First-Person Singular
振り仮名は二回目以降省略しています。
「今私がいる部屋は二十平米ほどの広さである。
三方を囲む壁の色はベージュ。東に向いた掃き出し窓からは朝日が差し込んで、それらの壁をきらきらと照らしている。
私の正面、テレビの真上から少し左には時計がかけられている。円形で縁は木製。数字はローマ数字。その黒い短針は、今ちょうどXIIIの字にかかったところだ。
天井も壁と同じ色。照明は吊り下げ式で、電球を木製の枠が囲っている。枠は円形で、直径20センチメートル程度。今は点いていない。
部屋の中央にはテーブルがある。やはりこれも木製。200センチメートルかける80センチメートル。白いテーブルクロスがかかっている。よく見るといくつかの染みがあるが、おおむね清潔に保たれていると言って良い。
椅子は4脚で、やはり木製だが色はテーブルよりも薄い。すべて同じかたちで、背もたれつき。手すりはない。私の脚の長さだとすこし低い。
テーブルの中央、つまり私の右斜め前には、ジャムの瓶が3つある。そのうち私の方向から見えるものは中身が赤いものと濃い紫色のものだけで、最後のひとつは蓋しか見えない。
私のはす向かいには、こんがりと焼けたトーストと固焼きのベーコンエッグがそれぞれ別の皿に乗せられて、湯気を立てている。そのすぐそばには醤油の瓶。ベーコンエッグの皿には箸も置かれている。木製、やや短い。
私の目の前には一冊のノ
「何書いてるの」
私は顔を上げた。少し高めで、聴きようによっては幼さを感じさせる声は、私の同居人である風子のものである。寝間着にしている灰色のスウェットを着た彼女は、右手にコーヒーサーバー、左手に「他力本願」と書かれたカップを持って、私の手元にあるノートに視線を注いでいる。私が「別に」と返事をしてノートを閉じると、彼女はふうんと興味のなさそうに呟いて、私のはす向かいに、つまり先ほど彼女が準備した朝食の前に座った。
風子が私の正面に座ったという記憶はない。人の正面に居るということ自体が嫌いだから、ということらしい。もちろん座席の数が許さない場合には彼女は自らの方針を曲げるのだが、そうでない限り彼女は相手の正面からすこしずれたところに座る。風子の癖のひとつだ。
風子はいつも以上にのんびりとした動作でコーヒーをカップに注ぎ、ゆったりとした動作でそれを口に含み、ゆっくりとカップをテーブルに置き、しかるのちのっそりとパンを手にとった。見ているだけで眠気を覚えそうな動きだ。
彼女は朝に強くない。その証拠、というわけでもないのだが、肩にかかる程度の黒い髪は寝癖でだいぶ乱れていて、新品なのに時代を感じさせるまん丸黒縁の眼鏡は水平からややずれている。もう少し経てばぱっちりと開くはずの黒目がちな目は、眠気のせいか白目が見えぬほど細まっていた。
頬杖をついて風子を眺めていた視線は、ジャムをとろうと右手を伸ばした風子の目線とかち合う。
風子は小首をかしげて、
「食べる?」と言いながら左手のパンを突き出した。
「朝は入らないから」と断ると、風子は変な声で、
「きちんと朝ごはん食べないと成長しませんよう」とお小言を言う。
「私の成長期は5年前に終わっている」とうそぶけば、風子は小さく笑ってようやくジャムを取った。
嘘ではない。私の身長は高校の時からほとんど伸びていない。それに、当時からしてすでに平均よりはだいぶ高めであったし、いまでもそれなりに長身といって良いので、これ以上背が伸びてもあまりうれしくない。
対して風子は背が低い。女性の平均身長をだいぶ割っている。身長差は20センチメートルを超えているはずだった。もしかすると先ほどの変な声と言い方は、彼女自身がだれかに言われてきたことの模倣なのかもしれない。
思いがけず風子の過去に思いを馳せていると、不意に彼女が手に取った瓶が視界に入った。
オレンジ色である。
ああ、すべての悲劇の母たるマーマレード。
マーマレード、マーマレード、マーマレード……
私の悲痛な思いも知らず、風子は蓋に親指をかける。片手で開けようとする彼女の不精さは、予想よりも堅牢に封印された蓋によって阻まれた。そのまま永遠に開いてくれるな、そんな私の切なる願いは天に聞き届けられることなく、彼女は無慈悲にもパンを皿へと置き直し、その白い両手を以て蓋を開かんと試みる。
摩擦力のけなげな抵抗もむなしく、蓋はあっけない音とともにくるりと一回転し、その内容物を大気へと晒した。
その瞬間、柑橘類特有の吐き気を催すあの臭気が私の鼻孔をついたように思えたのは、果たして錯覚なのだろうか?
