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スイッチ

作者: 雨ノ宮
掲載日:2026/07/20

ーーー押すなと書いてあると、無性に押したくなるのは、何故だろうか。


それに気づいたのは、いつもの地下通路だった。


朝夕には通勤客で埋まり、昼間でも人の流れが途切れることはない。白い壁、低い天井、等間隔に並ぶ蛍光灯。柱には色褪せた広告が貼られ、壁際には消火栓や点検口が並んでいる。


男はその通路を、もう何年も使っていた。

だから最初、赤いボタンを見たときには、誰かが最近取り付けたのだと思った。


柱の側面、広告の下。

胸の高さよりも少し下に、それはあった。


丸い赤色の押しボタン。


透明なカバーも、鍵もない。

ただ灰色の金属板に埋め込まれ、その下に小さな白いプレートが取り付けられている。

プレートには黒い文字で、一言だけ書かれていた。


「押すな」


男は歩みを緩めた。


後ろを歩いていた女が、迷惑そうに脇をすり抜けていく。男は慌てて人の流れに戻り、そのまま通路を抜けた。


振り返りはしなかった。

けれど地上へ出てからも、頭の中には赤いボタンが残っていた。


……あんなもの、昨日まであったか?


工事をしていた様子はない。金属板には細かな傷があり、プレートの角も少し黄ばんでいた。少なくとも、取り付けられたばかりには見えなかった。


ならば、以前からそこにあった?

毎日通っていたのに、今まで気づかなかっただけ?


男は自分の記憶をたどった。

柱。広告。ボタン。

思い出そうとすると、不思議なことに、前からそこにあったような気もした。


翌朝、男は通路に入る前から、その柱を探していた。


人の肩越しに広告の上端が見えた。その下にあるはずの赤色は、まだ人波に隠れている。


別に確認する必要などない。

そう思いながらも、男の目は勝手に柱を追っていた。


近づく。柱が見える。

赤いボタンは、昨日と同じ場所にあった。


「押すな」


当然、警告も変わらない。

その前を何十人もの人間が通り過ぎていく。


誰も見ない。

視線さえ向けない。


赤い色は本来、目につく色のはずだ。ましてや、その下には用途の説明ではなく、禁止だけが書かれている。


それなのに、誰も足を止めない。

男は、人の流れに押されるようにしてボタンの前を通過した。


その日の帰りも、ボタンを見た。

翌日も。その次の日も。


存在を知ってからは、見ないで通り過ぎる方が難しくなった。


通路に入れば、まず柱を探す。

遠くから赤い色を確認する。

近づくにつれ、プレートの文字が読めるようになる。


押すな。


男は毎回、その言葉を読んだ。

読むたびに、疑問が増えていった。


何のためのボタンなのか。

押したら、何が起きるのか。


非常用の設備なら、そう書くはずだ。

係員を呼ぶものなら、呼出と書けばいい。

危険な機械を作動させるのなら、誰でも触れられる場所に、剥き出しで設置するだろうか。


そもそも、本当に押してはいけないのなら、なぜ理由が書かれていないのか。


押すな。


それだけではあまりにも不親切ではないか。

ある朝、男はボタンの前で足を止めた。

人の流れから半歩だけ外れ、柱の横に立つ。


後ろから舌打ちが聞こえたが、男は気にせずボタンを観察した。


金属板は古いしプレートも古い。

だが、ボタンだけは妙にきれいだった。


誰かが頻繁に掃除しているのか?

それとも、誰かが何度も触れている?


男は周囲を見回した。

誰もこちらを見ていない。

駅員の姿もない。


防犯カメラらしきものは通路の端にあったが、ボタンの前を映しているかどうかは分からなかった。


写真を撮っておこうかと思った。

しかし、スマートフォンを取り出しかけて、やめた。


写真に残して、どうするというのか。

誰かに見せる?


