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3回。  作者: 重カ
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第3話:カラー(紫)


 気怠い体を半ば強引に動かして教室に入ると、誠弘が、俺の椅子に足を組んで座っていた。机からはみ出た右足をパタパタと交互に振り、頬杖を突いて余暇よかを持て余している。朝は大抵、教室にすら居ないあいつが椅子に座っている事が珍しくて、つい立ち止まってその光景を眺めてしまう。

「木戸くん、どうしたの? 椅子になんか座って」俺と同じように疑問を抱いたらしき吉川よしかわが、驚いた顔をして誠弘に声をかけていた。「いつも教室になんて居ないのに珍しい。しかもその席、石田くんの席? だよね」

 教室の入り口と俺の席はそれなりに離れているので、途切れ途切れに会話が聞こえてくるが、詳しい内容は半分も分からない。読唇術が使える人は、こういうのも分かるのだろうか。

「ちょっと累に用事があって。すれ違うのも怠いから、机で直接待機してんの」

「ふうん。石田くんと木戸くん、仲良いイメージあるから、そんな事しないでも意思疎通とか出来そうだけどな、テレパシーとかで。木戸くん、石田くんの連絡先も知らないの?」

「あの真面目、校内にスマホ持ちこんでないんだよ」

「なるほど納得。石田くんっぽいな、変なとこ真面目なの」

 別に、盗み聞きをする趣味は無いので問題は無いけど。少ししたら、お互いに笑い合っている姿が見えた後、名残惜しそうに吉川の方から離れて行った。

 話し相手が居なくなり、退屈になったらしき誠弘は、いかにも暇そうに背もたれに寄りかかり、大きく伸びをして口元に手を持っていった。と、思えば大きなあくび。誠弘が傾けた顔を戻す際、丁度目が合った。

 俺に気付いた誠弘が、ニヤリと口角を上げ「見たな?」と口パクで訴えてきたので、誠弘にも分かるように大げさに鼻で笑って、顔ごと目を反らす。意図せず移ったあくびをこっそりと噛み殺し、釈然と前に向き直った。通路に居た同級生に軽く声をかけつつ、誠弘の方に近寄る。

「やーっと来た。B日課って教えたじゃんかよ、遅い」

「遅刻じゃないし、むしろ全然セーフ。10分前だろ、むしろ褒められるべきだ」

 真ん中の列、一番後ろが俺の席。いつも登校する時より人が多いので少し違和感を覚えた。ザワザワとしたカラフルで統一性の無い声が、耳から頭蓋へと反響。一つ一つは綺麗な色でも、混ざり混ざって灰色に変わり、鮮やかさなど見出せない、濁った黒に変貌してしまう。

「累が遅いもんだから、オレはすっかり待ちぼうけ。長くなった首が元に戻らなくなるところだったね」気取ったような話し方に、極端な物言い。朝からハイテンションだな、こいつ。

「じゃあ、その伸ばした首でギネスにでも挑戦したらどうだ? あと3年ぐらい待ったら確実だろ。50mぐらいにはなりそうだし」

 “待ち惚け”なんて言うのだから俺に何かしらの用事があるのだろう。わざわざ、俺の椅子に座って待ち伏せするほどに重要な用が。

「おーっと、ギネスかあ。でも累が来たからその夢も壊されたな、残念!」

 いや、すぐに本題に入らないから重要でも無さそうだ。

「夢だったとは」

 俺は極端に哀れんだ顔をして見せる。「それはそれはお気の毒に」

「そうだそうだ」誠弘は楽しそうに笑う。「違約金を請求する! 500万!」

「案外現実的な数字だな、というか、何に対しての違約金だよ」そんなの口約束さえした覚えが無い。「ああ、ギネスへの挑戦を俺が邪魔したんなら、今から出て行こうか? さあさあ夢を捨てないで、まだ間に合うよ。きっと」俺が回れ右の体制をとると、あっさりと引き止められた。

「人に夢って書いて儚いって読むんだからな、夢が叶うだなんて甘いこと考えてるのか? お前は」少し前に、この発言をした政治家が散々批判された後に、辞職したのを思い出し、過激なネタだと察したが、中々に際どい。

「知ってるよ、んなもん。他には……人の為って書いて偽りだろ?」俺がそれに続いて、思いついた漢字を一つ上げてみれば「そうそう、心を亡くすと書いて忙しいとも書くよな」と、サラッと返してきた。怖い。

 そのまま漢字リレーを続けようにも、良さげな漢字が見つからず、会話を切り上げようとしたら、

「そうだ、それはそれでいいんだけどさ」誠弘が何かを思いついたように、自身のズボンのポケットを探り始めた。「どうした? 急に」鼻歌交じりに、少しばかり生き生きとして。じれったそうに裏返したポケットをしまいなおしながら、俺の机も少し傾けて中もチラリと見やる。「あー、鞄の中か。めんどくさ」と、つまらなさそうに呟いた後、俺の席を立つ誠弘。大きく出された隣の机の椅子を跨ぎながら、「ちょっと待ってて、累に渡すもんがあるわ」窓際の誠弘の席の方へ歩いて行った。……せめて、何しに行くかを言えよ。

