求愛
毎回サブタイトルに悩む…
「じゃあ、これ持って上がってます…」
社の駐車スペースに入ると、もう殆どの営業車が戻っていて一番奥のスペースに乗り入れた。
私は助手席から、後部座席との間に置かれた書類袋を手に取ろうと振り返った。
「綾子…」
「小栗さん! だから名ま…」
…名前で呼ばないで。
そう言いかけた言葉は、最後まで発声される事はなかった。
温かくて、濡れた感触のものに完全に塞がれていたから。
それが何なのか理解するまでに、少しの時間を要した。
その一瞬の戸惑いの瞬間に、後頭部に回された大きな手にしっかりと固定されていた。
もがいても、体勢が体勢だったから動きが取れなくて、更にがっちりと押さえ込まれてしまった。
「ん…やめ…」
やめて…そう言おうとして微かに開いた唇の隙間から、口内への侵入も許してしまった。
逃げようと引っ込めた舌も絡め取られ、扱かれると体の力が少しずつ抜けていく。
唇が開放されると、耳のすぐ傍で濡れた音が響く。
「綾子…」
濡れた音は耳朶を舐め上げた音で、それと一緒に囁くように呼ばれる私の名前…。
「愛してる…会えなくなってからもずっとだ…」
「…ずっとだなんて信じられない…。気持ちは変わるもの…」
「…付き合ってた女がいなかったなんて、嘘は言わない。でも本気になれた女は、お前しかいなかった。それは嘘じゃない」
「…夫だって…愛人と一緒に暮らすって言って出てったわ。なのにまた違う女性と一緒にいる。だからもう、恋愛なんて…」
「そんな寂しい事は言うなよ。なんて言われようと、俺はお前を諦めるつもりはないから」
「小栗さ…」
「もう何もせずに、綾子を諦めるなんて出来ないから」
「…」
「行こうか…」
「はい…」
荷物を持つと、車外に出る。
営業1課に戻ると、すぐに書類を広げて報告書を作り出す。
私も小栗さんの指示通りに、書類を作り出した。
それでもどうしても、集中し切れずにタイプミスを繰り返してしまった。
私の異動した営業1課では、同じチームで仕事をする関係もあるため、私のデスクは小栗さんの隣だ。
他にも同じ取引先の営業がもう一人いるため、反対の隣にはその人が座っている。
「小栗―、お前ばっかり藤森を連れ出すなよー。こっちの資料も作ってもらいたいんだからなー」
「解ってますよ、杉さん。明日は俺だけで出ますから、存分にこき使ってやってくださいよ」
「そっか? なら、いいかー」
「…」
勝手な事を…。
明日は外出する必要はないようだけど、この杉という営業は曲者だ。
正直、この杉さんの話は要領を得ない。
だから明日の資料作りは、何度も何度も確認する必要が出てくるだろう。
「じゃ、これ明日中に頼める?」
大量の紙の束と、CD-Rを渡される。
「明日中…ですか…」
「ある程度必要な事は、こっちに書き出してあるから。出来ればパワーポイント用のデータも作っておいてくれると助かる」
「え…パワーポイントもですか?」
「うん、そう。プレゼンがあるからね」
「…」
「うわー、杉さん。まだやってなかったんすか?」
「お前が言うな! お前が独り占めしてなきゃだな、もっと早くに出来てんだよ!」
「えー、いつもギリじゃないっすか」
「…持って帰ってやらないと…明日中には無理かもです…」
「じゃ、持ってって…」
「…」
今夜はまともに眠れないだろう事を、私は覚悟した。
そして、実際にベッドに潜り込んだのは、もうすぐ4時になるだろう明け方。
2時間くらい仮眠して、資料を広げたままだったテーブルの上を整理する。
カーテンを開けると、入り込んできた朝日が寝不足の目をチカチカとさせる。
ベランダで栽培しているハーブと野菜に水をやり、何の気なしに直ぐ下の路地を見下ろした。
「あれ…?」
丁度、部屋の真下。
見覚えのある車が止まっていて、よく知っているその持ち主がこちらを見上げていた。
大量に資料や資材の乗った白いバン。
私のスーツの襟についている社章と同じマーク…TAJIMAの文字をデザイン化したものだ。
「よう。昨夜は眠れたか?」
笑顔でこちらを見上げているのは、いったいいつからいたのか…小栗さんだった。
「…いつから来てたの?」
「1時間くらい前かな」
「…何か食べたの?」
「いや、まだ」
「これから朝食の用意するから…食べるならどうぞ…。若しくはコーヒー入れますから…」「ラッキー。今行く」
程なくして小栗さんが上がってきたので、無言で迎え入れる。
そして朝食の用意をするために、キッチンに向かう。
そして冷蔵庫から卵を3つ、小分け冷凍しておいたひじきの煮物、茹でたほうれん草を取り出した。
ひじきは解凍して、割りほぐした卵に混ぜて卵焼きにする。
ほうれん草も解凍して水分を軽く絞ると、翔太が大好きな胡麻和えにした。
炊きたてのごはんと、根野菜をたくさん入れた味噌汁。
あとは魚肉ソーセージやウインナーを焼いてテーブルに並べる。
そこに小栗さんが起こしてきたのだろう翔太が、小栗さんと一緒に興奮した様子でダイニングに入ってきたのが見えた。




