第1話:百日紅
最高気温は33℃、不快指数は84。待望の夏休みが刻々と近づいている7月の中旬。吸う空気も生暖かくて、頬に伝う汗が鬱陶しくて仕方がなかった。
カツンカツン、とかすかな自分の足音だけが聞こえてきて、静まり返った校舎に響き渡る。左手に捕まえている手摺りからは、固い角ばった無機的な感触が伝わり、時間が止まってしまったかのような孤独感に襲われるが、耳をすませば窓の外からの騒音に、どこか安心する。
「あっつ、こんなん、蒸されてもおかしくないだろ」
海水浴やら、山登りやらで全国の所帯持ちが家族サービスにあくせくしている、本来ならば休日だったはずの土曜日に俺は、校舎内の南階段を一人寂しく上っていた。
この高校では、学期に1度、各クラスから数名代表で空き教室の掃除をさせられる。築80年の、良く言えば歴史が溢れ、悪く言えば古臭い校舎の、普段は倉庫としてすら使われていない教室の、掃除。
もちろん、報酬も出ない楽しくもないこの行為に進んで手を挙げ、参加する物好きはそうそう居ない。少なくとも俺のクラスには居なかった。
掃除を任される、酷で不憫な代表を決める際、30分経っても進展しない話し合いを見かねたうちの担任は、複数人だからダメなんだと考えたのか
「1人でも良いから来い、俺も手伝うから。ほらほら、どうせお前らヒマだろ?」との発言を残した。“1人でも良いから”。
要に、1人に押し付ければその人の負担は大きいが、自分が選ばれる確率は40分の1に減る、0か100かのギャンブルを提案してきたのだ。後日、成人男性が1人寂しく掃除するより生徒を確実に駆り出す方が良いと、心の天秤にかけたのだろう。その酷さは“俺も手伝うから”が添えられた事により、かなり緩和されたのだから恐ろしい。
悪魔の賭け事は、その場のノリと生徒のポジティブさによって、満場一致で可決されてしまい、公平を期してじゃんけんに。
星座占い8位だった俺は、あろうことか負けに負け続け、この間のテストで運を使い果たしたと言う星座占い4位の岸野との、白熱した最終決戦の末、あっさり負けた。パーを出され、グーで負けた。
「向日葵の苗を移そうと思ってたから丁度良い。花に詳しい石田がいれば安心だな」と傍観していた担任に、追い打ちのように言われたのは一刻も早く忘れたい。フォローのつもりかよ。ちくしょう。
サボる決意はその3秒後についたのに「もし石田がサボったら、休み明けに全員で掃除するから覚悟しとけよ」と、釘を刺されてしまえばもう後が無い。
唯一、俺を同情してくれそうな誠弘を巻き添えにしようと誘ったが、二つ返事であっさり断わられ、結局は一人。
纏わり付くようなムワッとした暑さに耐えきれず、深いため息を吐いた。今朝のニュースで新人アナウンサーが解説していた、ヒートアイランド現象が頭の隅をよぎるが、名目上都市圏内であるにも関わらず裏手に雑木林が広がるこの高校に、そんなものは関係無さそうだ。
「暑い。開かない窓とか何の意味があるんだよ」
各階層の天井付近に設置してある、開かない小窓へ向けてぼやきが口を衝く。
ワイシャツの袖で顔の汗をぬぐったが、次から次へと溢れんばかりに汗が噴き出してきた。
照りつける太陽を横目に、階段を1段1段上っていく。どことなく足取りが重い。「暑いと言うから暑いんだ」とゴーレム効果を主張している人達、もとい俺の担任に声を大にして言いたい。暑いものは暑い。
それに加え、俺のクラスだけ教室の冷房が壊れており、こもった熱を取り除く方法が限られているのが陰鬱極まりない。「授業の邪魔になるといけないから業者は放課後に来る」とかいう担任の爆弾発言はクラスの全員から大ブーイングを受けていた。今日はもう直っているだろうが、人の少ない校舎でわざわざ冷房をつけるとは考え難い。
そんな、気分が乗らない日。運が悪いとウンザリしていた日。
あらゆる物体に、容赦なく太陽の光が突き刺さる土曜日の午後。
平日でも無いのに生真面目に締めたベルトと、青いペンシルストライプのネクタイに煩わしさを感じた初夏。
2階から3階に渡るための階段での出来事だった。
