新しい生活の始まり
「おかさん、おとさん…今日も帰ってこない?」
「そうみたい…ごめんね、翔太も寂しいよね?」
「んー、僕、おかさんがいれば別にいい。帰ってきてもおとさん、怒ってばっかりだから嫌いだ」
「そっかー」
結婚して8年。
夫は勤務先の派遣社員の女性と、いつからかそんな関係になった。
気が付いたのは、彼の寝言。
「里美…」
彼はその女性の名前を何度となく口にした。
いつしか、生活費を入れてくれることも少なくなり、小学生になった息子を学童に預けて勤めだしたのはこの春の事。
なんとか社員として中途雇用をしてもらえたのは、建築部品などを扱う企業の東京支店。
本社は関西にあるので、社内でも関西弁が飛び交っている。
配属されたのはドアハンドルや戸当り、車止めなどの資材の受発注を取り扱う部署だった。
来客の応対、データ入力、電話の受発信とやる事はものすごく多かった。
それでも、殆ど残業をしないですむ。
それがすごく助かるし、収入もそこそこもらえている分やりがいも出ると言うものだ。
勤務先から、校内にある学童までは40分。
そこから自宅までは、およそ7分。
駅からまっすぐに自宅に戻れば、徒歩で15分。
18時までは延長料金も掛からないため、18時に学童を出た息子の翔太が帰宅して少し経った頃に私が到着する。
着替えをして、すぐに夕飯作りを始めて、2人きりでの夕飯は大体19時半。
夫の隆弘がいた頃は、ちょっと大変だった。
うまく言えば、ある意味で亭主関白。
でも我が家はそうじゃなかった。
ただ命令されて、その通りに出来ないと怒り出す。
だからシン…とした食卓だった。
夫が愛人を作り、別居を始めてからは、生活は少し苦しくなりはした。
でも、翔太と2人で囲む食卓は、いつも和やかで明るいものに変わった。
「綾子…里美に子供が出来た。だからそっちには戻らない」
「そう…じゃあこちらはどうしたらいいんですか? こっちにもあなたの息子がいるんです。その責任は?」
「お前がいるだろ? それでいいじゃないか」
「…正式に離婚するという事ですか?」
「当たり前だ。じゃなきゃこっちにいる意味がないだろ」
「ならば、こちらは正当な養育費と慰謝料を請求します」
「そこのマンションをくれてやる。それでいいだろ」
「冗談でしょ? ここの頭金で払ったお金は私の貯金じゃないですか! ローンだって残っているのに!」
学生時代からバイトして、ずっと貯金を続けてきた。
だから結婚した時、私はそこそこの金額を貯金できていたわけで。
そこから頭金を出し、生活費を貰えなかったここ最近は、残っていた貯金を切り崩して生活していた。
購入したのは7年前。
私が23の時だ。
だからローンもまだ残っている…当たり前だけど。
このマンションを貰う=ローンも貰うって事になってしまう。
冗談じゃない…私は翔太を守っていかなきゃならないんだから!!
すぐに私は仕事を探し始め、知人の紹介でなんとか今の勤務先を見つけた。
社宅は独身者向けの寮だけで、家族向けはない。
けれど家賃補助をしてもらえる事になり、すぐに部屋を探した。
かわいそうだけど、幼稚園のお友達と同じ学校には入れて上げられない。
生活能力に見合った場所に引っ越さなくちゃいけなかったから。
そして同時に、離婚調停を始めた。
慰謝料や、特に養育費なんて当てにはならないけど、マンションの頭金分くらいは取り返したかったから。
「TAJIMA 資材部藤森です。安井様、いつもお世話になっております。どうなさいました?」
その日の朝、一番で受けた電話は、大手の建築会社から。
安井さんという営業さんは、かなりのイケメンでわが社でも人気のある方だ。
身長はものすごく高いわけではないけれど、スタイルも抜群でなによりいつもにこやかだ。
入社後資材の担当になった私にも、優しくしてくださる…が、お互いにその気はない。
なのに、ちょっと社内で睨まれる事があるのが、私としては解せないのだ。
「藤森さん、悪いんだけどさ、どうしても今日中に必要な品物があってさ。手配出来ないかなぁ」
「今日中ですか? 随分と急なんですね。ただこちらに在庫があれば、お渡しする事は可能だとは思いますが…」
「現場のミスで、発注し忘れてたらしいんだ。一番最初に発注の必要があるものだったんだけどね」
それはドアハンドルではあったけれど、長さなどを調整したりしなければならないとの事だった。
幸い本体は東京支店に在庫があるもの。
ただ加工するスタッフが、すぐに出来るのかが問題だった。
「安井様、お待たせいたしました。加工前のものは在庫を確認できたのですが、今日中にお届けできるのか工場の方とも相談させていただけませんでしょうか? あと、御社への営業担当は…営業1課の小栗でよろしかったでしょうか?」
「うん、そうそう、小栗君。さっきうちに来てたから、彼にも伝えてあるから。多分すぐに社に戻るって言ってたし、行ってくれると思うんだけど。無理を言って悪いんだけど…」
「左様ですか。では小栗とも相談の上、後ほどご連絡させていただきます。申し訳ございませんが、今しばらくお時間をいただけますでしょうか」
「うん、分かった。申し訳ないけど、よろしくお願いします」
「かしこまりました。ではまた後ほどご連絡させていただきます。失礼いたします」
…今日中…マキさん、滅茶苦茶不機嫌になりそう…。
マキさんとは、加工担当のスタッフの一人で、50代後半の気難しいおじさんだ。
マキさんに連絡を入れつつ、営業1課の小栗さんにも社内メールで連絡を入れておく。
案の定、マキさんはちょっと不機嫌になってしまった…面倒すぎる。
「安井様…恨みますよぉ…」
30分ほどして、私のデスクで内線が鳴ったので受話器を取る。
「はい、資材藤森です」
「営業1課の小栗です。安井さんの件なんだけど、今いいかな」
「あ、はい。お待ちしてました。安井様の指示に基づきまして、工場のほうで準備をしていただけるようにはしておりますが」
「うん、マキさんにも確認した。ありがとう。それで、至急納品用に伝票とか新規カタログも4・5冊用意して欲しいんだけど」
「かしこまりました。では今から立ち上げますので、15分ほどでお持ちしますが」
「うん、それでいいよ。じゃあ、工場のほうに持ってきてくれるかな」
「かしこまりました」
「うん、よろしくね。俺これから工場に移動するから、何かあったらこっちに回して」
「はい、では後ほど伺います」
電話を切ると、小さく溜息を一つ。
すぐにカタログを用意し、専用の袋に詰める。
そしてPCに向かって、特注分の伝票を打ち込む。
正規金額に加工代などもつくので、少々割高。
それを部長に確認印を貰い、経理課へ持ち込む。
請求書部分を切り離し、経理主任に手渡した。
そしてすぐさま工場の小栗さんの元に走った。
入社して仕事には慣れたとはいえ、まだ3ヵ月の新人。
新人と言うにはちょっと年を取っているけど、新人には違いない。
だから今は自分の業務をこなす事で精一杯で、他部署の先輩たち全員の顔も名前も覚えたわけじゃない。
「小栗さんってどんな人なのかなぁ。あんまりかっこいい人だと、他の女子にいびられちゃうかも知れないしなぁ…」
暢気に私はそんな事を考えていた。
まさかこの後で驚愕の出会いが待ってるなんて思っていなかった。
しかも…建築資材がいっぱいの、倉庫の一部の【工場】で。