 なんか、俺が置いて行かれたみたいじゃないか。

 大方、さっき吉川と話していた俺への“用事”を思い出したのだろうか。

「あー、おっけ。首を長くして待ってるわ」俺のため息交じりの返答は、誠弘の耳に届かなかっただろう。あいつは自分のスポーツバッグの中を、無言でひっかきまわしている。

 ため息のついでに、教室のヒンヤリとした空気を深く吸い込んで、冷房が直った事に気付く。一昨日の暑さが嘘のようで、あの日は狸にでも化かされたんじゃないかといぶかしんでしまう。

 狸。裏手の雑木林での目撃証言があって、一時期は騒ぎになったな、確か。あーあ、一昨日からの出来事が全部、狸のしわざだったら面白いのに。

 狸が人間を騙すイメージはあまりないな、むしろ狐のイメージがある、などと月並み以下の空想を巡らせていると、「あった。これこれ」と言いながら、右手を後ろに回した誠弘が戻ってきた。あからさまに右手に何か隠し持っているが、指摘はしないでおく。

「これ、って?」

 戻ってきた誠弘に、また席を取られてしまわないよう、さりげなく椅子に座る。誠弘が、「席をとられた」みたいな顔をしたので、「お前の席じゃないだろ」という顔を返す。

「まあ良いわ」誠弘はそう短く言って、「んじゃあ、お楽しみターイム。累さんにお知らせが2つあります!」声を弾けさせた。

 すぐ近くで飛んだ声に、内心少しだけ驚いたが「急だな、お知らせってなんの」平然を装って返事をする。お知らせ。お知らせ? 何の事だろう。

 誠弘は右手と左手をそれぞれ握って、俺の目の前に突き出してきた。

「お知らせと言うか情報か。右のお知らせと、左のお知らせ、どっちが良い?」

 右手に持っていた何かは、ポケットにでも入れられたのか、一瞬だけ中が見えた両手は空であり、何かが握られているわけでも無い。

「えー、右」一応、さっき何かを持っていた方を指すが、無意味な足掻きだろう。「ってか、さっきなんか持ってたよな」

「ファイナルアンサー?」

 知ってた。この俺の疑心は無視されるの、知ってた。しかしながら、いつからクイズになったのだろうか。声を潜めて大げさに言ってきたので、「じゃあ左」回答を変えてみる。こうやって確認されると変更したくなってしまう。

「どっちだよ」

 まるで俺が不正でもしたのではないかという表情は、実に大袈裟だ。

「これ、選ぶ意味ないだろ?」

「ないけど、選んだ方が楽しいじゃん」やっぱりないのか。

 誠弘はそれに続けて、ニヒルな笑みを浮かべた後、「意味の無い行為ほど、楽しいものは無いだろ?」と言った。この意見はよく分からない。

「はあ、じゃあ右で。ファイナルアンサー」俺がしぶしぶ選ぶと、誠弘はちょっと考えるようなそぶりをしてから「ピンポン、ピンポーン。大正解!」セルフのエアブザーを、しつこく鳴らす。「正解者の累さんに、プレゼントを上げましょう!」誠弘の理屈は分からないが、正解したのなら酷い仕打ちは受けなさそうだ。

「プレゼント?」

 誠弘は「そー、プレゼント。豪華景品でーす」と、景品を上げる側とは思えないほど軽く言って、何かをポケットから取り出した。「はい、どぞー」その手には、女子力の高そうなピンドット柄が付いている、手のひらサイズの封筒。どうしても通知文には見えないそれは、誠弘の物とかではなさそうだ。

「何その封筒。……手紙?」

「手紙かどうかは分かんねーけど、きっと良い物!」豪華景品なのに、上げる側が中身を知らないとは滑稽だ。貰う側からしたら不安しかない。

「豪華景品ってより、元々累に渡すものだったんだけどな」

「へえ、そっか」やたらと誠弘のテンションが高いので、何か企んでいるのではないかと訝しんでしまう。

「オレは、累の為に配達員を引き受けたってわけ。オレからの手紙かと思った? 残念、違うんだよな」ふむ、配達係か。だったら誠弘がその中身を知らない事に関しても説明がつく。「ほらほら、受け取って。因みに、中身、何だと思う? オレはラブレターだと思うんだけど」

「こんなん下剋上しかないだろ」

 狙いにいって、中途半端に外すよりはいいだろうと、少しふざけた。

「なんでだよ、そして誰からだよ」「なんとなく。いつの間にか俺が恨みを買ったとか、有り得るじゃん」「買ったのか?」「買ってないし、売ってない。在庫がちょっと」「……まあ、とりあえず累にってさ。少なくとも下剋上ではないと思うけど」

 場の空気を白けさせたのが気恥ずかしいのと、ここまで渋っているのにグイグイ来る高テンションに、否定の意も込めて「俺に? 合ってる? 本当に俺?」これでもかと疑っていれば、半ば強引に手渡された豪華賞品。淡い水色と白色の、控えめで大人しそうなデザインは、どこか主張の弱いイメージを抱いた。

 紙にビリビリペンみたいな仕掛けはさすがに作れないよな、と見極めていれば「裏に差出人の名前書いてあるから」と誠弘に裏を見るように促され、恐る恐る裏返してみる。

「裏……?」

 裏は全面が白く、封止の役割として、満開の向日葵の可愛らしいシールがくっついていた。よく見ると、右下に、差出人の名前が書いてある。鉛筆で書かれたらしき、その文字を見た。

