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契約書の抜け穴を見抜く令嬢、婚約破棄のついでに騎士団長と結婚契約を結ぶ

作者: 百鬼清風

 真珠色の天幕、磨き上げられた床、笑顔だけが上手い貴族たち。

 私――カミラ・ヴァレンティ伯爵令嬢は、手袋の中で指を一本だけ立てていた。書類をめくるときに邪魔にならない指である。今日の舞踏会の主役は私ではない。けれどこの厚紙束の主役は、まぎれもなく私だ。


 金糸の軽い音を鳴らして、壇上に男が上がる。


「本日をもちまして、我は――ルシアン・ド・サヴォワと、カミラ・ヴァレンティとの婚約を解消する」


 弦の音が墓穴に落ちたみたいに消えた。

 周囲の扇が同時に止まる。息を飲む音、わざとらしい悲鳴。めでたい。今日は“わかりやすい騒ぎ”。


 私はにこりと微笑んで、前へ出た。


「ご宣言、ありがとうございます。では婚約契約書の第七条『一方的解消に関する清算』について、皆さまの前で読み上げますね」


 ざわめきが一段、深くなる。


「ちょ、ちょっとお待ちなさい。そんなもの、今ここで――」


「――読むのが礼儀ですから。公に始めた話は、公に締める。社交界の基本でございます」


 わざと柔らかく、しかし一語も噛まないように。厚紙の束の先頭に挟んでおいた金の目印を抜く。私は指に吐息を当てて、紙をすべらせた。


「第七条一項。“解消を通告する側は、通告日から三十日以内に、婚約準備に要した実費と名誉回復措置費用を支払うこと。遅延は認めない”」


「じ、実費? 名誉……?」


「はい。あなたの都合でキャンセルなさる場合、こちらの式場手付金、仕立済み衣装、招待状、音楽隊の前金、花商組合との契約――いま私が片手で持っているこれ全部が、請求対象です」


 どっと笑いが起きる。騎士団の若い連中とおぼしき一角だけ、笑い方が素朴で好ましい。

 ルシアンの隣にいる薄桃のドレスの令嬢が、空気を吸うのを忘れたみたいに口を開けている。無理もない。**“婚約破棄宣言は拍手喝采”**という流行の夢を見る人たちは、明細の怖さを知らない。


「なお、二項。“通告側は、相手の名誉を毀損する発言を公衆の面前で行ってはならない。違反した場合、誓約罰として二万クラウンを支払うこと”」


「……い、今のは単なる事実の――」


「“事実”の定義は第五条の注釈をご参照ください。“証拠書類と二名以上の証人によって裏付けられた事項をいう”。……ルシアン様、証拠はお持ちです?」


 彼の喉が小さく鳴った。会場の視線が、いっせいに彼の空の手へ落ちる。


「で、ですが――」


「では第三項に移ります。“万一、通告側が二項に違反し、相手に風評被害が生じた場合、王国広報官立ち会いのもとで訂正公告を出すこと”。

 ――広報官殿、本日お見えですか?」


「ここだ」


 低い声が人波を割った。灰のマントに金糸の紋章。王国広報官に付き従って、一人の男がまっすぐ歩いてくる。黒髪、艶のない鞘。無駄のない。

 王国騎士団長、セドリック・ヴェルナー――と後で知る、仕事の顔。


「治安維持の任にある。続けたまえ、令嬢」


「ご配慮痛み入ります。――四項。“通告側は、相手の同意なき追記事項を契約書に記すことはできない。追記は双方の署名と捺印を要する。訂正印のない追記は無効”」


 私はルシアンの前に歩み寄り、彼の手元に抱えられた薄い紙束に目を落とした。

 表紙だけが豪華な、雑な改竄。辺の色が違う。今日つけたページ。しかも、綴じ紐の結びが左右逆。


「……こちらの“婚前行動の禁止”の追記、あなたの署名だけですよね。私の印はない。無効です」


「そ、それは……!」


「ちなみにこの“愛人を取る自由”の追記も、無効。自由という単語を**“相手の不利益を伴ってはならない”**という脚注なしに使うと、契約書が壊れます。壊れた契約書は、相手を守る盾になりません。……あなたの盾は紙より薄い」


