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秋雨

掲載日:2026/03/22

 雨が降ってきた。

 傘はあるが、ちょうど近くに喫茶店がある。

 良質な珈琲豆を使っているため少し値が張るが、その分学生がおらず静かなため、重宝している。


 店の扉を開けると、鐘の音が響いた。それを聞いた店員が素早くやってくる。

 人数を聞かれ、一人と答えた。

 店員は少し意外そうな顔をしたのち、窓辺の席、外が見えるカウンターに案内した。

 少し軋む椅子に座り、メニューを開く。


 軽食を摘みたい。

 昼は珍しい来客があったため、食べ損ねてしまった。


 事前連絡もなしに来るのは、彼らしいというか。

 自分の勝手が、当然許されるものとしてきたのだろうな。


 正直に言えば相手をするのは億劫だったが、家の前に居座られたらたまらない。

 連打されたチャイムにため息をつき、玄関に向かった。

 出迎えてやったというのに、なんの挨拶もなく早々「何故止めなかった」と怒鳴られた。


「誰の、何を」


「あの人の、死を」


 その瞳は、怒りで燃えていた。


 彼とは、まともな共通の知り合いは一人しかいない。

 だから“あの人”ですぐに分かる。


 “あの人”――シュウは、古い知人だ。


 同じ高校に通っていた。仲が良かったわけじゃない。

 あいつはなんでもできて、友人が多かった。対して私は、一人が好きだった。


 私は騒がしい教室が苦手で、昼休みは立ち入り禁止の屋上で本を読んでいた。

 そこに、あいつはやってきた。


 私を見つけたとき、あいつは最初驚いたようだった。

 立ち入り禁止の場所に、人が居るとは思わなかったのだろう。


「あ、えーと……」


 口籠るあいつに、当時開いていた本ほどの興味を持てず、すぐに視線を手元に落とした。

 戸惑った気配を感じたが、向こうもすぐに、私とは離れた場所に腰を下ろし弁当を食べ始めた。


 それから何度か、そうやって同じ場所で同じようなことがあった。


 ある日、あいつが訊いた。


「なぁそれ、何読んでんだ?」


 読書の邪魔をされたと思ったが、無視をするほどでもなかった。

 本を閉じて、差し出す。

 受け取った本の表紙を、あいつは大切そうに撫でた。その様子に、尋ねた。


「本が好きなのか?」


 読書が好き、というのとはまた違う気がした。

 そういう人間は、まず中身やあらすじを確認するものだが、あいつはそうではなかった。


「俺、デザイン系目指してるっていうか。この本の装丁、かっこいいな」


 私は読むのが専門だったためそう伝えると、あいつは苦笑した。


「でも、初めて手に取ったときは、この表紙を見たはずだ。どんな話なのかはここから伝わる。――そういうの、作りたいんだよなぁ」


 夢を語るには下がった眉尻と、硬い口角。『でも』と続けそうな彼の台詞に、割り込んだ。


「作りたいのならば、作ればいいだろう」


 励ましのわけではない。ただ、他人の弱音を聞くのは面倒だった。

 昼休みも限られており、そろそろ教室に戻らなければいけない、とも思った。


「ふ……はは、そうだな。なぁ……名前、なんて言うんだ?」


「榊」


「それは知ってる。下の名前を教えてくれ」


まこと。慎重の慎だ」


「へぇ……なんか、似合うな。俺はシュウ。季節の“秋”でシュウだよ。よろしくな、シン」


「シン?」


「慎重の慎だろ? だから、シン。お前もシュウって呼んでくれ」


「なんで――」


「お! そろそろチャイムが鳴るな。急がねーと午後の授業遅刻だぞ!」


 この日から、あいつは私に話しかけるようになった。

 猫に懐かれた、ようなものだろうか。


 いわゆる“友人”のように、何かを分け合う仲ではなかった。

 ただ本を読んでいると、見せてくれとせがむので見せた。

 読んでいる本を取られると面倒だったので、そのうち、いくつかの小説を渡すことにした。


 あいつはいつも、尊いものに触れるかのように、丁寧に表紙をなぞった。


「俺、装丁家になるわ」


「そうか」


 高校三年生の春にされた宣言。

 何を、今更。それしか感じなかった。

 この頃には「この小説だけど、こんな表紙はどう思う?」と訊かれることもあったからだ。


「ハハ、冷てーの。デザイン系の専門行くって伝えたら、『何言ってんだ』って親と教師両方に言われたよ。お前なら東大も狙えるのに、とか。でもさぁ、仕方ないよなぁ。……お前はどう思う?」


