「運命」と「確率」
書きたかったことを書き連ねました。
特に深い意味はありません(?)
学生の戯れ言だと思ってください。
それでも見てくれれば幸いです。
確率。
それはいわゆる「~が~になる割合」を表している。
これは、「運」という抽象的なものを理論的に解説したものである。
しかし、果たして「確率」は存在するのだろうか。
世には「運命」という言葉がある。
自分に起きることは全て「運命」なのだ。
例えばこの文を書いている作者だって、「書くこと」が「運命」なのだ。
それをふまえて、「確率」という概念を見てみると、とても信じられなくなる。
宝くじでも「当たり」と「はずれ」は必ず出てくる。
その当たりを引いた人は「運」が良かったのだ。
自分は、この「運」は「運命」の略称であると考えている。
「幸運」とは「幸せな運命」のことであり、「不運」とは「不幸な運命」のことであろう。
宝くじの当たりを引いた人は、それが運命であり、その人がはずれを引くことはない。
「もし、あのとき、少し遅れていたら? 当たっていなかったのか?」
こういう考えを人は持つだろう。
だけど、それはないのだ。
遅れるという運命ではなかったから。
人という生物は、「もう終わった(決まった)事柄」に対して、仮説を抱く。
現に遅れなかったのに、わざわざ遅れる可能性を考えてしまう。
そんな運命は元より無いのだ。
「遅れるかもしれなかった」という考えがあるだけで「遅れはしない」のだ。
自分のこれから進む道も、起こりうることも全て「運命」である。
「確率」という言葉は、「良い運命」に生まれたか、「悪い運命」に生まれたか、そういうことを表しているのだと思う。
百個あるくじの中で、十個だけ当たりがある。
一般論では、当たる「確率」は10%だろう。
だが、「運命」という観点から見ると、それは0%か100%の違いだ。
「当たる人」は確実に当たるし、「当たらない人」は確実に当たらないのだ。
世の中の確率というのは、「100%」か「0%」しかない。
それは、この世に生まれてきて、「運命」という道筋が決められているからであって、決して不正などではない。
平等という言葉は、「運命」の前では程遠く、人々に平等という言葉を植え付けるために「確率」という言葉が生まれたのだと思う。
今、この一時に、世界の「運命」が流れているのだ。
自分の人生の「運命」は誰にもわからない。
「運命」が世界を作り、それもまた「運命」なのだ。
「運命を変える」という言葉は存在しない。
変えたと思った行為すらも、また、「運命」なのだから。
ふっ、と頭に思い浮かんだことを書き連ねていくシリーズです。
これから少しずつあると思います。