 ぱちん、と扇を閉じる音が散発的に鳴る。笑いが、もはや隠していない。


「では清算に入りましょう。遅延損害金は一日あたり百分の一、三十日で三割。履行期は本日です。現金か手形、どちらで?」


「き、騎士団長! この女を黙らせろ!」


 叫びが真ん中で折れた。セドリックが一歩、私の前に出たからだ。

 彼は私にだけ聞こえる声で問う。


「危険は?」


「書類の角で指を切る程度です」


「ならば護衛に入る。殿下――いや、サヴォワ卿。王城内での契約違反と虚偽の公言は、公序の乱しだ。退場を」


「馬鹿を言うな、俺は――」


「――王命だ」


 広報官が短く告げると、楽団が何事もなかったかのように次の曲を始めた。

 場は音楽の規律に引き戻され、ルシアンは護衛に囲まれて退いていく。薄桃のドレスの令嬢が彼の袖にすがって何か言っているが、音はもう音楽に溶けていた。


 私は胸の前で軽く一礼した。


「さて、皆さま。残余の手続は明日、私の家で承ります。証人二名、公証人、会計士、それと――花商組合の代表を手配済みです。遅延なき清算に、ご協力くださいませ」


 笑いと拍手。セドリックは目を伏せて、ふ、と息で笑っただけだった。


          ◇


 舞踏会の喧噪が薄くなった廊下は、冷たい石の匂いがする。

 セドリックと並んで歩くのは正直に言えば緊張する。鎧の金具が歩調に合わせて鳴るたび、耳がくすぐったい。


「見事だった」


「ありがとうございます。読み上げただけです」


「読み上げられない者が多い」


「読む前に恋をしてしまうから、でしょうね。恋は脚注を読まない。……でも、契約書は脚注で決まります」


「覚えておこう」


 短く、重い相槌。私は肩の力を抜いた。

 彼は無駄な言葉を足さない。いい男の条件の半分は、それだと思う。


「団長殿、先ほど護衛と言われましたが、必要でしょうか。私、書類なら殴れます」


「書類で殴るのは暴力だ。いまの相手は言葉での反撃を覚えた。ならば剣が要る」


「……なるほど。分業、ですね」


「そうだ。俺は剣で国を守る。君は条文で守れ」


 思わず笑った。

 この人、私の好きな比喩を使う。


「ところで、さきほど花商組合と言ったな」


「はい。式場は季節花の独占契約を組合と結んでます。今日の破棄で花が余る。廃棄は組合にとって損失ですから、損害の按分を提案します。余剰花は明日の孤児院に寄付、広告価値を相殺分として計上――という案」


