→ 猿と豚と化け物と
燦々と照りつける太陽の熱は地上まで届かず、寒気ばかりが空気中を漂っている。吐く息は白く、男は本格的な冬の訪れを、ひしひしと感じた。
「神威さん、上手くやれてますかねー」
甘楽。
そう名乗った男は糸のように細い目を更に細め、一人虚空に向かい呟く。
――そう。それは単なる、独り言である。
壁に背を預けた大男からは、大きな欠伸の返事と。
端正な顔をぴしりと引き締めた魔術師の男に至っては、何の反応すらも返さない。
それを横目で見遣った甘楽は、これは独り言なのだと虚しくなる自分に言い訳していた。
脱獄囚の二人は今、勇者一行の一人である《魔術師》黎の案内に続いて、膨れ上がる騒ぎの中を抜け城外へと出ていた。
ばたばたとひどく慌ただしい城内とは違い、外では青空が顔を出し、長閑な昼下がりが過ぎようとしている。ちらほらと浮かぶ薄い雲が温度を閉じ込めてくれずに肌寒いことを除けば、とても過ごし易い日であろう。
「それにしても、あんな抜け道があったなんてねえ……」
甘楽はぼうっと空を見上げながら、またもぽつりと呟く。
今度こそは独り言のつもりだった。城外へと抜ける裏道。通って来た複雑な道筋を思い出しながら、ふあ、と漏れそうになる欠伸を噛み殺す。
けれど止め処もなく溢れる無意味な思考を堰き止めたのは、あまり聞き慣れないテノールの紡ぐ言葉。
「何かと知っておいた方が便利だからね。そういうのは」
抑揚の足りない、自覚なしにも退屈そうに聞こえる声。
それが黎の声だと理解した途端、甘楽は不思議そうな表情になった。そして、それを見た黎の目が丸くなる。お互いにおかしなものを見たように。傍から見ればそれは滑稽な光景だったが、あえて兵童は何も言わない。
「……意外……、っスね」
甘楽は呆けた声を零した。
何がと瞬きをして聞き返す黎に、甘楽は驚いたような、ぽかんと抜けた表情で答える。
「黎さんって、もっと厳しい人かと思ってました」
「何だい、それ」
甘楽の正直な言葉に、黎は頬で苦笑する。
「んーと、こういうと失礼かもしれませんけど……真面目でびしっとしてて、ユーモアが足りないっていうか。こういうところで喋ったりしたら、うるさくするとバレるぞ、って脅すような」
「……つまり、君の目から見たら僕はそういう風に見えていたんだね?」
「いやいやいやとんでもない。そんなことないっスよねえ兵童さん」
「俺に振るなよ、兄ちゃん」
ふわと白く上がった息を弾けさせ、兵童は笑った。
黎は相変わらずじっと真っ直ぐに甘楽を見据えている。……話を逸らせない。
観念して甘楽は、目を細めた笑顔のままで溜息を吐いた。
「偏見、かもしれないっスけど……勇者一行の人って何か、怖いんスよね。正直――帝国の手駒みたいなイメージがあって、あ、一介の帝国兵士としてこんなこと言うのも何なんスけど」
煤に汚れた金髪をくしゃりと掻き上げ、甘楽は笑っていた口元をへの字に曲げる。
それは本音だった。別に何も、それは今回の黎たちに限ったことではない。甘楽の中で、勇者一行は『怖い』ものなのだと、いつの間にかそんなイメージが染み付いてしまっていた。
「小さい頃はそれこそ、勇者一行なんて英雄だと思ってましたから――えと、何かすんません、黎さん」
表情を崩す黎を怒っているものだと勘違いし、甘楽は小さく頭を下げる。
けれど黎は口元を覆う手を外すと、くっと喉を鳴らした。
「はは。いいんだよ、別に。僕もそうだと思ってたからね――子供の頃は」
優しい碧眼を細め、黎は微笑む。
英雄なんて十二分な表現だが、子供の頃は誰もが夢見たものだ。魔物を倒す正義の味方。なんて十分すぎる英雄譚。
その裏に隠された実情など知らずに、子供たちはただ憧れる。勇者という、作り物の英雄に。
「それはそうと、関係ない話なんだけどさ。甘楽君は帝国外の人間だよね? それも、帝国に来てそう長くない」
「――え?」
「あれ、違ったかい? 帝国の人たちって自国愛が強いから、甘楽君みたいな人間は大抵他の国の人なんだけど」
