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もう雪なんて降らない暖かさ。天気に恵まれ、その日、花祭りが始まった。
開会の場でオーリオウル国王が今年一年の平和と豊穣を願い、その挨拶が終わると、街は祭りでとてもにぎやかになる。色とりどりの花が飾られ、沢山の出店が出る。多くの人が道いっぱいに広がって祭りを楽しむ。
その中でぽつんと、一人でいるフィリウス。誰も気に留めず、声もかけない。仕方のないことだ。王宮の外には、知り合いなんていないのだから。……いや、正確には、二人はいる。声をかけあっただけでなく、ある程度深い関係になれたひとが。
(女将さんと旦那さん、元気かな。……〈風見亭〉、行って、みようかな)
思い出すと、顔を見たくなる。行こうと思う。ようやく、降って湧いた暇を消費する出来事を思いつく。
「そもそも、先生が悪い。いきなり今日はもう遊んでこいなんて、子どもじゃないんだから」
花祭りは初めてだと言ったら、街で雰囲気を味わってきなさいと命令し追い出したユリウスを恨みつつ、フィリウスはとりあえず歩き出した。
「Aランチ二つー!」
「次B一つ、C一つ!」
「はいはい、全く忙しいね! 昼飯食べる暇もありゃしない!」
〈風見亭〉はとても繁盛していた。机も椅子も目一杯に埋まって、とてもにぎやかだ。入り口にたたずんでいると、入り口近くに座っていた夫婦に声をかけられる。
「おう、嬢ちゃん! 久々じゃねえか、元気にやってたか?」
誰だろうと目を丸くしていたら、そのおじさんは歯を見せて笑い、
「覚えてないかい。嬢ちゃんがここで働いてた間、何度か食べに来てたんだけどな」
そう言われてみれば見覚えがある気はした。曖昧に笑う。
「ごめんなさい……よく覚えてないの」
「まあ……しょうがないさね。客は一杯いるから」
おじさんは残念そうに声の調子を落とし、フィリウスの肩を叩く。
「ごめんなさい、今席全部埋まってて! 相席でもいいですか?」
そこに料理を持った少女が来て、そう訊く。元々食べに来たわけではなかったからどうしようかとは思ったが、目の前の夫婦が相席させてくれるというのでそれに便乗する。売り上げに貢献しようと一番高めのCランチを頼む。
「おじさん、ありがとね。その子知り合い?」
「フィリウスってんだ。ケイちゃんがここで働き始める前に、一ヶ月半くらい働いてたんだぜ。今はなんと、王宮勤めさ!」
「ええ、すごい! あの面接通ったの?!」
「う、うん」
「すごいねぇ! あたしなんて、三回受けて全部落ちたのに。ずるーい!」
少女はケイというらしい。年は三、四歳上に見えた。人懐っこそうな、特別美人ではないが愛嬌のある子だ。
「ケイ、くっちゃべってないで早く運べよ! また女将さんに怒鳴られるぞ」
「うわ、まずい! えっと、フィリウス? 時間あったら、王宮の中のこととか教えてね。じゃあ、あたし、仕事しないと!」
その場を去るケイの背中を見る。忙しなく動いているのはケイと、ケイと同じ年くらいの青年。
「嬢ちゃんが王宮行ってからな、あの二人が雇われて働くようになったんだ。女の子がケイ、男の子がジェン。二人とも明るい子で、よく働いてるよ」
常連さんに笑顔で挨拶をし、明るい声で動き回る彼らは、確かに店の雰囲気を和やかで華やかにしていた。……フィリウスのいた時とは大違いである。
「嬢ちゃん。あんた、自分がやめて店が大変なんじゃないかって、忙しい合間縫って様子見に来たんじゃないのかい? 安心しな、ケイとジェンはよく働いてるから」
おじさんの言葉はフィリウスの耳を素通りしていった。
(私……もう、関係ないんだ。お店、平気なんだ)
ああそうなんだ、と思う。
「Cランチ、お待たせしましたー」
フィリウスは、運ばれてきた料理をおじさん夫婦と話しつつ食べる。美味しいはずの料理が、とても味気なく感じた。食べ終わるとすぐ、女将や旦那には声をかけず、作り慣れた微笑を浮かべて、そそくさと店を後にした。
正午を過ぎて人通りは増えており、その波に逆らわずただ真っ直ぐ進むだけでも苦労しそうだった。だからそれを避け、路地裏に入り込む。太陽の光を遮る薄暗い通りが、何だかとても落ち着く。