「孤児院に?」


「はい。悪いニュースをいい話で締めるのは、広報官の胃に優しい」


「……君は、恐ろしいほど実務的だな」


「褒め言葉と受け取ってよろしいですか?」


「当然だ」


 廊下の角で、兵が走ってきた。肩で息をし、セドリックに敬礼する。


「団長! 本部に契約相談が殺到しています。“家主に鍵を替えられた”“借用書の金利が倍になった”“婚約書の控えを返してくれない”など――」


「舞踏会の公開授業のせいだな」


 私は小さく手を挙げる。


「受付の導線を整えるのが先決です。まず相談票を作りましょう。事実、契約書の有無、署名、証人、履行期、支払方法。“涙の量”は参考程度で」


「涙の量は参考程度……心得た」


「ついでに出張監査の申込枠も。手当は相場で結構ですが――」


「支払能力のない者は?」


「分割か、労務提供で相殺。鍛錬場の清掃、鎧の磨き、馬の世話。契約は、誰にでも入口があるべきです」


 セドリックはちらりと私を見る。その視線に、評価と、少しの警戒がある。

 私は笑って肩をすくめた。


「安心してください、団長殿。騎士団の名誉は傷つけません。彼らの背中が国の壁なのは、私も知っていますから」


「……分かった。ヴァレンティ嬢――君を臨時顧問として迎えたい」


「臨時、ですか」


「“とりあえず今日”だ。明日はたぶん“明日まで”。その次は“今週いっぱい”。契約で縛る気はない。だが――」


「――必要、ですか?」


「必要だ」


 胸の奥で、きれいに紙が一枚、綴じに入った気がした。

 私はスカートの裾をつまみ、正しく礼をする。


「承りました。ではまず、相談票を十枚。判子を借りても?」


「総務室で」


「ありがとう、団長殿。あなたの判子の位置だけ、少し右に寄せておいてください。後で使います」


「……怖い予告だな」


「褒め言葉と受け取っておきます」


          ◇


 翌朝、我が家の玄関前には花が山のように届いた。

 約束どおりの清算と、約束どおりの寄付。広報官が記録係を連れて現れ、孤児院の子らが笑いながら花を抱えていく。

 そこへ騎士団の伝令が駆けてきた。息を切らせ、封蝋のついた短い書状を差し出す。


「団長より――“契約ブローカーという名の詐欺師が、団員の給与天引きで食い込んでいる。相談票が並ばない。助けてくれ”」


 私は封を切り、さらりと読み、くすりと笑った。


「了解。――条文を持って、剣のほうへ行きましょう」


 扉が開き、朝の光が書類を白くする。

 紙の束は重い。けれど、私にとっては盾だ。

 そして今は、隣に剣がある。


「団長殿、まずは相談票の項目削減から。五つで十分。――“誰が”“いつ”“どこで”“何にサインし”“何が未払いか”」


 歩きながら私は、彼らのための新しい入口の形を、心の中の白紙に描き始めていた。


 