くすりと笑って、さらりと告げられる言葉。
甘楽はその言葉の意味に頬を冷や汗が伝うのを感じながらも、黎の目を逸らさずに見据えた。
「それとも、勇者一行みたいな訳有り? それならそれで、納得が行く」
――訳有り。
その言葉に胸中では敏感に反応しつつも、顔には出さない。
ただきょとんと目を丸くして見せると、ゆっくりと、細めた。
「……まあ、訳有りっちゃあ訳有りなんスけど……」
惚けるような声で曖昧にごまかしながら、内心で黎の様子を窺う。
けれど黎は深く追求することなく、そうかと言って微笑んだ。
「ついでに聞くけど、兵童さんは?」
「おいおい、魔術師の兄ちゃん。七年も地下牢に捕まってたような奴が一般人ですなんて答えると思うかい?」
「……それもそうだったな。失礼」
口調は馬鹿にするようでも、本心では単にからかうような言葉に、黎は激することなく柔らかく笑う。
どんな罪を犯した悪党なのかは知らずとも、そんなことは一言も口に出そうとしない。まるで疑問になど思っていないような口振りだった。
「それにしても神威君、本当に遅いね……」
少しだけ翳りの差した口調で、黎が言う。
甘楽も、少し不安に思っていた。遅い。予感が不安へと芽吹き、ぽつぽつと、靄になって胸の辺りを埋める。
兵童だけは心配していないかのような素振りで大きな欠伸をしたが、内心では心配しているだろう。
「帝国の警備兵だって馬鹿やっちゃいないだろ。それとも何だ、帝国兵は無能ばっかりなのか?」
「うーん、まあそうだね。僕が見たところ、猿と豚しかいなかった」
「おいおい。仮にも勇者一行の一員がそこまで言うか」
冗談で言った言葉にあっさりと返され、兵童は苦笑とも嘲笑とも取れない微妙な笑みを漏らした。
「まあそれでなくても、あんちゃんが捕まるとはとても思えねえけどな」
「二重人格で気が触れているだけならまだしも、目の色変わっちゃったし兵士あっさりと倒しちゃいましたしねえ。人間業じゃないです」
酷い言い様だと、甘楽は自分で思った。
だが、地味に化け物扱いをされている本人は知る由もない。
「魔王、なのかねえ」
兵童は呟く。
――魔王。
御伽噺の中のような、響きだった。
黎は小さく首を傾げて、兵童の方を見遣る。
「魔王――か。確か魔王は、十五年前に処刑されたはずだと聞いたけれど」
「まあな。けど、そんなもん伝承でしかねえだろ。真実を知ってんのは処罰を決めたお偉いさん方だけだ」
真実は闇の中、か。甘楽は目を細める。
彼らにとって《魔王》というのは、十五年前に神殺しの罪で処刑された、《神殺しさま》――榊神威のことだった。
別に魔王という単語が彼だけを指すのではない。長い歴史の中には、魔王という名は幾度も残されている。だが、《魔王》という存在の、その詳細を知る者はいなかった。あったとしても、真偽も疑わしいような絵空事のような伝説ばかり。
ただ人々の中のイメージは魔を統べる王ということばかりで、畏怖の対象として慄くことしかなかったのだ。
――そんな中で現れたのが、神殺しさまとしてその名を轟かせた魔王である。
神殺しという偉業を成し遂げた彼は、人々の中で、ただ一人の《魔王》として昇華されていた。
「あの兄ちゃん、大胆さとふてぶてしさは正に魔王級だぞ。威厳はねえけど、まあそこは措いといてもな」
そこには甘楽も同意した。
「態度だけ大きい奴なんて今の世溢れてるからね。まあ、彼が何者だろうといいさ。神名を助けてくれるなら恩人には違いない」
黎は肩を竦め、小さく笑う。
別にそれは神威を馬鹿にしている訳ではなく、単なる本音であると甘楽は分かっていた。
……まあ、本人が聞けば激昂するかもしれないが。
「そういえば黎さん、何で神名さん捕まっちゃってんスか? 仮にも勇者でしょ?」
「まあ……そうだな。言うなれば、庇護という名の軟禁かな」
「庇護?」
ああ、と黎は頷く。
その目にもう笑みはない。
