→ 勇者は魔王に盟約を
「逃げたか」
老爺は何の感情もなく呟きながら、ぐるりと辺りを見回した。十数人もの人間が行き交えそうなほどに広く、豪奢な調度品で飾られた廊下。
そこにいるのは、倉皇とする薄っぺらい顔の兵士たちばかりだ。慌ただしく右往左往していても、この擾乱に対して何か処置を施しているようには見えない。使えない兵士だなと、老爺は何気なしにふと思う。そう思ったことを失礼だとも彼は思わなかった。
だがその事実を裏付けるように、老爺の姿を認めるなり、兵士の一人が僅かに安堵したような表情で彼の方に駆け寄ってくる。それはまだ若い、けれど疲弊し切った表情を浮かべている青年だった。
「こ、侯爵どの……! こんなところまで、御苦労様であります」
「口上はいい。現状は?」
「は……、はっ。厳重に施錠しておいたはずの勇者どのの部屋の扉が開いており、待機されていた勇者どのの消息が不明となっております。最初に到着した第一隊の目撃情報によると、黒髪の男に拐引されたとか――第三隊の報告と照合し、黒髪の男は先日捕らえた猥褻犯かと」
侯爵と呼ばれた老爺――東は、青年の報告に元々険しい顔を更に顰めた。
逃がしたのか。
東の表情には暗に、そんな意が込められている。
そんな失望を汲み取った兵士は、顔を青くしながら、その場に叩頭した。そして慌てて、取り繕うように言葉を続ける。
「も、申し訳御座いません、直ちに追跡し――」
けれど東はもう、そんなことには興味がなかった。こつりと一歩踏み出すと、兵士たちが忙しなく出入りする例の部屋に視線を投げる。
「いや。いい、お前たちはもう下がれ。お前たちが追いつけるような相手ではない」
「は、し、しかし……」
「これ以上言わせるな。時間の無駄だ。それよりも、部屋の扉が開いていたとはどういうことだ? あの部屋の扉は魔術式で封を施してある。打ち破れるような硬さでもなかったと思うが?」
「は、それは――」
東の尋問に兵士は頭を上げ、ちらりと部屋の方を見遣ると、一瞬顔を顰めたのちにその訳を話し出した。
「勇者どのが消息を絶った代わりに、部屋の中に子爵どのが倒れておりまして……」
「須藤が? ……それは厄介だな」
「は。恐らく子爵どのが勇者どのと談話している間に、例の賊が侵入してきたのかと」
兵士の言葉に、東はあからさまに顔を歪める。
嫌悪。
それが正に相応しい、苦々しげな表情を浮かべて。
「あいつは確か魔術には通じていなかったと思うが……解術のかの字も知るまい? それに、解錠式を所持しているのは陛下と私だけだったと記憶しているぞ。どうして彼奴に開けられた?」
「そこが、いまいちはっきりしないところなのですが……状況から推測するに、子爵どのは被害者です。今はとりあえず犯人の捕縛と勇者どのの保護が先決では」
まるで須藤を庇うように、兵士の青年は言い立ててくる。
目先の物事しか捉えられない兵士の物言いに、反吐が出そうになった。ふざけている。東の目にはそうとしか映らない。
――共謀だと疑われても知らんぞ。
胸中で忠告すると、東は兵士の横をかつかつと通り過ぎる。驚く兵士の横顔を振り返ることもせず、彼は唾を吐くように言い捨てた。
「もういい。下がれ、須藤どのは医務室まで丁重にお運びしろ。無用とは思うが医者に診てもらっておけ」
取って付けたように『どの』などと呼び敬いの形を成すと、それ以上は言わずに部屋の方へと歩いていく。
更に濃くなる人波。それらを威令で掻き分けていくと、部屋の相貌がようやく露になった。
倒れている肉の塊は須藤だろう。東は一瞬だけ視線を落とし、それ以上は関心を示さない。
それよりも、ひやりと肌に触れる薄寒い空気の方が彼にとっては問題だった。理由は一目瞭然、砕けた窓ガラスが飛び散り豪奢なカーテンは風に靡いている。窓が割れているせいだった。
(窓から飛び降りた、か……)
