プロローグ
老夫婦が若い頃からやっている味の良い温かな食堂、〈風見亭〉は、近所に住む者や働いている者達の間で長く愛され続いている。そこに一ヶ月半前、年若い少女が住み込みで雇われた。彼女は若者の間では、ちょっとした有名人になっている。
その食堂の裏にある路地に、十人強の男子がたむろにしていた。
「来た!」
「おう、どうだった?」
「……」
「あー、お前でもダメか」
駆け込んできた少年の言葉なき報告に、十三人切り達成だなと、一人が呟いた。
――夕焼けみたいに赤い髪と、夏の草のような緑色の目。背がやや高めな点を考慮しても美しい少女の名は、フィリウス。彼女を誰が落とせるか。彼らは最近、そんな性質の悪いお遊びをしていた。
「まあ、ノエルは元々望み薄って感じだったけどさ。アルフェなんかはいい線行ってたと思うんだけどなぁ」
今回告白に行ったのはノエル。アルフェは八番目に告白した少年で、仲間内で一、二を争う美形だ。ノエルは対してドジないじめられっこだが、フィリウスの母性をくすぐるかも、という理由で告白させられたのだった。
いつ、誰が、こんなお遊びを提案したのかは彼ら自身も覚えていない。ただ、十代半ばの綺麗な少女がある食堂で住み込みで働いている、という話を誰かが持ち込んだのが始まりだ。
「ね、ねえ……フィリウスさ、全然恋愛とか、興味なさそうだよ?もうこんなこと、やめようよ!」
次は誰がいく、と話し合う仲間に、ノエルは勇気を振り絞ってそう声を上げる。彼の立場は弱くその提案が受け入れられることはないとわかってはいたけれど、少女の断り文句と、その時の表情が彼の頭から離れなかった。
『あなたも大変ね。……でも、ごめんね。何度も言っている通り、私は恋人とか、作る気ないの。誰が来ても無駄だって、伝えておいてよ。あなたのお仲間達に』
少女は、れっきとした大人だ。しかし成人したのはわずか三ヶ月前のことだという。ここ王都ならば、その年齢のほとんどはまだ学生だ。今ここでフィリウスを落とす画策をしている者達も全員学生で、成人した者もそうでない者もいるが、親の庇護下で暮らしている。同じくらいの年齢なのに、交際をすげなく断るフィリウスは、お遊びに興じる彼らの誰より大人びていた。それに、明るくさっぱりとした口調と裏腹に、とても疲れた様子だった。
「あぁ?何言ってんだ、お前」
「だ、だってさ。あの年頃の女の子が住み込みで働いてるなんて、きっとフィリウス、なんか事情があるんだよ。だからさ、僕達は、その、あんまり邪魔しない方が、いいと思う!」
頑張って主張すれば、仲間達の冷たい目が一斉にノエルを見やる。その中でも特に怖いリーダー格のシェオルの怒り顔に、また殴られる!と血の気が一気に引く。
「……お前さぁ、生意気言うわけ?」
近寄ってくるシェオルにノエルがびくびくしていれば、出し抜けに明るい声がかかる。
「弱い者いじめか?」
全員が勢いよく振り向き、通りへつながる出口に立った影にそろって顔をしかめた。
「おい、ずらかるぞ」
その言葉を皮切りに、彼らはさっと身を翻し、ノエル一人をその場に残して路地の奥へと駆け去っていった。
「さすが小悪党、逃げ足の速いことだ」
軽口叩きながら近付く青年は、腰に剣を帯びて、左手首に青い布を巻いている。――巡回騎士だ。気安い雰囲気に人懐こい笑みを浮かべて、ノエルの前で立ち止まる。
「よかったな、殴られなくて。……それと、聞きたいんだが」
騎士が自分に一体何を聞くつもりなのだ、まさか怒られるのかとへっぴり腰のノエルは、後ずさりしながらも、はいなんでしょうと首を傾げる。そんな彼に、青年は問う。
「さっき話に出てた、フィリウスとかいう子について。もう少し詳しく教えてくれるか?」
どうしてと思いながらも、逆らうのが恐ろしくて首は縦に振っていた。