毒々しい苦味が口中に広がったのは幻想に過ぎないというのか?
かような劇物を嬉々としてパンに塗りたくる風子は、果たして正気なのだろうか?
ことによると、張り手の一撃によって彼女の理性を回復させる必要があるのではないだろうか?それが彼女のパートナーとしての神聖な義務なのではないだろうか?
まあ、私がマーマレード嫌いなだけなのであって、彼女が食べる分には何ら問題ないのだが。どれだけそれを憎んでいようと、他人の食生活にあえて口を出すほど私は押しつけがましくはない。しかし目に入れるのも嫌である。人の口にマーマレードが入っていくことほどに人倫に反した事柄は僅少だ。
天を仰ぐ。薄いベージュ色の天井だけが私を慰めてくれるのだ。
そうやってしばしのあいだ、私は阿呆のごとく頭を背に逸らしながら、風子がパンを囓る音を聞いていた。焼きたてのパンが咀嚼される音や、コーヒーとかパンの薫りとかは、私の食欲をいくぶんそそるものではあったけれど、そこにマーマレードが存在しているという事実はその正反対の作用を胃にもたらす。おかげで私は平生の不健康な食生活を維持できるというわけだ。世の中はうまくできている。
音が止む。どうやらかの劇物はすっかり風子の胃に収まったようだ。
首を元に戻すと、風子は一冊のノートを開いていた。パンは齧りかけのまま皿の上である。視線をこちらに引き寄せると、先ほどまで私が開いていたノートが無い。
「勝手に読むなよ」
怒りが沸くほどでもないので、ため息と文句を一つずつで収める。聞いているのかいないのか、風子は神妙な表情でノートを読んでいる。大したこと、たとえば恋人に対する複雑極まる感情が赤裸々に記されていると言うわけでもないから、読まれたとしてもさして気にもならないが、それでも若干の恥ずかしさはある。
「さっき書いてたの、これかぁ。『今私がいる部屋は二十平米ほどの広さである』」
「ああ、うん。目に映ったものを全部機械的に書いていって……」
「何がおもしろいの?」
「……それで、削っていくなり表現を変えたりする。どのあたりが理解可能性の許容限界なんだろうか、ってね」
「文脈によるんじゃないんかなあ」
「しかし、なんというか……、私の持っている視覚的イメージ、とでも言うべきかな、そこからどれだけ齟齬が発生するかを確認しておきたくて」
考えながら返答するのを終えると、彼女はいつもの「ふうん」をひとつ漏らした。納得はしていないようである。先ほどと同様だ。ノートから視線を外すことなく、彼女はコーヒーを一口含んだ。
合図だな、と私は感じる。
「『私』」
と、風子は言う。一人称単数のごくありふれた人称名詞。
口は挟まない。彼女の語り口には慣れている。
「一人称単数で語られる文章って結構多いんだけど、私はそういうの、理解に苦しむんだよねえ」
「理解に苦しむ」とはだいぶ強い表現だ。だがここに非難の意図が存在しないことを私は承知している。彼女が「苦しむ」というのは文字通り「苦しんでいる」ということなのだ。
だからそこは置いておいて、もっと不明瞭な部分を尋ねておくことにしよう。
「そういうの、というのは」
「んー、小説、とか?私は小説読まないから分からないけど」
「この前『イーリアス』読んでたじゃないか」
「叙事詩は小説じゃないよ」
軽率な反論を行った私に風子は静かな低い声で応じ、ノートの端を指で弾いた。それだけで私の身は竦んでしまうが、風子はまったく気にかけていない。それがなおさら怖い。『ユリシーズ』にしておけば良かった。
彼女は時に、普段のおっとりとした所作とは打って変わって、ひどく冷たい仕草を見せることがある。
とはいえ、その仕草もあまり長くは続かない。風子は少しだけ丸みを帯びた(誓っていうが、彼女は太ってはいない)顔を、いっそうふにゃりとさせた。
「――まあ、それはともかく。みんなは一人称でも普通に読めるんだよねー。それが不思議」
「まあ、たいていの人は読めるんじゃないかな」
「どうしてだろうなあ」
風子はノートを閉じ、膝の上に置いた。返してほしかったが今の彼女には少し言いづらい。その代わり尋ねる。
「私には風子が言っていることの方が分からない。どうして一人称だと読めないんだ?」
