私はキララと呼ばれている猫。
目を開けた時、私は一人だった。
上から水の粒がたくさん落ちてくる箱の中にいた。
母親はいなかった。それらしい匂いも、何もない。
(――私は捨てられたのか?)
私は声を出して呼びかけるが、誰も来ない。誰を呼んでいたのか、今となっては思い出せない。
私が呼んでいたのは、母親だったのか。それとも別の――。
時折大きな光る目をした怪物が通り過ぎていく。その怪物は私に見向きもしないが通り過ぎる度に水をかけてくる。
(――寒い)
体の震えが止まらない。
別の怪物が来た。今度は二本足の怪物だった。
二本足の怪物は、通り過ぎる時に私に目を向けるがすぐに立ち去っていく。
(――空腹だ)
私は自分のいる箱の中を見回すが何もない。隅の方で斑色の毛むくじゃらの塊がうずくまっているくらいだった。
毛むくじゃらの塊はさっきまで動いていた気がする。
でも今は動いていない。それに冷たくなっている。
(私もこうなるのか?)
また二本足の怪物が来た。
今度は2匹だ、さっきよりも小さいやつと、細長いやつ。小さいやつは何か喚いていてうるさい。
細長いやつは私を睨んでいる。
(私は食われるのか?)
細長い怪物が、私を掴んだ。
私の体は弱りきっていて、抵抗する力もなかった。
細長いやつが何か言っている、小さい怪物も何か言っている。
(なんだ? 何をするつもりなんだ?)
私はふわふわしたものに包まれてどこかに連れて行かれた。
(暖かい)
ふわふわの暖かさに、私の瞼が落ちた。
◇
私は生きていた。
どうやらあの怪物達は、私を食べる気はないようだった。
(なんのつもりなんだ?)
『ビョウイン』という所で変な針を刺された。すごく痛かった。
あの『ジュウイ』とかいう白い怪物は許さん。
ここはあの2匹の怪物の巣『イエ』らしい。
小さい怪物は、私の首に変なものを巻きつけた。
繰り返し私に何か言っている。
何を言ってるのか分からないが。
小さい怪物は『コー』と呼ばれている。細長い怪物がそう言っていた。
『コー』は『ショーガクセー』らしい。『ショーガクセー』が何なのかは、知らない。
細長い怪物は『ダイチ』という名前らしい。コイツは私のことを『ケムクジャラ』とか『ネコ』と呼んでいる。
すごく偉そうな顔をした、仏頂面の細いやつ。
『コー』は、私の名前だと言って何度も同じ事を言っていた。
(――私は『キララ』と呼ばれている。名前なんて、何の意味があるんだ?)
本当にへんてこな生き物達だ。
(まぁいいか。とりあえず、ここなら食い物に困ることはない。寒くもない)
私はこのへんてこな生き物たちを、暫く様子見してみることにした。
◇
観察を始めて、わかったことがある。
この前、私は10歳だと言われた。この家に来てから10年経つらしい。
そんなにいるとは思わなかった。だが、他に行くところもない。もう暫くここにいることにする。
朝になると『コー』は、四角い物を背負って『コーコー』という所に出かけていく。
来年は『ダイガク』という所に行くらしい。
『ダイチ』もどこかに行った。『カイシャ』とかそんな名前だった気がする。
私がこの家に来てから、『ダイチ』は毎日休まず、毎日同じ時間に出て行って、毎日同じ時間に戻ってくる。
そしていつも帰ってくる度に『ダイチ』は少し疲れた顔をしている。嫌なら行かなければいいのに。変なやつだ。
昼間、二匹がいなくなると正直暇だった。
『ゴキブリ』とかいうやつはたまにしか出てこないし、見かけてもすぐに捨てられる。
だが、今日は少し違う。
今日は、もう一匹のへんてこを観察する。
そいつは『ウミ』と呼ばれている。
ほとんど家にいない、野良みたいなやつだった。
今日は『ウミ』が帰って来ている。
『ウミ』は部屋にこもって、前足で『パソコン』とかいう変な箱を叩いている。
「やっぱ、猪狩りは撮れ高いいなぁ」
こいつは『トーコーシャ』というやつらしい。『トーコーシャ』が何なのかは、よくわからない。