 裏返したそれの隅には、小さく“春川愛美”との丸っこい文字が書かれていた。

 自分を落ち着かせるために、細く短い息を吸い、飲み込んだ。誠弘の目を見る。

「これって、おま、どうしたんだよ、これ」

 誠弘は軽く笑って、組んだ腕の陰で小さくピース。

「良い反応だな、期待通り。それと、視線が漂いすぎ」視線を注意されて、初めて意識するが、あちこちに視界がズレる。確かに俺、動揺してる。

「ふはは、本人から直接貰った。あ。そうそう、ドッキリじゃないからな」

 粘着の無い、爽やかな態度はここで使うんじゃない。お前だけ飄々としてるんじゃねーよ。

 しきりに封筒の裏表を見たり裏返したりしていれば「落ち着け、その封筒も春川愛美も、お前から逃げたりなんかしないから」と諭された。

 息をゆっくり吐き出しながら「春川愛美って、あの春川さん?」確信を持って再確認する。吸って、吐いて、大きく吸う。

「うん、累が一昨日、階段で運命的な出会いをした、あの愛美めぐみちゃん」

「お前、昨日は知らないって言ってたくせに」棘っぽい言い方になってしまうが、許せ。「あれは嘘だったのか?」

「嘘じゃないって」誠弘は、疑われちゃたまらないと、首を左右に振った。

「オレだって、今朝初めて会ったの。教室出ようとした時に『石田累君は居ますか?』って呼び止められて」その出来事を思い出す様に、誠弘は視線を宙に漂わせる。「結構可愛い子なんだな。累の昨日のエピソードからだと、ただの不思議ちゃんだったから」

 うん、不思議ちゃん。でも、お前が言えるか、それ。

「うーわ、マジか。いつも通りの時間に来ておけば良かった」

 俺が落胆していると、

「ふーん、随分と残念そうだな」誠弘がニヤニヤと眺めてくる。

「まあ、な。遅く来た理由が理由だから……本末転倒になったけど」

 苦い顔でそう言うと、「よし! 累がどうして遅刻したのか、当ててやろう」

 誠弘は自慢げに、やたら良い音の指パッチンをした。

「え、遅刻はしてない」

「そうじゃなくて、寝坊した理由にしておこうか」

「話を聞け?」

「遅刻してないから寝坊って言って良いのかも謎だけど」と、独り言なのか俺に向けた言葉なのかも分からない、謎の前置きの後、「卒アルとか、東妥中学校のHP漁ってたか、自由研究の賞状見直してたとか」自信たっぷりに言って来たので、おもわず全否定したくなる。

「うっわ。図星」だが、残念ながらその通りで。自由研究は見ていないけど、ほとんどは当たっていて気味が悪い。

 春川さんからの封筒は、すっかり開封するタイミングを失って、俺の机の上に放られている。

「オレの観察眼が怖いね。累は提案した事はすぐに実行しそうだと思ったんだよ」

 そう言われ、電車内での別れ際を思い出す。「お前が提案したんだろう?」

 確かに、昨夜は卒アルを全部チェックして、東妥中学校のHPにアクセスしてみた。中学の卒業アルバムに春川さんらしき人物は居なかったけれど、東北にある東妥中学校はちゃんと実在した。

「提案したのは確かにオレだけど。ぶっちゃけ、そこまで執着するとは思ってなかった」

 ただ、東妥中学校は東妥高等学校と中高一貫だった。エスカレーター式。

「どうせお前も調べてるくせに」

「ふは、ご名答。よく分かったな」言いながら、誠弘は愉快そうに頬を掻く。

 そこで、彼女へ生じた疑問が一つ。

「はい、じゃあ春川さんへの疑問点をどうぞ」

 きっとこいつも疑問に感じたのだろう。

「あんなに偏差値の高い中学から、わざわざうちの高校に来た」

「そーなんだよなあ」

 そう。東妥高校の方がよっぽど偏差値が高いし、就職面や進学面を考えてもこちらに来るのは良策ではない。

 背もたれに寄りかかると、ギイ、と鈍い音がした。

「家庭的な問題か? 親の転勤とか」誠弘が軽いトーンで尋ねてくる。

 今朝春川さんと会ったのなら、本人に聞いてみればよかったのに、とも思ったが、誠弘と春川さんは初対面だった事を思い直す。

 流石のこいつでも、初対面の人にいきなり「昨日、君の事を調べたんだけど、どうしてこの学校に来たの?」なんて聞けるとは思えな……割と聞けそうだな、こいつ。まあ、実際には聞いていないのだろう。

 誠弘の考察もあながち間違っていなさそうで、“家庭の事情”は転校の代名詞とも言える。実際、それが理由での長距離の引っ越しは多いだろう。

「だけど、高校生にもなって東北から関東? 上京してくる人は多いけど、エスカレーター式の中学に入ったのに、それをわざわざ蹴って、こんな中途半端なところに?」シュワシュワと疑問が浮かんできては、濁った空気に溶けて交わる。捉えたくても、手に入れたくても、どうにも掴めなくてもどかしい。