 王都北端、王国騎士団本部。

 剣の訓練場の掛け声と、**「契約書ってどこに挟むんだ!」**という悲鳴が、今日も同時に響いている。


 私は受付机の前に立ち、深く息を吸った。


「では皆さま、順番にお並びください。契約書がある方は右、ない方は左。

 “口約束だけ”の方は、まず水を飲んで落ち着いてください。泣くのはそのあとで大丈夫です」


 その瞬間、列が三つに分かれ、騎士団本部が市場のように賑やかになった。

 団員たちは剣を握るより早く、相談票に名前を書き殴っていく。


「ヴァレンティ嬢! この賃貸契約ですが、部屋が“地下”としか書いてないのに、実際は“地下牢”でした! これは違反ですか!」


「違反です。せめて“採光”の有無くらいは記載すべきです。損害賠償は請求できますが、まず脱出しましょう。鍵は?」


「貸主が持ってます!」


「ではこれは監禁罪の範囲ですね。次の方どうぞ」


 ――剣を振れる者ほど、文字に弱い。

 私は苦笑しつつ、横目でセドリック団長を見る。


 彼は訓練場と受付を行き来しながら、泣きつく部下を淡々と裁いていた。

 書類を読み解くのは私の仕事。剣を構えて威圧するのは彼の仕事。

 分業は美しい。


「ヴァレンティ嬢、これを見てくれ」


 セドリックが差し出したのは、一枚の給与控除明細だった。

 文字の先頭には《天引き補助契約》の文字。


「……“装備修理代、清掃代、昼食代、休憩室利用料、床の磨耗費”……。

 どうして歩くだけで“床の磨耗費”が発生するんですか? 靴底が研磨剤でも塗ってあるんですか?」


「俺も聞きたい」


「しかも控除額が基本給を超えてます。これ、給与じゃなくて借金ですよ」


 セドリックは腕を組んだ。


「団員の半数以上が、この“契約ブローカー”とやらにサインしているらしい」


「署名は本物、ですが――説明欄が“口頭のみ”。

 つまり説明責任違反です。強制解除+損害賠償請求が可能」


「……その手続きを、君に頼みたい」


「喜んで。まずは被害者リストを作り、次に集団交渉へ。

 相手が逃げる前に、資金の流れを押さえます。」


「資金の流れ?」


「ええ。ブローカーは天引きした金を騎士団外へ送金してます。

 必ず“受け皿”の口座があります。――そこを凍結すれば勝ちです」


 団長が目を細めた。


「君は……本当に令嬢か?」


「戸籍上はそうです。仕事内容は会計士8割、爆弾処理2割ですが」


「爆弾処理?」


「破綻寸前の帳簿という名の爆弾です」


 セドリックは低く笑った。

 笑うと意外に若い。強面に見えて、年齢はまだ二十代半ばらしい。


「ところで、その“ブローカー”の名前は?」


「《契約代理人フォルカー》――偽名ですね。

 本名の署名が、一箇所だけ“F”ではなく“E”になってる。急いで書いたんでしょう。

 字形も違うので、筆跡鑑定で確定できます」


「……逃げられる前に、捕まえられるか?」


「捕まえます。というより、自分から来ます」


「なぜ分かる?」


「騎士団長が“相談票を正式書類にする”と布告すれば、焦って介入しに来るからです。

 違法契約は、書類化されるのが一番怖い。証拠になりますから」


 セドリックは無言で頷き、腰の剣を軽く叩いた。


「布告してくる。――それと、君にも護衛をつける」


「不要です。書類で殴れますので」


「書類で殴るのは暴力だ」


「以前にも言いましたね。それは正論です」


「正論は大事だ」


「……団長殿、あなた、案外論理主義者ですよね?」


「剣も論理だ」


「その言い方、とても好きです」


          ◇


 昼過ぎ。騎士団本部の門前に、上等な馬車が止まった。

 扉が開き、紫の羽飾りをつけた男が降りる。

 派手な笑み、親指だけにやたら高い指輪。わざとらしい上等布。


 ――来た。


「やあやあ、私は《フォルカー商会》代表、エミール・フォルカー。

 団員の皆さまの“契約管理”をお手伝いしている者でして」


 私は扇を閉じて会釈した。


「カミラ・ヴァレンティ、王国監査補佐です。

 本日のご用件は、“説明責任の証明”でしょうか?」


 エミールの笑みが一度だけ揺れた。


「な、何のことで?」


「この“天引き契約”。あなた、説明義務を果たした証拠書類をお持ちですか?

