秋雨
雨が降ってきた。
傘はあるが、ちょうど近くに喫茶店がある。
良質な珈琲豆を使っているため少し値が張るが、その分学生がおらず静かなため、重宝している。
店の扉を開けると、鐘の音が響いた。それを聞いた店員が素早くやってくる。
人数を聞かれ、一人と答えた。
店員は少し意外そうな顔をしたのち、窓辺の席、外が見えるカウンターに案内した。
少し軋む椅子に座り、メニューを開く。
軽食を摘みたい。
昼は珍しい来客があったため、食べ損ねてしまった。
事前連絡もなしに来るのは、彼らしいというか。
自分の勝手が、当然許されるものとしてきたのだろうな。
正直に言えば相手をするのは億劫だったが、家の前に居座られたらたまらない。
連打されたチャイムにため息をつき、玄関に向かった。
出迎えてやったというのに、なんの挨拶もなく早々「何故止めなかった」と怒鳴られた。
「誰の、何を」
「あの人の、死を」
その瞳は、怒りで燃えていた。
彼とは、まともな共通の知り合いは一人しかいない。
だから“あの人”ですぐに分かる。
“あの人”――秋は、古い知人だ。
同じ高校に通っていた。仲が良かったわけじゃない。
あいつはなんでもできて、友人が多かった。対して私は、一人が好きだった。
私は騒がしい教室が苦手で、昼休みは立ち入り禁止の屋上で本を読んでいた。
そこに、あいつはやってきた。
私を見つけたとき、あいつは最初驚いたようだった。
立ち入り禁止の場所に、人が居るとは思わなかったのだろう。
「あ、えーと……」
口籠るあいつに、当時開いていた本ほどの興味を持てず、すぐに視線を手元に落とした。
戸惑った気配を感じたが、向こうもすぐに、私とは離れた場所に腰を下ろし弁当を食べ始めた。
それから何度か、そうやって同じ場所で同じようなことがあった。
ある日、あいつが訊いた。
「なぁそれ、何読んでんだ?」
読書の邪魔をされたと思ったが、無視をするほどでもなかった。
本を閉じて、差し出す。
受け取った本の表紙を、あいつは大切そうに撫でた。その様子に、尋ねた。
「本が好きなのか?」
読書が好き、というのとはまた違う気がした。
そういう人間は、まず中身やあらすじを確認するものだが、あいつはそうではなかった。
「俺、デザイン系目指してるっていうか。この本の装丁、かっこいいな」
私は読むのが専門だったためそう伝えると、あいつは苦笑した。
「でも、初めて手に取ったときは、この表紙を見たはずだ。どんな話なのかはここから伝わる。――そういうの、作りたいんだよなぁ」
夢を語るには下がった眉尻と、硬い口角。『でも』と続けそうな彼の台詞に、割り込んだ。
「作りたいのならば、作ればいいだろう」
励ましのわけではない。ただ、他人の弱音を聞くのは面倒だった。
昼休みも限られており、そろそろ教室に戻らなければいけない、とも思った。
「ふ……はは、そうだな。なぁ……名前、なんて言うんだ?」
「榊」
「それは知ってる。下の名前を教えてくれ」
「慎。慎重の慎だ」
「へぇ……なんか、似合うな。俺はシュウ。季節の“秋”でシュウだよ。よろしくな、シン」
「シン?」
「慎重の慎だろ? だから、シン。お前もシュウって呼んでくれ」
「なんで――」
「お! そろそろチャイムが鳴るな。急がねーと午後の授業遅刻だぞ!」
この日から、あいつは私に話しかけるようになった。
猫に懐かれた、ようなものだろうか。
いわゆる“友人”のように、何かを分け合う仲ではなかった。
ただ本を読んでいると、見せてくれとせがむので見せた。
読んでいる本を取られると面倒だったので、そのうち、いくつかの小説を渡すことにした。
あいつはいつも、尊いものに触れるかのように、丁寧に表紙をなぞった。
「俺、装丁家になるわ」
「そうか」
高校三年生の春にされた宣言。
何を、今更。それしか感じなかった。
この頃には「この小説だけど、こんな表紙はどう思う?」と訊かれることもあったからだ。