「ねえ! 科学オタク君って、君の事?」
剛速球の野球ボールさながらに飛んできた明るい声に思わず振り向くと、見知らぬ少女が踊り場で、笑顔でこちらを見上げていた。下方から聞こえてきた少女のセリフに、最初は理解が追い着かず、困惑したのを覚えている。
例の開かない窓からの逆光により、最初はその姿を捉え辛かったが、すぐに目が慣れた。突拍子の無い不可解なセリフの主は、どうやらあの少女のようだ。そう思ったのも、人気のない階段には俺と声をかけてきた少女の他、誰も居ないから。と、いう事は、だ。
“科学オタク君”って、俺に言ってんのか。
いきなり投げかけられた質問に戸惑いつつ、「えー、っと? それは俺の事を言ってる?」自分の顔を指さし、社交辞令として軽く笑って尋ねれば、ニコニコと大きく頷くその少女。
静まり返った空間が、そこだけ、ふわりと色付いた気がした。
そんな名前で人から呼ばれた事なんてこれが初めてだし、科学は好きな方だが、見ず知らずの人にオタクだと言われる程に熱中しているわけじゃない。
少女は踊り場に、俺はそこから数段上で佇立する。
「うん、君の事。そうだよね?」
後ろで手を組んで、ゆらゆら前後に揺れる彼女。そんな陽気な雰囲気は、この夏の暑苦しさにはひどく不釣り合いで、涼しげでさえある。
「多分、違うと思う。科学って、専攻したわけでも無いし。俺はそこまで」
冷たい風を想像し、現実との差に気付いて落胆したが、とりあえず否定。
「えー、ホントに? それっぽいけどなあ」
その少女はこれまた明るい声で質問してきた。ハキハキとした喋り方は見ていて気持ちが良いが、何だ。『ホントに?』って。
断言できないから言葉を濁したのに、正確性を求めないでくれ。何が目的だよ、怖いわ。んでもって誰だよ。
「ああ、きっと人違い。別の人だと思うよ?」内心そんな事を思いつつ、さらりと濁した言葉を重ねる。人違いであれば万事解決のはず。
俺の否定の即答に、そんなはずはないと顔をしかめる少女。
「じゃあさ、君の名前は?」しかめた顔のまま、再び質問してきた。
まさか。俺の名前も知らないのに話しかけてきたのか。
科学オタク君、とか初対面の人にかける言葉じゃない気がするんだが。
日が陰ったらしく、光の射していた階段が心持ち暗くなる。目がチカチカして、瞬きを数回。少しの間、目を慣れさせた。
すっかりと見えるようになった目を動かすと、彼女と丁度、目が合う。
「制服にも書いてあるけど、俺は科学オタク君じゃなくて、石田累。別に、そんなんじゃ無いよ」
常識を気にしてない口ぶりに、耳新しさを感じつつ、嘘を吐いても仕方がないので正直に名乗る。
すると少女は、間髪入れずに「じゃあ、科学オタク君であってるじゃん」と言ってきた。自信満々で、今度はこちらに否定の意を示させないような威圧感が見て取れる。あー、どうやら面倒臭い人に絡まれてしまったようだ。
「合ってないから。逆にそれは誰だよ。めっちゃ気になるんだけど」
「あってるってば、石田累君。いや、科学オタク君。とぼけても無駄だよ?」
わが校の制服である、赤いギンガムチェックのスカートはクリーム色の床によく映える。彼女が少し動く度に、ヒラヒラとそのスカートがひらめく様子は真っ赤なリボンを連想させ、淡い光が魅惑的にその場景を映し出すのは、可憐な中国系の踊り子を想起させた。
「人に名前を聞く前に、名乗ったらどう? 春川さん」やれやれ長くなりそうだなと、脱力しながら金属製の手摺りに右手を乗せる。自然と手摺りに寄りかかる姿勢になった。
「あれ。私の名前知ってるんだ」少女こと、春川さんは首をかしげてキョトンとした顔。「私、君に名前言ったっけ?」
俺はその問いに、制服の襟をつまんで答える。
「制服に刺繍あるし。ほら、襟」
それを見て「ああ。そっか、そうだった」と小さく呟いて「じゃあ、下の名前は読める?」悪戯っぽく笑う彼女。白い歯が唇の隙間から覗く。
真っ白なブラウスの襟にある青い刺繍には
“春川 愛美”
「マナミ?」
わざわざ聞いてくるぐらいだから、そのまま読むのでは無いであろう事を察しつつも馬鹿正直に答える。
