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5 天国と地獄

 わたしのつま先が地面を踏み、訓練場にいる時のように意識が研ぎ澄まされる。


 その瞬間、わたしは振り返った。同時に、その先にいるであろう彼のもとへと銃弾が放たれる。


 音より速く飛ぶそれは、空を切り裂き、綺麗な螺旋を描いて、いつもと同じ軌道をなぞって――。






 ――向こうの景色へ消えた。


「やると思ったよ」


 私の後ろからゲイシーの声がした。


「奇遇ね。わたしもよ」


 わたしはそう言うと、思い通りにならない左腕でナイフを振り、ヤツの顔へと突き出した。


 こちらの腕は、ゲイシーにとって全くの死角だ。グズグズになるまで蹂躙され、本来の機能をほとんど失っているからである。だからこそ、銃弾を撃ち出したその瞬間、わたしが左手でサバイバルナイフを引き抜いたことにヤツは気づけない。まさか、その左手で攻撃されるなんて夢にも思わないだろう。


 あと、方法はよくわからないが、コイツは文字通り煙のように消える。だが、現れる場所はこれまでの戦いでなんとなくわかっていた。攻撃したい相手のもっとも無防備なところだ。


 だから、わたしの突き出したナイフは、ゲイシーの右眼の奥へと、深く、深く飲み込まれていった。


「ぐあぁあああぁあああっ!」


 ヤツの叫びが耳元で聞えた。それで思い出したかのように、火を吹くようにしてわたしの左腕が熱を持つ。あまりの激痛に立っていられなくなり、うずくまるようにして膝を折ってしまう。


「あああぁああぁあっ! 痛ぃいいあぁっ!」


 完全に折れた腕を筋肉で無理やり動かしてナイフを突き立てたのだ。当然のことだが、痛いなんてもんじゃない。しかし、どうにか掴むことができたのだ。この左手で。最高のチャンスを。


