第10話:緋傀儡(白)
照明がしつこい程に当てられていた壇上から降り、光の届かない舞台裏へ引っ込んだ瞬間から、腹の底からの安堵感に襲われ、思わず胸をなでおろした。
これだけ明るいのだからカメラのフラッシュは要らないだろと、内心で毒づいてもマスコミ達から向けられる好奇心の目から逃れる事は許されず、仕事熱心な若い記者に、せっかく語を濁しているというのに核心を突くような質問を投げかけられ……。もう、満身創痍でクタクタだ。
今更、足の震えが回ってきた。大きく息を吐き出し、ピシャリと頬を叩く。しばらくは目が慣れない。瞬きを数回。よし、もう大丈夫。
薄暗く、緊張感の緩んだ空間にホッとする。今から発表する様子の男性が、しきりに資料を読み込んで、座っているパイプ椅子を小さく揺らしていた。俺はあれより緊張していたんだろうなと、少しばかり恥ずかしくなる。
グルっと周囲を見回して、さあ出口はどこだったかと、緊張で固まっていたことにより、曖昧極まりない記憶を呼び起こしていれば、横から「お疲れ様です、石田さん。素晴らしい発表でした」と大学の後輩に激励の言葉を掛けられて、危うく涙腺が緩みそうになる。
昔から人前に立つのが苦手で、頻繁に人に酔ってしまうような俺が、よくもあんな群衆の前で“緋傀儡の研究結果の発表”を出来たと思う。身内しか心からの称賛をくれないので、自分で自分を褒めてやりたい。
「スタッフの人が受賞候補者は発表が終わり次第、控え室へ行くようにと指示してました。えっと、道は覚えてますか?」
俺が出口を探していたのがバレたようで、心優しい後輩が丁寧に教えてくれる。控え室までの道は正直、覚えていない。だが、今はとりあえず1人になりたかったものだから「ありがとう。でも近藤は他の人の発表とか聞きたいでしょ、僕もちょっとその辺歩きたいから」と、こちらも丁寧に断っておく。
「はい、承知しました。それではお言葉に甘えて失礼します」
律儀に腰を折り、ニコニコと去っていく姿を見ると、本当にこの活動が楽しいんだろうな、と羨ましくなる。舞台袖からスクリーンはろくに見れないだろうし、声を聞くだけであれだけ楽しめるのは、色々な意味で尊敬する。
「お疲れさまでした」
スタッフの人とすれ違ったので取り合えずそう言っておいた。
下ろし立てのスーツの窮屈さと、この発表のためだけに買った高い靴の重厚感が、いまいち落ち着かない。
団体の発表グループを横目に、1人で明るい廊下に出てから左右確認。
ザワザワと雑音交じりの話し声が聞こえてくる右側の通路は、出口に続くらしかったので、少し迷って左に曲がる。ブランド品らしきスーツを身にまとった、大物っぽい人が正面から歩いてきて、会釈だけの挨拶を交わした。ああ俺、これは完全に研究者してる。
しばらくフラフラ歩いていると、広告ポスターが所狭しと貼られた掲示板を見つけ、徐々にここへ来たときの記憶がよみがえってきた。そうだ、この道は通ったことがあるから、控え室はもうすぐだろう。道は間違っていなかったようだ。
控え室、ドアの横のネームプレートを順番に、指さしで確認していく。
『芦村 透哉 様 他2名』『荒戸 衆 様 他3名』『違賢 大志 様』
……どうやらこれは五十音順のようで、石田累の表記はその次、4番目にあった。肩を回して、安心してから部屋に入る。
2人掛けのソファ2対と、低い机と小さな棚だけが置かれた殺風景な部屋に、俺達が持ってきた荷物が少し。カーテンの付いた窓は、開けるとすぐ下に道路が通っていて、目の前には高層ビルが立ち並ぶ。
ソファに腰かけ、スーツがシワになるだろうな、などと思いつつも力が抜けて、頭からもたれ掛かる。もしも人が来た時のために、ネクタイは外さないでおいた。ヘアスプレーでキッチリと固められた自身の髪の毛に触れる。ゴワゴワしていて、違和感しかない。