「ざんねーん。めぐみでした」
ほらなあ。やっぱり。
「へへ、よく間違えられるんだよね-」
クシャっと笑う姿や言動からは、どこか幼さを感じた。ネクタイピンや刺繍の色から同級生だと分かるが、何組かまでは分からない。年上、では無いだろう。
「やっぱり知らない名前だよ」
焦げ茶色の大きな目に、肩に付くぐらいの黒い髪。校則をしっかりと守った膝丈のスカート。こんな奴、居たっけ。
記憶をたどるが、見事に思い出せなかった。おそらく俺と春川さんは初対面だろう。まだ高校生になってから3ヶ月しか経ってないし、1学年12クラスあるそこそこの大規模校だと、知らない人の一人や二人は居ても何らおかしくない。
「春川さんと俺、どっかで会った事ある? もしそうなら思い出せなくて申し訳ないんだけど」一応、棘っぽくならない様、さり気なく聞いてみる。第一声があれだったためにその可能性はゼロに近いが、図々しい態度に確認してみたくなった。
「んー。少なくとも私は結構前から知ってたよ? 直接会ったのはこれが初めてだけど」返ってきたのは、肯定とも否定ともとれない曖昧な言葉。
“少なくとも私は”って事は、俺が春川さんを認知していないという事実が前提条件なのか? “結構前”って、いつの事だよ。人によってふり幅が全然違うんだが。言葉の端々に広がっているパズルのピースを拾ってみるも、完成形にはほど遠い。どこか裏があるように見えるその言い草に、疑いの目さえ向けたが、どうも嘘を吐いているようには見えないんだな、これが。
「結構前って、いつ?」
「んーと。だいたい半年前には」
顎に手を当て、眠っている記憶を呼び起こすかのようだ。
「半年?」
「うん。半年だね。そうだそうだ、大体だけど」
自分でもその答えに納得したみたいで、うんうんと頷いている。
しかし、俺は別段有名な訳でもないし、目立つ事なんて滅多にしない。相手から一方的に知られていた、なんて経験。これが初めてだ。
こういう時、普通なら有名人になったようで優越感に浸るのかもしれないけれど、情報の出所が不明な上、そういうのに慣れていないと少し気味が悪い。ストーカーをされている、なんて考える自意識過剰にはなりたくなかったが、不覚にも一瞬だけなってしまった。そんな思考を吹き飛ばし、俺も春川さんの素性を知ろうと質問しかけた所で、ふと、我に返る。
3分遅れている壁掛け時計に目を運んだ。時刻は、14:08。
担任が指定してきた時間は、14時。
「わ、もう14時過ぎてるじゃん」思わず声に出た。
改めて暑さを意識して、頭が一気に熱くなった感覚にとらわれる。
「ええ、ゴメン! 何か用事とかあった?」
春川さんは、俺の声に即時慌てて、やけに低姿勢になった。
いや、あの担任を待たせる分には、一向にかまわない。なんなら半日ほど待たせてやりたいぐらいだ。それに、掃除は“用事”と言えるほど重要ではないと感じるし、問題無い。
「いや、別に……別に?」
でも、明らかに時間を無駄にされた感は否めない。本題を言え。本題を。呼び止めたのには何か理由があるんだろう。数段下で両手を合わせて謝罪してる春川さんの姿を見ると、変な人ではありそうだが悪い人では無さそうだ。
まあ、良いか。どうせ怒られるのだから、話に付き合ってやろう。色々と気になる点が多すぎる。
「んや、用事は無いから別に大丈夫」
その答えを聞き、顔を晴れさせた彼女は、俺の立っている段まで軽快に上ってきた。カツカツと固い足音が波紋のように広がって、俺の横で止まった。横幅の広い階段なので窮屈さは感じないが、急に近づいた距離に身構えてしまう。
すぐ横に居る春川さんの方を向く。少し下を向いただけで目線が合い、女子にしては意外と背が高い事が分かる。
「本当? 大丈夫?」春川さんは正確性を求めたがる癖でもあるのか、やけに再確認される。さっき会ったばかりなのに、本当かと聞かれたのは2回目だ。
「うん。学級日直で来ただけだから。ほら、空き教室の掃除。俺一人しかいないし、誰かに迷惑かけるわけでも無いからさ」わざとおどけて言えば、
