聞かなかったことにしたい言葉
この10年、私だって幸せな時もあったし、その間は殆ど彼のことを思い出すこともなかった。
でも夫が愛人を作った事に気が付いた頃から、正直…これが彼だったらどうだったんだろうと考える事はあった。
彼を待っていて、別れてなかったらどうだったんだろうって。
夫への気持ちは冷め切っている。
じゃあ『小栗修平』という彼のことは?
考えないようにしよう…そう思う毎に考えてしまう。
「修平が今更あんなこと言うから…それで考えちゃってるだけよ…」
そう自分に言い聞かせる。
でも、今夜…別れ際の彼の言葉が耳から離れないでいる。
『今でも愛してる…綾子…』
髪をかきあげながら、耳の後ろまで手を滑らせて頭を抱え込む。
「忘れなくちゃ。あたしには翔太がいるんだから…あの子を守らなくちゃいけないんだから。私は隆弘とは違うんだから…」
それでも夫に捨てられた今、心細いところもある。
そこにつけ込んできたかのように、彼の言葉が浮かんできてしまう…。
翌日の朝、翔太を送り出すとすぐに私も出勤をする。
少し早めに出たせいか、まだ資材部には誰も来ていなかった。
フロアとごみ処理は業者が入っているので、各デスクとパーテーションの拭き掃除と、給湯室で残っていたカップを洗う。
ポットに水を足してスイッチを入れる。
届いているFAXを担当ごとに仕分け、伝票も指定BOXにまとめておく。
「おはよう。随分早いな」
始業20分前になって、部長が出勤してきた。
「おはようございます、部長。昨日の件ですが…」
納品は滞りなく住んだ事、現場にも足を運んだ事などの報告を済ませる。
「自分で受注を受けた物が、どんな風に加工されて現場で使われるか知る事は、藤森さんにとってもいい経験になったと思いますよ。今後に役立ててください」
「はい、頑張ります」
「ああ、それから。近々担当を正式に数社お任せする事になります。営業とのやり取りも増えますし、サポートもしていくことになると思います。昨夜、小栗君からも連絡をいただきまして、藤森さんをとのご指名でした。彼は営業でも優秀な人材ですし、藤森さんなら大丈夫だと判断しました」
「え、それって…もしかして小栗さんのサポートをしろという事ですか?」
「その通り。なかなか彼のフォローが出来る人材が見つからなかったんですが、藤森さんなら大丈夫だと思います。大変でしょうけど、頑張ってください。ああ、残業は極力しないで済むように取り計らっていきますから、その点は安心してください」
「…かしこまりました…」
いやだと言えば、理由を説明する必要がある。
だから、私は何も言えなかった。
彼と…小栗修平とは組みたくないんだとは言えなかった。
「嫌だけど仕事だし…。それに自分をしっかり持っていれば平気よ…」
そう自分に言い聞かせる。
元彼だとしても、それは仕事には関係ない。
私は私で、仕事に集中すればいいだけよ・・・。
ひっきりなしに入電する受注や問い合わせをこなし、あと数分で昼休憩に入るという頃。
「藤森さん、ちょっといい?」
記入していた伝票から顔を上げ、振り返る。
「はい…小栗さん…」
そこにいたのはにこやかに笑みを浮かべる小栗修平という、頭の中から消し去りたい人。
「もう部長から聞いたよね?これから俺のサポートを頼むから。早速打ち合わせしたいんだけどいいかな。あー、昼食いながらでもいいよね」
「…申し訳ありませんが、私はお弁当なので…」
「あー! それ、あたしに頂戴! お昼代払うから! いつも美味しそうだなって思ってたのよ!」
「斎須さん…」
同じ班の斎須さんは、私よりずっと年上だしベテランの、所謂『お局様』だ。
でも仕事には厳しいが、凄く世話焼きタイプの女性だった。
「小栗君、あとで請求してね。ああ、でも藤森さんの分だけよ」
「大丈夫ですよ、女史。藤森さんにはお近付きの印に奢るつもりですから」
「あらそう? じゃあ出-さないっ!」
「え、だめです。ちゃんと私に請求していただかないと…」
「藤森―、固い! 固すぎるからー。」
「大丈夫ですよ、女史。俺が出させるわけないでしょ?」
「それもそうねー。じゃ、藤森。お弁当を寄越しなさい。あたしが食べつくしてあげる」
両手を前に差し出されては渡さないわけにも行かず、渋々ながら自分の弁当をバッグから出すと手渡す。
それとともに、休憩のチャイムが鳴った。
「ちょうど休憩になったわね。藤森、行って来なさい」
「…はい…」
仕方なく頷き、彼の方を見上げる。
そこには真剣な眼差しを私に向けて、私が立ち上がるのを待っている彼がいた。