「ハハ、冷てーの。デザイン系の専門行くって伝えたら、『何言ってんだ』って親と教師両方に言われたよ。お前なら東大も狙えるのに、とか。でもさぁ、仕方ないよなぁ。……お前はどう思う?」
「私が決めることじゃない。それに、私がなんと言おうと、お前は変わらないだろう」
「……あぁ」
結局反対を押し切って、あいつは専門学校に進んだ。
半勘当状態で、バイトをして切り詰めながらの生活だった。
何故知っているかというと、私の通う大学がその専門学校から程近く、また、趣味が合ったからだ。
そう、あいつとは、珈琲の趣味が合った。
喫茶店で珈琲を飲むのがたまの贅沢だ、と笑うあいつは、月に一度ほど私を誘った。
「うまい店があるらしい」
「あの店の珈琲が飲みたい」
そう連絡してきた。
他に誘える者が居るだろうと言えば、それでは珈琲を楽しめないと言った。
一人で行けばいいものをと言えば、一人だけより二人の方が長居ができると言った。
特に弾む会話のない二人で、同じ珈琲を飲んだ。
私がそれに付き合ったのは、あいつの誘う珈琲が、確かにうまかったからだ。
私が大学を卒業するより二年早く専門を卒業したあいつは、難なく希望のデザイン事務所に入所した。憧れている装丁家が、そこに勤めているらしかった。
この頃には家族仲も戻っていて――いや、以前よりも良好になっていたと聞いた。
あいつは引き続き一人暮らしをしていたが、たまに実家に帰ると歳の離れた妹が甘えてくるのだと、嬉しそうに惚気ていた。
妬まれても仕方がなさそうな男ではあったが、同時に人当たりが良く、誰からも慕われていた。
あいつの転機は、二度あった。
一度目は、事務所に勤めてから二年後。
その、仲の良い家族を亡くしたのだ。放火魔の手により、焼け死んだ。
あいつは犯人を大いに憎み、怒り、悲しんだ。世界の終わりのように泣いた。
三つの棺に縋り付き、「何故俺だけ」と慟哭した。
親族が、友が、職場の仲間が、あいつを支えた。その葬儀からしばらくの間、あいつからの連絡はなかった。
それから三年ほど、経った頃だろうか。
あいつからメッセージが届いた。
「うまい珈琲屋を見つけた」
あいつがうまいというのなら、そうなのだろう。
「付き合おう」とだけ返した。
「作家先生になったんだな。いやなんか、すげぇ納得するんだけど」
独立して事務所を立ち上げたと言ったあいつが近況を訊いたため、答えた。
「まだ兼業だ」
食っていけるかも分からぬ夢を、一人目指しはしなかった。
金を貯めながらも、筆を折らなかった。ただそれだけだ。
「でももうすぐ専業だ。シン先生?」
ペンネームでは、下の名を慎とした。
高校の時分からあいつが「シン」と呼ぶものだから、周囲が私の名を「シン」と勘違いしたのだ。
勘違いした者が幾人か同じ大学で、その後も「シン」がついて回った。
そしてペンネームを決めるとき、考えるのが面倒臭くてそれを使った。
だがこのように言われるのならば、もう少し捻ればよかっただろうか。
「そのうち一緒に仕事しような」
「私の本がそれなりに売れて、お前の事務所が潰れていなかったら、そうだな」
「もうちょっと明るい未来を考えろよ」
『まったく』と浮かべた笑みは、家族を失くす前と同じ笑みだった。
専業作家となり、それなりに忙しくさせてもらうようになった。
その間も、月に一度くらいは、あいつと珈琲を飲んだ。
そして本当に、あいつに私の本の装丁を任せることになった。
あいつは私にも編集にもよく話した。
私の作品について、合う装丁について、熱く語った。
大人になってからは、あいつが他の誰かと話しているのを見る機会がなかったので、珈琲と静寂を囲んでいる姿との乖離に少し驚いた。
しかしすぐに「そういえば賑やかな男だったな」と高校時代を思い出した。
このときの作品は長編のシリーズものだ。
「最後まで頼む」と言った私に、「任せろ」と自信ありげに笑った。