「まあ、どうでも良いじゃん」誠弘の朗らかな声。「他人のプライベートに、むやみやたらに首を突っ込まない方が良いぞー」やんわり注意されて、我に返る。

「相手の身の上まで追うとキリが無いか。わざわざ追求する意味も無いけど、気になるなあ」プライバシーの侵害? いやいや、ただの考察ですって。

「オレも愛美ちゃんに色々と聞きたいの、我慢したんだからな」

「ああ、今朝?」

「そーそー。春川愛美って制服の名前見た瞬間、笑いそうになって。そんなチャンス、二度と無さそうだし」

「気になったんだったら聞けばよかったのに」

「え? 連絡先はゲットしたけど」

「うっわ、手が早い」俺は思わず眉をひそめる。

「人聞きが悪いなー。フットワークが軽いって言えよ、累と違って」

「うっせ。……でも、どうして誠弘が見た事無かったんだろ」

 俺がボソッとそう言うと、誠弘が意気揚々としだした。「それなら理由はただ一つ!」おや、これは悪ふざけのスイッチが入ったに違いない。「愛美ちゃんはオレに会いに来たに違いない」

「却下」

 誠弘の思考回路を、一度でいいから観察してみたい。素の頭の回転はターボエンジン並みなのに、猫を被っているせいで、傍から見たら幼児用の回転木馬だ。

 唇をすぼませて「ちぇ。可能性としてはゼロじゃないだろー」と不満そうに呟く姿に、呆れる。冗談でも女子に聞かれて引かれてしまえ。

 視線を横に移動させると、机上に放置されていた封筒が目に入った。顔など無いそれと目が合ったような気がして、一昨日会った、あの大きな目に見つめられている気がして。無意識に体に力が入る。「封筒、見てみるか」手に取ってみてもやっぱり、それは何の変哲もないただの封筒で、厚さもほぼ無いし、重みも無い。会話がひと段落付いたし、中身を見るにはちょうど良いタイミングだ。

 俺が封を開けて中を見てみようとすると「あー、ちょいまち、累」と止められた。まさか止められるとは思ってもみなかったので、封筒に手をかけている状態で停止する。「え、なにが」

「お知らせは、もう一つあるんだよな。それを開ける前に聞いてほしい」

 俺の、封筒に手をかけるまでの一連の動作を見届けたうえで、俺の「見てみるか」の発言もスルーした上でのこの一言。

「俺の予想だと、そのもう一つのお知らせ、良い事じゃあ無いだろ」誠弘は、テンション高くても、落ち着いていても、何を言い出すか先が読めなくて怖い。

「さあ? 累がどう受け取るかだろ」

「うーわ、嫌だ、絶対に聞きたくない」

 覚悟を決めたってのに。いや、それは言いすぎだとしても、開封する雰囲気は出来上がっていたのに。

「これは、本当の事。別に信じなくても良いし、気にしなくても良い」

 俺の抵抗なぞ気にせずに、どんどん話を進めていく誠弘。いつものことながら前置きが大げさで、必要以上に不安になる。

「はいはい、分かったよ、聞くよ」

「3組さ、掃除の当番決め、クジ引きじゃなくて、じゃんけんだったんだって」

「……ん? それが?」

「累、愛美ちゃんから『うちのクラスはクジ引きだった』って言われたんだろ?」

「うん」

「でも、実際はじゃんけんだったんだって。昨日、3組の霧咲から聞いたから、間違いない」

「え、じゃあ」じゃあ、「それと」誠弘は続ける。「これも3組の奴から聞き入れたんだけど、春川愛美なんて人、知らないって」あれは?

「はい。オレからの用事はこれでお終い! 累、後は頑張れ!」

「まてまて、おい、誠弘っ」スタスタと俺から離れて行こうとするのを必死で引き留める。

「何だよー、オレからは以上だって」頭が精神的にはち切れそうになる。

「同じクラスの奴が、春川さんを知らないって、何? あと、掃除、春川さんは俺に嘘をついてるって事? え、何?」

「流石の俺も、他人の意図までは知らないわ」誠弘は、お手上げというように肩を上げる「何にせよ、愛美ちゃんが累に嘘ついたのは、確実だなあ」

「え、は?」情報整理がまるで追い付いていないので、ちゃんと形を成す日本語が出てこない。

「あ、あとオレ調べでは」言い忘れた、と口を開く誠弘。「1学年の17人中、17人全員が愛美ちゃんを知らないと言いました。不思議だね。1学年のクラスは全部あたってみたよ、一応」

「情報の雨に見舞われてしまったので、どうか俺に傘をさしてください」

「嘆き苦しみ、存分に濡れて」

「冷酷。下衆かよ」

「へいへい、どうとでも。んで? その中に何て書いてあるか、見なくて良いのか?」小さくため息をついて、今度は好奇心の目をこちらに向けてきた。

 誠弘が指さしたのは、俺の手にある封筒で。こんな話を聞いた後だと、何も信じられなくなりそうで。

「今? このタイミングで!?」

「累、さっきまで封筒を開けようとしてたじゃん。止めて悪かったな。ごめん」

「ごめんじゃなくてさあ」弱々しい声が出てしまう。「開けるしかないから開けるけど、なんだかなあ」翻弄されまいと、疑いに疑っていたのに、簡単に背後を取られて、締め上げられてしまった。正直、悔しい。

 すっかりやられてしまったメンタルを、誠弘の鋭い視線から庇いつつ、否応無しに封を開ける。封筒に張り付いていた明るい向日葵が、役目を終えて、クルリと控えめに丸まった。

「いいの? 開封のカウントダウン、要らない?」

「欲しいなら勝手にどうぞ」

「んー、めんどうだなあ」

 おそるおそる中に入っていた紙を開く。カサっと音を立てて開いた便箋には、封筒とセットだと思われる便箋と、駅前の地図らしき手書きの用紙が入っていた。

「これは、手紙と地図、か?」

 まずは便箋を広げてみる。右下にヒマワリ畑の絵があって、左上に入道雲と飛行機雲が浮かんでる、綺麗な便箋だった。思いのほか、書かれている情報は少なくて、紙の中央に、二行ほど何かが書かれているだけだった。

