前を向いて…
それから、ほぼ毎日、小栗さんはやってくる。
出張になったり、会議が長引いたり、接待になったりと仕事以外で遅くなる時以外だったけど。
そうなると…週に4日から5日は寄って行く。
「…ほぼ毎日じゃない」
やってくる日は、翔太の宿題を見たり、翔太に強請られて一緒にお風呂に入っていったりする。
おかげで下着や着替えが、我が家のクローゼットに置かれ、アメニティ類も置かれていく。
「…寝泊りしないだけで、一緒に暮らしてるみたいじゃない…」
けれど、約束通りに勝手に入ってくる事はない。
きちんとインターフォンを鳴らして、それから入ってくる。
彼のカードを預かってから、既に1ヶ月が経とうとしている。
その間も、一度も泊まっていったことはない。
食事をして、翔太と戯れ、翔太が寝ついた後に帰っていく。
それ以外は私と話すだけで、何をするわけでもない。
「何がしたいんだろ…」
今夜ももうすぐ、彼のやってくる時間だった。
「ただいまー」
律儀にインターフォンを鳴らしてから入ってくるくせに、ここ最近は【ただいま】と言いながら入ってくる。
「おかえりなさい…」
私ももう違和感なく【おかえりなさい】と声をかけてしまっていた。
この1ヶ月で、彼は既に我が家に馴染んでしまっていたからだ。
玄関でバッグとスーツの上着を預かる。
そして一緒にリビングへ向かう。
宿題に集中している時以外は、翔太もインターフォンの音と共に飛び出してくる。
「おかえりなさーい!」
「ただいま、翔太。宿題、終わったか?」
「うん! 今日は約束通り終わらせたよ!」
「そっか、偉い偉い。じゃあ今日は何しようか」
「ゲーム!ゲームやろうよ!」
「よし! じゃあ、ご飯が出来るまで俺と勝負だ!」
「今日は負けないよ!」
「おう! ちょっと先に着替えるから、準備して待ってろな」
着替えのシャツとジーンズを手渡し、彼が脱いだスーツをスーツバッグに入れて吊るしておく。
それももう、普段からの光景で、翔太も小栗さんも自然に受け止めている。
ひとしきりゲームをやって、夕食。
その後は男2人で入浴…極普通の親子の姿だ。
この1ヶ月、色々考えてきた。
小栗さんと付き合っていた頃の事。
藤森と出会って付き合いだし、結婚した頃の事。
翔太が生まれて、少し経った頃から藤森が帰宅しなくなった事。
就職して、小栗さんに再会した事。
…そして、離婚してからの事。
彼の気持ちや、今の自分の気持ち。
彼に傍にいて欲しいと願う翔太の気持ち。
二人が入浴中に、私は1本の電話をかけていた。
「会って話したいことがあるの。いつなら時間が取れる?」
「明後日の夕方だったら時間が作れる」
「じゃあ、明後日…近くまで行ったら連絡するわ」
「了解」
相手は藤森だった。
翔太の親権は私が持っているけれど、いつ会いたいと言い出すか分からないから釘を刺しておきたかったのだ。
翔太の事は完全に無視をしていたが、いつどう変わるか考えるだけで恐ろしかったから。
これは小栗さんとの事を真面目に考える上でも、必要な事だと思った。
「修平…話があるの」
「ん? どうした?」
翔太が満足した顔で寝入った後、コーヒーを出しながら声をかけた。
「うん…明後日ね、ちょっと藤森に会ってくるわ」
「…何故?…って聞いてもいいか?」
「…この1ヶ月、修平は毎日のようにうちに来て、うちに馴染んで行ってるわ。でも、いつ藤森が何を言ってくるか解らない。だから今のうちに、あの人に釘を刺しておきたいの」
「…俺が守ると言っても?」
「それでも、出来る事はしておきたいから」
「…そっか…」
「…あの人と話して、それから修平との事を考えるわ」
「綾子…?」
「ごめんね、ずっともどかしかったでしょう? もういい加減、前を向かなきゃ駄目よね」
「…俺との事、今よりも前向きに考えてくれるって…そう思っていいのか?」
「うん…」
「…正直なところ、もう諦めたほうがいいのかって悩む事もあったんだ。毎日のようにここに来て、綾子と夫婦のように過ごしても、翔太と親子のように接していても、実際はそうじゃない。」
立ち上がってソファーの私の前に来ると、彼を見上げる私の両手を取る。
「嬉しいよ…ありがとう…綾子」
愛してる…そう言ってそっと抱きしめられた。
「藤森さんが将来、どうしても翔太に会いたいと言うなら、会うだけなら拒否はしない。でもこれからは、綾子も翔太も俺が守っていくから。それだけはもう譲らない…そう伝えて?」
「うん、そうする…」
その後暫くして、小栗さんは帰っていった。
その帰っていく後姿を見送るのが、なんだか凄く寂しく感じていた。