「いや、一人称でも読めるよ。報告書とか日記なら読める。過去形なら平気。正確には、一人称現在、や、継続相で書かれているものが読めない。んー、これも正確じゃないなあ・・・・・・。不自然な感じが強い、かなあ」
風子が腕を組み首をかしげると、ただでさえずれていた眼鏡が完全に所定位置を外れてしまった。慌てて手で受け止め、姿勢を戻す彼女を横目にしながら、私は立ち上がった。
「カップ取ってくる。コーヒー飲んで良い?」
「じゃあ追加してきてください」
突き出されたポットを受け取りながら、私は「これは長くなるかもしれんなあ」と内心で呟いた。
むろんその呟きに否定的なニュアンスなど込められてはいない。
私が風子に求めているものは、まさにこうした会話の内にあるのだから。
× × ×
改めて淹れたコーヒーと、私用のカップを手に食卓まで戻る。
サーバーを風子に差し出すと、彼女はにこやかに受け取り、自分のカップについで、私に返した。
私も彼女のはす向かいに座ったのち、自分のカップにコーヒーを注ぐ。
モカ(これは私が買ってきたものだ。風子は飲み物に対してこだわりがない)のさわやかな香りを楽しみながら、風子が話を再開するのを待つ。彼女はオレンジ色に塗りたくられたパンをおいしそうに囓っている。
彼女はオレンジ色に塗りたくられたパンをおいしそうに囓っている。
彼女はパンを囓り終え、箸を手に取った。ベーコンエッグに取りかかるつもりだろう。
「ねえ、話の続きは?」
風子はきょとんとして私の顔を見つめている。なにか話でもしていたっけ、といわんばかりの表情だ。
「なにか話してたっけ?」
私はがっくりと肩を落とした。
「いや、一人称のはなし……」
「え、あれはもう終わったんじゃないの?私は不自然に思えます、みんなはそうでもないみたいだね」
風子はそこで、きゅっと何かをつまむような動作を両手で行った。
「それでおしまい」
「いや、それでおしまいは無いんじゃないの?」
動作の意図もわからない。見たことのない仕草だが、今のは何かを終えるという合図だったのだろうか?
私がじっとりとした視線を風子に向けると、風子は困ったように私とベーコンエッグの間で視線を往復させた。それが三回ほど繰り返されたのち、風子は、
「わがままだなあ」
とへらりと笑って、箸を皿の上に戻した。
もしかするとひどいわがままを言ってしまったのではないか、という加害妄想に駆られる、そういう笑い方だった。むろんそれは妄想に過ぎない。しかし、それだけだと言い切るのも不可能だ。とるに足らないお願いだということは知っているけれど、未だ底知れぬ風子の精神性と、すべてに執着しているのと同時に万事に無頓着であるかのような笑みは、いつも私をそういう不安に追い込むのだった。
――ということさえ私は長いつきあいによって周知しているので、私は安心して彼女の発言を待つことができる。
コーヒーがおいしい。
「――ひとことで言えば、『だれに』『なぜ』『語るのか』という点に帰着するんだけどね」
十秒ほど考え、一口コーヒーを啜った後、風子はそう切り出した。
「私はある文章を読んでいるときに、基本的にそれは、誰かが語っているもの、あるい記述しているものとしてそれを読むわけね。いわゆる『話者』と呼ばれるだれかと思ってくれていいけど。そうでないなら文章自体が語っているとかになるけど、それはあり得ないし」
「あり得るかもしれないだろ」
人が語る。けものが語る。星の並びが語る。風が語る。石が語る。
それと同じことである。文章が語って何が悪いのか。むしろ文章はいつも私たちに語りかけているのではないか――巧妙にも、別人を語り手として立てることによって。
そう茶々を入れると、風子は「んー」と指をこちらに突きつけた。
「たまに妄想に耽るよね、かなちゃん」
透き通った表情でそう言われ、私は押し黙った。冷たいどころではなく、感情を全く廃絶したかのような声音であった。
彼女の言ったことは全く真実だ――私には救いがたい妄想癖がある。彼女の話を脱線させたいわけでもないので、反省した私はしばし沈黙することにした。