それから一年後の、秋。
珈琲を飲むあいつの様子が、おかしかった。
どこか焦点の合ってない瞳と、微かに震える手。
饒舌になったかと思うと、急に黙り込む。
カフェインの過剰摂取を疑ったが、それほど忙しければ、私に連絡などしないだろう。
さすがに薬物に手を出すほど愚かではあるまい。
すると、これは心因性のものとなる。
「どうした」と訊くのは、珈琲を味わうためだった。
「本物に、会った」
「本物?」
「本物の装丁家だ」
「お前もそうだろう」
あいつは俯き、「違うんだ」と首を横に振る。
「あれが本物だ」
「俺は偽物だった」
ぽつりぽつりと、切り裂かれた喉の奥から落とすかのように呟いた。
「そうなると、私は偽物に仕事を任せたことになるのか?」
「――っ」
顔を上げた。こちらを見る。
充血した目だ。寝ていないのか、眠れないのか。それとも、別の理由か。
あいつは、乱れた呼吸の中、もがくように「違う」と言った。
ぶくぶくと海に溺れそうになるのを、なんとか足掻くようだった。
「それなら構わない」
珈琲を啜ると、苦味と香りが広がる。
あぁ、この店の珈琲はうまい。
私の様子を見たあいつは、自分も同様にカップを手に取り、珈琲を含んだ。
眉尻を落とし「うまいな」と言う表情は、いつかどこかで見たことがあった気がした。
そこからも、ひと月に一度程度、喫茶店で会った。
そこで落とされる言葉で、あいつに何があったのかを理解した。
要は、出会ったのだ。“天才”という生き物に。
憧れとはまた違う、自分を“偽物”と思うほどの絶望に出会ったのだ。
仕事の都合上、私もその“天才”の作品に触れる機会が生まれた。
――なるほど、これが本物か。そう思った。
小説の内容に対して誠実でありながら、書店で出会えば必ず手に取ってしまうような。
そんな、装丁。
気がつくと、かつてのあいつのように、その本の表紙をなぞっていた。
その天才は、私たちから見るとまだ若い、青年であった。
何故知っているか。――会ったからだ。
出版社であいつと編集者との打ち合わせが終わり、エレベーターを待つ間。
社交的なあいつが編集者と会話してるのをぼんやり見ていると、ひとりの青年が、そこにやってきた。
青年が並んだ瞬間のあいつの様子を、少しおかしく感じた。だが気にするほどでもないと、特に触れなかった。
青年は、最初は大人しくエレベーターを待っていた。
しかしあいつの名を聞くと、「えっ⁉」とあいつの顔を見た。
「シュウ先生ですか⁉ 僕、――っていいます。あなたのファンなんです!」
若さを感じる話し方。才能が故の安い自尊心。
わがままが許される環境だったのだろうと、すぐに分かった。
そう、許される環境。それだけの、才能。
“本物”の装丁家。
「それは、どうも」
青年が出した右手に対し、あいつは右手を返した。
エレベーターが来るまでの時間を、長く感じた。
「先生の作品が好きで」
「先生の作品を見て装丁家になることを決めたんです」
「先生の事務所で働きたいなぁ」
あいつは「はは」と笑っていたが、見ていられないほどに顔色が悪かった。
「おい、エレベーターが来た」
あいつと私と青年を乗せたエレベーターを、編集者が見送る。
青年はその箱の中でも、ピーチクパーチクとまるで小鳥のように興奮して話していた。
「先生たちは、帰りは電車ですか? どちら方面です?」
「悪いが、この後私と彼は少し話がある」
「それなら、僕も」
「仕事の話だ」
それだけ言って、あいつの手首を握り、引いて歩いた。目的地は決めていない。
適当なところでタクシーを拾ってやろう。
私は、“本物”の作家を知っていた。
天才という存在を、敵わない生き物を知っていた。
知っていたのに、この世界に飛び込んだ。
あいつは、“好き”と“憧れ”だった。
そこからずぶずぶと溺れていった。