遅めの昼食は中々進まない。昨日や一昨日、三日前は何も気にすることなく全てたいらげられたのだけれど、今日は気の重さが食欲に響いていた。
(あんな子まで差し向けてくるなんて……いいかげんにしてほしいわね)
軽薄そうなひと、遊びだと露骨にわかるひと、そういう者達ならフィリウスは軽くいなす。けれど、今日の少年は今までと毛色が違った。フィリウスが断ったと知らせたら、いじめられるかもしれない。もちろん承諾しても、いじめられるだろう。自分のせいで誰かがひどい目に合うというのは、こちらに非はなくとも嫌なものだ。いつになったらくだらないお遊びをやめてくれるのか。
「フィリウス、そろそろいいかい。……なんだい、体調でも悪いのかね?」
ふうと溜息をついていれば女将のリーオに心配され、フィリウスは慌てて首を振る。
「違います、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて」
「そうかい……それならいいんだけどね。お客が来る前にちょっと買出しを頼まれてほしかったんだけど、今大丈夫かい?」
眉間に眉を寄せるリーオに、わかりました、大丈夫ですよと笑顔を作り、立ち上がる。昼飯を残してしまったことを厨房にいる主人のダンに謝ってから、籠を持ちメモをもらってフィリウスは外に出た。
老夫婦はいいひとだが、フィリウスはどうにも居心地の悪さを感じていた。リーオにはあまり好かれていない気がするし、ダンには遠ざけられている気がする。あまり長続きしないかもしれないと、溜息をつく。
フィリウスの夢は、沢山金を貯めて、それなりの家を建てて、老後をそこでゆったりと過ごすことだ。そのために王都へ来た。
「他は何も望まないから、今はとにかく、お金が欲しいわね。……どこかにお金の稼げる仕事、転がってないかな」
呟いて仰いだ空は、春らしい、薄雲のたなびく青色をしている。
「……金が欲しいのか?」
ぼんやりしてたフィリウスは、その問いかけにはっとした。声の主はフィリウスの左手、壁に背をついて腕を組んでいた。
薄い茶色の髪に、夏の空のごとく青い瞳。左手首に青の布。そして剣。警戒心から身構え、即座に猫を被る。
「お仕事ご苦労様です、騎士様」
そして先手を打つ形で、会話を切る。
「私の独り言のことならば、お気になさらないでください。戯言ですから」
金が欲しいという問いに肯定など返したら、まずろくな目に合わないのが定石だ。にこりと愛想笑いし、急いでいるので失礼いたしますと頭を下げてそそくさと横を過ぎる。騎士は特別何をするでもなく、壁際から離れずフィリウスを見ている。
数歩遠ざかってようやく息をついたところで、おい、と声がかかった。
「王宮から掲示が出ているのを知っているか?」
訝しんで足を止める。騎士の意図が読めず、フィリウスは肩越しに振り返っていいえと答える。
「金が欲しければ、王宮勤めが一番手っ取り早く稼げるだろう。選考は厳しいが、お前なら結構いいところまで行くかもな」
掲示を見てみろ、と一方的に命じて、騎士はその場を後にした。
「何あれ……?」
その背中を見つめながら、フィリウスは不可解さに首をひねる。同時に、頭の中に騎士の言葉がもやもやとめぐった。……フィリウスは、そう、金が欲しい。薄気味の悪い騎士が一方的にもたらした情報であっても、それが本当のことならば。
――その日のうちに掲示を確認し、フィリウスは必要書類を用意した。次の日に、翌日一日の休みをもらった。そして、四十人ほどの男女の中に混じって面接を受けた。
結果だけを言えば、フィリウスは王宮に入ることを許された。
それから十年余り、色々あった。けれど今日、フィリウスは、彼女の考えていた未来のどれよりも幸せになった。
本作品は他サイトにて連載停滞しているものです。修正改稿しつつ掲載しています。
現在完結に向けて鋭意執筆中です。亀ですが……。