軽く笑って「あー。確か2組、じゃんけんで掃除当番決めたんだっけ? うちのクラスはクジ引きだったし、皆来てなさそうだなあ。まあ、私は選ばれてないから、掃除はしないんだけどね」春川さんは愉快気に言葉をつないだ。
俺が2組って事は、知ってるのか。……何故? クラスを知っているのなら、普通に、平日に聞きにくれば良いことを。
「掃除係に選ばれてないんなら、春川さんはどうして校舎に居るの?」
それに、無断で生徒が校舎へ立ち入るのは、原則禁止だったはず。図書室は別棟にあるので、図書貸し出しでもない。
「ふふ、秘密。ちょっとやりたい事があってね」
春川さんは、結んだ口元に人差し指を当てる。実に楽しそうな表情だ。
「言いたくないなら、言わなくたって良いけど。人それぞれ事情はあるものだし」
秘密と言っても、あらかた教師に頼まれた雑用だとか、忘れ物を取りに来たとか、それ系統だと仮定し、あえて追及もしない。
俺の淡白な態度を不服に思ったのか、春川さんはつまらなさそうな顔。
「うわあ、クールだなあ。もっと聞いてきても良いんだよ?」
「遠慮しておく。因みに、それは格好いいって意味でのクール?」
「冷たいって意味でのクール」
「オーケー、承知した」
冷たいだと物理的にだから、冷淡ではないのかと、ひそかに思う。
「んで、春川さんは俺に何か用? 科学オタクだなんて、誰にも言われた覚えが無いんだけど」
収拾の付きそうにない会話に、俺はとうとう痺れを切らす。彼女が中々話の趣旨を言おうとしないので、こちらから話題を促してみた。
「そうだった! 石田君、理科得意でしょ?」
春川さんは、こちらに指を指し、声を弾ませた。
“科学オタク君”から“石田君”に呼び方が変わったのは、俺を引き留めた事への罪悪感からだろうか。いや、満面の笑みだから多分違う。
「得意っていうか、まあ、好きな方だよ」鼻につく言い方にならないよう、気を付ける。
こういう時「はい得意です!」なんて言える人が、ある意味羨ましい。自信に溢れてるという意味でも、気楽そうに見えるという意味でも。
「ふうん、そっかそっか、謙虚だなあ。ジャパニーズスタイルだ」
感心するような言い方は、どうやら「はい得意です!」と言えるタイプの人間のようだ。
「ジャパニーズスタイルは良いとして、春川さんは、どうしてそんなこと聞くの?」質問より確認に近かった問いかけに、俺が疑問を抱いたのは言うまでもない。
春川さんは「んー、特に意味は無いんだけど」言い淀み、視線を宙に漂わせた。
「石田君ってさ」俺の顔色を窺うようにして「中3の時に理科で賞を貰ってるよね」
さも当たり前の事を言うかのように、やんわりと言われた。あまりにも自然な言い方に、不覚にも相槌を打って受け入れそうになる。
「うん?」
どうして春川さんが、その事知ってるんだ?
「え、何で知ってんの」意図せず気の抜けた声が出てしまう。
「えーと? んー、今は秘密。で良い?」はにかんだ、いじらしい顔。
「今は、って?」ごめん、春川さん。濁らされた言葉は追求したくなる。さっきのとこれとはわけが違う。
「中3の冬休みの自由研究でさ、石田君が、おっきな賞状もらってると思ったんだけどな。違う?」
そして俺の質問には答えてくれない。1+1=2です、と自慢げに答える小学生のような、真っ直ぐな輝きと、それと衝突する艶やかさに、頭を絞らされる。
確かに賞状はもらったが、そんな周知されるような出来事じゃない。
「貰った、けどさ、マジで何で知ってるの?」
「やっぱり! 私の目は正しかったね」
もう一度、言う。俺は彼女と初対面で、俺は彼女の事を知らない。春川さんが中学の時の同級生なら一度は見たことがあるだろうし、名前ぐらい聞いたことがあってもおかしくないはず。小さな疑問と大きな困惑が水のごとく湧き出てきた。春川さんみたいな会話のペースが乱される系の特徴的な性格なら、記憶の片隅にでも残っているだろうな、絶対に。心の隅に、軽い不安を覚える。
「春川さん、出身はどこの中学校?」初対面だと言われても、確認したくなってしまう。同中なら、まだ有り得るから。
「えー。どしたの? 急に。出身は東妥中学校だけど」
