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4 最善手

 「殺人鬼」エドワード・ゲイシー。追い求めた相手が目の前にいるというのに、わたしは喜べないでいる。


 彼を見た瞬間、反射的に右手に持ったままのハンドガンを彼へと向けた。三発分の銃声が静寂を打ち砕く。しかし、手応えはない。避けられた。「煙のように消える」とは聞いていたが、まさにその通りだ。


 比喩ではない。彼は今、目の前で黒煙と化したのだ。ほんの一瞬ではあったが、見間違えではない。


「とんだご挨拶じゃないか、お嬢さん。『初対面の人には眉間に銃弾をお見舞いしなさい』ってお母さんに習ったのか? ずいぶん上等な教育を受けているじゃないか」


 突然右耳に投げかけられた言葉に反応し、その声がした方へと銃口を向けようとした。


「……っつ!」


 手に痛みが走る。右腕の自由が効かない。革の手袋がはめられた手が、万力のように締め上げていたからだ。とっさに振り払おうとしたが、力負けしてしまってそれもできない。


「体に力が入っているな。ちゃんと話すのはこれが初めてだろうが、緊張する必要はないよ」


 フードの奥の目がわたしを見下ろす。捜査中に何度か見たあの目だ。捕食者であり強者であり、そして狂人であることを証明するような獰猛な瞳がわたしに向けられている。対するわたしは精いっぱいの抵抗として睨み返すことしかできない。


「いやいや、素敵な笑顔じゃないか。さっきの挨拶といい、随分と徹底した礼儀作法を教えられたのだな」


 ゲイシーが皮肉るようにしておどけて見せた。


「ママに『挨拶は相手に合せて変えるように』って習ったんだよ。大統領と人間のクズに同じ挨拶は出来ないだろう?」


 負けじと言い返す。正直、冷静なつもりだが今にも動転してしまいそうだ。想定よりも早すぎる。加えてさっきの妙な術も、私の心を掻き乱すのに十分だった。


 おそらく死んではいないと思うがリッピーのことも気になるし、一度考えを整理する時間が欲しい。だがそうもいかない。ギリギリと締め付ける相手に対抗するように、わたしも出来る限り腕に力を入れて抵抗する。


「ハッハッハ! なかなかユーモアにあふれるお嬢さんだ。この私が大統領とは。そうだな、それなら私も精いっぱいの礼儀を持ってお相手しよう。例えば親睦を深めるためにダンスなんてどうだい?」


 言って、ゲイシーは掴んでいた手を思い切り引き寄せる。わたしはつんのめるようになりながらヤツと正面から向き合う形になった。そう認識してすぐ、左肘に激痛が走る。


「くっ……」

「おっと失礼、手が滑ってしまった」


 ヤツの右手のナタがわたしの左肘を打ったのだ。感覚的に骨が折れていそうだが、見てみると血は出ていない。みねうちだ。その事実に気づいて腹の奥底が静かに冷える。コイツは、わたしで遊んでいるのだ。