「私が決めることじゃない。それに、私がなんと言おうと、お前は変わらないだろう」


「……あぁ」


 結局反対を押し切って、あいつは専門学校に進んだ。

 半勘当状態で、バイトをして切り詰めながらの生活だった。

 何故知っているかというと、私の通う大学がその専門学校から程近く、また、趣味が合ったからだ。


 そう、あいつとは、珈琲の趣味が合った。


 喫茶店で珈琲を飲むのがたまの贅沢だ、と笑うあいつは、月に一度ほど私を誘った。


「うまい店があるらしい」

「あの店の珈琲が飲みたい」


 そう連絡してきた。

 他に誘える者が居るだろうと言えば、それでは珈琲を楽しめないと言った。

 一人で行けばいいものをと言えば、一人だけより二人の方が長居ができると言った。


 特に弾む会話のない二人で、同じ珈琲を飲んだ。


 私がそれに付き合ったのは、あいつの誘う珈琲が、確かにうまかったからだ。


 私が大学を卒業するより二年早く専門を卒業したあいつは、難なく希望のデザイン事務所に入所した。憧れている装丁家が、そこに勤めているらしかった。


 この頃には家族仲も戻っていて――いや、以前よりも良好になっていたと聞いた。

 あいつは引き続き一人暮らしをしていたが、たまに実家に帰ると歳の離れた妹が甘えてくるのだと、嬉しそうに惚気ていた。

 妬まれても仕方がなさそうな男ではあったが、同時に人当たりが良く、誰からも慕われていた。


 あいつの転機は、二度あった。


 一度目は、事務所に勤めてから二年後。

 その、仲の良い家族を亡くしたのだ。放火魔の手により、焼け死んだ。


 あいつは犯人を大いに憎み、怒り、悲しんだ。世界の終わりのように泣いた。

 三つの棺に縋り付き、「何故俺だけ」と慟哭した。

 親族が、友が、職場の仲間が、あいつを支えた。その葬儀からしばらくの間、あいつからの連絡はなかった。


 それから三年ほど、経った頃だろうか。

 あいつからメッセージが届いた。


「うまい珈琲屋を見つけた」


 あいつがうまいというのなら、そうなのだろう。

「付き合おう」とだけ返した。


「作家先生になったんだな。いやなんか、すげぇ納得するんだけど」


 独立して事務所を立ち上げたと言ったあいつが近況を訊いたため、答えた。


「まだ兼業だ」


 食っていけるかも分からぬ夢を、一人目指しはしなかった。

 金を貯めながらも、筆を折らなかった。ただそれだけだ。


「でももうすぐ専業だ。シン先生?」


 ペンネームでは、下の名をシンとした。

 高校の時分からあいつが「シン」と呼ぶものだから、周囲が私の名を「シン」と勘違いしたのだ。

 勘違いした者が幾人か同じ大学で、その後も「シン」がついて回った。

 そしてペンネームを決めるとき、考えるのが面倒臭くてそれを使った。

 だがこのように言われるのならば、もう少し捻ればよかっただろうか。


「そのうち一緒に仕事しような」


「私の本がそれなりに売れて、お前の事務所が潰れていなかったら、そうだな」


「もうちょっと明るい未来を考えろよ」


『まったく』と浮かべた笑みは、家族を失くす前と同じ笑みだった。


 専業作家となり、それなりに忙しくさせてもらうようになった。

 その間も、月に一度くらいは、あいつと珈琲を飲んだ。

 そして本当に、あいつに私の本の装丁を任せることになった。


 あいつは私にも編集にもよく話した。

 私の作品について、合う装丁について、熱く語った。