何がおかしいんだと言わんばかりの態度に余計、怖くなる。
「どこ? それ」聞いた事もない中学だ。
「県外だな-。東北の方」
即答で、からかっている口調でも無い。嘘だとしても、こんな簡単にボロが出そうな大胆な嘘は、普通吐かない。背筋がゾクッとする。威圧感を感じ、数歩後ろに下がりたい気持ちをぐっと我慢する。
「じゃあどうして」俺は動揺を隠し切れているだろうか。
「どうしてって」これは、隠せていなさそうだ。春川さんは口元に不敵な弧を描く。「さあ。どうしてだと思う?」ああ、悪い顔。
用事があると言っておいて、さっさと逃げておけば良かったと今更ながらに後悔する。あー。どうしよう、願っても無い恐怖。
地面と足が張り付いた。動かそうにも動けない。
「質問を、質問で返さないでいただきたい」
「だって、石田君の質問が漠然としすぎているんだもん。答えるのが難しい」
漠然とした質問? だって、状況が分からなさすぎるんだから、仕方が無いじゃないか。何が分からないのか分かりません! 先生。
大きく、息を吐き出した。肺が空っぽになって、また、すぐに満たされる。
いや、待てよ。
よく考えてみたら、俺がこんなに怯える必要は無いんじゃないか、違う中学のヤツが俺の中学時代を知ってる、ただそれだけの事だ。
自分に必死に言い聞かせる。
ここらでちょいと賭に出てみよう。自分が劣位に立っているのは癪だし、ただ単に俺をからかっているだけかもしれない。
春川さんの目を、まっすぐに見る。人は基本、目を合わせて嘘を吐くことが出来ない。ただし、政治家は別だ。あれは、また色々と違う。春川さんの無邪気で得意然とした笑顔が恐ろしい。俺を試すような、騙そうとしてるような。
「んじゃ、何賞だった?」
さっきまで動揺してクセに、いきなり質問を投げかけてきた俺に、彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、パッと笑顔に戻った。
「確か、審査員特別賞と銀賞!」
「そのテーマは?」
「危険植物と人体に及ぼす影響」
「うわ。だったら、何の団体からの賞?」
「小中学生の自由研究促進・追求の会!」
完璧だ。一言一句違わない。なんなら団体の名前なんて俺だって覚えていないのに。思わず彼女の目を見返す。透き通った、綺麗な目。
本能的にこれ以上の追求は怖くなった。返す言葉が出てこない。
背中に固い感触が伝わり、肩が少し跳ねた。目だけ動かして後ろを見る。背中に当たった、光沢の薄れた灰色の手摺りが、牢屋の檻のように感じ、鳥篭の中に入れられた不自由な鳥の気分になる。無意識に後ずさりをしていたようだ。
東妥中学校とかいう東北の中学校なんて知らないし、そもそも俺は県内の出身だ。同じ中学だったのは誠弘だけで、あの頭の回転だけは速い女たらしが、他人の株を上げるような個人情報をベラベラと言って回るとは思えない。
どこだ、どこから情報が漏れた? ぐるぐる頭を働かせるがこれといった端緒は見つからない。
自分は何も知らないのに、相手は俺の事を知っている。何かの本で読んだが、ホモ・サピエンスは自分の無知に生理的嫌悪を抱くそうだ。何が言いたいかというと、軽いパニック状態に陥りそうです助けて。
「なあ、春川さん。お前は誰だ、何がしたい?」
震えそうな声を必死に押さえて、的を外れた一言。それだけしか言えなかった。
今の俺には、それが精一杯だった。
──いつだったか、全校生徒の前で挨拶をすることになったのを覚えている。
担任から手渡されたA4サイズの原稿用紙には、無機質な活字の文字列があった。
まるで一人一区画を任された兵隊のように。心こそ無いが、子供が読みあげるには妥当な文章。人前に立つのが苦手な俺は、何度も断ったし、拒絶した。他の発表が得意そうな子に代言してもらうように提案もした。
だが、そんな抵抗も無駄だった。「みんな頑張ってるんだし、累くんも頑張って」女教師の一言は、正当であったが、機械的であった。
あぁ、良く居るんだよね、こんな子。面倒だな。