「そういえば、ダンスの初心者は相手の足に引っかかって転んだりするらしいな。気をつけろよ」


 そう言って、彼はわたしの右手を引きつつわたしの足を力任せに払った。体が浮き、次いで地面が急速に目の前へと迫ってきた。


 とっさに左腕をつこうとするが痛みで手を引っ込める。だが、わたしは右手を掴まれているため、結局左腕から地面へと落ちてしまう。


「……いぎぃっ!」


 激痛が走り、目の前がフラッシュを焚いたように見えなくなる。わたしは見動きが取れなくなった。みしりと嫌な音がし、左腕が燃えるような熱さに包まれる。


 心臓が暴れるようにして脈を打つ。体に「動け!」と叫ぶかのように、急き立てるかのように、わたしの頭へと危険信号を送り続けていた。


 しかし、わたしの脳はモヤが掛かったように働かない。頭の中に熱湯を注がれたように、熱くて重い。


 どうしよう。


 どうするべきか。


 この状態でどうにかやり過ごす方法はないのか。 


 耐えるようにしてじっとしながら、痛みに悶える頭で考える。鎖でも巻かれたように動かない頭を無理やり回した。しかし、妙案は浮かばない。


 全身が熱い。酸素が足りないのか、さっきから犬のように呼吸をしている。息をするごとに、血の気が引いていくのがわかった。


「ほら、言わんこっちゃない。大丈夫かい?」


 優しい声を出しながら、ヤツがわたしの左腕の上に足を動かした。そして、わたしの顔を見てニヤリと嫌な笑みを浮かべる。


 わたしが彼のやろうとしていることに気づいたのを確認してからゆっくりと足を降ろしていく。まるで、見せびらかすかのように。


「や、やめ、やだ、ごめんなさ……あぁああぁぁああっ!」


 じわじわと、焼きゴテでも押し付けたかのように左腕が熱くなる。


「痛い! やだ! やめて! 謝る! わたしが悪かった!」


 とっさに、口から言葉が吐き出される。殺人鬼に命乞いなんて、わたしは捜査官失格だ。しかし、プライドをかなぐり捨てて放たれた言葉などなかったかのように、念を押すようにして彼はグイグイと体重をかけてくる。


「おっと、失敬失敬。昔から足癖が悪いものでね」


 そう言いつつ、彼は笑顔のまま足を上げては地面まで砕くかのように振り下ろす。


「あがあぁああぁあ! いぎぃっ! あっ! もう……やめ……かはっ……」


 足が腕へと叩きつけられるたびに体が跳ねる。叫びすぎて喉が痛い。まともに言葉も話せない。酸欠でだんだん頭がぼーっとしてきた。脳の奥に釘でもつっこまれたようにじんじんする。寒気で背中がゾクゾクした。


「んー? どうしたんだい? 涙なんて流して。つらいことでもあったのかい?」


 気づけばわたしは泣いていた。こんな溺れるような暴力が襲ってくるとは思わなかったのだ。いや、覚悟はしていた。


 警察官として、捜査官として働きだしてから、いつかこんな時が来るとは思っていたが、心の準備ができていなかった。我ながら不覚だ。


「……つらく……なんか」


 擦り切れた喉でそれだけいう。思った以上に声が出なくて少しだけ驚いた。


「ハッハッハ! 元気なお嬢さんだ。転んでしまったみたいだがもう大丈夫だよ。今起こしてあげるから」


 そう言うとヤツは、万力のように握りしめていた左手を離した。やった、チャンスだ、なんて思う間もなく、さっきまで踏み潰されてグチャグチャにされていた左手を彼がとる。


「え?」


 どうする気だ? まさか、やめろ! もう無理だ! これ以上されたら……。


「さあ、立つと良い」


 そう言うと、今度は右手が踏み潰される。そのまま、彼は折りたたまれていたわたしの左腕を引きちぎるように力いっぱい引っ張った。


「あぁああっ……ぁああぁあああぁっ……ぁああああっ!」


 ギリギリまだ繋がっていた左腕の肘が「ごきり」と嫌な音を立てた。痛みで背筋に鳥肌が立つ。限界を超えた痛みはわたしの腕を伝い、背骨を通して全身へと伝播し、頭蓋骨の天井にぶち当たって弾けた。


「あはぁあああんっ! いいぃいいいっ!」


 臨界点を突破した痛みが腹の底で熱くなる。きゅうきゅうと締め付けるそれは、あふれるようにして口もとから漏れた。追い詰められる感覚が、わたしの全身を撫で上げていく。飽和した痛みが、別の何かへと姿を変えていくのがわかる。