『ウミ』はいつも山や穴ぐらに行って獲物を狩ったりしている。それを『ネット』に『トーコー』しているらしい。
『ダイチ』や『コー』は狩りをしない。あの二人よりは、多少はまともなやつだ。
少し前に『シカ』という生き物の肉をもらったことがある。『シカ』はうまかった。
『イノシシ』とかいうやつも、多分うまいのだろう。
『ウミ』は私に気付くと、いつも肉をくれる。
「お? キララ来たのか? 昨日イノシシ狩ったんだぜ? 食べてみるか?」
『ウミ』は冷える箱から生肉を取り出して『キッチン』へ向かった。
「流石に生じゃ危ないからな」
『シカ』の時もそうだったが、生の肉は危ないらしい。なぜかはわからないが、前に生で食べた時、腹を下したらしい。
生で食べたくらいで腹を下すなんて、相変わらず人間はへんてこな生き物だ。
『ウミ』は肉を鍋で焼いている。
肉の焼ける匂いが、私の胃袋を刺激している。
「もうちょっとだからな」
鍋から取り出した肉をほぐして器に入れると、私の目の前に皿を置いた。
『イノシシ』の肉はちょっと臭いが、悪くない。
いつものカリカリしたやつより断然うまい。
「うまいか?」
そう言って『ウミ』は私の頭に触ろうとする。
(気安く触るな)
私は爪を出して『ウミ』の前足を叩いた。
◇
また暫く経ったある日、『コー』は泣いていた。
『コーコー』で何かあったらしい。何があったのかは、わからない。
今日に限って『ダイチ』はいつもより早く帰ってくると、『スマホ』でどこかに電話している。
話を聞いてもよくわからなかったが、どうやら人間同士の縄張り争いのようなものに『コー』は巻き込まれたらしい。
『ダイチ』は珍しく怒っていた。
一応は群れの長だ。当然の振る舞いだと思う。そうでなければ私の爪で引っかいてやるところだった。
私は『コー』の寝床に行ってみた。
まだ『コー』は泣いている。
私にはどうすればいいのかわからない。
私には家族はいない。母親を見たこともない。
仕方がないので暫く『コー』の近くにいてやることにした。
私には家族というものはよくわからない。だが、こうするべきだと思った。
◇
また何年か経った。
『コー』は『ダイガク』を卒業したらしい。
『ファッションデザイナー』というやつを目指すらしい。
正直、何をするのかよくわからないが、『コー』が楽しいのならそれでいいと思った。
『ダイチ』は相変わらず毎日同じ時間に『カイシャ』に行って戻ってくる。
本当に、よく飽きないものだと感心する。
『コー』の友達は『ショーセツカ』らしい。『ショーセツカ』が何なのかは知らない。
『シュザイ』をしてもらったと喜んでいた。
『ダイチ』は興味なさそうだった。
◇
あの『シヨーセツカ』が書いた話はかなり売れたらしい。
でも、『ショーセツカ』の書いた話で『コー』はひどい目にあった。
知らないやつが『コー』のことを言いふらしたらしい。
『コー』は仕事を辞めることになったらしい。
知らないやつが家の前に来て喚いていく事もあった。
今日も電話がうるさい。
私は頭にきて『デンワ』の線を噛み切った。
『ダイチ』は私が前に『パソコン』の線を噛み切ったときは怒ったのに。
私が『デンワ』の線を切った事は怒らなかった。
「よくやった。毛むくじゃら」
初めて褒められた気がする。
正直むず痒くて、二度と『ダイチ』に褒められたくない気持ちになった。
そんなある日、『コー』がいなくなった。
『コー』は部屋に居たはずなのに突然消えた。
『スマホ』も服もそのままだった。
何が起きたのか、私にはわからなかった。
何日かして『ダイチ』は、『ケーサツ』を呼んで『コー』を探した。
『ウミ』も『トーコー』で『コー』のことを探していた。
でも見つからなかった。
『ダイチ』は、また毎日同じ時間に行って戻ってくる生活に戻った。
まるで、『コー』のことを忘れたみたいに見えた。
いつの間にか、『ウミ』は帰ってこなくなった。
時々、家に『ウミ』が狩った動物の生肉が届く。
『シカ』、『クマ』、『ダチョー』色々届いた。
でも味がしなかった。
この前は『クジラ』を食べた。