「見せろ見せろ」

「待って、俺もまだ読んでない」


用紙の中央。青い罫線に挟まれた文字。

差出名と変わらぬ筆跡で、そこには


駅前にある某カフェの住所と、

緋傀儡ひかいらいを見たいのなら、ここに来て』


との走り書きがあった。


 “緋傀儡”

 見慣れた文字。

嫌になる程に、溺れる程に見た、この三文字。

 気味の悪いほどに真っ赤な花弁が、体の内側から這い出してきて、手に負えないほど、可憐に宙を踊り舞う。

 柔らかい新緑の葉が、目の前の現実には程遠い風になびく。古い図鑑のにおいがした気がした。PCの明るいモニター画面が目の前に出てきた気がした。

「え」思わず声を失ってしまう。

 バケツの水をひっくり返されたような、頭を殴られたような、

鋭い感覚が身に走る。ゆっくりと頭が回り始めて、グワングワンする。

「累、どうした?」

 いきなり黙り込んだ俺を心配して、誠弘が顔を覗き込んできた。

「嘘だろ」俺はそれだけ言って、また、言葉の出し方を忘れてしまった。重くなった頭をやっとの思いで支え、髪がクシャッと乱れる。

「なんか言えって、怖いんだけどさ」

「……、らい」声を絞り出す。まともに喋れない。手が、足が震えた。

「え、何て?」

「ひかいらい」声に出して、俺の中の何かが切れた。

「……? 緋傀儡ひかいらいって、あの?」

「緋傀儡、なんで」プツンと切れた。見事に切れた。栓が外れた。

 不安そうな顔した誠弘が、状況を把握しようと俺から便箋を取り上げる。

 俺は、「なあ、これ、お前の悪戯か?」高ぶる感情を抑え込み、詰まりそうな息に圧迫感を覚えた。

「違えよ。加賀とかに聞いたら確実だ、俺が愛美ちゃんからその封筒を貰ったって。それに、悪戯だったら、ネタバラシのタイミングを完全に逃してるわ。こんなん」誠弘は、俺にそう言い聞かせながら、便箋にさっと目を通し、妙に納得した顔になった。でも俺の取り乱した顔を見ると、眉を寄せる。俺は、封筒が無くなった右手で机の端をつかんで、無意識に力を入れた。指が少し赤くなった。

「誠弘、俺は今、夢を見ているのか?」目をつむる。教室の窓からの光が、しばらくは目の裏に残っていたけど、それも消えて、真っ暗になった。

「夢って、何言ってんだよ」

「俺はちゃんと起きてるか、俺は、俺はちゃんと、地に足がついてるか?」

 目を開けて、これは現実だと確認する。興奮が、水のように溢れ出る。頭に上った熱が、なかなか冷めてくれない。

「累、大丈夫か?」

「緋傀儡だよ、緋傀儡! 何で? どうして、春川さんがあの花を?」

 言いたい事が、疑問が、歓喜が、好奇心が。感情が抑えきれなくなった。零れ出てくる感情に、自ら戸惑ってしまう。

「落ち着けって。満面の笑みでそんなこと言われても困る」

「だって、だって、だって、緋傀儡っ!」

「落ち着け、何でお前がそんなにテンションが上がってるのかは、なんとなく分かった。だから落ち着け」

「日本にあったのか、あれは、でも気候条件はそろって、だから」

 震えた手で頬に触れ、自分が存在しているか確かめる。

「はい深呼吸。吸って、吐いて」

 無理矢理にでも落ち着かせようと、俺の背中を叩く誠弘。グルグルとした思考が、緩やから斜面を登るように、穏やかになっていくのには、時間が掛かる。2、3回、空気を吐き出したところで、ようやくまともに話せるようになった。

「……ありがとう、落ち着いた」

 頭の中はグチャグチャだ。たった1枚の手紙で、たった1つの単語でこうも思考回路が混沌こんとんとするとは。

 誠弘が「緋傀儡って、あの花だろ? お前が調べてたやつ」俺の顔を不安そうに窺ってくる。だいぶ心配をかけてしまったようだ。

「ああ。あの花だ」最後にもう一回だけ、大きく息を吐いた「ごめん、もう大丈夫だから」周りが見え始めてきたので、簡潔に謝罪。自分を見失っていた事に恥ずかしさを覚える。

「なら良いんだけどさ。累がここまで取り乱すのって、久しぶりに見た気がする」心から安堵しているのだと分かる、柔らかい顔。そんな、普段なら絶対に見せないような誠弘の表情に、反省の意にかられつつも、俺は疑問を抱く。

「久しぶり?」取り乱す、なんて早々何度も無いはずだけど。

「前も、ヒカイライでだったよな」こいつが言うと、聞きなれた“緋傀儡”も何かの呪文のように聞こえてくる。「ほら、図鑑を指さして、オレに向かって『こんな綺麗な花、初めて見た』って」誠弘が本のページをめくるジェスチャーをして、やっと昔の時の話だとピンときた。