「で、それは架空の誰かでも良いわけ。誰かが、私たちに、それを語っている。この図式が維持されている限り、私は特に差し支えなく読める。むしろその場合、語り手が特定の誰かに固定されない方が好都合かもしれない」
「日記とか個人的な書き物は、私たちに語っているわけじゃないだろ」
即座に禁を破った私だったが、この質問は悪くない代物だったようで、風子は大まじめな表情を崩さずに、
「ここでいう『私たち』は物理的な意味での私たちじゃないよ。読者として想定されている誰かのこと」
と続ける。このあたりで私にもだいたいあたりがついた。
「つまり風子は、『読み手が根本的に想定されていない文章』が不自然に感じる、って事か」
そうだね、と風子は微笑んで、ごく自然に指を箸に向けた。
それを見逃す私ではない。
「独り言は」
「そんなものは存在しないよ」
即座に、きっぱりと、明確な意志をもって彼女は答えた。その手は止まっている。
「誰かに語りかけない言葉は、そもそも言葉じゃない。ただの音だよ」
ふむ。私は自分の束ねられた髪をぎゅっとつかんで、中空に視線を向けた。
誰かに指摘された、独り言を言うときの癖だ。
「あっ、忘れてた。あれの返却期限今日だったわー。あっぶなー」
「そうやって独り言のようなものを口にして、その実在を示そうとする頭の悪い子とは、お別れしたいなあと風子は思うのであった」
「ごめん」
素直に謝ることにする。今のは独り言ではないのは確かだ。失敗である。
「ちなみに返却期限が切れそうなのは」
「それは本当。図書館で借りてた資料三冊。今日返しに行く」
「ふうん」
今の会話に意味があったのかは不明である。てっきり一緒に行く流れになるかと思ったがそうでもないらしい。
それはさておき、いまの私の発言は、彼女に語りかけようという意図を文面上に含んではいなくとも、コンテクストがその意図を示すものであった。
「で、もう分かったと思うけど、一人称で書かれたフィクションって、誰に語りかけているのか分からないことがあるんだよね。もちろん、語り手が私たちに語っていると考えても良いんだけど、それにしては不自然なケースがある。それがさっき言った、継続相。一人称での語りであれば、ある瞬間の、その語り手の意識経験の記述。これがとても不自然に思える、ってわけ」
そこで風子はカップに口を付けようとして、しかしソーサーに置き直した。どうやら中身が空になったと見えて、サーバーに手を伸ばす。私のすぐそばに置かれているそれには――ほんの僅かに届かない。これだからそんな変なところに座るべきではないのだ。まあ、今日に関しては後に座ったのは私なのだが。
風子の手が届く距離までサーバー動かすと、彼女は「ありがとう」といって微笑んだ。極わずかな労力の見返りがこの笑顔である。この世界は実によくできているものだ。
カップに三杯目のコーヒーを流し入れつつ、風子は、
「だから書簡形式なら特に違和感は覚えないよ」
と補足をした。
しかし、それはなんとも古くさいものの見方のような気がする。
そういう形式は現代では廃れたとはいわずとも絶対多数というわけでもないし、私の貧困な文学史の記憶からしても、そうした形式からだんだんと一人称による意識の語りへと進化していったはずなのだ。
「それは文学史に対する反抗な気がするな」
浅知恵のままにそう言ったのは冗談だったのだが、聞いた風子が浮かべたのは、幾分寂しそうな微笑みだった。
「かもねえ。私はそれについて行けてない、だいぶ古い時代の人間なのかもしれない。でも、あれは、一人称で意識を記述するってのは、とても実験的な試みだと思うんだよね。それこそ困惑させる力を持ってる。だって、話者が『なぜ』語っているのかも読者はさっぱりわからないんだから」
「それって重要なことかな」
意図、それがテキストにおいて重要なことなのか。私には若干首肯しかねる見解である。
風子にとってはどうだろう?彼女は彼女で、かなり物理主義なところがある。時には、
『意識なんて実在しないよ』
と大まじめにのたまうほどで、心的なものの存在を認めていない節さえある。
その彼女が意図を重んじるのは、いささか不思議なことのように思えたのだが――