 録音、署名付き説明書、第三者証人――何も無ければ、すべて【無効】です」


「そ、それは……!」


「さらに付言します。“床の磨耗費”という項目は、明らかに不当条項。

 王国契約法第十八条“社会通念上著しく不合理な負担を課す条項は無効”に該当します」


「なぜ嬢ちゃんがそんなことを!」


「契約書は読むためにあります。

 そして私は、読む側の代表です」


 エミールの額に汗が浮いた。

 その手がポケットへ滑る――逃走用の何かか、火薬か、破り捨てるつもりの書類か。


 その瞬間、背後から剣の鞘が床を打つ音が響いた。


「逃げるな、フォルカー」


 セドリック団長。

 その声だけで、男の肩が跳ねた。


「お前の口座の一つは、すでに凍結された。証拠は押さえてある」


「なっ……!」


「観念しろ。“騎士団への詐欺”は王都司法局の案件だ」


 私が差し出したのは、凍結命令書の写し。

 公証印が押されている。


 ――これで、詰み。


「逃走する前に、**あなたの署名入りの“契約解除合意書”**を作りましょう。

 未払い分は返還、慰謝料は後日確定。サイン、いただけますね?」


「くっ……!」


 エミールは歯を噛み、だが逃げ場がないと悟り、署名した。

 鷹のような目をした司法局員がその場で拘束する。


 団員たちがざわざわとし始め、やがて拍手が起こった。


 セドリックが私を見る。


「――見事だ」


「ありがとうございます。書類は剣より強いときがあります」


「なら、俺は剣で“書類を生かす時間”を稼ぐ」


 私は微笑む。


「いい分業ですね、団長殿」


          ◇


 夕方。

 私は書類を綴じ直し、ひと息ついた。


 騎士団本部の空気は、朝よりずっと明るい。

 ひとりの団員が、きまり悪そうに近寄ってくる。


「あの、ヴァレンティ嬢。俺、相談票出したのに……給料、使い込んでて……返せる気がしないというか……」


「では、労務提供契約を作りましょう。

 あなたの剣技を、週に三回、孤児院の護衛に使ってください。その対価で返済を相殺します」


「そ、そんなので……?」


「契約は“支払方法の相談”です。罰ではありません」


 団員の目が潤む。


「……団長が君を呼んだ理由が、分かった気がする」


「論理は人を助けます。たいていの場合は、感情より早く」


 ふと、扉が開き、セドリックが立っていた。


「今夜、礼を兼ねて夕食を。……来るか?」


「契約書付きですか?」


「……サインの欄は一つでいい」


 私は扇で口元を隠し、笑った。


「では、持参しますね。――“夕食同行契約書(案)”」


「……やはり怖い」


「褒め言葉と受け取っておきます」



 王都の午後は、書類のインクが乾きにくい。

 私は窓際で文書を並べながら、息をひとつ整えた。


 ――フォルカー商会の資金の流れ。

 ――凍結済み口座からたどった送金先。

 ――その先にあった“貴族家の印章”。


 そして、封蝋に押されていた名前。


「……やっぱり。“サヴォワ家”」


 元婚約者、ルシアン。

 彼の家は破滅するどころか、まだ裏側で稼ぎ続けていた。

 “婚約破棄”で私に払う損害金を、騎士団の給与搾取で補填していた――という構図になる。


 書類を整え、手袋を外し、私は一度だけ深く目を閉じた。


「……団長殿に報告、ですね」


          ◇


 騎士団の執務室は、剣と紙の匂いが同居している。

 扉を叩けば、低い声が返る。


「入れ」


「失礼します。――証拠が揃いました」


 渡した書類をセドリックは無言で読み、数秒後、目を細めた。


「……サヴォワ家。つまり、前婚約者の家か」


「ええ。婚約破棄で生じた“清算金”を賄うため、フォルカーと組んで騎士団から吸い上げていたと見られます」


「やり口が汚い」


「ええ。**“名誉ある家”を名乗りながら、裏では“給与泥棒”**です」


 セドリックは書類を机に置き、椅子を回転させ、私を見た。


「君は……怒っているか?」


「怒っています。ただし、感情で行動はしません。条文で叩きます」


「安心した」


「団長殿、私の怒りの行き先は“支払い遅延利息”です。金利で燃やします」


 セドリックが吹き出すのを、私は淡々と見守った。


「さて、本題です。この証拠を王に上奏すれば、一発で家門査問案件です。

 ただしサヴォワ家は貴族派の中枢。……反動は出ます」


「君が狙われる、ということか?」


「はい。まもなく“事故”か“誘拐”か“婚約者の狂気”という名の茶番が起きるでしょう」


 セドリックは、椅子を引いたまま立ち上がった。


「なら、護衛を――」


「お断りします。私は一度守られたら、一生貸しを返したくなるタイプです」


「貸しがあってもいい」


「それは“契約書に書いてから”おっしゃってください」


 静寂が落ちた。

 たぶん私は、彼を困らせる天才だと思う。


「……護衛は拒否しても、同行は拒否していないな」


「なるほど。“同行”なら対等ですね。よろしいでしょう。では、同行契約を――」


「書類はいらん」