「あれか。懐かしいな、ってか、何年前だよそれ。よく覚えてるな」

「オレ、記憶力も何でも色々と良いから」

「何年前ぐらいだっけ、あー、ほとんど覚えてない」

 頭を捻って記憶を絞り出す。細かいところも覚えていないし、なんなら思い出補正で、脚色さえありそうだけど、たしか、こんな話だった気がする。


 あれは、小学校1年生の時。俺と誠弘は1組と2組にクラスが分かれていた。月に1回だけ行われた、2クラス合同での読書タイム。俺が緋傀儡に初めて出会ったのはその時だった。

 “読書タイム”と言う名の自由時間にも近かったが、俺は、若くて綺麗な司書の先生に褒められる事が目的で、いつも真面目に本を読んでいた。

 読んでいたのは、だいたい、図鑑。

 絵本だと時間内に読み終える事が出来ず、続きが気になってしまうし、だからと言って図書室に通い続ける気も無かったため、俺には図鑑が最適だったのだ。

 あの日、俺が手に取ったのは子供向けに作られた、やたら文字の大きい植物図鑑。10年近く前の俺に、本を最初のページから読む、という律儀さは無いので、ペラペラとめくって、気になったものに目を通す、そうしていたと思う。

 そこで俺が見つけたのが、

 緋傀儡ひかいらい

 図鑑の中でも、一際ひときわ目を引くようなカラー写真と、大見出し。

『世界に みとめられた 花 緋傀儡ひかいらい

 そんなサブタイトルが付いていた。ここだけは、今でも鮮明に思い出せる。

 「赤くてきれいな花」俺が、緋傀儡に抱いた第一印象は、それだった。きっと図鑑なのだから、“八重咲き”だとか、“裸子植物”だとか、詳しい緋傀儡の特徴について書かれてあっただろうが、俺はその姿に惚れたんだろうな。そんな細々とした部分は全くと言っていいほど覚えていない。

 その時はそれで終わりだった。「綺麗な花がある」と、読書なんてしないで床に寝ころんでいた、誠弘に図鑑のページを見せに行ったぐらいで、さほど強い執念らしきものは無かった。まあ、誠弘はその時の俺が印象に残ったようだが。


 本題はここからだ。正確に言えば、俺が緋傀儡にハマったのはその1年後。両親が営んでいる花屋にテレビの取材が来た時がきっかけだと言える。

 機材を背負った4,5人ほどの大人が、自宅に押し入ってきた時には心底驚いた。父曰く、俺にも事前に、テレビの取材が来ることは伝えていたそうだが、嘘か誠か、全く覚えていない。

 そんな経験初めてだったし、緊張したけれど、俺は恥ずかしさよりも好奇心の方が勝って、父の3歩後ろを歩き、取材陣からは5歩距離を置き、そんな微妙な位置をうろちょろしていた。

 しばらくの取材が終わり、俺が小さな安堵と少しの名残惜しさで包まれていた時、ついでだと言って、キビキビとした男性レポーターにマイクを向けられた。カメラも俺に向けられていたから、きっと録画もされていたんだと思う。

「お父さんはお花を売る仕事をしているけど、君はどんな花が好き?」

なんて、花屋の息子に聞くには在り来たりすぎることを聞かれ、俺は回答に少し迷った。

 薔薇も、朝顔も、向日葵も水仙も、名前や姿は知っていたし、その魅力も理解してはいたが、身近にありすぎて、近くにいすぎて、“好き”と公言するには少し躊躇ためらわれた。

 子供ながらも、いっちょ前に悩んでいると、中々答えない俺にレポーターも困ったのだろう。

「じゃあ、一番きれいだと思う花は?」子供が答えやすいよう、別の言い方を変えてきた。

 そこで俺が思い浮かんだのが、緋傀儡。

 実に安直で、幼い。でも、今までに一番きれいだと思った花がそれだったのだから、仕方が無い。1年前に知ったあの姿を、俺はまだ覚えていたのだ。

「ひかいらいがきれいだと思う。前に図かんで見たから」

 良い回答が見つかったと、俺が自信満々に告げると、そのレポーターは、

「ヒカイライって、なに?」

と、鸚鵡返しに聞いた。目が笑っていなかった。

「えっ、と」

「ボクくんの好きな食べ物?」

 煽るような口調に、見下すような色の無い声。

 馬鹿にしているのは明らかだったし、先ほど見せてくれたはずの優しさの欠片は、どこを探しても見つからなかった。その時の俺はまだ少しだけ純粋で、そのレポーターが納得する答えを、一生懸命に考えた。

「ひかいらいって言うのは、花の、名前で」

 慌てて、どもりながら説明をする俺を見たレポーターは、また一言。

「へえ、そうなの? お兄さん、聞いたことないなあ」マイクはもう俺には向けられておらず、そのレポーターと一緒に居たカメラマンは、困った顔をしていた。「何かの花と間違えちゃってるんじゃない。ヒカイライって、随分と変な名前だねえ」店の、一番人気の商品を指さして、

「ほら、そこにある薔薇とか綺麗だよ? 薔薇、好きでしょ。あー、知ってる? 薔薇って言う花があるんだけど。ボクくんにはまだ早かったかな」また、俺の目を、見透かすように。子供の言っている事なんて、単純で、自分には全て分かるんだとでも主張するように。