「私は語りを行為と見なすから」
その言葉で、私は彼女のいわんとしていることをおおむね理解した。
「だれかが、理解可能な文法のもとで、何かを語っている。そのように、話者がひとつの行為を為しているように、『作者』は書いている。――その時、どうして話者はそのように語っているのだろう?『作者』が『話者』をして語らしめる、そこに内在するはずの意図、それがわからないと、もやもやする。『作者』の意図は理解可能だよ。語りそのものの意味内容も当然理解できる。そっちじゃなくて、『話者』の語りの意図、これが理解できない」
「不自然、というのはそういう意味か」
「あまりにも日常の言語使用と乖離している気がするんだよねえ。ま、百歩譲って人がなにかを考えている、といえたとしても、その『考えている』ことを『語る』なんてのは、これはだいぶ異常なことだと思う」
なるほど確かに、と私は頷いた。実際、私は今まさにこうやって考えているが、それをいちいち誰かに話しているわけでもないし、そんな事をした経験はない。あまつさえ誰かが、私を語り手としてそれを記述しているなんてのはなおさらありえそうに無い。
「ま、つまりですね」
これで話は完全におしまいだ、といわんばかりに、彼女は力強く箸を握る。
「一人称での語りってのは、読者の理解力を信頼しているからこそできるのであって、私のようにそうした信頼を裏切る読者にはとても強い違和感をもたらすのです、という話なのでした。そしてあるいは――読者を信頼するがゆえに、書き手には多少なりとも誠実さが要求されるのかもしれませんね、とも思います」
もう食べて良い?と目線で問いかける風子に私は小さく頷いた。
最後に付け加えられた言葉の意味は分からなかったが、これ以上風子の朝食を邪魔するわけにはいかない。
「冷めちゃったよう」と呟きながら卵黄を箸で開いていく彼女を見ていると、先に感じていた罪悪感が胃のあたりから這い上ってきて、そうして零れた。
「なんか、ごめんね」
「まだ食べちゃ駄目なの?」
ほとんど独り言のはずだったのに、彼女はそれを許さなかった。もう一度謝ったが、彼女は箸を動かさずにじっと私の方を見ている。
眼鏡をかけているかわかりにくいが、彼女の瞳はとても大きい。睫も長い。黒々と輝いて、見るものを吸引する磁力のようなものを発している。
降参して、私は告白することにした。
「いやね、いつもこんな話ばっかでさ……。恋人らしいことなんてろくにしないで……」
「昨日の夜のこともう忘れたの?」
「そういうのじゃないんだよっ」
顔が熱いのは風子のデリカシーのなさに激高したからであって、そのほかに理由はない。
「なんというか、もっとこう、普通に恋人らしい会話をしたいなあ、みたいな? 甘い会話、そう例えば」
「マーマレードのように?」
私が顔を顰めるのを見て風子は笑った。笑ったまま、
「できもしないのにねえ」
と、甘やかすような声でそう言った。
ひどく正しい。私はそういう会話が不得意だ。高校の時分、初めてできた彼氏を相手に試みた際、こういう会話には才能が必要なのだと思い知らされた。
いやしかし、人は努力できる生き物である。今為せぬことをやがては為し得る、それが人間の美徳だ。
だから私も、正しく風子の恋人として振る舞えるよう、努力せねばならない。
だが、そんな葛藤は、彼女には全く通じないらしい。
風子はいつものごとく、この世にはなんの憂いもないかのように、へらへらと笑っていた。
「んー、や、私も楽しいから気にしなくても良いよ。目玉焼き冷めるのはやだけど」
「うん」
「それにさ、いわゆる『恋人らしさ』なんて、かなちゃんには求めてないしさ。そういうのが必要だったらほかの人と付き合うよ」
「……うん」
考えてみれば、彼女だって普通ではない。どちらかというと異常者だ。私もまあ、普通ではたぶんないし、ちょっとずれた関係だけど、こういう形で私たちにはちょうど良いのかもしれない。
だけどまあ、今後好奇心はベーコンエッグが冷めない程度に押さえておこうかなーーなどと考えていると、風子は箸をくるくると回して、
「実際今の彼氏とは普通にらぶらぶ?だしね」
「え」
え?