 心の準備はもう出来た。とうとうこの時が来たらしい。


 待ちに待ったこの時が。


 準備に準備を重ねて招き入れたこの時間が。


 訓練に訓練を繰り返して手繰り寄せたこの瞬間が。


 わたしの心臓に、脳に、命を削って身体中の産毛を愛撫しながら這い上がってくる。


「あはぁ……」


 全身の感覚に、思わず頬がつり上がる。渇いた喉を押し広げて顔を覗かせるこの感覚に、わたしは声を抑えきれなかった。


 ゲイシーが足を右腕からどけ、腕としての機能をほとんど果たせなくなった左腕を引っ張ってわたしを吊り上げる。


「……何を笑っている?」


 言われて、口もとが緩んでいることに気づき右腕で顔を隠す。こんなわたしだが、羞恥心くらいあるのだ。

 そんなわたしの様子を見て、ゲイシーは何やら不満そうだった。


「どうやら、ダンスはお気に召さなかったみたいだな」


 そう言うと、彼はわたしの手を放した。数分ぶりに自由が戻ってきたが、わたしの感覚では何時間もヤツに蹂躙されていた気がする。それくらい、充実したひとときだった。


「……どうやら、君にはまだダンスのような大人の嗜みは早いようだ。なら、今度はかくれんぼなんてどうだい?」


 そう言うと、彼は二歩ほど後ろに下がる。


「ルールは簡単だ。私はここで5分ほどの間、君がどこかに隠れるのを待つ。そして、時間がきたら、君を探しに行く。見つけたら……あとはわかるね?」


 ゲイシーは再び笑顔を作った。グニャリとしていて、見ているだけでゾクゾクするサディスティックな笑顔を。


 人を突き刺すような目がわたしを見ている。その目は「もう少し楽しませろ」と語っていた。わたしはどこまでも遊ばれているのだ。


 しかし、ここまで追い求めた相手だ。わたしをここまで追い詰めてくれた人物なのである。取り逃がすなんてことはしたくない。それに、これはどう考えてもチャンスだ。


 だから、ゲイシーから視線を外し、ゆっくりと、ゆっくりと、彼から離れていく。


 負けるときは、最後まで自分が最善だと思う手を打たなければならない。それをわたしはお父さんとのゲームから学んでいた。ヤケクソにはならない。ただ淡々と、でき得る限りのことをする。


 だって、そうした方が気持ちいいから。


 彼との距離がどんどん開いていく。10メートル、20メートルと間が開く。


「ハッハッハ! ずいぶん様になっているじゃないか保安官! 犯人を目の前にして! 相手の成すがままにされて! 惨めに見逃してもらっている! 君はこの出来事を部下に語って聞かせてやるといい! 自分の身可愛さに栄誉を逃したのだと不幸自慢をしろ! 良いんだぞ! 街の外に出てしまっても! そうしたら私は君を追い続けるぞ! 一生私の影に怯えて楽しく愉快に暮らすといい!」


 ゲラゲラと彼の声がわたしの背中へとぶつかり、服の下へと潜り込んでくる。たまらない。もっと罵ってほしい。だが、まだだ。最善はこうじゃない。もっと先、わたしがもう少し先にいったところにある。


 思わず口元が緩む。きっと今のわたしは、恥ずかしいくらいに笑顔だろう。それくらい、これから訪れる未来が楽しみで仕方なかった。涙がこぼれてしまいそうだ。


 痛む左腕を気にせずに、しかし右手のハンドガンは握ったまま、一歩一歩前へと進む。


 30メートル、40メートルと、また彼との距離が開く。もう、背中に浴びせられる声をあまり聞こえない。足を進めるごとに、その声が更に小さくなり、それに伴ってわたしの意識は研ぎ澄まされていく。ここからが重要だ。ここを逃したらもう勝ちはない。


 自分の足元を確かめるようにして歩を進める。それと同時に、とある光景を心に浮かべていく。それは、さっきまで蹂躙されていた自分でも、穏やかに過ごしていたあの時の自分でもない。


 訓練場に立つ自分。いつもの場所にある的へと狙いを定めるわたしの姿。


 わたしの直近三ヶ月の射撃訓練成績は100パーセント。


 そして、訓練場の的のある位置は、50メートル先。


 わたしのつま先は、今、彼から50メートル先の地面を踏んだ。


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