暖房のボーっという籠った音が、耳を澄ますと微かに聞こえてくる。
机の上のカレンダーを見た。8年前か、あの日から。
青いネクタイピンに手をかざして、そっと外す。
8年前の7月、彼女の、春川愛美の葬儀は執り行われた。
彼女の親族と全く面識がなかった俺も、驚くことに葬儀に呼ばれた。彼女の遺書に書いてあったから、なんて、喜んでいいのか悲しむべきなのか分からない、最後まで不思議を残していく人だった。そして、優しすぎる嘘を吐く人だった。
彼女に縛られてきた。と言ってしまえば簡単に俺は被害者になれるし、なにもここまで努力する必要も無かったとも、正直なところ思う。子どもの頃の軽率な夢を引っ張り出して、身の丈に合わない目標を掲げたのだから。大きな大きな、俺の人生をかけた博打だったが、博打に勝ったと言える今でさえ、俺の行動が正しいかなんて分からない。でも、彼女を、春川愛美を加害者にだけはしたくなかった。
もう日本に緋傀儡は存在しない。その事実が、俺の胸を締め付けた。
彼女を奪った花。彼女に希望を与えた花。俺に夢を与えた花。
深くて重い空気を吐く。温度だけ暖かい空気を吸い込んだ。
するとそこへ、ドアを叩く音が、コンコン、コンコンと4回。
慌てて崩した姿勢を正し、ネクタイピンを素早くつけて、スーツに付いたシワをこする。シワは落ちなかったが、仕方がない。咳払いをして、喉を整える。リラックスしすぎていた。
「はい、どうぞ」ドアに向かって、何事も無かったかのように返事をする。
ゆっくりと開けられた扉の先には、背の高い1人の女性。
「お久しぶりです、石田さん」焦げ茶色の大きな目に、肩から下がる黒い髪。「実際にお会いしたのは8年ぶりでしょうか。発表、素晴らしかったです。まさに感銘を受けました」社交辞令を社交辞令だと感じさせない、軽快な喋り。黒いパンツスーツを身にまとい、7歳も年上だと思わせないスラリとした立ち振る舞い。
ああ俺は、この人が居たから、緋傀儡の研究に没頭できたのかもしれない。自然と、さっきの答えにたどり着く。だって、彼女を奪った緋傀儡を見るよりも、この人を見る方がつらいのだから。
ソファから立ち上がって、女性と向き合う。
「陽咲さん、来られていたんですか。声をかけてくだされば、事前に資料も渡せたというのに」動揺を隠すのは、この8年でだいぶ上手くなったと思う。
本当によく似ている。声も、顔も、体格も、口調だって少しだけ。彼女が成人して働き始めていたら、こんな姿になったのだろうか。
いいや、止そう。人を比較するだなんて。
「いえ、私も急にこちらへ来ることが決まりましたもので、あまり迷惑を掛けてはいけないかと。改めて石田さん。妹の生前は、本当にお世話になりました」
葬儀と合わせたら2回目の、深々としたお辞儀。
「石田さんのこの成功を、愛美も天国で喜んでいると思います」
彼女なら、死んだ後なんてどこに行くか分からないじゃないかと、口を尖らせてしまいそうだなどと、意味も無く考えてみる。目上の人に腰を低くされると、自分の立場が分からなくなる。
「そんな、頭を上げてください」キッチリとしたやり取りに、俺は目が回ってしまう。「僕のこの努力だって、結局は自分のためなんですから」言葉を探して、適切に使おう。「それに、陽咲さんの支援があってこその成功です。ありがとうございました」
俺の発言を聞いてから、陽咲さんは長く下げていた頭を上げ、弱々しく微笑む。「もう、愛美のような被害者が出ないのは大変喜ばしい事です。こちらこそ、ありがとうございました」この人が笑っている顔を、初めて見た気がする。……笑顔は、似ていないなと思った。
「はい。本当に嬉しいです」
陽咲さんが微笑んだことによって、柔らかくなった空気にホッとする。立ち話もなんだろうと、ソファに座るように勧めれば「失礼します」と事務的に言って、腰を落ち着かせていた。