何をやらせても人並み以上な男が、他の全てを捨てて賭ける程度には、装丁家という仕事にハマっていた。
愛する家族を失くしてからも生き続けられる程度には、生と自らを繋ぐよすがであった。
そこで今更、敵わない生き物を知った。
立場が、在り様が異なってきた私は、彼に同情できない。
だがそれでも、タクシーに押し込む程度には、その絶望に共感した。
あいつから、「いい珈琲豆を買ったから」と事務所に呼び出された。
初めてのことだった。
それに釣られてノコノコと行き、間抜けにも珈琲を嗜んでいると、あの青年がやってきた。
「先生、お忙しい中ありがとうございます! ……って、あれ?」
「今日は元々シンと予定が在ったんだ。だけどまぁ、君も何度も連絡くれているし、毎回断るのも、悪いから。シンならこの前も会っているから、いいかなと思って」
巻き込むのなら、他の誰かにすればいいものを。
はぁ、と溢したため息は、青年の耳に拾われた。
「お二人は、ずいぶんと仲がいいんですね」
不快感を隠さぬ声音は、仕事相手となるかもしれない者に出す色ではないだろうに。
「いいや。ただの古い知人だ」
「ひどいな、シン。こいつは高校時代からの友人なんだよ」
あいつが答えると、青年は瞳を輝かせた。
「先生の高校時代ですか⁉ 話を聞きたいです!」
「特に、面白い話はないよ」
苦笑気味のあいつに、青年は大きくかぶりを振った。
「そんなことないですよ。僕、高校行ってないんで、そもそも学生生活っていうのに興味あるんですよね」
「高校に行ってない?」
あいつの疑問に、青年が答える。
「はい。引きこもり? みたいな感じです。ずーっと絵を描いてました。だからデザイン系の仕事に就くのは決めてたんですけど、何にしよっかなって感じで。そんな中、先生の装丁と出会ったんです。それでまず、装丁家をやってみようって」
無自覚のナイフというのは、醜くも残酷だ。
彼の言葉は、ものを知らぬ傲慢さを孕んでいる。
「そうなんだ。『まず』って、いうのは」
貼り付けられた柔らかな笑みに、興味を持ってもらえたと思ったのか、青年は声を張り上げる。
「いろんなことがやりたいんですよね、僕! 日本だけにいるのもつまらないし、小さくおさまりたくもない。装丁家は今のところ楽しいですけど、これだけで終わるのもなぁって。……あ、先生のこと馬鹿にしてるとかじゃないですから! 本当に尊敬してます!」
「うん、ありがとう」
「……おい、これ以上それを続けるなら、私は帰るぞ。もう珈琲も飲み終えた」
茶番に付き合うほど、暇ではない。
珈琲は確かにうまかったが、味わうという行為には共にする時間も含まれる。
騒がしく無遠慮な声を聞きながらでは、楽しめるものも楽しめない。
「シン、待ってくれよ」
「仕事がある。お前だってそうだろう。君も、何しに来たんだ? 職場見学というのなら、もう十分なんじゃないか」
むっとした顔を見せる青年に、再度ため息をついた。
「じゃあな」
事務所の扉を開け、外に出る。
雨の匂いに、来るときは降っていなかったくせにと苛立った。傘は持ってきていないが、借りに戻る気は生まれない。
この程度なら構わないかと、濡れて帰った。
ひと月後。「珈琲を飲もう」というメッセージ。
「事務所には行かない」と返すと、「先日は悪かった」と謝罪された。
いつもの店で、ただ珈琲を飲んだ。
あいつと別れたあと、なんとなく本屋に赴いた。特に買うものはなく、ふらふらと小説コーナーを眺めるだけだ。
ただ、歩く。物色するほどの興味もかけずに。
そんな中でも、“本物”の装丁は、すぐに分かった。あのような青年から生まれているのかと思うと、苦々しかった。
少しずつ。ほんの、少しずつ。
あいつは変わった。
編集者は「こだわりが強くなった」と評していたが、そんなかわいらしいものではなかった。
ひと月に一度の珈琲は、変わらず続いた。
だがその時間に見える瞳の光は、ゆっくりと沈んでいった。
風の噂で、青年が海を渡ったと聞いた。