そのまま人混みを避け続けて、のんびりと散歩をする。気付けば、空の色が赤くなっている。散歩なんて久しぶりだった。広い王宮内を毎日あちこち歩き回っているから運動不足ではなかったが、最近頭ばかりを使ってるなと思う。
「あー、夕日綺麗……」
夕日が地平線に沈む瞬間は建物の影になり見えないが、空が染まっていくのは上を向けばわかる。真っ赤な空。明日も晴れる証。それを見て空が落ちると怖がったのは、もう遥か昔。
「――夜が来た♪おはよう、月の天使」
ふと思い出した旋律を、誰もいないのをいいことに歌い出す。カディアではよく歌われている、神話を模した子守唄だ。
「おやすみなさい、空の女神♪ 明日は彼女の涙が降らぬように」
祈りましょう、願いましょう――。
歌は路地を駆け抜ける風に乗り、彼らのところまで届いた。
彼ら三人は、大通りを一本裏に入ったこの道を、静かに話しながら歩いていた。その時、狭い道を吹き抜ける独特の小さい風に乗って、声が、響いたようだった。
「……? 今、何か歌らしきものが」
「お前も聞こえたか? カウ」
「グランも?」
頷く二人に挟まれていた何気に耳聡いリアリスは、一歩後ろに下がって右手の路地を覗き見る。ああやっぱりと思いながら、立ち止まり肩越しに振り返る前方の二人に言った。
「カウ、グラン。フィリウスがいる」
「はっ?」
慌てた様子でグランがリアリスに駆け寄り、その横から路地を覗きこむ。後ろ姿だが、確かにそれは宰相の弟子の少女だった。ふんわりとした旋律で歌いながら、彼らから遠ざかるようにゆっくりと路地の奥へと進んでいく。
「フィ……」
「待て、グラン」
大声で呼ぼうとしたグランを止め、リアリスはその背中をじっと見つめ、険しい顔で首を傾げる。
「……様子がおかしい」
グランはその言葉を受け、同じようにフィリウスの背中を見つめるが、特別何かあった様子は見受けられない。リアリスとは違った意味で首を傾げる。だがグランの横に並んだカウルータは、リアリスの言葉を正確に受け取って頷く。
「何だか、元気がありませんね。直接話したことはありませんが、あの方はいつも、もっと生気に満ち溢れて、ぴんと背中を伸ばしているのに」
そう言われればそうだなと思うグラン。意気消沈したようなフィリウスの様子を、歌が助長する。それは綺麗で温かな旋律なのに、とても物悲しい。
“今日も女神の雨が降る♪ 彼女が愛した星の王、あなたは暗闇に今もひとり”
澄んだ少女の声が、彼らが聞いたことのない歌を紡ぐ。誰かが聞いているなんて考えてもいないだろうに、その声は語りかけるように優しい。
“わたしたちの夢が、せめて届きますように♪ 祈りましょう、願いましょう”
その言葉を最後に、歌は終わったようだ。余韻を残し消える歌の後、小さくため息をつくように息を吐いたのが聞こえた。
「……フィリウス」
そして、聞こえるかどうかというくらい小さなグランの呼び声に、フィリウスはぴくりと反応する。ぼんやりと視線を周囲に向け、彼らの姿を目に留めた瞬間、すっと背中に力が入る。覇気のなかった顔にも力が戻る。その過程を見て、全員が気付いた。――フィリウスのこの態度は、警戒の証だと。
「……このような場所でお会いするとは思ってもおりませんでした。何をなさっているのですか? リアリス様」
名を呼ばれたリアリスは微笑み、警戒するフィリウスの前まで歩み寄ると、その額を軽く弾く。驚いたフィリウスは目を丸くする。
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。そして、私を呼ぶならリアと。ああそう、先に言っておくけれど、ちゃんとユリの許可はもらっているからね」
そう言われれば小言を続ける意味はない。一瞬黙り込んだフィリウスは質問を変える。
「では、どこに行かれるのですか?」
君こそと返され、フィリウスは答えに窮す。自らの不利を悟り、この場から去る選択肢を選ぶ。
「私、帰りますね。楽しんできてください、リア、様。そちらのお二方も」
いつも通りの微笑を浮かべて背を向けたところ、右腕を掴まれる。
「フィリウス。……逃げるの?」
思いの他強く腕を掴むのはリアリスらしい。声が何故か低くて、怒っているような。