こんなものがあったと話せば、相手も気になって見に来るかもしれないじゃないか。

……そして、自分より先に押すかもしれない。


そこまで考えたところで、男は自分がおかしなことを考えていると気づいた。


なぜ、自分が最初に押すことが前提になっているのか。

押すつもりなどない。

何の用途か気になっているだけだ。

こんなの、誰だって気になるはずだ。


ただ、他の人間は気づいていない。

それだけだ。


男はボタンから離れた。

数歩進み、通勤客の流れに戻る。

そのまま通り過ぎればよかった。


しかし、柱から十歩ほど離れたところで、足が止まった。


振り返る。

人波の隙間に、赤いボタンが見えた。

何故か、じっとこちらを見ているような気がした。


もちろん、ただのボタンだ。

目などない。意志もない。


ただ赤く、丸く、そこにあるだけだ。


男は首を振り、その場を離れた。


その日から、ボタンのことを考える時間が増えた。

仕事中、ふと指先に赤い円が浮かんだ。

昼食を取っているとき、「押すな」という三文字を思い出した。


眠る前には、押した瞬間を想像した。

警報が鳴るかもしれない。

駅員が駆けつけるかもしれない。

電車が止まるかもしれない。


あるいは、何も起こらないかもしれない。

その可能性が、最も男を苛立たせた。

もし何も起こらないのなら、なぜ「押すな」と書かれているのか。


確かめる方法は、一つしかない。

もちろん、確かめる必要などない。

押してはいけないとも書いてある。


ならば押さなければいい。

それだけのことだ。


男は何度もそう結論づけた。

それでも次の日になると、またボタンを見て、警告を読む。

そして、押さずに通り過ぎる。


それを繰り返すうちに、男は自分が試されているような気分になった。


自制心を試されているのか。

好奇心を試されているのか。

あるいは、警告をそのまま受け入れるだけの従順さを試されているのか。


押さない自分は、賢いのだろうか。

それとも、理由も知らずに従っているだけなのだろうか。


本当に危険なら、カバーを付けるはずだ。

本当に重要なら、警報装置を設けるはずだ。

本当に誰にも押されたくないなら、そもそも人目につく場所に置かなければいい。


それなのにボタンは、手を伸ばせば届く位置にある。


まるで、押されることを待っているように。

そんな考えが浮かぶたび、男は打ち消した。


誘われているわけではない。

自分が勝手に気にしているだけだ。

ボタンは何もしていない。


それでも、通路に入るたび、赤い色は以前より鮮やかに見えた。


ある日の帰り、通路には普段より人が少なかった。

時刻は遅く、店のシャッターもほとんど下りている。

蛍光灯の白い光が、床に長く反射していた。


靴音が遠くまで響く。

男は柱の前で立ち止まった。

赤いボタンは、いつもと同じ場所にある。


「押すな」


男は小さく読み上げた。

声に出すと、ひどく子どもじみた警告に思えた。

押すなと言われたから、押さない。


そんな単純な命令に従い続けている自分が、急に馬鹿らしくなった。


男は周囲を確認した。

前方には、歩いていく会社員が一人。

後方には誰もいない。

監視カメラの位置は遠い。


見られていたとしても、少し触れただけで咎められることはないだろう。


押すつもりはなかった。

ただ、触ってみたいと思った。

表面が冷たいのか。

どれほど固いのか。

どの程度押し込めば作動するのか。


触れるだけなら、警告には背いていない。


男は右手を上げた。

指先を伸ばす。


赤いボタンが近づく。


手のひらに汗がにじんでいることに気づいた。

馬鹿げている。

たかがボタンだ。


男は人差し指の腹を、赤い表面に触れさせた。


ひやりとしていた。

それだけだった。

何も起こらない。


当然だ。

触れただけなのだから。


男は指を離そうとした。

けれど、離せなかった。


ボタンが固いかどうか、まだ分からない。

ほんの少しだけ力を加えてみる。

沈みそうになれば、その前に止めればいい。

それは押すことではない。

抵抗を確かめるだけだ。


男は指先に力を込めた。


かすかな抵抗が返ってきた。

まだ押してはいない。

表面に触れ、ほんの少し力を加えているだけだ。


これ以上は沈まない。

そう思った次の瞬間、抵抗がふっと消えた。


カチッ。


乾いた音が、静かな通路に小さく響いた。

男は息を止めた。

警報は鳴らない。

照明も消えない。

天井から何かが落ちてくることもない。

遠ざかっていく会社員は、振り返りもしなかった。


何も起こらない。


男はしばらく動けずにいた。

胸の奥で激しく鳴っていた心臓が、徐々に落ち着いていく。

肺にたまっていた息を、ゆっくりと吐き出した。


肩から力が抜ける。

膝まで軽くなったような気がした。


口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


ほら。

やっぱり何も起こらないじゃないか。


そう思った瞬間、男の姿は消えた。

声も、痕跡も残さずに。


翌朝には、いつものように大勢の人間が通路を行き交っていた。

誰も足を止めないし、柱も見ない。

誰しもの視界に入っているはずなのに、誰一人として、その存在を意識しない。


男が一人いなくなったところで世界が劇的に変わる事などなく、今まで通りの日常が続いている。


そして今もなお、赤いボタンはそこにある。

――「押すな」という警告とともに。

雨ノ宮です。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


テーマはそのまんま「止められると何故か無性にやりたくなる」でした。

ほんの少しでも面白かったと思っていただけると幸いです。


読み返して思ったことですが、、、

なんか、異変を探しながら脱出する某ゲームへと繋がりそうな内容になってしまったな…と感じております。


では。

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