飲み物もコップもこの部屋には無いので、何かお茶の代わりになるものでもないかと頭の中で探していると、陽咲さんが口を開いた。
「石田さん。私に何か、隠していますでしょう?」キリリとした口調で、こちらに逃げ場を作らせないぞ、との気迫に溢れている。「今日は真実を知りにここに来たのです。もうあの日から、8年も経過しました。愛美の事を、しっかりと知っておきたいものでして」
「真実だなんて、何をおっしゃいましょう」こうなる予感を薄々感じていた。
この手の探り方には、むやみに乗ってはいけない。適当に流して、不偏不党の言葉を発する。
「愛美の中から、私は消えてしまっていたのです。言ってしまえば赤の他人でした。あの子の友人だったあなたなら、何か知っているでしょう?」期待の目を向けられた。いまさら何を聞きたがっているのだろう、この人は。
そう言えば、近くに自販機があったな。いやでも、流石にペットボトルの清涼飲料水を来客に出すのは失礼か。意識を他にやって、気を紛らわせる。
「知りませんよ、僕が知っている事は全てお話しました」
腰を低く、棘の無いように。
「そんな、教えてくださいよ。私は愛美を救おうとしたのです。石田さんにもお気持ちは分かりますでしょう?」
「ええ。分からないわけではありませんが、僕は何も」
何故、墓を掘り返すような行為をするのだろう。このままが一番平和なのに。
「お願いです、石田さん。誰が、一体誰が愛美を追いやったのですか?」
だんだんと、陽咲さんが気の毒に思えてきた。真実を知りたい、なんて。『あなたが彼女を追いやったのでしょう』と言ったら。そう真実を言ったら、この人はどんな顔をするんだろう。
「さあ、僕には、何も分かりません。分かりませんでした」
胸に開いた大きな穴に、石が投擲される。深い深い穴に、音も無く落ちた。
「彼女は私を消してしまいましたが、彼女から大切な物を奪ったのは私です」
__病院のベットの上で、救急車から降りて間もない彼女が息を引き取ったのが、たった今。そんな時。
頭が真っ白になって、いくら頬をつねったって“夢でした!”と布団の上には居なくて。横たわる彼女を揺さぶり起こしたくて、そして彼女の遺族の方々への罪悪感と、目の前から人が消えた喪失感でグッチャグチャになっていた時。
世界を騒がせていた有名デザイナーは、俺に向かって言った。
救急車を呼んでくれてありがとう、とか、機転を利かせて車専用道路を開放してくれて助かった、とか、馬鹿にしないでくれと叫びたくなるような声を救助隊から掛けられ、まだ未成年なんだから精神カウンセリングが必要だ、との医者の話し声が聞こえてきたりとか。本当にもう、張り裂けてしまいそうだった。
目の前に立つ春川に似た女性を見て俺は、何を言っているんだこの人はと、疑念の意に駆られた。春川の母親にしては幼く、従妹としては似すぎていた。
「あなたは、誰ですか」そうだ。彼女と出会った時も俺は、こんな質問をしたっけ。すっかり枯れてしまった声で、俺は尋ねる。「春川と、どのような関係が」
「私は愛美の姉の、春川陽咲です、……デザイナーをさせてもらってます。あなたは石田累さんですよね。愛美から、よく聞いていました」
その顔はやつれていて、とても健康な人間には見えなかった。泣き腫らした顔が痛々しく、彼女の両親もまだ到着していない時で、病室には俺とその女性と、入れ替わりで慌ただしく出入りする看護師さんだけだった。
「姉、ですか?」頭のおかしくなってしまった患者が、俺に話しかけているのだと思ったけれど、傍に居る看護師さんは見向きもしない。「そんな。春川に兄弟は居ないって言ってて、ひとりっ子だって」文章としては不完全な、感情を乗せただけの言葉を垂らす。