 本当は今の一撃で死んでくれれば良かったのだが、まあいい。あとは、混乱しているヤツに銃弾を撃ち込めば――。


「――やってくれたな」


 いつの間にか、わたしの右腕はヤツの左手に掴まれていた。最初の構図に逆戻りだ。おまけに、その掴む力はさっきよりも断然強かった。握り潰さんばかりの勢いだ。


「……っく!」


 痛みに思わず声が漏れる。


「よくもこんなことをやってくれたな。世界が平らになってしまったよ。実に良い気分だ。それこそ、ナタで頭をぶん殴って感謝を示してやりたいところだよ」


 ナイフの刺さったままの眼で、ヤツがわたしを見つめてくる。ビリビリとその気迫がわたしの肌を震わせた。再び、死の気配が近づいてくる。


「だが、まずはお礼の印にこれを返そう」


 ゲイシーは右手に持っていたナタを落とし、右眼のナイフを掴む。


「くっ! ぐぅううっ!」


 彼は、痛みに耐えるようにして、頭骨に収まったそれを抜いていく。わずかにしぶいたヤツの血が霧吹きのように顔へと散った。


「あー……、やっと抜けたよ。それじゃあ、今から君にも同じことを体験させてあげようね」


 彼の体液によっててらてらと光るそれが、わたしの顔へと近づいてきた。とっさにわたしは目をぎゅっと閉じ、そっぽを向くようにする。


「こらこら、そんなことをしたんじゃ上手く挿れられないだろう? じっとしていなさい」


 そう言って彼は私の目に、その体液で焼けるように熱くなったものを押しつける。濡れそぼった私の大事なところへと、その硬いものをじわりじわりとねじ込んできた。


「あぁ……っ……ふわぁ……あぁああぁぁっ!」


 最初から耐えられる痛みなどではなかった。これまでものを受け入れたことなどない穴を蹂躙するかのようにして入り込むそれは、決して優しくない。


 頭の芯にまで響くような痛みが、私の背骨を伝ってお腹へと染み入り、きゅうきゅうと締め付ける。


 ずぶり、ぐちゅぐちゅ、ぐずり……。


 嫌な音を立てながら異物が私の中に入ってくる。


「……あぁあんっ! っ……んっ……はぁあんっ!」


 わたしの大事なものが壊されていく。それは肉体的なことばかりではない。これまで大切に積み上げてきたものが、全て壊されていくのがわかる。


 警察官として一生懸命頑張って来たこと。


 訓練を重ねてきたこと。


 ギリギリまで諦めず、回らない頭で策をねって最善の行動をしたこと。


 人として生を営んできたこと。


 すべてが、この男の手によって台無しにされていく。


 それらが、まるでドミノ倒しのように脳髄を駆け巡る。たくさんの思い出が、わたしの心をバタバタと乱していく。


 もう負けだ。何もできない。


 こんなに頑張ったのに。


 ちゃんとしたのに。


 諦めなかったのに。


 もう全部ダメだ。


 その、もう全部ダメだという感覚が、目の奥であふれて涙に変わる。首の根っこから全身へと這い回り、表面を舐め回し、はらわたを鷲掴みにする。


「……あっ……ぁあっ!……あぁああぁぁああっ!」


 もう良いだろう。わたしはよく頑張った。だから、あとはもう、この感覚に、この絶望に、この屈辱にただただ浸っていよう。


「ほら、ここまで入ったよ。よく頑張ったね」


 そう言って、彼はその血塗れの手で頭を撫でてくれた。


 わたし頑張ったよね? もう良いんだよね?


「ぁあんっ……え、えへへ……」


 彼は褒めてくれた。こんなに頑張ったわたしを。一生懸命だけど上手くできなかったわたしを。いいこいいこって褒めてくれた。もうそれだけで、救われた気がした。太ももを何か生暖かいものが伝うのがわかる。


 どうやらわたしはちゃんと掴めたらしい。最高に気持ちよくなるチャンスを。


 しかし、彼はわたしの反応を見て、顔をしかめた。


「なんだそのリアクションは? なんで笑ってる? 怖くないのか?」


 さっきまでの優しい態度が嘘のように怖い声をだす。それが悲しくて、わたしの目から涙が流れる。胸がキュンキュンして、お腹の奥がじんじんした。


「……あぁ……あなたが、こうしてくれて、き……気持ちよかったから……です……」


 わたしは正直に言う。怒られた時は嘘をついてはいけない。お父さんの時もそうだった。


 ただ、彼はもっと顔を歪める。イライラしたように私の目を覗きこむように睨めつけた。


「私がこんなにも暴力を振るって、追い詰めてやったというのにそんな感想なのかい保安官? もっと絶望しろ! これから君は死ぬんだぞ? 嫌じゃないのか?」


 そう言って彼は、憎々しげにわたしの顔のナイフを押し込む。


 頭の奥でグズグズと嫌な音がした。恐らく、脳にまで達しているのだろう。もう取り返しがつかない。病院に行っても治らない。死ぬしかないそんな状況。 


 ただ、だからこそ、その絶望が良いのだ。


 もう全部全部ムダになってしまって、自分の人生の意味もわからなくなって、悲しくて惨めで苦しくて嫌だけど、その感じがとっても気持ち良いのだ。


「……嫌です。だ……だけど……こんなこと言ったら……また怒られるかもしれないですけど……気持ちいいん……です……。この絶望が……。だから、もっと、もっと酷いことしてくださいっ!」


 ああ、きっとまた怒られる。怒ってもらえる。


 ちょっとだけ優しくして貰えたからもう良い。あとは全部、怖いのが欲しい。酷いことをしてほしい。わたしの全部を否定してほしい。


 見ると、彼がどうしようもなく汚いものを見るような目でわたしを見つめていた。


「とんでもない変態がいたものだな。なんだ? 逮捕しに来たのではないのか? 君はここまで、こんな下らないことに私を付き合わせるためにやって来たのかい?」


「は……はい、そうですぅっ! あなたなら、わたしを最高に気持ちよくしてくれるって!  そう思って! 捜査の時も、バイクであなたを追っている時も、いっぱい酷いことされたいって考えてましたっ!」