 大人になってからは、あいつが他の誰かと話しているのを見る機会がなかったので、珈琲と静寂を囲んでいる姿との乖離に少し驚いた。

 しかしすぐに「そういえば賑やかな男だったな」と高校時代を思い出した。


 このときの作品は長編のシリーズものだ。

「最後まで頼む」と言った私に、「任せろ」と自信ありげに笑った。


 それから一年後の、秋。

 珈琲を飲むあいつの様子が、おかしかった。


 どこか焦点の合ってない瞳と、微かに震える手。

 饒舌になったかと思うと、急に黙り込む。


 カフェインの過剰摂取を疑ったが、それほど忙しければ、私に連絡などしないだろう。

 さすがに薬物に手を出すほど愚かではあるまい。

 すると、これは心因性のものとなる。


「どうした」と訊くのは、珈琲を味わうためだった。


「本物に、会った」


「本物?」


「本物の装丁家だ」


「お前もそうだろう」


 あいつは俯き、「違うんだ」と首を横に振る。


「あれが本物だ」


「俺は偽物だった」


 ぽつりぽつりと、切り裂かれた喉の奥から落とすかのように呟いた。


「そうなると、私は偽物に仕事を任せたことになるのか?」


「――っ」


 顔を上げた。こちらを見る。

 充血した目だ。寝ていないのか、眠れないのか。それとも、別の理由か。


 あいつは、乱れた呼吸の中、もがくように「違う」と言った。

 ぶくぶくと海に溺れそうになるのを、なんとか足掻くようだった。


「それなら構わない」


 珈琲を啜ると、苦味と香りが広がる。

 あぁ、この店の珈琲はうまい。

 私の様子を見たあいつは、自分も同様にカップを手に取り、珈琲を含んだ。

 眉尻を落とし「うまいな」と言う表情は、いつかどこかで見たことがあった気がした。


 そこからも、ひと月に一度程度、喫茶店で会った。

 そこで落とされる言葉で、あいつに何があったのかを理解した。

 要は、出会ったのだ。“天才”という生き物に。

 憧れとはまた違う、自分を“偽物”と思うほどの絶望に出会ったのだ。


 仕事の都合上、私もその“天才”の作品に触れる機会が生まれた。

 ――なるほど、これが本物か。そう思った。


 小説の内容に対して誠実でありながら、書店で出会えば必ず手に取ってしまうような。

 そんな、装丁。

 気がつくと、かつてのあいつのように、その本の表紙をなぞっていた。


 その天才は、私たちから見るとまだ若い、青年であった。

 何故知っているか。――会ったからだ。


 出版社であいつと編集者との打ち合わせが終わり、エレベーターを待つ間。

 社交的なあいつが編集者と会話してるのをぼんやり見ていると、ひとりの青年が、そこにやってきた。


 青年が並んだ瞬間のあいつの様子を、少しおかしく感じた。だが気にするほどでもないと、特に触れなかった。

 青年は、最初は大人しくエレベーターを待っていた。

 しかしあいつの名を聞くと、「えっ⁉」とあいつの顔を見た。


「シュウ先生ですか⁉ 僕、――っていいます。あなたのファンなんです!」


 若さを感じる話し方。才能が故の安い自尊心。

 わがままが許される環境だったのだろうと、すぐに分かった。

 そう、許される環境。それだけの、才能。

 “本物”の装丁家。


「それは、どうも」


 青年が出した右手に対し、あいつは右手を返した。

 エレベーターが来るまでの時間を、長く感じた。


「先生の作品が好きで」