「……団長殿、あなた本気で“書類なしで私を動かせる”と思ってます?」


「思ってる」


 私は息を飲んだ。

 なぜならその言い方が、妙に真っ直ぐで――ずるかった。


「……強引は契約違反ですが、説得力のある強引は嫌いではありません」


「それは褒め言葉か?」


「褒め言葉です。多分」


          ◇


 その夜。

 館に戻った私を、ひとつの馬車が待っていた。


 黒い紋章、使い魔を伴った護衛、蹄に布を巻いた静音仕様――

 サヴォワ家の迎えだった。


「ヴァレンティ嬢。サヴォワ卿が謝罪と弁明の場を設けたいと――」


「結構です。“弁明”は裁判でどうぞ」


「しかし――」


「その馬車、内側に鍵がありますね。“乗ったら降りられない”仕様です」


 使者の顔色が変わるより早く、背後で足音が鳴った。


「――この令嬢には護衛がついている」


 剣の鞘が月光を弾く。


 セドリック。

 背に二名の副官を連れていた。


「退け。強制連行は誘拐罪だ」


「いや、これは正式な招待で――」


「招待状はどこだ」


「……口頭で――」


「なら無効だ」


 声を上げたのは私。

 そしてセドリックが言葉を継ぐ。


「“口頭だけ”では契約は成立しない。

 ――この国の法を、我らは剣で守る」


 使者は震えた。

 そして逃げるように馬車を去らせた。


 少しだけ、夜風が静かになった。


「……助かりました」


「助け合いだ。君は昼間、団員を救った」


「ギブ&テイクですね」


「テイクを返すのは、まだ先でいい」


「では、“返済猶予契約”で処理しておきます」


 セドリックが笑う。

 あの人の笑顔は、なぜか“信頼”の形をしている。


          ◇


 翌日。

 私は王宮の監査室で、正式な“告発資料”を作成していた。


 数百枚の契約書、送金記録、証言書、条文引用――

 すべて揃った。これでサヴォワ家は逃げられない。


 すると、扉がノックされた。


「カミラ・ヴァレンティ。――王命が下った」


 入ってきたのは広報官だった。


「明日正午、王座の前で“公開査問”を行う。

 サヴォワ家当主およびルシアン本人が出廷する。

 君と騎士団長は“代表証人”として召喚された」


「……いよいよ、ですか」


「逃げるか?」


「いいえ。条文は逃げません。私も逃げません」


「そう言うと思った」


 広報官は去り、部屋が静かになる。


 ふと、窓が開き、風が書類をめくった。

 私は手を伸ばし、それを押さえる。


「明日、終わらせる。全部」


 そのとき――背後で声がした。


「終わったら、ひとつ提案がある」


 セドリックだった。


「提案?」


「“君を騎士団の常任監査官にする”契約書を作ろう」


「……それは、求婚の代わりですか?」


「求婚なら、契約書の前に言葉を使う」


 私は振り向いた。

 彼の瞳は、剣より真っ直ぐだった。


「終わったら、言う。……約束する」


 私はゆっくり、微笑んだ。


「では、それも“履行期限つき約束書”にしておきます」


「君は最後まで書類で縛る気だな」


「はい。だって――」


 私は胸の前で指を一本立てた。


「契約は、信用の形ですから」



 王宮正庁は、朝から紙と視線の匂いがした。

 赤い絨毯の先、王座の左右には廷臣。手前には証人台。

 私は扇子ではなく、綴じ紐の丈夫なバインダーを持参した。今日は飾りはいらない。必要なのは紐だ。ゆるんだ真実を束ねるために。


 広報官が宣言する。


「これより、サヴォワ家公開査問を開始する。

 証人――王国騎士団長セドリック・ヴェルナー、伯爵令嬢カミラ・ヴァレンティ」


 私とセドリックが進み出る。

 向かい側には、蒼ざめた元婚約者ルシアンと、その父であるサヴォワ当主。

 二人とも、今日だけは豪奢な衣装が抵当に見えた。


「まず、証拠の提示を」


 私はバインダーの背を軽く叩き、声を整える。


「提出物は三束。

 一つ、給与控除明細の写し二百三十通――“床の磨耗費”など不当条項を含む。

 二つ、送金記録と受け皿口座の照合表――フォルカー商会からサヴォワ家の連座口座へ転々流入。

 三つ、説明書面と署名欠落の一覧――“口頭のみ”で契約させた説明責任違反の証拠」


 廷臣たちがざわつく。

 セドリックが一歩進み、短く補足した。


「被害の中心は、王国騎士団員。王の剣を支える者たちだ。

 ――剣から奪った金で贅沢をする者は、王国の敵に等しい」


 ルシアンがかすれ声で笑う。


「これは誤解だ。慈善だ。団員の生活を“補助”し――」


「“補助”の定義は?」

 私は淡々と遮る。


「契約法第七条注ニ。“負担の軽減を目的とする無償給付”。

 あなた方のは“負担の上乗せ”です。言葉の看板だけ付け替えた詐取」


 ルシアンの父が割って入る。


「そもそも、我が家はヴァレンティ家への婚約清算金に困窮など――」


「では、本日ここで振り込みを?」

 私は笑顔で通帳を掲げる。

 (広報官の喉がピクリと動いた。王宮で通帳を掲げるのは初だろう。構わない。見えることが大事だ)