「に、逃げては、いません」
思わずどもる。……怒る時、静かに怒るひとがいる。その怒り方をする者ほど、普段は穏やかで優しく、いざ怒った時相手を絶対に逃がさない。はっきり言って、一番恐い怒り方だ。
「フィリウス?」
「は、はい。何でしょう?」
「こっち向いて」
逆らわない方がいいと素直に振り向けば、腕を放される。振り向いて見たリアリスは困ったような顔でため息をついていて、怒ってはいなかった。あれ、と思うと同時に、警戒心と緊張感両方がふっと解ける。
リアリスの背後に、グランともう一人の人物、薄い金色の髪を胸ほどまで伸ばし右肩の上で結んだ淡い青緑色の目をした青年がいて、彼らもなんだか困った顔をしている。
「あの……何かありましたか?」
聞くと、フィリウスは全員にじろりと睨まれる。
「え?えっと、私が、何か?」
「――フィリウスさん」
名を知らない青年が、ため息混じりに名を呼んでくる。視線を向ける。
「貴女、本当にどこへ行くつもりですか?」
「……? それは、どういう意味でしょうか」
意図がわからず首を傾げる。青年は一歩前に出て、
「この先は道が複雑に入り組んでいて、慣れない者は十中八九迷います。治安もよくありません。そんなところにふらふらと向かっていく十代の少女を。しかも知り合いである貴女を。どうやったら、見逃せると?」
うっと言葉につまる。何故彼らが困っていたのか理解できたフィリウスは、申し訳ありませんと顔を赤くした。
「ねえ、それで、どこに行こうとしていたのかな?」
そんなフィリウスの頭をなぐさめるようにぽんぽんと軽く叩き、リアリスは子どもを相手にでもしているように優しくゆっくり訊く。恥ずかしさから虚勢を張る気もなくしたフィリウスは、所在なさげにリアリスを見上げ、
「その……別に、どこも。ただ、歩いていただけです」
その言葉に、今度はグランがため息をつく。
「お前な。この間あんだけ危険な目に遭ったばかりだろう? 学習能力ってものがないのか」
とても言い返したくなったが、言い返せない。言い返せる立場にない。
「……ごめん、なさい」
自己嫌悪に視線が下がるのを止められない。
(ああもう、今日はだめだ。こんなのばっかり)
ひとはひとに迷惑をかけずには生きられないという。こんなつもりじゃなかったと言うたびに、そう笑われたことを思い出す。
「フィリウス、フィリ。いいから、別に怒ってはいないから。……全く、グラン! お前はもうちょっと優しく話せないのか?」
「え、ええ? 俺のせいかよ」
「素直に一言、心配しているのだと言えば良かったんです。貴方はすぐ怒るのだから」
「いや、だからさ、俺のせい?」
「ああ」「ええ」
そんな会話が目の前で繰り広げられる。ひどいなと傷ついた声を上げたグランは、舌打ち一つ、フィリウスの腕を乱暴に引っ張り歩き出す。
「っ! な、何?!」
「飲むぞ」
「はっ?」
「二人で、飲む」
「何、言って!」
助けを求めて背後を見れば、当然のようにリアリスともう一人の青年がついてくる。止めもせず。
「リア様、このひと止めてください!」
「フィリ、“様”もなしでね。できれば敬語も。で、何で止めないといけないのかな? 私達はこれから飲みに行くところだったのだから、予定通りだ」
お前達とは行かないってのに! とグランは悪態をつく。そこに青年が突っ込む。
「貴方、リアの護衛でしょう? 離れようにも離れられないでしょうが」
「……」
黙りこんだグランは、それでも歩みを止めない。やや小走りになるほどの速度で引っ張られ続けるフィリウスは、前をグラン、後ろをリアリスと青年に挟まれ、何が何やらわからないまま、状況に流されていくのだった。
「……」
「……」
「……カウルータさん」
「はい?」
「あの二人、お酒、すごく弱かったりします?」
「あの二人が弱いというよりも……私達が、強いのかもしれませんね」
「そうですか……」
「そうですね」
フィリウスとともに三つ隣の机に避け、酔っ払って笑ったり泣いたり絡んだりするリアリスとグランを眺める青年は、カウルータ・シグ・ナティアという。四年前リアリスが成人するまで、五歳の時からずっと側仕えをしていたという。今は文官長補佐という立場を得て、王宮で働いている。