そんな言葉が言われなくても伝わって来た。目を合わせて会話をしているはずなのに、すぐ側に居るはずなのに、ひどく遠かった。俺がそれを感じ取らずとも、間接的に“累くんは頑張っていない”と言ってる事にも気付かずに。自分が正当であり、上司に言われたんだから仕方が無いじゃないか。とでも言うように。
今思えば、あの人は何も悪く無いのだが、いかんせん俺は幼かった。
ここで再び拒絶しようものなら大げさに落胆され、こちらが折れるまで頼み続けられるだろうと子供ながらに分かってしまった。
断り続けていた俺が弱々しい声で「はい」とだけ返事した事に、あの教師は疑問を抱いただろうか。皆の前で挨拶した時の記憶は、無い。後でその女教師に「よく頑張ったね」と言われたときは、鬱積を覚えた。
私の言った通りにして、良かったわね。累くん。言われてもない声が聞こえた。
その時も声が震えて「ありがとうございます」とだけ言ったんだっけか。俺は、あの頃から変わってなんかいない。
自分の知らない何かに遭遇すると、周りが見えなくなってしまう。
彼女は、俺の「誰だ」とかいう素っ頓狂なセリフに、片方の眉を力なく上げると、「1年3組の春川愛美。それだけだよ」
呟くように、言った。
俺は自分の心の中を覗かれた感覚に陥った。彼女の声が耳の中で幾度か反響する。カツンと彼女の言葉が管に引っかかり、そのまま落ちた。ドロリと何かが溶ける。なあ。目的は、何だ? まるで真意がつかめない。春川愛美と目が交差する。
悲しそうだった。落胆したような、期待を裏切られたような失望した顔がそこにあった。真っ黒な渦が彼女を飲み込み、そのまま消える。思わず目を見開き凝視すると、彼女は再び元の笑顔に戻っていた。柔らかく、優しい笑顔。
……? この笑顔は、作り笑いなのか。それとも、彼女はずっと笑顔で、さっきの失望した顔は俺の幻覚だったのか。
「どうかしたの? 石田君」
春川さんは俺の返事を待っていた。俺は不可解な、恐怖とも猜疑心とも言えない何かに襲われ膠着していた。
そのため階段で2人の男女が黙り込む、という端から見たら修羅場か告白現場のような空間が広がっている。ある意味では張り詰めた空気だ。そう思っているのは俺だけかもしれないが。
窓の外からはエゾゼミの微かな鳴き声。自身の腕から汗が流れ落ち、床に溶けた。薄手のシャツが腕に張り付く。どう感じるべきなのか、何と言うべきなのか分からなかった。正解は何だ? そもそも、この場合に善し悪しなんて存在するのか?
春川さんの表情はさっきから依然として変わらない。安心さえ覚えるような、ふわりとした笑顔。
過ぎていく時間がとても長く感じたが、立ちっぱなしなのに疲れない足は、過ぎていく時間が実際には短い事を示唆していた。体感では30分だが、現実ではせいぜい3分ぐらいしか経っていないだろう。
格子の隙間から睫毛の長い大きな目がこちらを見つめてくる。翼の奪われた鳥は、逃げ出す機会を見出す事も不可能だ。
2人の沈黙を破るように、校内のスピーカーからの放送が響いた。
【石田累、石田累、校内に居るのであれば、至急、1年2組の教室前に来るように。15分の遅刻だぞ】 間抜けな、聞き慣れた低い声。担任だ。3分遅れた壁掛け時計は、14:12を示していた。
俺の頭はまだフワフワしていて、そのアナウンスに、ろくに反応も出来ていなかった。
でも、「ああ、放送だ」彼女は小さく呟くと「じゃあ、またね!石田君!」明るい、抑揚のある声を弾けさせた。
その声のおかげで、一気に現実に引き戻され、浮いていた意識がハッとする。目をしばたたかせると、視界の端に踵を返して軽やかに階段を降りていく、彼女の後ろ姿を捉えた。
「え、待って!」反射的にそう声をかけたが、続けるべきセリフなんて思いつかないし、どんな顔をしたら良いのかも分からない。そんな考えが見抜かれたのか否か、春川さんは一度もこちらを振り返らなかった。
結局、俺はどうして呼び止められたんだ?
遠ざかっていく後ろ姿に、やはり見覚えは無かった。
彼女は最後、どんな顔をしていたっけ。
*
第1話:百日紅
〇百日紅の花言葉
・愛嬌
・雄弁
・不用意