「先生の作品を見て装丁家になることを決めたんです」


「先生の事務所で働きたいなぁ」


 あいつは「はは」と笑っていたが、見ていられないほどに顔色が悪かった。


「おい、エレベーターが来た」


 あいつと私と青年を乗せたエレベーターを、編集者が見送る。

 青年はその箱の中でも、ピーチクパーチクとまるで小鳥のように興奮して話していた。


「先生たちは、帰りは電車ですか? どちら方面です?」


「悪いが、この後私と彼は少し話がある」


「それなら、僕も」


「仕事の話だ」


 それだけ言って、あいつの手首を握り、引いて歩いた。目的地は決めていない。

 適当なところでタクシーを拾ってやろう。


 私は、“本物”の作家を知っていた。

 天才という存在を、敵わない生き物を知っていた。

 知っていたのに、この世界に飛び込んだ。


 あいつは、“好き”と“憧れ”だった。

 そこからずぶずぶと溺れていった。


 何をやらせても人並み以上な男が、他の全てを捨てて賭ける程度には、装丁家という仕事にハマっていた。

 愛する家族を失くしてからも生き続けられる程度には、生と自らを繋ぐよすがであった。

 そこで今更、敵わない生き物を知った。


 立場が、在り様が異なってきた私は、彼に同情できない。

 だがそれでも、タクシーに押し込む程度には、その絶望に共感した。


 あいつから、「いい珈琲豆を買ったから」と事務所に呼び出された。

 初めてのことだった。


 それに釣られてノコノコと行き、間抜けにも珈琲を嗜んでいると、あの青年がやってきた。


「先生、お忙しい中ありがとうございます! ……って、あれ?」


「今日は元々シンと予定が在ったんだ。だけどまぁ、君も何度も連絡くれているし、毎回断るのも、悪いから。シンならこの前も会っているから、いいかなと思って」


 巻き込むのなら、他の誰かにすればいいものを。

 はぁ、と溢したため息は、青年の耳に拾われた。


「お二人は、ずいぶんと仲がいいんですね」


 不快感を隠さぬ声音は、仕事相手となるかもしれない者に出す色ではないだろうに。


「いいや。ただの古い知人だ」


「ひどいな、シン。こいつは高校時代からの友人なんだよ」


 あいつが答えると、青年は瞳を輝かせた。


「先生の高校時代ですか⁉ 話を聞きたいです!」


「特に、面白い話はないよ」


 苦笑気味のあいつに、青年は大きくかぶりを振った。


「そんなことないですよ。僕、高校行ってないんで、そもそも学生生活っていうのに興味あるんですよね」


「高校に行ってない?」


 あいつの疑問に、青年が答える。


「はい。引きこもり? みたいな感じです。ずーっと絵を描いてました。だからデザイン系の仕事に就くのは決めてたんですけど、何にしよっかなって感じで。そんな中、先生の装丁と出会ったんです。それでまず、装丁家をやってみようって」


 無自覚のナイフというのは、醜くも残酷だ。

 彼の言葉は、ものを知らぬ傲慢さを孕んでいる。


「そうなんだ。『まず』って、いうのは」


 貼り付けられた柔らかな笑みに、興味を持ってもらえたと思ったのか、青年は声を張り上げる。


「いろんなことがやりたいんですよね、僕! 日本だけにいるのもつまらないし、小さくおさまりたくもない。装丁家は今のところ楽しいですけど、これだけで終わるのもなぁって。……あ、先生のこと馬鹿にしてるとかじゃないですから! 本当に尊敬してます!」