 知ってる。あの秋薔薇は、商品だから世話をさせてはもらえなかったけど、知ってる。

「ここには置いて無いけど、チューリップとかは? ほら、学校とかで育てたでしょ」

 チューリップの開花時期も知らないで、子供にマウントをとるようなこの人は、チューリップ・バブルで、一時期この花が高値で取引されていたことすら知らないんだろうな。「じゃあさ、朝顔は?」俺が絶句しているとも知らず、有名な花の名前を上げていくレポーター。これは俺が初めて、“信じる事を躊躇させる大人”が居るんだと、知った出来事でもある。

 俺は、「はい、しってます」次のレポーターへの返事を、緊張せずに言えた。でも俺は、そいつの光沢の無い目を、力なく見つめる事ができなかった。

 すると、いつの間にか俺のすぐ後ろに立って、その状況を知った父が、

「緋傀儡は、世間に知れ渡ってこそいませんが、歴とした花の名前ですよ、お兄さん。希少故に深く周知されてませんが、とても綺麗な花です。かなり専門的な話でしたので、分からないのも無理がありませんか、残念です」

 無知なレポーターにやんわりと。でもその笑顔を、威圧的にして言った。

 父は、振り向いた俺に、優しく微笑んだ。さり気なく肩に置かれた大きな手は頼もしくって、俺は、頑丈な盾を貰った勇者みたいだった。俺のちっぽけなプライドを、守ってくれた。

「へ、へえ。そうなんですか!」父に圧倒されたそいつは、逃げるように目をそらして、「石田さん、よくそんな事も知ってますね、流石は一流ですねえ」俺への謝罪も無しに、言った。

 俺は、それに対して「お兄さんも緋傀儡を調べてみて。とっても綺麗な花だから!」と言い放てるようなおおらかさと器量は持っていなかったし、「ほら、俺の言うとおりだったじゃないか」と自らをアピールする豪快さも譲り受けていなかったものだから、首を微かに横に振る事しかできなかった。

 その1週間後ぐらいだっただろうか。その番組の放送があったのは。

 予想通り、俺に質問してきた場面が、番組で使用される事は無かった。

 元をたどれば、30分番組の2、3分ぐらいの短いコーナーのための簡単な取材だったし、僅かながら現実を知ってしまった俺は、そんなもんだろうと冷たく思っていたが、一緒にその放送を見た父に「累の頭が良かったもんだから、あの記者たちはビビってたんだろ」と言われ、素直に嬉しかったし、照れ臭かった。

 そして「累は緋傀儡が好きなのか。中々良い目を持ってる。……あの花は、綺麗だよな。お父さんも好きな花だ。ただし、サザンカの次に」こうも言ってた。

 サザンカは、昔からずっと母が一番好きな花だ。

 父が好きな花の一番が母の好きなサザンカ、二番が俺の好きな緋傀儡、なんて偶然信じられる気がしないから、きっと本心じゃないんだろうと踏んでいたが、他の人に好きな花を聞かれた際には必ず

「一番好きな花はサザンカで、二番は、緋傀儡です」

と答えていたので、ひょっとしたら事実、そうなのかもしれない。

 父の好きな花を、俺はこの2つ以外に聞いたことが無い。

「お父さん、おれの好きな花、次からひかいらいって言うようにするよ。この花、大好きだ」

「良いな、それ。カッコいいぞ、累」

 この出来事を境にして、俺は緋傀儡の事をたくさん調べ、たくさん知った。

「たいていのモンはな、知れば、好きになれるぞ。知って、知って、たっくさん知って、いろんな物事を好きになれ。そして、色んな人を好きになれ。見方が変わるぞ。見えてなかった物が面白いぐらい、どんどん見えてくるからな」

 父の口癖だ。半年に二回は聞いてる。


 この一連の流れを、同級生や知人に話すと、大抵、「羨ましい」と言われる。「良いお父さんだね」と。

 そう褒められる度に、自分は恵まれているんだと痛感する。なんなら、褒められなくったって思う。でも、その恵まれた環境に居ても尚、文句しか言えない自分が嫌になる。

 俺は、何とも言えない気分に浸った。あれは、懐かしくて、ちょっとばかり汚くて、それでも大きな夢があって。目の前の誠弘をジッと見つめ、思う。

 こいつは、どんな気持ちで、俺に「羨ましい」と言ったのだろうか。どう思って俺の話を聞いたのだろうか。

「どしたんだよ。まじまじと俺の顔見てきたりなんかして」

 俺の視線に誠弘が気付く。「そういえば、累、卒業アルバムに“本物の緋傀儡を一度で良いから見てみたい”みたいな事を書いてたな」とか、「そう言えば、お前は自由研究も緋傀儡の事を調べたんだっけ?」と独り言みたく呟いているのを見ると、こいつはこいつで過去に思いをせていたようだ。

「何でもない。たまに現実って想像を凌駕りょうがしてくるよな」無意味な詮索せんさくは傷つけるだけだ。俺は、こいつが高校生になってから、一人暮らしを始めた理由を、はぐらかされ続けて未だに聞いていない。

 誠弘から語りだすまで、何も触れないでおく。こいつの方が、よっぽど自己管理が出来てて、周りが見えてて、心が強い。言い方を変えると、俺は誠弘がSOSを発信してくるまで、見て見ぬふりをする。

 俺がボーっとしていたため「大丈夫か? 本当に」また緋傀儡がらみで頭がおかしくなったのかと心配してくる誠弘。

「大丈夫。いたって平気だ」誠弘の目を見て、ニッと笑顔を作って見せる。きっと作り笑いだとバレているが、追求はされないだろう。

 そんな話の真っ最中、

「席に着け。もう鐘が鳴るぞ!」

 せっかちな担任の田多ただが教室に入ってきた。紺色のタオルを肩から首にかけ、しきりに額の汗をぬぐっている。

 まだチャイム鳴ってないのに。田多のせいで教室の気温が3度ぐらい上がってる気がする。せっかくの冷房の意味が帳消しだ。

「で、結局、行くのか? ここに」

 誠弘が田多の登場も気にせずに、目の前で便箋をひらりと持ち上げた。ふわっと冷たい風が来る。

「あー。あー? どうしようかな」

 自分の本能的な意思に従うのならば、行きたい。絶対に行きたい。

じゃあ、理性的に考えると?