 恐怖で震える身体で、精一杯叫ぶ。


 正直が一番。素直が大事。だってそうすれば、もっと怒ってもらえる。叱ってもらえる。ダメなわたしを見てもらえるから。


 さっきから口もとがニヤけて仕方ない。次はどんなことを言ってくれるのだろう。


「ああそうかい、本当に気持ち悪い。警察にも私みたいに歪んだ人間がいるのだな。まさか他の保安官たちも君みたいな変態じゃあるまいね? ……まあ良い。歪んだ者のよしみだ。そこまで言うなら、最高のコンディションでとっても酷いことをしてあげよう。その前に、これは没収だ」


 彼はわたしから離れつつ拳銃を取り上げて懐にしまう。更に、地面に落としていたナタを拾い上げる。もしかすると、またチャンスが来るかと思ったがそんなことはなかった。


「おい、悪魔よ! 三つ目の願いがまだ残っていただろう! 顔が焼けるように痛い。だから、私の傷を全て綺麗に癒せ! 五体満足にしろ!」


 突然、彼は空に向かってそんなことを叫んだ。すると、彼の足元からどす黒い光が立ち上る。


「おうよ、お安い御用だ。しかし、旦那。その代償は少々お高くつくぜ? 本当に良いのかい?」


 目の前の光を発生させている主の声がどこからか聞こえる。


「ああ、構わん。そもそも、とっくの昔に魂は売っているだろう? 今さら何を足踏みすることがある」


 彼が苛立たしげに返した。


「へいへい、毎度あり。んじゃ、お代の魂は時期がきたら頂きに上がりますぜ」


 ドス黒い光の主がそう答えると、その光が彼を包み込んだ。濁流に飲まれるようにその姿が見えなくなる。しばらくすると、その濁流が蒸発するようにして薄れていった。


「……これだ、この感じ! ハッハッハ! 前より調子が良いんじゃないのか? 君も見ると良いよ。どうだい? 前より色男だろう?」


 そう言うと、彼はこちらを向いた。さっきまで真っ赤に染まっていた目は、今度は黒に染まり、鈍く光っている。まさしく悪魔のようだった。


「さぁて、ショータイムだ。できる限り抵抗してくれよ? 私を楽しませろ」


 言われて、わたしは何かしなきゃと思う。ふと、もう一つ武器があったことに気づく。拳銃と共に腰から吊っていた武器、警棒に手が触れた。


 金属でできたそれを右手に取り、振り上げつつ彼へと踏み込んだ。避ける仕草をヤツはしない。このままなら直撃する、と思ったが黒い煙と化してヤツは消えた。


「あれ?」


 瞬間、首に痛みが走り、身体の自由が利かなくなった。ついで、視線がガクンと下がる。いや、自由が利かなくなったのではない。首から下がなくなったのだ。その事実に、自分の影を見て気づく。


「もっと突っ込まれたいんだろう? このクソビッチが! ほうら飛んでけ!」


 いつの間にか、彼の足が目の前にあった。それが右眼のナイフを更に押し込み、骨が軋む。ぐずり、とまた頭の中で音がした。


 ジェットコースターに乗った時の様にGがかかり、彼と私の身体が急速に遠ざかる。いよいよ終わりだ。楽しかった日々も、彼を追い回してきた毎日も、そして大切な人々との縁も。


 かなり思い切り蹴り上げられたらしく、街の色々なものが目に映る。


 街のランドマークである塔や、遠くに見える森、そして人々が集っていたであろう教会。


 ああ、悪魔がいるのであれば、きっと神もいるのだろう。ならば、どうか主よ、わたしをお許しください。


「……っ……っ!…………!」


 こんな状況なのに、なくなってしまった身体で快感を得続け、絶頂の中で死を迎えようとしているわたしを。


 天国なんて行けるわけないのに、頭の中は真っ白でとても気持ちよかった。


 気づけば、地面が近くに見える。


「……っ」


 あ、と言おうとしたが、口が少し動くだけで言葉にならなかった。


 わたしはナイフの側から地面へと落ち、その衝撃で右眼の周りの骨が砕ける。制約のなくなった刃物は頭の奥ある最後の意識を貫き、それによって目の前がリバーシみたいに真っ黒へと塗り替えられた。


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