スイッチ
ーーー押すなと書いてあると、無性に押したくなるのは、何故だろうか。
それに気づいたのは、いつもの地下通路だった。
朝夕には通勤客で埋まり、昼間でも人の流れが途切れることはない。白い壁、低い天井、等間隔に並ぶ蛍光灯。柱には色褪せた広告が貼られ、壁際には消火栓や点検口が並んでいる。
男はその通路を、もう何年も使っていた。
だから最初、赤いボタンを見たときには、誰かが最近取り付けたのだと思った。
柱の側面、広告の下。
胸の高さよりも少し下に、それはあった。
丸い赤色の押しボタン。
透明なカバーも、鍵もない。
ただ灰色の金属板に埋め込まれ、その下に小さな白いプレートが取り付けられている。
プレートには黒い文字で、一言だけ書かれていた。
「押すな」
男は歩みを緩めた。
後ろを歩いていた女が、迷惑そうに脇をすり抜けていく。男は慌てて人の流れに戻り、そのまま通路を抜けた。
振り返りはしなかった。
けれど地上へ出てからも、頭の中には赤いボタンが残っていた。
……あんなもの、昨日まであったか?
工事をしていた様子はない。金属板には細かな傷があり、プレートの角も少し黄ばんでいた。少なくとも、取り付けられたばかりには見えなかった。
ならば、以前からそこにあった?
毎日通っていたのに、今まで気づかなかっただけ?
男は自分の記憶をたどった。
柱。広告。ボタン。
思い出そうとすると、不思議なことに、前からそこにあったような気もした。
翌朝、男は通路に入る前から、その柱を探していた。
人の肩越しに広告の上端が見えた。その下にあるはずの赤色は、まだ人波に隠れている。
別に確認する必要などない。
そう思いながらも、男の目は勝手に柱を追っていた。
近づく。柱が見える。
赤いボタンは、昨日と同じ場所にあった。
「押すな」
当然、警告も変わらない。
その前を何十人もの人間が通り過ぎていく。
誰も見ない。
視線さえ向けない。
赤い色は本来、目につく色のはずだ。ましてや、その下には用途の説明ではなく、禁止だけが書かれている。
それなのに、誰も足を止めない。
男は、人の流れに押されるようにしてボタンの前を通過した。
その日の帰りも、ボタンを見た。
翌日も。その次の日も。
存在を知ってからは、見ないで通り過ぎる方が難しくなった。
通路に入れば、まず柱を探す。
遠くから赤い色を確認する。
近づくにつれ、プレートの文字が読めるようになる。
押すな。
男は毎回、その言葉を読んだ。
読むたびに、疑問が増えていった。
何のためのボタンなのか。
押したら、何が起きるのか。
非常用の設備なら、そう書くはずだ。
係員を呼ぶものなら、呼出と書けばいい。
危険な機械を作動させるのなら、誰でも触れられる場所に、剥き出しで設置するだろうか。
そもそも、本当に押してはいけないのなら、なぜ理由が書かれていないのか。
押すな。
それだけではあまりにも不親切ではないか。
ある朝、男はボタンの前で足を止めた。
人の流れから半歩だけ外れ、柱の横に立つ。
後ろから舌打ちが聞こえたが、男は気にせずボタンを観察した。
金属板は古いしプレートも古い。
だが、ボタンだけは妙にきれいだった。
誰かが頻繁に掃除しているのか?
それとも、誰かが何度も触れている?
男は周囲を見回した。
誰もこちらを見ていない。
駅員の姿もない。
防犯カメラらしきものは通路の端にあったが、ボタンの前を映しているかどうかは分からなかった。
写真を撮っておこうかと思った。
しかし、スマートフォンを取り出しかけて、やめた。
写真に残して、どうするというのか。
誰かに見せる?