比する者がなくなったからといって、彼が残した作品が消えたわけではない。
そして、彼の作品が届かなくなるわけでもない。
装丁家でなくなろうとも、同じ表現者として、彼は存在感を失わなかった。
いや、むしろ。彼は、その存在を、世界に広めていった。
青年が渡ってから一年が経ち、あいつはまた笑うようになった。
戻ったというのとはまた違う。相変わらずこだわりは強く、熱く議論する。
楽しそうに仕事をされている。
どんな仕事も熟される。さすがシュウ先生だ。
そのように言われていても、私は頷けなかった。
あれは、躁状態とでもいうのだろうか。長く長く続く躁。
いや、見えてないところでは落ち込みがあるのかもしれない。
会ったらひとつ、訊いてみるか。
踏み込む気はないが、何もせず壊れさせるのもまた違うだろう。
しかし次の打ち合わせの日、いつまで経ってもあいつは現れなかった。
代わりに、連絡が入った。
あいつが倒れたと。
当然、打ち合わせは中止となった。
あいつには家族が居ない。決まった恋人も居ない。
友は多いが、きっと連絡はしていないだろう。
私に来たのは、仕事の約束があったからだ。
仕方がないので、病院に向かった。
「悪いな」
穏やかな表情だ。
「いつ頃だ?」
病状も何も聞いていない。
だがその顔で、死を決めていることだけは分かった。
「まだ時間はある。仕事が残ってるからな。――お前のシリーズも、まだ完結してないし」
「次で完結だ」
「そうだな。最期の仕事だ」
あれが本になるのは、一年後だろうか。
最後に大切に表紙を撫でるのは、私の本になるのか。
「なぁシン、お前はどう思う?」
治療を拒否しただろうこと、延命を拒んだだろうこと。
私がそれに気づいていると、あいつは知っていた。
「私が決めることじゃない。どうせ、私が何を言っても変わらないだろう」
『早く終わりたかった』
『ようやく終われる』
そう思って、そう思えて、お前は笑えるようになったんじゃないのか。
“本物”への絶望を忘れたわけでも、もちろん乗り越えたわけでもなく、もう逃げられるから、笑えたんじゃないか。
その時点で、すべて決めていた。私への問いに、意味などなかった。
「シンなら、そう言うと思った」
『ありがとう』と聞こえた気がした。
*
サンドイッチを口に運びながら、懐かしい記憶を辿った。
――あぁ、そういえば、この店はあいつとよく来た店だったな。
どちらかが先に着くと、中で待っていた。
だから店員は「一人」で戸惑ったのか。
納得をしながら、珈琲を啜る。
芳醇な香りが口の中で広がる。
『なぜ止めなかったのか』か。
きっと、彼なら止めたのだろうな。
無邪気に、懸命に。励まして、付き添って。あいつの命を救った。あいつの絶望を支えた。
私は、そうしなかった。
後悔も未練もない。
青年が来なかったなら、特別辿るほどでもない記憶だった。
珈琲を飲み終える。
外はまだ、静かに雨が降っている。
店を出て傘を開くと、雨粒が頭上で静かに音を立てる。
湿気った空気がまとわりつき、ほんの少し眉間に皺を寄せた。
「もうしばらくは、やみそうにないな」
独白のように言葉を落とすと、足元を野良猫が通った。
にゃあという鳴き声をあげた彼は、濡れずに歩ける道を知っているようだ。
「私が猫なら、彼を追えばよかったのだが」
残念ながら猫ではないため、このまま駅に向かわねばならない。
気がつくと、ぽつりぽつりという音が世界を侵食していた。
灰色の空。灰色の街。
ここで大笑いしていたかつてのあいつには、どんな色に見えていただろうか。
雨音と共に過ぎった疑問は、雨粒と共にすぐに消えた。
――明日は晴れるだろうか。
革靴にジワリと雨が染みる。
靴下が濡れ切ってしまう前にと、歩調を少し早めた。
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