「あれ、かなちゃんには言ってなかったっけ?ちょっと前に告白されて付き合ってるんだけど」
「え」
え?
「今日もちょっとお昼から出かけてくるから、よろしくねー」
何がよろしくなのだろうか。私に一人お留守番をしていろとでもいうのか。
「あ、かなちゃんも図書館行くんだっけ。じゃあちょっと会ってみる? 結構良い子だよ、彼」
それは暴力行使の許可ですか?
つーか彼氏ってなに? いつの間に?らぶらぶ?
私というものがありながら?
「ふうううこおおおぉぉぉぉ……」
べったんとテーブルに突っ伏して、私は絶叫した。仮に風子が隣に座っていたら間違いなくつかみかかっていただろうが、彼女は私のはす向かいだ。もしや計算しているのではないか。こういう場合に備えて距離を取っているのでは?
テーブルをべしべしと叩いて抗議の意を示す。やれやれといわんばかりのため息に、今度は視線で不満をぶつけた。そうすると風子は、困ったように笑って、
「あー、でもほら。ほかの人とも付き合ってるっていってもさ」
そういうと、風子はすっかり冷めてしまったベーコンエッグに箸を伸ばした。
黄身を割開き、醤油を数滴垂らす。
そのまま全体を半分に折りたたむと、風子はそのちいさな口をめいっぱい大きく開き、ぱくりと一息でベーコンエッグを放り込んだ。
もぐもぐと大胆に咀嚼したのち、ごくりと音をたてて飲み込む。
とんでもなく品のない食べ方であるが、これが彼女の普通の食べ方だ。
しかしそれで、一体なんだと言うのか?
呆然とする私を見て、風子は花が咲くように笑いながら、言う。
「こんな食べ方するの、かなちゃんの前だけだから安心して?」
そうか。なるほど。
私はひとつうなずき――再びテーブルに突っ伏した。
「ふううううこおおおぉぉぉぉぉ……」
「うるさいなあ」
再度テーブルを虐待して抗議するが、もはや付き合ってられないとばかりに風子は席を立って、食器を片付けに行ってしまった。付き合ってられないのは私の方だが、実際交際を止めたときに苦しいのは私だ。救いようがない。
風子。私の交際相手である彼女は、非常に柔軟な恋愛観念を持っている。はっきり言えば淫乱であり、もっと汚い言葉を使えばビッチだ。多淫症だ。彼女には一切貞操観念がない。
愛してくれさえすれば誰でもよい、それが彼女の信条だ。
童貞と処女を好んで喰らう風子は性規範への挑戦者に他ならない。現代社会が生んだ怪物だ。それは知っていた。
しかし仮にも交際相手がいるというのに、平然と他人と情を交わすほどとは思っていなかった。正直に言えば、とてもつらい。
説得しなければならない。しかし、どうやって? 残る時間はどれだけあるのか? 土下座という最終手段を考慮しなければなるまい。私に残された手札は多くない。
下手に問い詰めれば彼女はあっさりと私の元から離れていくだろう。
私が別れを切り出せば彼女は即座にそれを飲むだろう。
そういうところが、好きなのだが。
そんな風子はその一方で、はっきりと私のことが好きなのである。
自意識過剰の誹りを受けようとも、それはもう、直感的にそうだとしか言えない。
風子自身がたびたび口にするけど、そのような愛の言葉など抜きにしても、なんとなく伝わってくるものがある。
そういうところが、嫌いなのだが。
テーブルクロスに右耳を擦りつけながら、風子を説得する手段を脳内にあれこれと並べたてていく。
そうしているうちに、さっきまで頭の中で転がしていたはずの一人称単数の語りが孕む謎なんてものは、跡形もなく消え去っていた」
このように水野火那が語り終えると、土屋風子は白磁のカップに紅茶を注ぎ、はす向かいに座る火那へと差し出した。
「不誠実ですねえ」
手元の紅茶に波紋を揺らして、風子は薄く笑った。
結果的に昨年投稿した『自分語り』に対する煽りに。ちょうど良い時期だったので投稿。
火那と風子のお話はもう少し書きたいが特にネタがない。1st plural はありかも、くらい。