こんなものがあったと話せば、相手も気になって見に来るかもしれないじゃないか。
……そして、自分より先に押すかもしれない。
そこまで考えたところで、男は自分がおかしなことを考えていると気づいた。
なぜ、自分が最初に押すことが前提になっているのか。
押すつもりなどない。
何の用途か気になっているだけだ。
こんなの、誰だって気になるはずだ。
ただ、他の人間は気づいていない。
それだけだ。
男はボタンから離れた。
数歩進み、通勤客の流れに戻る。
そのまま通り過ぎればよかった。
しかし、柱から十歩ほど離れたところで、足が止まった。
振り返る。
人波の隙間に、赤いボタンが見えた。
何故か、じっとこちらを見ているような気がした。
もちろん、ただのボタンだ。
目などない。意志もない。
ただ赤く、丸く、そこにあるだけだ。
男は首を振り、その場を離れた。
その日から、ボタンのことを考える時間が増えた。
仕事中、ふと指先に赤い円が浮かんだ。
昼食を取っているとき、「押すな」という三文字を思い出した。
眠る前には、押した瞬間を想像した。
警報が鳴るかもしれない。
駅員が駆けつけるかもしれない。
電車が止まるかもしれない。
あるいは、何も起こらないかもしれない。
その可能性が、最も男を苛立たせた。
もし何も起こらないのなら、なぜ「押すな」と書かれているのか。
確かめる方法は、一つしかない。
もちろん、確かめる必要などない。
押してはいけないとも書いてある。
ならば押さなければいい。
それだけのことだ。
男は何度もそう結論づけた。
それでも次の日になると、またボタンを見て、警告を読む。
そして、押さずに通り過ぎる。
それを繰り返すうちに、男は自分が試されているような気分になった。
自制心を試されているのか。
好奇心を試されているのか。
あるいは、警告をそのまま受け入れるだけの従順さを試されているのか。
押さない自分は、賢いのだろうか。
それとも、理由も知らずに従っているだけなのだろうか。
本当に危険なら、カバーを付けるはずだ。
本当に重要なら、警報装置を設けるはずだ。
本当に誰にも押されたくないなら、そもそも人目につく場所に置かなければいい。
それなのにボタンは、手を伸ばせば届く位置にある。
まるで、押されることを待っているように。
そんな考えが浮かぶたび、男は打ち消した。
誘われているわけではない。
自分が勝手に気にしているだけだ。
ボタンは何もしていない。
それでも、通路に入るたび、赤い色は以前より鮮やかに見えた。
ある日の帰り、通路には普段より人が少なかった。
時刻は遅く、店のシャッターもほとんど下りている。
蛍光灯の白い光が、床に長く反射していた。
靴音が遠くまで響く。
男は柱の前で立ち止まった。
赤いボタンは、いつもと同じ場所にある。
「押すな」
男は小さく読み上げた。
声に出すと、ひどく子どもじみた警告に思えた。
押すなと言われたから、押さない。
そんな単純な命令に従い続けている自分が、急に馬鹿らしくなった。
男は周囲を確認した。
前方には、歩いていく会社員が一人。
後方には誰もいない。
監視カメラの位置は遠い。
見られていたとしても、少し触れただけで咎められることはないだろう。
押すつもりはなかった。
ただ、触ってみたいと思った。
表面が冷たいのか。
どれほど固いのか。
どの程度押し込めば作動するのか。
触れるだけなら、警告には背いていない。
男は右手を上げた。
指先を伸ばす。
赤いボタンが近づく。
手のひらに汗がにじんでいることに気づいた。
馬鹿げている。
たかがボタンだ。
男は人差し指の腹を、赤い表面に触れさせた。
ひやりとしていた。
それだけだった。
何も起こらない。
当然だ。
触れただけなのだから。
男は指を離そうとした。
けれど、離せなかった。
ボタンが固いかどうか、まだ分からない。
ほんの少しだけ力を加えてみる。
沈みそうになれば、その前に止めればいい。
それは押すことではない。
抵抗を確かめるだけだ。
男は指先に力を込めた。
かすかな抵抗が返ってきた。
まだ押してはいない。
表面に触れ、ほんの少し力を加えているだけだ。
これ以上は沈まない。
そう思った次の瞬間、抵抗がふっと消えた。
カチッ。
乾いた音が、静かな通路に小さく響いた。
男は息を止めた。
警報は鳴らない。
照明も消えない。
天井から何かが落ちてくることもない。
遠ざかっていく会社員は、振り返りもしなかった。
何も起こらない。
男はしばらく動けずにいた。
胸の奥で激しく鳴っていた心臓が、徐々に落ち着いていく。
肺にたまっていた息を、ゆっくりと吐き出した。
肩から力が抜ける。
膝まで軽くなったような気がした。
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
ほら。
やっぱり何も起こらないじゃないか。
そう思った瞬間、男の姿は消えた。
声も、痕跡も残さずに。
翌朝には、いつものように大勢の人間が通路を行き交っていた。
誰も足を止めないし、柱も見ない。
誰しもの視界に入っているはずなのに、誰一人として、その存在を意識しない。
男が一人いなくなったところで世界が劇的に変わる事などなく、今まで通りの日常が続いている。
そして今もなお、赤いボタンはそこにある。
――「押すな」という警告とともに。
雨ノ宮です。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
テーマはそのまんま「止められると何故か無性にやりたくなる」でした。
ほんの少しでも面白かったと思っていただけると幸いです。
読み返して思ったことですが、、、
なんか、異変を探しながら脱出する某ゲームへと繋がりそうな内容になってしまったな…と感じております。
では。