「ええ、そうでしょうね。だって私は」苦しそうに、何もかもが憎いように。「彼女の記憶から消されたのですから」何を見ているのか分からない眼だった。
“記憶から消された”彼女の最後も不思議だったなと、思い起こす。名前を、春川の名前を俺は聞かれた。
「それは、どういう意味、ですか。だってあの病気は、記憶なんて」
「治療薬の副作用です」声に起伏が無かった。あの病気の治療の副作用で『記憶を失う』というのは知っていた。彼女から聞いた事がある。
「彼女は治療を受けていないって、受けられないって春川が言って」
「それも話したんですね、あの子」寂しさが滲み出ていて、心を無くしてしまったみたいに。どこかに置いてきてしまったみたいに。「愛美は、あの子も知らない内に治療を受けていたんです」
「それは、どういう」声が上手く出ない。「……意味が分からない。」
治療を受ける受けないは、自身の決定権があるはずで、春川の知らない内に治療を受けていたとは、どういう事か。
「あの子は、全てを忘れてしまいました。奪われたんですよ。緋傀儡という、下らないおぞましい花のせいで」
俺と並ぶほどの。いや、俺よりも大きな憤りと悲しみが地を這う。そうか、奪われたんだ。この人も大切な人を。俺の緋傀儡を慕っていた心が、また欠けた。
「私は、あの子のためにここまで頑張ってきたんです」
苦しいのは自分だけじゃない。
病室の戸が開いて、春川の両親が駆け込んできた。2人とも、現実を信じる事を躊躇していた。声にならない声を上げ、動かない彼女を抱きしめていた。
葬儀の日は、雨だった。
雨音が地を貫き、全てに穴をあけていた。俺の高校生活最初の夏休みは最悪のスタートを切ったと言えるだろう。モノクロの暗い世界が、生前の彼女と正反対で、何とも皮肉的だった。
春川の遺族とは2回目の顔合わせで、特に深く言葉も交わさなかった。自分の親には「友達の葬儀だ」とだけ伝えて出てきたため、俺のほかに知り合いは居ない。誠弘は自ら参加を辞退していた。
そしてその日に、陽咲さんが世間を騒がせたデザイナーだと知り、そして春川の治療を受けさせた当本人だと知った。身体が消え、どこかへと行ってしまった彼女を見送り、そろそろ帰ろうとしていた、晴れていれば夕暮れが綺麗に映る時間帯だった。陽咲さんに俺は、呼び止められたのだ。
冷たい目に「お前があの子を殺したんだろう」と叫ばれるのではないかという心配も杞憂であった。こう思えば、自分の保身ばかり考えているんだな。と、自分が馬鹿馬鹿しくなった。
「あの子が倒れたと聞いた時は、まさに耳を疑いました。自分の会社が海外に移り、私の生活は仕事一色でした。何もかもが上手くいき、正直なところ、幸せに溺れていた気がします」
壁を作っているのか、距離感が分からないのか、それとも礼儀的なのか。陽咲さんは俺に向けて、ずっと敬語だった。「愛美が心を開いた相手なのだから、私もすべてを話します」と、室内の談話スペースのような場所で向かい合っていた。ショートボブの、出会った当初は明るかった髪色も黒く染められており、疲れ切っていた様子だった。
「母からの電話では『愛美が、肺の病気に罹った。その治療費が莫大だから、どうにか援助してくれないか』と。私は喜んで協力しましたよ。家はとても裕福だと言えませんので。……私は元々、家族を助けようと働いたのですから、当然です。そして私がアメリカにいる間、あの子の治療が始まりました」
正直、頭がボウッとしていて、陽咲さんが淡々と語りだした時は何事かと思った。だが、話を耳に入れている内に、だんだんと真実がハッキリとしてきて、形が現れだした。
「『治療は順調だ』と、通話で話す度に嬉しくなりました。もっと頑張ろう、もっと努力しよう。そう思う事が出来ました。ですが途中から、連絡がぱったりと途絶えてしまったのです。愛美は通話にも出ようとしませんでしたので母に聞くと、曖昧にはぐらかされるだけでした」
