0 プロローグ
わたしは小さい頃、お父さんとリバーシをしたことがある。
きっかけはお父さんの言葉だ。
「十回に一回でも父さんに勝てたら、一万円やるぞ」
当時のわたしはまだ小学生で、だからその言葉はとても魅力的に感じられた。
それに、わたしはまだ子どもでバカだったから、白いのと黒いのをひっくり返していって、最後に自分の色の石が多いほうが勝ちなんていうルールのゲームは、なんだかとても簡単そうに見えた。
わたしでも勝てるんじゃないかと思ったのだ。その上、「十回に一回」勝てれば良いのである。これはもう勝ったも同然だと思った。
当時、わたしはどうしても買いたいものがあった。大したものではない。友だちうちで流行ってたアクセサリーだ。今思えば本当に大したものではないのだけど、その時はそれがどうしても欲しかった。
だから、わたしはお父さんにリバーシ勝負を受けることにしたのだ。でも、ご褒美だけじゃなくて、負けた時用の罰ゲームも決められた。
お風呂掃除とトイレ掃除一ヶ月。
それはまだ小学生だったわたしにとって、重労働と言っても過言ではないものだ。もちろん、その話を聞いた時に「絶対やりたくない」と思った。でも、それと同時に「どうせ勝つんだし良いか」とも思ってしまったのだ。
余裕しゃくしゃくで勝負を始めたわたしだったが、五連敗した辺りから焦りだしたのを今でも覚えている。
おかしい。こんな適当にやってれば勝てそうなゲームで五連敗だ。何かお父さんがイジワルなことをしているのではないか? と思ったが、見る限りズルはしてなかった。
むしろ手加減しているようにも感じた。最初は明らかにわたしが勝っているのに、最後になるといつの間にかお父さんの持ち石である黒でいっぱいになっていたのだ。
そこで石に秘密があるのかと思い「色、逆でやって」とお願いしたが、今度は盤面が白で埋め尽くされた。
これで六連敗。変な汗が出てくるのを感じた。心臓がバクバクと暴れていた。お腹の底の方がキュッとなって、頭がボーッとする感じがしたのを覚えている。
いっそ逃げ出したかった。まだ四試合あったから「もしかして」にかけることもできたが、これまでのゲームの流れから自分が勝つところが想像できず、その時にはもう、立ち向かう気力は湧いて来なくなってしまっていた。
でも、お父さんはわたしが約束を破ると、いつもの優しい顔から想像できないくらいに怒る。それが怖いから、わたしは震える手で石を置き続けた。
九連敗した時、わたしはあの言葉の意味をやっと理解した気がした。今思えば、当然のことだがお父さんは最初からわたしを勝たせる気なんてなかったのだ。
リバーシにはノウハウとか戦略とか、そういう頭を使わないといけないことがちゃんとあって、わたしに負ける要素がないからあんなことを言ったのだろう。わたしはそれに、まんまと引っかかったのだ。
そこまで来ると、もう次の手を打ちたくなかった。一個石を置き、それに続いてお父さんが石を置き返す度に惨めな気持ちになった。負ける前から負けた後のことを考えてしまう。
それは、これから一ヶ月のこと。その時のわたしは、ぎこちない手つきでスポンジを握り、浴槽を磨き続ける自分の姿ばかりを想像していた。
一手打つと、わたしのお腹はまたキュッとなった。感覚がなくなるような、具合が悪くて寝込んでる時みたいな、立ちくらみをした時みたいな、そんな感じ。
嫌だけど、ゲームを進めるしかない。「もうやめない?」とか「ごめんなさい、もう無理です。なかったことにしてください」という言葉が喉まで出かかっていたが、その時のお父さんのちょっと恐い表情を見たら引っ込んでしまった。
本当に逃げ出そうかとも考えたが、きっと怒られると思ったのでそれもできずたんたんと続ける。そうするうちに、最後の一手になってしまった。
もうその時には、お父さんの持ち石である黒で盤面がほとんど覆われており、わたしの白が入る余地はちょっとしかなかった。
「どうした、打たないのか?」
わたしの手は、動かなかった。いや、動かせなかったのだ。これを打てば、わたしの負けで勝負が終わる。もし渋っても、降参負けになるだろう。でも、動けなかった。
「どうするんだ、打つのか打たないのか」
そこで、お父さんの声が少し怖くなった。心臓が暴れて手が震える。冷や汗が止まらない。視界がくらんで砂嵐みたいになっていた。
ブルブル震える右手を左手で無理やり押さえつけ、石を掴み、ゆっくりと伸ばしていく。
喉の奥が乾いたみたいになり、吐いてしまいそうな感覚を抑えながら、名残を惜しむような速度で手を伸ばす。お腹がじんじんして、頭の奥もじんじんして、運動をしてないのに息が切れて、それでも耐えながら石を置こうとした。
でも、その先はやっぱりできないと思った。投げ出せるものならそうしてしまいたかった。でもそれができない。だからわたしは、頭もお腹も変なまましばらく固まってしまった。
それが、数秒だったか、数分だったかわからない。でも、わたしの感覚だと永遠にも感じられる時間をそうしていた。
「早くしろよ」
唐突に耳へ飛び込んできたお父さんの声に身体がビクリと反応する。その拍子に、盤面へ石が触れてしまった。そのまま石は手を滑り落ちて、それを掴もうとしたができず、わたしの最後の一手は終わってしまった。
お父さんは、その一手でひっくり返るはずの石を一つだけ返した。その様子が酷くゆっくりに見え、今でも鮮明に思い出せる。
身体の中を何かが駆け抜けて、さっきまで変になっていた感覚が一気に弾けた。
自分の意思とは無関係にガクガクと身体が震え、頭のじんじんする感じが激しくなり、自分がどうなってしまったのかよくわからなくなった。
ただ、負けたことだけわかった。その後の未来も。
「父さんの十連勝だな。約束は覚えてるか?」
「……ふぇ?」
変な声が出た。気づけばよだれがたれてるし、いつの間にか涙も出ていた。
「……だ、大丈夫か!?」
お父さんは慌てた様子だ。多分、泣かせてしまったと思ったのだろう。腰を浮かせてわたしのところへ歩み寄ってくれたので、その身体に体重を預けるようにしてわたしは抱きついた。
その時、なんだかとっても安心して、すごく気持ちよかった。お父さんが頭を撫でてくれたというのもあるが、自分が追い詰められた時のあの感覚が蘇ってきたのだ。
ドキドキして、じんじんして、息が切れて、弾けるあの感覚。
それを思い出して、お父さんにバレないようにわたしは、手でお腹のところをグリグリした。まだ変な感じが残っていたからだ。
あと、お父さんは結局約束をなかったことにしてくれた。でも、その時のわたしにとって、そんなことはどうでも良くなっていた。
自分の体がどうなってしまったのか気になって、リバーシの片付けをお父さんに頼み、「おしっこ」と言ってトイレに駆け込んだ。
それからだ、わたしが負けることに快感を覚えるようになったのは。