「……勘定は、後日でも良いではないか」


「履行期は本日です。当事者が公衆の前で破棄を通告した日から三十日以内。

 今日を過ぎれば遅延損害金が日歩で加算されます。貴家のほうが不利ですよ?」


 当主の眉間が跳ねた。

 私は第二束を開く。紙の端が光をはじく。


「送金記録。フォルカー商会→名義A→名義B→サヴォワ家口座。

 金流の“階段”を使ったのは、目眩ましでしょう。――ですが、階段は上に行くほど踏み跡が残る。

 名義Aと名義Bは、サヴォワ家家令の姉妹。その婚資口座。

 名義を変えても、**端から端まで“同じ筆跡の指示書”**が付いています」


 私は同一人物が書いた指示書の癖――「rの尻尾が長い」「金額の桁区切りが点ではなく小さな三角」――を指し示す。

 廷臣の一人が身を乗り出した。「筆跡鑑定……」と呟く声。十分だ。


「弁明は?」


 王の一言に、ルシアンは口を開く。

 震えている。だが見栄は最後まで捨てられないらしい。


「ぼ、僕は被害者でもある! フォルカーに騙され――」


「では、これを」

 私は第三束の上から一枚を抜き、読み上げる。


「《追加収入は“例の契約”から。団員はバカで助かる。父上の件、これで埋めましょう》――ルシアン様の私信です。

 封蝋はサヴォワ家印。筆跡は先ほどの指示書と一致」


 会場が一拍、静止した。

 そして音が落ちる。ざわめきではない。信用という音のないものが、床に落ちた気がした。


「――王命」


 王が短く発する。

 謁見の間の空気が一気に冷える。


「サヴォワ家を査問に付す。当主は家督停止、王城監に。

 ルシアンは虚偽の公言および騎士団詐取への関与につき、裁可まで出仕停止。

 フォルカー一味は司法局の管轄とする」


 広報官が杖を打ち鳴らす。

 私は静かに息を吐いた。肩のどこにも力が残っていないことに気づく。


 ――終わった。条文は、逃げなかった。


          ◇


 査問後の回廊は、やけに眩しい。

 私は窓辺に寄りかかった。指がわずかに震えている。緊張は人並みにする。私だって人間だ。


「お疲れさま」


 背に落ちる低い声。

 振り向けば、セドリックが立っていた。陽の刃が鎧の境い目に線を引く。


「団長殿。――約束の件、覚えていらっしゃいますか?」


「忘れたことはない。

 まず一つ目。常任監査官の契約書を、君と作る」


「異議なし。但し書きを入れます。“互いの独立性を害さない”」


「いい条文だ。では二つ目」


 彼は一歩、私の間合いに入ってくる。

 剣の匂いと紙の匂いが混ざる距離。私は逃げない。逃げる必要がない。


「求婚を――言葉で先に、する」


 心臓がひと折りした。紙を綴じるみたいに、音を立てて位置が決まる。


「カミラ・ヴァレンティ。

 俺は剣で国を守る。君は条文で人を守る。同じ方向を見ている。

 俺は君を尊敬し、隣にいてほしいと思う。

 結婚してくれ」


 私はほんの少しだけ目を閉じ、それから笑った。

 ――言葉で先に、は、ずるい。好きだ。


「承諾します。

 ただし、契約書は私が起案します」


「当然だ」


「“婚約契約書(案)”――第1条:互いの仕事を妨げないこと。

 第2条:一方の名誉が傷つけられたとき、即時に隣に立つこと。

 第3条:披露宴の花は孤児院に寄付。

 第4条:寝坊した側が朝食当番。

 第5条:喧嘩したら“条文”か“剣術”どちらかで一本勝負、負けた方が甘いものを買う」


「最後の二条は……新しいな」


「家庭内規範は実効性が大事です」


「異議なし」


 セドリックは懐から、小さな印章を取り出した。

 騎士団章の意匠。私は胸の奥が、少しだけ勝手に熱くなるのを許した。


「仮印でいいなら、今、押す」


「仮印は条文の余白に押してください。余白は余白としての尊厳があります」


「……相変わらず怖い」


「褒め言葉と受け取っておきます」


 彼は笑い、余白の端にきれいに印を落とした。

 小さな赤が、紙の白を甘く染める。


「それと」

 私は最後の紙を取り出す。“清算金受領書”。ルシアン印の横に、ぽつんと空いた受領欄。


「これは――」


「受け取って終わりです。私の物語を、元婚約者の金で終わらせたくなかった。

 でも、終えるためには受け取る必要がある。条文どおりに。

 ――これで本当に、終わり」


 私は静かに署名し、受領の一筆を添えた。

 広報官が遠くで頷くのが見える。物語は、正しく締まった。


          ◇


 その夜、騎士団本部の食堂。

 団員が慌てて磨いた長机に、ささやかな宴が並ぶ。余剰花の束が窓辺で笑っている。


「団長、団長、乾杯の音頭を!」


「俺は短い言葉しか言えん。……ありがとう。以上だ」


「短い!」と野次が飛び、笑いが弾ける。

 私は杯を持ち、壁に掲げられた古い規定表を見上げた。“剣は人のために抜け”。

 隣で、セドリックが静かに問う。


「――幸せか?」


「ええ。条文の外に、余白がある。そこに今、あなたの印がある。

 それだけで、かなり甘いです」


「なら、朝食当番は俺がやる」


「まだ寝坊していません」


「先払いだ」


「それ、契約的には嫌いじゃありません」


 笑い声が天井の梁に届く。

 紙は、剣より柔らかい。けれど時に、剣より遠くまで届く。

 私はそう信じている。だからきっと――


 これからも、条文で守る。隣に剣があるまま。



完。

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