散った破片を踏まないように気を付けながら、窓へと近付いていく。
そよ風と呼べるほどの弱い風が頬を撫でていくが、幾分冷たい。肌を刺すような冬の空気に、東は目を細めた。
(派手なことが好き、とは噂に聞いていたが――流言だと思っていた。だがあながち嘘でもないようだな)
やむを得ずに飛び降りた、という感じではない。
そもそもいくら追い詰められたところで、この層楼にも似た造りの高い城から飛び降りられる訳がなかった。しかもここは最上階である。無事着地する自信がなければとても無理だ。そしてそんな自信を持てるような馬鹿は、そうそういない。
「――おい。お前」
「は、何でしょうか」
ふと思いつき、近くに控えていた兵士に声をかける。先よりはマシな反応を返したのでこれでいいかと東は思った。
完全には振り返らずに横目で兵士の姿を認めると、東は、聞きたかったことを淡々と尋ねる。
「ここに勇者どのが控えていたのを知っていたのは誰だ? 無論、部外者には知られていなかったはずだが」
「はい。ええと――皇族の方々は勿論ですが、元老院の皆様や貴族の方も御存じのはずですし、我らのように城に仕える者も皆存じ上げております」
「そうか。他は?」
「一般市民には部屋まで知らせる必要性は御座いませんでしたから。……あ、申し上げるまでもないかとは思いますが、勇者御一行の方も御承知のことでした」
「……そうか。そうだな。ふむ、御苦労だった」
もういいぞ、と兵を下がらせると、東は一人考え込む。
いくら愚鈍といえども、必要性のないことを漏らすほど兵たちは馬鹿ではない。それに念のために滞在部屋は数日のうちに変えているのだ、事前に調べられたとは思いにくい。
(だからといってまさか、偶然ここに辿り着いたとは思えん。城から出たいならば上に上がってくることはないだろう)
風が吹き込む窓枠の向こうの空を鋭い視線で捉え、顎をさする。
見据えた空は高く、憎いほどに青々しかった。
(誰かが手引きした、と考えるのが妥当か……それも勇者賛成派の。ならば大体目星は付くな)
ようやく窓に背を向け、東は歩き出す。
そんな老爺をからかうように、冬の冷気は、ガラスのない窓から容赦なく吹き込んできた。
冷たい風にうなじが晒され、彼は思わず肩を竦める。
(――何にせよ、気違いだな。魔王というのは)
微かな吐息。
険しい顔を少しだけ緩めると、さしもの東も老いが剥き出しになる。疲労の色が、誰もの目に見えていた。
けれど、そんな表情もただ一瞬。
東がすっとまた目を吊り上げると、顰めっ面が、無愛想な雰囲気を辺りに振り撒き始める。
「元老院議員を集めろ。早急に議会を始めたい」
そして廊下に留まっていた兵士に一言そう告げると、華美に飾られた部屋を後にする。
見据えた先は遠く。
暗い翡翠の瞳が、世界を妬むように、仄暗い闇を灯していた。
暗く、昏く、冥く――
◇◆◇◆◇◆◇
「さてと。此処まで来ればもう平気かな」
人の影が疎らにちりばめられた入相の街を、連れ立った数人の集団が横切っていく。
その内の三人はまだ若い青年で、顔立ちは勿論様々だ。一人だけまだ成熟し切っていない幼気な少女を連れている為にそういう類の集団かと取れないこともないが、先頭に立つ青年の柔和な顔立ちのお陰か、そういう印象は打破されていた。
「随分日が落ちてきたなあ。久々に拝んだお天道様もすぐに見納めか」
「どうせ明日になればまた拝めるさ。……捕まらなければね」
「そう願うばかりだな」
そんな集団の中の一人――大きな図体を軽々しい足取りで進めていく男は、橙の光を地上に投げ掛ける陽を右目を細めて懐かしげに見つめながら、ふっと淡く微笑む。
兵童と名乗った隻眼の大男は、七年もの間帝国の地下牢に拘置されていた極悪犯罪人だった。