息を大きく吸い込んで、吐き出した。唇を舐めてからまた、陽咲さんは口を開く。机の上に置かれた指に、力が入っていた。
「そして、私は不信に思い、帰国することにしたのです。サプライズも兼ねて、何も言わずに実家へと帰りました。……厳密に言えば、愛美の治療のために引っ越した家ですが、それは重要ではないでしょう」口調が、少しばかり早口になった。早く結末を言ってしまいたいと、焦っていた。「インターフォンを鳴らして待っていると、愛美が出てきました。背が高くなっていて、顔立ちも大人びていて、なにより健康そうだったので、とっても嬉しくなりました。『久しぶり、元気だった?』と、笑顔で言いました。そしたらあの子、何と返したと思います?」
俺の目を一瞬だけ見て、答えかねていると、陽咲さんは開口した。
「『こんにちは。どちら様でしょうか。今、母を呼んできますね』って、言ったんです」黙り、俯いて、しばらくしてから、苦しそうに続ける。「最初は、ふざけているんだと思いました。でも、嘘を吐いているようには見えないんです。立ち尽くしていると、母がやってきて、私を見てから、言葉を失っていました。そして、その時初めて、治療での副作用がある事を知りました。勿論、副作用の内容を知っていての援助でしたよ? ですが、その時のショックは計り知れません」
目を瞑り、息をまた大きく吐いて、陽咲さんは言う。俺は口を挟む余裕も無かった。
「悲しいですが、あの子は同時に、治療を受けている事さえ忘れてしまっていました。私の存在が無くなったのですから、そうなるのも必然かと。……私は、愛美の“遠い親戚”となりました。小さい頃はよく遊んでいたんだよ、と」
微かに聞こえ続けていた雨音が止んだ気がしたが、窓の方を見る気にもなれなかった。
「それと、私の初めてデザインした靴は、もったいなくて履けないと言っていたのに、玄関に出されていました。とても悲しかったです。『大切に、大切に使うよ』って言っていたのに」
治療を受けていたのに、彼女は、自ら。
「あの子は、私の事を、とっても慕ってくれていたんですよ。私にはかなわない。私には追い付けない。と。私を追いかける愛美が、可愛くて可愛くて仕方がありませんでした。時には嫉妬されることもありましたし、大学にもいかず、デザインの道に進もうとした私に、いちばん猛反対したのもあの子です」
懐かしむような表情も、どこか壊れてしまっている。
「思ってみればあの子は、私が居なくなったことによって、家族の中の一番になれたのかもしれませんね。私が知らず知らずのうちに、あの子に枷を掛けてしまったのかもしれません」そこで陽咲さんが少しだけ顔を明るくさせる。「でも愛美は、気付いてくれたんですよ、私たちの間にある異変に。……これが、彼女の残した文です。遺書、と言えるのでしょうか」
陽咲さんは封筒を取り出した。彼女が俺に渡してくれた封筒と、全く同じものだったが、封にスズランのシールが貼ってあるところだけ、違っていた。
「石田さんを葬儀に招待したのも、この文のおかげです。ここに、あの子の言葉が詰まっています」中の便箋を差し出され目を通す。
紛れもなく、彼女の字だった。
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これは多分、格好つけない方が良さそう。私の気持ちを正直に書くね。何を誰に伝えられるか、全く分からないから。
ごめんなさい。
これだけは先に言っておくね。それと、本当にありがとう。
たくさん嘘ついて、たくさん忘れて、たくさん迷惑をかけたけど、私の周りに居た人達はみんな優しかったから、きっと許してくれそう。なんて思ってみるけど、優しいから、とっても怒られちゃいそうだな。
