をした結果、判明した病名と治療法。

 急性きゅうせい心頭しんとう健促けんそく

 血液に含まれる成分が、本来適切である場所とは別のところで分解されてしまう、確かそんな病気だと春川さんから説明された。


 このまま進行すれば余命は1年ほどだろうと、

 医者から告げられたのは無慈悲な余命宣告。


 治療法はちゃんとあった。難しそうな病気だったため、その辺は医療の進化なのかと感心したが、そんな俺の感心は非人道的な現実に削ぎ落とされた。

 その、治療法というのが厄介だった。病原菌を抹殺するために投与される薬は、簡単に言えば人体に有害なのだという。

“記憶が消える”

 最早、また別の病気なんじゃないかと思えるほどに、馬鹿馬鹿しい副作用。俺も思わず耳を疑った。

 「記憶が消える」と言ったってすぐに消えるわけじゃないし、すべて忘れてしまうわけでも無い。投与される期間と数量によって消える量も変わる。

 でも、その期間がどれぐらいになるかは分からない。愛美さんは病気の進行が早いのでかなりの量の薬が必要になる。珍しい病気なので、医療保険は一切おりない。治療したところで、完全に治癒する確率は2パーセント以下。

 矢継ぎ早に言われたそうだ。その時は説明を聞くだけで精一杯で、不思議と感情は出てこなかった。

 もし完全に治療できても、再発する可能性は97パーセント。植物状態になればまだマシな方。植物状態になったとしても、入院費はすべて自己負担。

 治療での副作用は、最近の事から忘れてしまう認知症などの症状とは違い、何から忘れていってしまうのか予測できない。治療しなければその先は死だけだが、その死は痛みや苦痛はともわないだろう。

 医者の口から零れ出る短絡たんらく的な確率論に、“死んでくれ”と言われてる感覚に陥ったそうだ。いや、遠回しに言われていたんだろうな。

 俺には、どうあがいても春川さんが幸せになる結末が見えなくって、真っ暗な道を意味もなく歩くような、喪失感と不安で押しつぶされそうになった。

 春川さんの親は、治療を勧めたそうだ。子供を思う親の気持ちが先立ったんだろう。医者から説明を受けてた時は、ボロボロと泣いており、説明を聞き終わったときはそんなのは嘘だと声を荒げていたらしい。

 治療費なんてどこにも無いのに。

 生きているだけで良い。あなたに忘れられても良い。あなたの意識が無くなっても、傍に居られれば良い。実際に、そう言われたそうだ。


「治療費ね、1か月分の薬だけで、お父さんの年収超えちゃってたんだ。私が1か月生きるために、家族が1年生活出来なくなっちゃうの。それに加えて、もしもの時の入院費は別払い。珍しくて、直すのが難しい病気なんだもん。仕方ないね」

 気の抜けた声は、形を保っていなくって、不安定で。怖かった。

「じゃあ、治療は」

「うん、……断った。だから私は、余命通りにいけば後3か月ぐらいで死んじゃうみたい」

 “死んじゃうみたい”軽い口調で吐き出された重い言葉は、狂的だ。

「そんなの、おかしい。そうだ、寄付は? 珍しい病気なら、どうにか大々的にさ、マスコミとかに頼めば」

 少し前にテレビの特集で見た内容を思い出す。それでは確か、9歳の男の子に8000万円が寄付されていた。

「ふふ、優しいね。石田君」春川さんは、また可笑しそうに笑った。「そういうのってさ、治療費は高いけど治る確率が高い病気とか、腕前の良い医者が手掛ける手術とかしかやらないんだよね。なんでか、分かる?」

 仲の良い友達に、クイズを出すように、軽やかに言われた。俺が黙っていると、「じゃあ、答え、言うよ?」


 __寄付しても、命が助からない結果しか見えないから。


 言われた瞬間、背筋が凍り付いた。ああ、そうか、そういうものか。

 ぐにゃりと視界が歪む。頭から自分が溶けていってしまうのではないか。

「春川さん、ごめん」

 春川さんと目が合わせられない。合わせたら、俺はこの世から消えてなくなる気がした。謝ったってどうにもならない事は分かっていたが、謝らずにはいられなかった。

「ありがとう、でも、別に謝らなくても良いんだよ? 石田君は悪くないんだから」落ち着いていて、優しい口調。

“諦めないといけない事か。たっくさんあるなー”

 彼女が言っていた言葉が重くのしかかった。

「本当に、ごめん」最後に、もう一回だけ謝罪した。

 春川さんは、俺の謝罪にニコッと笑って、「大丈夫」と言ってくれた。胸がキュッと締め付けられる。

「今はね、違う薬で耐え忍んでるんだ。じゃないと、また倒れちゃう。学校も午前中しか行かせてもらえないし、退屈で仕方が無いよ」

 あの体に触れると、そのまま崩れてしまうのではないか。

「受験もね、病院から近場の高校に、身を投げる思いでしたんだけど、やっぱり知識って大事だね、合格しちゃった。校長が良い人でさ。やっぱり、人は感情で動くものだよ」

 俺がどんなにギリギリであの高校に合格したのか、知らないからこんなことを言えるんだろうな。春川さんの中学が異様に高いだけで、あの高校も偏差値、そこそこあるぞ。

「制服のままなのもね、この方が、石田君が見つけやすいかなあって思って」

 優しさが胸にしみる。こんな状況でも、人を気遣えるのは才能の域だ。

「石田君」

「……何?」

「私を信じてくれて、ありがとう」

 真っ直ぐと俺を目を見て言ってきた言葉は、耳に染み渡って、こぼれていった。唇を噛みしめ、色んな感情を押さえつける。

「春川さん」

「んー? どしたの、石田君」

 『ごめんより、ありがとうだろ?』気障な友人のセリフを思い出す。

「ありがとう」

「へへ、どういたしまして!」





第4話:キブシ

◯キブシの花言葉

・待ち合わせ

・出会い

・嘘


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