どんな罪を犯したのかということを本人は語ろうとしないが、地下牢に収容されていたくらいだ――それは当然重い罪を犯したのだろう。誰もがそんな思いを抱いていたが、誰一人口にしようとはしない。そんな事実とは裏腹に、彼には無情で冷酷な雰囲気など持ち合わせてはいないから。そして、此処にいる面々は誰もが脱走犯という罪を背負った、同じ裁きの元の罪人であるからだった。
「それよりも、これからどうするんスか? 帝国を出てしまえば、行き場がないのは皆同じなんじゃないんスか」
元々糸のように細い目を更に細め、青年の一人、甘楽は言う。
色素の薄い金髪は、暮れかけた太陽の光を反射して淡く輝く。こんな時でもにへらっと頼りなげに笑っているのは、それが元の顔だからなのかもしれない。
「んー、まあ……でも彼はそうでもないんじゃないかな。ねえ、神威君」
「――は?」
懸念するように尋ねる甘楽の言葉に、けれど先頭を歩いていた青年はそう言って振り返りにこりと笑う。突然話し掛けられた、神威と呼ばれた青年は、目を丸くして先の青年を見返した。どうやら、二人の話など全く耳には入っていなかったらしい。
そんな彼の為というように、青年は激昂することもせずに穏やかに言葉を重ねた。
「神威君は確か、リンドグラッセの方の荒野に城を構えていたんじゃなかったっけ。古文書の中の記述が間違っていなければ、だけど」
「古文書って俺はどんだけ古い時代の人間なんだよ。いやまあ確かにこの間目覚めたら国一つなくなってたが……たかが十五年だろうが。たく」
ひょいと肩を竦める、神威と呼ばれた青年。けれどその言葉の内容はそう軽いものではなかった。
たかが十五年。
その言葉に誰もが目を丸くする。この青年は、どれほど時間の流れの感覚が違っているというのか。それは確かに時代が変わるには短すぎる時間だが、世界が変わるには十分な時間だ。
「まあ、それはともかくとしてもさ。君には帰るところがあるはずだよね? 君が君の言う通り、魔王だっていうんなら」
挑発するように目を細める青年の言葉に、神威は腹を立てることもなく肩を竦める。
「んー、まあな……結構ボロいけど。建てたのは俺が十歳の頃なんだけどな、放っておいたらよくもあんなになるもんだ」
「十五年も手入れなしじゃそうなるのは目に見えてるけどね。――ってことではい、甘楽君、行くところの心配はいらないみたいだよ」
「……は?」
二度目の疑問符を零す神威。
それもそのはずだった。彼はただ、自分の帰る家はある――とそう言っただけなのに。もう青年の言葉の矛先は違う方を向いている。しかも、自分を巻き込んで。
「……おいお前、どういう意味だ」
神威は青年に怪訝な目を向け、腹の底から出したような低い声でそう尋ねた。
けれど青年は神威を肩越しに振り返ると、いともあっさりと答える。
「どういう意味も何もないよ。折角共に脱獄した仲なんだから、一緒に住めばいいじゃない」
「ふざけるな。別に俺は一人でも出られた、もう一人が単に不甲斐ないだけで」
「そんなこと言われても、ねえ。別に僕がお世話になるって言ってるわけじゃない、神名とプラスアルファを預かって欲しいって言ってるだけ」
「いや、神名はいいけど」
「神名を預かるならプラスアルファもよろしく」
即答した神威に、青年は追い討ちをかけるように更に言葉を被せた。神威はぐっとつまる。
彼にとっては、女性に住むところがないというのは死活問題らしい。女性に関しては。先程までは一欠けらの躊躇いもなく斬り捨てたものを、今は頭を抱えて悩んでいる。
「……神威君、出来れば周りの目を気にして悩む体勢を取って欲しいな?」
「シャラップ! 黙れ! 俺は今人生最大の岐路に直面しているんだ!」
「……そこまでか。神名、頼んだ」
青年はまるで暴れるように悩みのポーズを取り続ける神威に向かってため息を零すと、最後尾で遠慮がちに二人を眺めていた少女に声をかけた。
