普遍文学と娯楽文学
まず最初にお断りをしておきます。カズオ・イシグロの考えと重なる部分もあります。氏の話に納得できるということではなく、私なりの経路で同じ考えに至っていたというところです。後から言っても意味がないことではありますが。
さて、文学、小説は様々に分類やジャンルに分けられます。ですが、まずはそれらは忘れてください。というのも、ここでは「普遍文学」という考え方を導入したいからです。それの導入のためには、よくある分類やジャンルは邪魔になります。
「普遍文学」とはどういうものを想定しているのかを説明するためには、そのものを言葉を尽くして説明するよりも、対置されるものを挙げるのが簡単でしょう。「普遍文学」に対置されるものとして考えられるものの一つは「娯楽文学」です。あるいは「大衆文学」、「大衆小説」、「娯楽小説」と呼んでもかまいません。ただし、やはり「娯楽文学」と呼ぶにしても、幾分普通にそう呼ばれるものの説明とはズレがありますが。あるいは、はっきり言えば、時代によって、かつては「娯楽文学」と呼ばれていたものが「普遍文学」であるとみなされるようになった作品もいくらでもあるからです。
さて、「普遍文学」の解説を試みてみましょう。カズオ・イスグロは、「アイディアをどんな舞台にも動かせる」と言っています。氏とは別に、私は、「TRPGのシナリオは世界やシステムに依存しない」という経験から、同様の結論に至っています。
小説にしても、TRPGのシナリオにしても、これは奇妙なことに思えるかもしれません。あるいはTRPGのシナリオにおいては、小説より奇妙に思えるかもしれません。
ただ、この言い方は、氏も指摘していますが、少し胡麻化しがあります。というのも、「よりしっくりくる設定」と言えるものは存在するからです。
ですが、そこはここで考えたい問題ではありませんので、無視します。
そして、この説明から「普遍文学」とは、「どのような、あるいは様々な舞台においても書き得る文学」、あるいは「そのアイディア」と言っても、理解していただけるかと思います。
言い方によっては、「具体的な普遍文学」は存在しないとも言えるのかもしれません。「普遍文学」は具体的なものの奥にある、描かれ、あるいは描かれないものと言えるのかもしれません。
さて、この理解を進めるためにも、対置した「娯楽文学」について考えてみましょう。
上に書いたことをそのまま継承、あるいは用いて言うなら「娯楽文学」は、「舞台や状況が先にある」ものであり、「それらからアイディアを動かせない」ものと言えるかもしれません。
この「アイディアを動かせるか否か」というのは、そもそもとして奇妙な対置に見えるかもしれません。
そこで「動かせない」方の例として、推理小説を考えてみましょう。殺人が起こることはたぶん動かせず、トリックがあることも動かせません。もし、ここでトリックこそがその作品の「アイディア」であるならば、そのアイディアを異なる設定や世界には動かすことはおそらく難しいでしょう。
ですが、推理小説はすべて「娯楽文学」なのかというと、それは違うでしょう。というのも「普遍文学」においては「アイディアを様々な舞台に動かし得る」とするならば、その舞台が推理小説であったという場合もあるだろうからです。
ただし、このような分類においては、おそらくは明らかにかつ絶対的に「娯楽文学」と予想されるものもあります(ま、意図的に強く言っていますが)。通念とはおそらくまったく逆に、「純文学」、「私小説」、「恋愛小説」あたりです。いや、「恋愛小説」はどっちみち「娯楽小説」かもしれませんけど。純文学とかにおいて愛とかいうのが重視されるように思うので、わざと入れてます。
そうすると、「宮沢はSFしか書かねーじゃん」という声も聞こえます。それは自分に対しての縛りであって、そこを舞台の前提として書いてるわけじゃないです。
私が書いているSFは、だいたいは「知性」が問題になっています。この問題を書くには、SFという舞台がしっくりくるわけです。「SFってなんなんだろう? ――ヒトとSF――」[*1]とかでも書きましたが、問題を浮き掘りにしやすいのです。ですが、たとえば西洋であれば古代ギリシア、古代ローマ、ルネッサンスのあたりとか、産業革命のあたりとか、日本であれば文明開化のあたりとか、時代そのものも替えられます。舞台や設定も同じく。
ジャンルも同じく。「Project 世○遺産」[*2]は通じるかどうかわかりませんが、コメディーとして書いてますし。構想を始めた「愚かしくも愛おしく」は恋愛の方に重きを置くこともできるでしょう。縛りから、そうしませんけど。
さて、そういう考えを進めていくと、面白いことが起きます。というのも結末が変わる場合があるということです。
「Project 世○遺産」で、「自然って素晴らしい」という方を重視すれば、「バランスが取れた社会を作れた」という結末もありうるでしょう。
「人間の可能性」を重視すれば、山彦杯にて次点をいただいた「共進化」[*3]でも、「進化の渦の中で」[*4]でも、ハッピーエンドになるでしょう。
これはどういうことなのでしょうか。これは簡単な話です。「SFってなんなんだろう? ――ヒトとSF――」にも書いたように、「結末は結論ではない」というだけの話です。
あるいは、「娯楽小説」が「アイディアを動かせない」のだとすると、それはどういうことなのでしょうか。「SFってなんなんだろう? ――感動とSF――」[*5]に書いたように、舞台や設定など、そもそもとして結論において安心したいということがあるのかもしれません。
ですが、結論や結末ではなく、「疑問」や「問題」を提起することこそが「アイディア」であり、「疑問」や「問題」こそが動かせない「アイディア」という場合があります。あるいはそれであってこそ「普遍文法」と言えるのではないかと思います。結果として、これはSFと風刺小説において顕著ですが。それは、そういうのを書くとそっちになっちゃうというようなものです。
てなことを考えてみました。「普遍文学」と「娯楽文学」のどっちが上とかということはありません。どっちもあれば楽しいですから。
*1: http://ncode.syosetu.com/n3956co/
他にもいろいろ見てもらると喜ばしいです。
*2: http://ncode.syosetu.com/n3488cv/
*3: http://ncode.syosetu.com/n5884cn/
2015-Aug-21の結果発表にて。1位が2作、次点が4作ですが。
*4: http://ncode.syosetu.com/n7129cn/
*5: http://ncode.syosetu.com/n4170co/