私ってさ、肺炎症欠乏頭部損傷の治療、受けてるよね。何も覚えてないけど、覚えてないのがその証拠なのかな、って。あ、これは石田君に教えてあげて。きっと私は、本当の病名を教えないままになっちゃいそうだから。
最初に疑問に思ったのが、ヒサキさんの事(漢字が分からないや。後で聞くね)。それと保健室で、佐藤先生と話していた時になのね。
前者の方は、ちょっと引っかかった程度だったんだけど、問題は後者の方。
どうせ死ぬんだったらこの世の事をたくさん知ってからにしたいな、って思って私さ、ずっと勉強してたんだよ。笑わないでね。どうしてか分からないけど私、頭が良くなりたいなってずっと思ってたみたいだから。
大学の参考書を古本屋で買ってきてさ、頑張って解いてたの。
そしたらね、解いた跡があるのに、どうしても解き方が分からない問題がいくつもあって。ド忘れかな、って先生に聞いたら、「その問題、いっつも解いてるわね」なーんて言われちゃってさ。怖かったなあ、あの時は。
そこから色々重なって、私は何かを忘れているんだって気付いて、昔のアルバムとかめっちゃ調べて分かったんだ。
私に姉が居る事。
陽咲さんって、私のお姉ちゃんだったんだね。なんて呼んでたのかな、陽咲姉とか、姉さん、とかかも? ああ、本当にごめんなさい。思い出せないや。
木戸君が言ってたんだけど、忘れられるのは辛いよね。やっぱりさ。
ほら、永六輔さんも言っていた、有名な言葉で「人は二度死ぬ」ってあるでしょう? それぐらい大切なんだと思うんだ。記憶って。私は色々な人や物を忘れてしまっている。
私は嫌になっちゃったんだ、忘れるのが。たとえ成功率の低い治療だとしても、姉からの治療費があったとしても。私は嫌になっちゃった。もう何も失いたくない。私の誇りを、私の大切な思い出を、これ以上奪わないでほしい。
もう2度と、私を褒めてくれる人が居なくなっちゃう気がするの。もう2度と、私は1番になれない気がするの。幸せでいたい。幸せだと思えるうちにリセットしたい。
……ちょっと、長くなっちゃったかな。
誤解しないでほしいのは、陽咲さんや、お母さん、お父さん達を恨んでるわけじゃないって事と、私は自分で命を落とす決意をしたのだから、木戸君や佐藤先生、石田君に非は無いって事。
お世話になりました。今まで、本当にありがとうございました。
もし天国で会えたら、私を叱ってやってください。これは絶対に許されるような事じゃないから。でも、天国とか地獄があるんだったら、私は地獄の落とされちゃいそうだな。
だから、もしかしたら永遠にさよならかもしれないね。
きちんとお別れを言えなくて、ごめんなさい。
PS.もしかしたらこの記憶って、大切な人から順に忘れていっちゃうのかも。
愛美
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彼女の言葉だった。明るくて、どこか鋭くて真っ直ぐで、こちらを優しく諭すような。彼女にもう一度だけ会いたいと、高慢にも願ってしまった。手が震え、視界が薄くぼやける。
「永遠にさよならだなんて、言わないでくれよ」震えた声が出てしまった。「何を覚えていて、何を忘れてしまっていたか、教えてくれよ」届かぬ声は、送り先が見つかる前に、どこかへ飛んで行った。
「あの子が、どんな気持ちでこの文章を書いてくれたのかは分かりません」誰も何も見えていない。誰も何も分かっていない。ただ、目の前にある物事を信じる事しかできない。「ですが、私は私の取った行動を後悔していません。あの子は私を思い出してくれたんです。私は生き返りました」意気揚々と、春川が自分の事を忘れ、そして忘れたのは、自分が大切だと思われていたからだと信じて疑わないこの人を、俺は苦手だと思った。
「苦しかったと、思いますよ。彼女は最期の瞬間まで」