少女は最初驚いたように翡翠の目を零れそうなほど見開いていたが、やがてこくりと頷くと、今にも地面に頭を打ちつけ始めそうな神威にそっと近付いていく。
「あの、魔王さま」
「くそ俺って奴はそんな薄情な――……って、ん……? えと、どうした?」
「まだ会って間もないのに厚かましいお願いだとは承知しておりますが、皆様を、一時の間だけでも魔王さまのお城に住まわせて頂けませんか? あの、えと、……お願いします」
「おけ。むしろ永遠にでも住んでくれ」
「うわあーあんなにあっさり」
先刻まであそこまで悩んでいた神威が、今度はあっさりと頷く。よかった、と神名がほっとしたように呟くが、後ろで聞いていた青年は呆れて肩を竦めていた。それも当然のことだろうが。
「まあ、何はどうあれそういう訳で。甘楽君兵童さん、異存はない?」
「ええ、どうせ行くところもないんで」
「右に同じ」
「神威君、依存は」
「ある」
青年は自分で若干イントネーションを間違ったかなあと思いつつ最後の返答は無視した。
「じゃあ、そういう訳で。――僕はしばらく行けないから、くれっぐれも気を付けてね神名」
「う、え、うん……? しばらくって、黎はどうするの?」
「帝国の擾乱を放っておく訳にもいかないからね。まあ、捕まるようなヘマをしないつもり。追い詰められたって白を切り通してやるさ」
ひらりと手を振って、黎と呼ばれた青年は微笑む。
神名は不安そうに黎を見つめているが、彼はあえて見ない振りをして。
「じゃあ神威君、神名のことは頼んだよ」
「任せろ」
「……肩を抱くのはやめてくれるかな。えーと、プラスアルファは……煮ようが焼こうがどうでもいいけど」
「よくないっスよ!?」
「どうでもいいけど。それじゃ、僕はこの辺で」
金の刺繍に飾られたマントを翻し、城の方へと帰っていく黎。神名はまだ憂慮の色を濃く残していたが、引き止めることはせずに後ろ姿を見送っていた。
黎の背中が見えなくなった頃、神威が仕切り直すように、黎を見送っていた三人に声をかける。
「よーし、じゃあ、此処からは俺がお前らを案内するからな? 俺の命令に逆らったら殺すぞ。ちゃんとついてこいよ」
「うわ、神威さんあんまりですよそれ……」
「うるせえ。野郎に優しくする義理はねえし」
「うわああー……」
呆れたような声を上げて非難する青年を爽快に無視して、神威は歩き出す。
街の外れに出たせいか、人影は全く見当たらない。堂々と歩んでいく神威の隣に、とてててと小走りで神名が並んだ。
「あの、魔王さま」
「ん、どうした?」
相変わらず神名には優しい態度である。その遠く後ろから甘楽が小さく非難の声を上げたが、神威はぴくりとも反応しない。
「えっと……あの、遅くなりましたけれど、助けて下さってありがとうございました。それから、その――あの時言ったことは、……忘れて下さい」
神名は俯き加減に、捲し立てるように告げる。そして神威が何を言う間もなく、神名は、彼の後ろへとててと戻っていった。
神威は一瞬呆然として目を瞬かせたが、意味を理解しても、答えられる訳もない。
――わたしを貴方の、お嫁さんにして下さい。
助けた後の少女の声が、胸中で反響する。
あの時は帝国兵に見つかったお陰でうやむやに出来てしまったが――
神威は頭痛にも似た鈍い痛みと、微かな頬の火照りを感じて、オレンジに染め上げられた空を仰いだ。
(――誓い、か)
《魔王》は何処かで恐れていたのかもしれない。《勇者》の手を取り誓約をする、神に弓引く謀反の行為を。
誓いは契り。契りは誓い。
魔王は誓った。勇者は契った。
誓いの口付けは、果たされた。
我 → 汝を愛することを誓う――。
第一章はこれで終わりです。
……うーん、話を上手くまとめるのが苦手なのです……。
次回からは舞台が魔王城に移ります。伏線はまだまだ残っておりますがー。