 嘘かもしれない。何かのトラブルに巻き込まれてしまうかもしれない。

 よし、もう一度、本能的な自分に語り掛けてみよう。行くか?

 嘘だとしても行く価値がある。行きたい。可能性はゼロじゃない。行ってみたい。謎が多いぞ? よし、行こう。

「俺、行こうと思う」気が付くと声に出ていた。

「緋傀儡を出された時点で、春川さんが俺とが無関係だ、って可能性は低いし、もし騙されていたって、身を守る術はいくらでもあるから。……きっと」

 ほぼ自分に言い聞かせてるようなもんだ。多分、平気だ。根拠は無いけれど。「俺は、見た目以上に落ち着いてるから大丈夫」

「はーあ、分かった。行ってこい」ガシガシとツーブロックの頭を掻きながらうんざりしたような顔。俺が言い出したら聞かない性格なのをよく承知してる。流石は誠弘だ。

「おいそこ、席に着け! 木戸、お前だぞ」

 キーンと耳が痛くなるような大声。どっからそんな声が出るのか不思議でしょうがない。「ほら、石田も注意ぐらいしろ!」

「んじゃーな、累。また後で」気障に二本指を立てて去っていく誠弘。

 春川愛美、と書かれた封筒を見つめる。

 この人は、何者なのか。

 緋傀儡を、俺は見る事が出来るのだろうか。


 そんな出来事があったものだから、その日の俺は、いつもより浮足立っていた。現文の時間に当てられたが、プラマイゼロでなんならプラスだ。不確定な情報だというのに、こんなにも気分が逆上のぼせるのは、それだけ緋傀儡への気持ちが強い証拠だろう。


 学名はSacredセイクリッド。日本名は緋傀儡ひかいらい。一目見るだけでも困難なその花は、

ある地域では神と奉られ、またある地域では悪魔だと忌々(いまいま)しく燃やされた。

 その外見の美しさは人々を翻弄し、一昔前ひとむかしまえは、一株だけで数千万で取引されたが、今となっては値段さえも付けられない。日本政府、いや、全世界の人々にその価値を認識された、壮麗な花だ。


 はかない命は美しい。その優美さに慣れてしまわないから。


 薔薇に棘があるように、ミズゼリやアデニウムが猛毒を出すように。緋傀儡にも特殊な毒がある。

その毒が無ければ、あの花はきっと世界中で愛されていただろう。

 日本に存在するとは思いもしなかった。確かに気候条件はそろってる。禁止されるような法令も無い。でも、海外のどこかの研究所で厳重に管理されているモノだとばかり思っていた。

 繁殖も育成も難しいあの花が、日本にあるなんて。

 俺は調べに調べたから知っている。日本で育成されてるという情報は微塵も無かった。これは表だった事じゃ無い。

 こんな裏で回ってるような情報を、何故あの人が知っているのか。

疑問なんて溢れるほどにあった。だけど願望が勝った。好奇心が上回った。

 記載されている情報だけを頼りに、俺は春川愛美に会いに行く事にした。これが嘘でも本当でも、できるだけ内密にしておくべきだろう。変なリスクは負いたくない。

 あの花を、緋傀儡を一目でも見るためなら、俺は操り人形にでも迷える羊にでもなってやる。

 諦めたつもりだった幻想的な夢を、今更、嘲笑あざわらうつもりは無い。



第3話:カラー(紫)

〇紫色のカラーの花言葉

・夢見る美しさ


▽△▽△


[小学生のための植物図鑑しょくぶつずかん]


緋傀儡ひかいらいの学名……Sacredセイクリッド

《意味》宗教的な/神聖な/ささげられた/たっとばれる …など。


 2000ねん以上前。ネパールの山奥にて、とある冒険家によって発見されたのが始まり。

 この花は草本そうほんの中ではきわめてめずらしい裸子らし植物しょくぶつで、花粉を飛ばして生殖をする。風媒花ふうばいかであるのにも関わらず、思わず目を引くような綺麗きれいな外見をしている。


☆6月の上旬じょうじゅんから8月の下旬げじゅんにかけて、花粉を飛ばす。

 一説によれば、その見た目は虫や動物を引き付ける、花本来の美しさではなく、我々人間をあやつるためなのではないか。そんな神話のような考えから、日本名では皮肉ひにくを加えて “傀儡かいらい”の名がついた。

 ちなみに“傀儡かいらい”とは、あやつり人形の事である。

 実は大変貴重きちょう で、発見された数年後には、絶滅危惧種ぜつめつきぐしゅ認定にんていされたほど。

現在では、人工での安定した栽培さいばい方法が発案はつあんされた事により、その価値が下がりつつあるが、現在の科学によっても天然物は、ほぼない。



※実際には存在しません。創作です。


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