「うん、ありがとう」


「……おい、これ以上それを続けるなら、私は帰るぞ。もう珈琲も飲み終えた」


 茶番に付き合うほど、暇ではない。

 珈琲は確かにうまかったが、味わうという行為には共にする時間も含まれる。

 騒がしく無遠慮な声を聞きながらでは、楽しめるものも楽しめない。


「シン、待ってくれよ」


「仕事がある。お前だってそうだろう。君も、何しに来たんだ? 職場見学というのなら、もう十分なんじゃないか」


 むっとした顔を見せる青年に、再度ため息をついた。


「じゃあな」


 事務所の扉を開け、外に出る。

 雨の匂いに、来るときは降っていなかったくせにと苛立った。傘は持ってきていないが、借りに戻る気は生まれない。

 この程度なら構わないかと、濡れて帰った。


 ひと月後。「珈琲を飲もう」というメッセージ。

「事務所には行かない」と返すと、「先日は悪かった」と謝罪された。

 いつもの店で、ただ珈琲を飲んだ。


 あいつと別れたあと、なんとなく本屋に赴いた。特に買うものはなく、ふらふらと小説コーナーを眺めるだけだ。


 ただ、歩く。物色するほどの興味もかけずに。

 そんな中でも、“本物”の装丁は、すぐに分かった。あのような青年から生まれているのかと思うと、苦々しかった。


 少しずつ。ほんの、少しずつ。

 あいつは変わった。

 編集者は「こだわりが強くなった」と評していたが、そんなかわいらしいものではなかった。


 ひと月に一度の珈琲は、変わらず続いた。

 だがその時間に見える瞳の光は、ゆっくりと沈んでいった。


 風の噂で、青年が海を渡ったと聞いた。

 比する者がなくなったからといって、彼が残した作品が消えたわけではない。

 そして、彼の作品が届かなくなるわけでもない。


 装丁家でなくなろうとも、同じ表現者として、彼は存在感を失わなかった。

 いや、むしろ。彼は、その存在を、世界に広めていった。


 青年が渡ってから一年が経ち、あいつはまた笑うようになった。

 戻ったというのとはまた違う。相変わらずこだわりは強く、熱く議論する。


 楽しそうに仕事をされている。

 どんな仕事も熟される。さすがシュウ先生だ。


 そのように言われていても、私は頷けなかった。

 あれは、躁状態とでもいうのだろうか。長く長く続く躁。

 いや、見えてないところでは落ち込みがあるのかもしれない。

 会ったらひとつ、訊いてみるか。


 踏み込む気はないが、何もせず壊れさせるのもまた違うだろう。

 しかし次の打ち合わせの日、いつまで経ってもあいつは現れなかった。

 代わりに、連絡が入った。


 あいつが倒れたと。

 当然、打ち合わせは中止となった。


 あいつには家族が居ない。決まった恋人も居ない。

 友は多いが、きっと連絡はしていないだろう。

 私に来たのは、仕事の約束があったからだ。


 仕方がないので、病院に向かった。


「悪いな」


 穏やかな表情だ。


「いつ頃だ?」


 病状も何も聞いていない。

 だがその顔で、死を決めていることだけは分かった。


「まだ時間はある。仕事が残ってるからな。――お前のシリーズも、まだ完結してないし」


「次で完結だ」


「そうだな。最期の仕事だ」


 あれが本になるのは、一年後だろうか。

 最後に大切に表紙を撫でるのは、私の本になるのか。


「なぁシン、お前はどう思う?」


 治療を拒否しただろうこと、延命を拒んだだろうこと。

 私がそれに気づいていると、あいつは知っていた。


「私が決めることじゃない。どうせ、私が何を言っても変わらないだろう」


『早く終わりたかった』

『ようやく終われる』


 そう思って、そう思えて、お前は笑えるようになったんじゃないのか。

 “本物”への絶望を忘れたわけでも、もちろん乗り越えたわけでもなく、もう逃げられるから、笑えたんじゃないか。

 その時点で、すべて決めていた。私への問いに、意味などなかった。


「シンなら、そう言うと思った」


『ありがとう』と聞こえた気がした。

 

 *

 

 サンドイッチを口に運びながら、懐かしい記憶を辿った。


 ――あぁ、そういえば、この店はあいつとよく来た店だったな。


 どちらかが先に着くと、中で待っていた。

 だから店員は「一人」で戸惑ったのか。


 納得をしながら、珈琲を啜る。

 芳醇な香りが口の中で広がる。


『なぜ止めなかったのか』か。

 きっと、彼なら止めたのだろうな。

 無邪気に、懸命に。励まして、付き添って。あいつの命を救った。あいつの絶望を支えた。

 私は、そうしなかった。


 後悔も未練もない。

 青年が来なかったなら、特別辿るほどでもない記憶だった。


 珈琲を飲み終える。

 外はまだ、静かに雨が降っている。


 店を出て傘を開くと、雨粒が頭上で静かに音を立てる。

 湿気った空気がまとわりつき、ほんの少し眉間に皺を寄せた。


「もうしばらくは、やみそうにないな」


 独白のように言葉を落とすと、足元を野良猫が通った。

 にゃあという鳴き声をあげた彼は、濡れずに歩ける道を知っているようだ。


「私が猫なら、彼を追えばよかったのだが」


 残念ながら猫ではないため、このまま駅に向かわねばならない。

 気がつくと、ぽつりぽつりという音が世界を侵食していた。


 灰色の空。灰色の街。

 ここで大笑いしていたかつてのあいつには、どんな色に見えていただろうか。

 雨音と共に過ぎった疑問は、雨粒と共にすぐに消えた。


 ――明日は晴れるだろうか。

 革靴にジワリと雨が染みる。

 靴下が濡れ切ってしまう前にと、歩調を少し早めた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!

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