何の味もしない。ただの肉。
あの日から、私は毎日家から出て『コー』を探して回った。
でも、どこにもいない。『コー』の匂いもしない。
あれから何日、何年経ったのかわからない。
ある日、あの女を見つけた。
あの『ショーセツカ』の女。
あの女も『コー』を探しているようだった。
「キララ?」
でも私は、コイツのせいで『コー』がいなくなったと思った。
どうしようもなく腹がたった。頭が真っ白になった。
気が付くと私は、『ショーセツカ』の腕に噛み付いて、顔を爪で引っ掻いていた。
逃げる『ショーセツカ』を追いかけて、その背中に飛び乗った時。地面が揺れて大きく割れた。
大きな地震だった。
地震でできた、とても大きく、真っ暗な地面の割れ目へ『ショーセツカ』と私は落ちていった。
私は、『コー』に二度と会うことができなくなったと思った。
◇
私が目を開けると知らない場所だった。
風はない、匂いもない。何の音もしない。真っ暗で何もない場所だった。
私は、自分が立っているのか落ちているのかもわからない。
気が付くと、近くに誰か倒れていることに気が付いた。
『コー』かもしれないと思い、私は近付いて確認してみた。
『コー』ではなかった。
あの『ショーセツカ』の女だった。
「ごめんなさい――虹」
『ショーセツカ』の女は泣いていた。
でも、私にはそんな事どうでも良かった。
この女が憎い。この女だけは許せない。コイツが『コー』を。あの『ショーセツ』のせいで――。
その瞬間、私の体は壊れた。
真っ白だった毛は、黒く染まりながら全て抜け落ちていく。全身の皮膚は沸騰するように泡を立て、ヘドロのような真っ黒な液体が染み出してくる。
そして――形を失った真っ黒な私は『ショーセツカ』を丸呑みにした。
そうだ、コイツには悪夢を見せてやろう。
コイツにとって最悪の――。
コイツが一番嫌いな話の――。
一番嫌いな登場人物にしてやろう。
◇
小説家だった女は、目が覚めると子供になっていた。
「――え? ここは、どこ?」
自身の体を確認して部屋を見回す。
自分の服も、体も、部屋も、昨日までいた場所とは全く違う。
知らない場所のはずなのに、何かが頭の片隅に引っかかる。
「ここって――」
「お目覚めになりましたか? レオン様。朝の支度に参りました。お開けしてもよろしいでしょうか?」
豪華な扉の向こうから若い女性の声がする。
「レオン? まさか――」
小説家は聞き覚えのある名前に、ベッドから降りて鏡に向かう。
鏡に映った自分の姿を目にして顔を青くする。
「そんな――」
鏡に映っているのは、朝日に輝く金色の髪、金色の瞳の幼い男の子の姿だった。
「レオン・イルス・ヴァルテール」
「レオン様? いかがなさいました?」
「ううん。何でもない。入っていいよ」
小説家――レオンは何でもないようにメイドに声をかけた。
「失礼いたします。レオン様? 顔色があまりすぐれないようですが――医師をお呼びしますね」
「大丈夫。ちょっと嫌な夢を見ただけ」
メイドはレオンの顔を見て何か言おうとするが、それ以上何も言わなかった。
「かしこまりました」
◇
着替えが終わり、メイド達が部屋から出たあと、レオンは考えていた。
(なぜ、レオンに? 確か白い猫を見かけて、その後――。だめ、思い出せない)
レオンは自分の記憶を整理していた。
レオンとしての記憶はある。姉オパリアの事も、両親のことも覚えている。
小説家としての自分の記憶は、とても曖昧だった。
だが、一つだけ覚えていることがある。
(これは――この世界は、私にとって最悪の世界だ。私が生み出した、私が一番嫌いな物語だ)
「これは罰、なのかな? ――虹」
誰もいない部屋の中で、レオンはかつての友人の名前を呟いた。
◇
暗い闇の中。
『ショーセツカ』を飲み込んだ後、自分の姿を忘れてしまった『ワタシ』は考えていた。
また『ワタシ』の体が崩れていく。
(『ワタシ』は『コー』に会いたイノに! 『アイツラ』は『コー』を! あれ? 『コー』って誰だっけ?)