リアリス、グラン、カウルータの三人に連れ込まれた酒場は落ち着いた雰囲気で、いる客は皆常連といった様子で純粋に酒を楽しんでいた。これならば騒ぎは起きないだろう。お忍びとはいえ節度のある行動をしているらしいと妙に感心した。まあ今は、その空気を若干二名ほどが乱している。しかし周囲の客達も慣れたもので、あまり気にしていない。
「強いお酒だったのでしょうか」
本来誰より節度があるはずのリアリスが、またふらふらと別の客の席に向かって行く。それを見たフィリウスは、彼らが飲んでいた瓶の度数を確かめる。
「二十度、四本、か」
酔うのも仕方ないのかなと思う。酒場で働いたことも数ヶ月ほどあるが、この程度で酔っ払う者は結構いた。ちなみにそんなフィリウスの前には、四人中誰より強い度数の空き瓶が、六本と半分ある。
「貴女は、本当に、お酒に強いようですね。それ、二十五度くらいあるでしょう? よくそんなに飲んで、素面でいられますね」
ええまあ、と苦々しい顔で言葉を濁す。
――ちょうど一年前まで暮らしていた場所の、凍え死ぬほどの寒さを思い出す。フィリウスの住んでいた地域カディアは、冬は深い雪に覆われる。刺すように冷え込む日などに足りない暖の代わりに酒を飲むこともあったので、カディアには酒に強い者が多い。
「……私、酔ってみたいんです」
ふと、口にする。カウルータの視線を横から浴びながら、眼前で客に絡むグランを見やる。
「ひとって、飲んで、酔って、憂さ晴らしをするでしょう? 羨ましいです、楽で」
溜めたものを洗い落とすかのように。ひとには色々と許容量があり、それを越えると、どこかで落っことしたり、流したり、時には他人に投げつけたりして減らしていく。酒一つでそれができるならばそんな簡単なことはない。
「……やはり、何かあったのですか? 話しては、いただけませんか」
カウルータは何度目のことか顔を曇らせる。馬鹿なことですとフィリウスは自嘲する。
「お気になされるようなことではありません。私は強いのですよ、カウルータさん」
その答えをカウルータは気に入らない。ぐっと眉根を寄せ、
「本当に強ければ、自分で自分を強いなどと言いません。何がありました? お言いなさい」
外見からは想像できない強い言葉を浴びせる。けれどフィリウスもたいしたもので、
「言いません。……でも、言い直しましょう。私は弱いから、強がりを言うのです。折角強がっているのですから、頑張りは認めてください」
するりとかわす。ひどく不服そうな表情を浮かべて、カウルータはため息をつく。
「強情ですね」
「ありがとうございます」
「褒めてはいませんが、どういたしまして」
そんな二人の応酬を、実はまだしっかり理性を残している二人が聞いていた。
(まあ、結構元気そうで良かったけど)
(やっぱり、危なっかしいね)
机の下でこそこそ話すリアリスとグランの二人には、さすがの常連客達も胡乱な目を向けていた。
夜はゆっくり暮れていき、四人が帰途に着く頃、酒に強いフィリウスとカウルータもやや頬を赤く染めていた。そしてリアリスとグランは、すっかりふらふらの酔っ払いだ。
「お二人とも、お酒に強くないならば、ほどほどにしておけばよろしかったのに」
フィリウスの言葉に、全くですと同意しているカウルータ。お前達が強すぎるんだと心中で愚痴ったリアリスとグランの声は、もちろん届いていない。
「……星が綺麗だな、本当に」
「……夜風が涼しくて、月も見事に輝いているね」
平和だなあとあらぬ方向を眺めるリアリスとグランは、まるで拗ねた子どもである。フィリウスは声を上げて笑う。それに三人が驚いたのがわかったが、酒が入って多少高揚しているフィリウスの笑いはくすくすと続く。
「ふふ……私も少し、酔っているみたいです」
この時ようやく、男三人はフィリウスを飲みに誘って良かったと思った。何があったかはとんと語ろうとしないが、間違いなく今のフィリウスの肩からは力が抜けている。幼く見えるくらい、年相応の顔をしている。
「貴女もちゃんと、酔えるではないですか」
先ほどの話題を出してきたカウルータに、そうらしいですねと柔らかく微笑んだフィリウスは、一歩分だけ彼らの前に出る。その視界に、きらりと星が瞬いた。