この文章はただの免罪符じゃない。彼女の差し出してくれた手を振り払うつもりは無いが、ただ俺は、自分には全く非が無いと立ち直る気にもなれなかった。
「ええ、あんなにも明るい子が、あんなにも才能に溢れていた子が自ら命を落としたとは考えきれません! きっと、裏に何かがあるんですよ、あの子も語らなかった何かが」
俺は自分の耳が壊れてしまったんだと思った。何を言っているんだろう、この人は。自分は悪くない、他に原因があるはずだと、本気で思っているのだろうか。
「春川は優しい人だったし、犯人捜しは望んでいないと思いますよ」
ああ、きっとこの人は、自分が常に正しかったんだろうな。そんな人が年下に宥められているだなんて、どうして。
「いいえ、私は探します。一生かけても、あの子の恨みを消します。緋傀儡という花も関係していると思うのです。石田さん、協力してくれませんか」
緋傀儡は彼女も好きだと言っていた。良くも悪くも彼女の思い出なのに。
「……そうですね、陽咲さんに協力しましょう。春川の鞄に入っていた緋傀儡の研究所の鍵を、俺にくれませんか。彼女との、約束を、思い出しました」
俺はその日、嘘を吐いた。自分の欲求を満たすため、他人を利用した。
「ええ、勿論です。私もいくらでも協力します。相互扶助と行きましょう」
「それと、陽咲さんにお願いがあるのですが」そして俺の高校生活を、俺の人生を博打に溶かす。「俺の援助をしてくださいませんか? 彼女の夢を、しっかりと叶えるために」
陽咲さんは満足そうに頷いてから「どうか、よろしくお願いします」深いお辞儀をした。黒い髪が顔を隠して、揺れた。
「分からなかった、なんて。ならば私の行動は、全て無駄だったと言いたいのですか? もう日本で、緋傀儡による被害者は出ません。ですが、私の目的は達成されていないのです」
はいそうですねと、心の中で呟いた。取り乱し、余裕がない姿を冷ややかな目で見つめる。そう言えば、長いこと海外に居るのに日本語が流暢だなあと、呑気に考えてみる。日頃から練習をしているのだろう。
「ですから、陽咲さんには本当に感謝しています。研究所の整備や事後処理など、本当に。彼女の気持ちが分かると思ったんです。……実際、分かりましたが、陽咲さんに言うわけにはいきません。彼女が隠し通してきた出来事を、僕が簡単に暴露するわけにはいかないのです」
「では、私に知る権利は無いと? それは不公平でしょう」
「はい。不公平かもしれませんが、彼女は、僕にだけ研究所へ入るように指示し、そしてその通りに鍵を渡したのはあなたです。陽咲さん」
感情を捨てた。同情してはいけない、自分の覚悟を棒に振ってはいけない。彼女の隠し通して来た事を、安易に公表してはならない。
「僕は鍵を“貸してください”ではなく、“くれませんか”と訊いたはずです。そして“彼女の夢を叶えるため”とも言いました。彼女の夢は叶ったはずです」
陽咲さんの表情が、見る見るうちに青ざめていく。
「そんなの屁理屈です。私は、私は」
「屁理屈だというのは十二分に承知しています。もしどうしても知りたいと言うのならば、研究所へ行き緋傀儡についての資料と、対応病院への肺炎症欠乏頭部損傷の報告をご覧になってください。後悔すると思いますし、彼女の気持ちを裏切ることになりますが」
陽咲さんの表情が、憤りに染まった。ごめんなさい、俺にはどうしても言えない。絶望に染まった顔より、怒った顔の方がよっぽどマシだと思いませんか。
扉のノックが、3回。
「失礼します、石田さん」スタッフの人だった。俺に、用があるそうだ。「受賞者の方は式の最後に記念撮影がありますので、必ず舞台へ移動を願います」
「はい。分かりました、今行きます」
椅子から立ち上がり、陽咲さんを見下ろす。俺と目は合わせてはくれなかったので、諦めて背を向け、控え室の扉を押さえた。息を大きく、吸い込む。