『ワタシ』にはもう止められなかった。自分の体なのに。自分の心なのに。
どうすればいいのかわからなかった。
何も思い出せなくなっていた。
『コー』の顔も。『コー』の匂いも。『コー』の暖かさも。
『ワタシ』はもうどこにも行けなくなっていた。
真っ暗なこの場所で『ワタシ』の体は小さな塊になっていた。
それから、どれ程年月が過ぎたのカもわカらナい。
でも、たった一つだけ思い出せた。
あの雨の日。箱の中で震えていた私を抱き上げた、細長い怪物の腕と愛想の無い仏頂面。
『コー』にアいたい。
もう一度ナでてほしいナ。
美味しくないけど、カリカリ食べたい。
――『▓▓▓』。
暗い闇の中で『ワタシ』は誰かの名前を呼んだ。
『ワタシ』自身、誰を呼んでいるのかわからない。誰の名前だったのか、もう思い出せない。
誰かが私を抱き上げた気がした。
気が付くと、私は無愛想な顔の少女の膝に乗っていた。
◇
レオンは、悪夢のようなループの中にいた。
何度繰り返しても、家族を救えない。
何度繰り返しても、誰一人守れない。
何度繰り返しても、オパリアは操られて消える。
レオンは、両親を乗せた馬車が野盗の襲撃に遭遇したという知らせを聞いて絶望していた。
(また間に合わなかった――止められなかった。わかっていたのに! 何度も、何度やっても!)
「クソッ」
レオンは壁を思い切り殴りつける。
拳の皮がめくれ血が滲んでいく。
「まだだ、まだ終わってない。まだチャンスはある。まだ変えられる」
レオンは血の滲む拳を、固く握りしめる。
「――諦めて、たまるか」
部屋を出たレオンは、帰ってきた馬車を窓から眺めていた。
「今度こそ――救ってみせる」
馬車から運び出される少女の姿を見て、レオンは奇妙な感覚に陥った。
「眠って、る?」
少女は眠ったまま、使用人に抱きかかえられ運ばれていく。
(今まで眠っている場面なんてなかった筈。気のせいか?)
レオンは運ばれていく少女の顔を――無表情で眠るふりをする少女を見て、かすかな期待を抱く。
(違うかもしれない。もしかしたら、変わるかもしれない)
その数週間後、レオンの小さな期待は確信へと変わった。
◇
田中大地が、オパリアに憑依してから10年が経っていた。
白銀の髪、金色の瞳の少女――オパリアの身体を借りた大地は、自分の使い魔を見ている。
使い魔――白猫は、大きくあくびをして大地を一瞥するとそっぽを向いた。
「ただの使い魔じゃないね」
レオンは興味深そうに、白猫に手を伸ばした。
「痛!」
白猫はレオンの手に噛み付き、威嚇するようにレオンを睨みつけている。
大地も手を出して白猫に近寄る。
白猫は大地に噛みつきはしなかったが、一歩も近寄らない。
「あの猫と同じ反応だな」
大地は、触ることをあきらめた様子で手を引っ込めた。
「あの猫って?」
「昔、猫を飼っていた」
「もしかして――キララのこと?」
レオンは、思い出したように飼い猫の名前を出す。
「知っているのか。――それも虹から聞いたのか?」
「うん。言われてみれば、なんとなく似てる気がする」
レオンは、白猫を指差して大地に声を掛けた。
「ほらよく見て、わかるでしょ?」
「わからん」
大地は、無表情に白猫をみていた。
◇
真夜中の執務室。
大地が、大量の書類を眺めていた。
「何年たっても、この体で夜間はキツイな」
眠そうに目を擦りながら、書類を手早く確認していく。
次の書類に手を伸ばそうとして、大地は手を止めた。
白猫が書類の上に陣取っている。
「またか、どけ毛むくじゃら」
白猫は、あくびをしてそっぽを向いた。
「チッ」
大地の傍らに白い影が立つ。
「こっちもまたか」
オパリアと瓜二つの影。
少女の影は、白猫の頭に触れようと手を伸ばしている。
「引っ掻かれても知らんぞ?」
少女の影は一瞬手を止めると、白猫が擦り寄るように少女の手に体を預けた。
その光景を見て、大地は前世の出来事を思い出し少し笑った。
「そういえば昔、妹に全く同じ事を言ったな。今と全く同じ行動だったな」
白猫がどいた隙に、大地は次々と書類に手を伸ばして目を通していく。
少女の影は、白猫を撫でている。
「そういえば、あの猫もどこへ行ったのかわからんな」
書類を置いて、大地は窓の外へ目を向けた。
夜空に浮かぶ2つの月を見て大地は呟いた。
「虹は、生きているのか? ――いまさら知った所で、何の意味もないな」
いつの間にか、少女の影が大地に寄り添っていた。
「なんだ? お前の体は必ず返してやる。心配するな。とりあえず今はその毛むくじゃらを何とかしろ。邪魔をされては敵わん」
そう言って、大地は再び書類に目を向けた。
白猫は大地の読み終えた書類の上に座り、目を細めて大地を見ていた。