「陽咲さん、そういう事ですので失礼します。お茶も出さずにすみません」廊下に足を、一歩ずつ踏み出す。「もし。本当に真実を知りたいのなら、都市に勤務している木戸という医者を訪ねるといいでしょう。あの人はあなたと同じ選択に迫られ……真実を知って、絶望してしまいましたから」
返事を待たずに、キイと、扉を閉めた。廊下では、スタッフの方に案内を任されたらしき後輩が、驚いた様子で俺を待っていた。
「石田さん、ハルカワデザインの人と知り合いだったんですか!?」
「ああ、ちょっとね。……スポンサーだよ、うちの研究所の」
スーツのしわを、そっと伸ばす。関係を良好に保つためだけに買った新品の靴が、どうにも憎らしかった。話題作りにも役立たなかった。
「へえ、そうだったんだ。ハルカワデザインがスポンサーって」噛み締めるように小さく言った後、「そういえば、石田さん」そっけない俺の態度を気にしているのか、近藤は話題を変えた。「緋傀儡が肺炎症欠乏頭部損傷と関係がある事と、肺炎を持つ女性が緋傀儡に触れると肺炎症欠乏頭部損傷に罹りやすい事、石田さんが新たに、毒の無い“白い緋傀儡”を作成した事は今回で発表してましたけど、どうして治療の事には触れなかったんですか?」
首を傾げる後輩に苦笑する。メモも無しにそうツラツラと語れるとは。
「遺族の方々を、不安にさせるといけないからなあ。非公開にするべき情報を提供しても、報道関係は迷惑なだけだろうし」
柔らかく、さっきのそっけない態度を打ち消すように言う。ここへ向かうまでの道を、そのまま戻るので緊張はだいぶ少ない。
「そうですかね? 自分だったら、ちゃんと知りたい気もしますが」
首を傾げ、真摯に訴えかける後輩。
「実証済みなんだよ、僕の身近の人でさ」すれ違ったスタッフの人に会釈する。「ま、今は立ち直ってるけどね」気障で、気取ってて、でも器用でメンタルの強い、親友を思い浮かべる。「言わぬが花だと思うよ。肺炎症欠乏頭部損傷の患者が『負担に感じる人やそのような物事から忘れていく』なんてさ。忘れられた人が可哀そうだよ。確実じゃないし」
進むごとに人の気配がだんだんと強まって、自然と圧迫される。それに事実、耳に入る声の色が増えてきた。
「はあ、そうですけど」すぐ横で、弱いため息が聞こえた。「それって顕微鏡を使って分かるものなんですか? ほら石田さん、この前『昔、その病気の女の子と友達で、顕微鏡を欲しがっていたのは病気の治療法を探すためだったんじゃないか』って言ってたじゃないですか」
また、話題に春川が出てきた。彼女の命日はまだ先なのに。
「それはジョークだよ。あの人は、緋傀儡が好きだったからね」
「はあ、それが」
「緋傀儡好きなら、あの不思議な細胞の構造を、顕微鏡を使って見てみたいと思うはずだよ。緋傀儡に触れると死んでしまう、とかじゃなきゃ」
「はあ、よく分かりません。結局その人は、どうして亡くなられたんですか?」
俺の、と口の中で呟いた。「夢を、叶えるため?」
「んん、分かりません。その人の夢は?」
「良いよ。分からなくてもさ。……ちょっと近藤、僕の代わりに表彰台に上ってくれない? 緊張して、顔が引きつってしまいそうなんだ」
スタッフの人に案内されて、舞台裏へ戻る。
休憩の時間なんて無かったようだ。
「嫌ですよ。先輩の昔からの夢だったんでしょう?」
「夢は、一生覚めなくていいけどね」
「どういうことですか。さ、早く行ってくださいよ」
眩しい舞台は、もっと煌びやかな女性が似合いそうなのに。
光が強いと、影は濃くなってしまうじゃないか。
「ああ。夢が、覚めてしまう」
強い光が、俺を溶かしてしまった。
*
第10話:緋傀儡(白)
〇白色の緋傀儡の花言葉
・すがった結果の成功
・過去に戻りたい
・未来への希望