「聖夜祭の夜、神威君が神名にキスをしただろう? まあ、あの事件の犯人として神威君と君は捕まっちゃった訳だけど」
「……すんません」
「はは、謝るなら神名に謝ってくれ。僕は別に怒ってないし――神名も怒ってないだろうけど、ね」
思えば、自分が神威を城の中に入れてしまったのが発端だった。思い出せば、申し訳なくもなる。
肩身が狭い思いを感じて、甘楽は肩を竦めた。それを見て黎は笑う。
「神名が勇者になるまでも色々あったんだよ、今更気を揉むことでもない。そもそも、女勇者っていうのはこれが初めてでね。賛否両論色々あった訳さ」
「はあ……」
「ま、と言っても反対意見の方が圧倒的多数だったんだけど」
くすくすと笑って言うが、その目は全く笑っていない。――怒っているのか。
そのことに恐縮しながらも、甘楽は言葉の続きを待った。
黎は目を細め、話を続ける。
「だけど、勇者は実力で決めるものなのだから仕方がない。技量的に一番優れていた神名は、めでたく当代魔物討伐隊隊長に任命された」
そんな経緯があったのか、と甘楽は半ば感心もした。
勇者になるには勿論、それ専用の試験がある。誰でも簡単に勇者になれる訳ではない。
その試験に今回合格したのが神名だということは、勿論甘楽も知っていたが。
「でもね、神名の力はダントツって訳でもなかったんだ。言わば実力伯仲、ずば抜けて高い戦闘能力とか、百発百中の命中率とか――そんなものを神名は持ってた訳じゃない」
顔を僅かに曇らせる黎。
確かに、聖夜祭の前から初の女勇者として様々なところで話題になりはしたが、何が優れているだとかそんな話は話題には上らなかった。
かといって弱いのだと蔑む声はなかったが、そう言われてみればそうだ。妙に納得してしまう。
「だから……お偉いさんは、神名さんを引きずり落とそうと?」
「ま、そういうことだね。元老院の豚どもなんて、神名の何処かに隙がないかっていつも探してた」
それを聞いた甘楽は汚いな、と純粋に感じた。
元老院は帝国の柱ではあるが、正直悪評しか聞いたことがない。いつの時代でもそんなものなのかもしれないが。
それにしても元老院の面々には黎の言う『豚』という比喩がやけに似合っている気がして、何だか滑稽だった。
「まあ、神名は元から戦闘以外に長けた子じゃない――ボロなんてすぐに出る。それで、先の事件さ」
うっすらと笑みを浮かべながら黎は言う。
先の事件。――神威のことだ。
勿論自分にも責任があるのだが、それは棚に上げて甘楽は思った。
考えてみれば、元老院の面々にとってはこれ以上ない好機だろう。過失は相手にあっても、頼りないだの何だの言い掛かりをつけて神名を引きずり落とすことができる。
「……汚いっスねえ」
「まあね。だけどすぐにクビを切らなかっただけマシなのか、どうなのか……」
黎は睫毛を伏せ、目を閉じる。
ただそれだけの仕草すら美しいのだから、人は平等じゃないなと甘楽はそんなことをふと思った。
「何せ、聖夜祭のすぐ後だ。帝国側も混乱を煽りたいわけではないだろうからね、神名をすぐクビにするんじゃなくて、庇護という形で部屋に押し込めた」
それはそれで汚い話だろう。
助けている振りをして神名を軟禁したのだ。よくやる、と半ば呆れすらする。
すると黎はそこで甘楽の方を振り返り、不敵に微笑んだ。
「ま、そんなに心配することはないさ。だからこそ僕は余所者らしい神威君に任せたんだから」
それはどういう意味か、と甘楽が目を丸くすると、黎は微笑を消さないまま。
「別に僕も神名も魔物を討伐するなんて正義感から討伐隊になったんじゃない。だから僕はこの国を抜けることを決めたんだ」
「この国を抜ける――っスか?」
「ああ。どうせこのままなら神名は解雇され、次は勇者の役が僕に回ってくるだけさ」
静かな怒りを滾らせた瞳を細めながら、黎はさらりと言い切る。
確か黎は凄腕の魔術師――それもありえなくないかと甘楽は思った。が。
次に黎の口から発された言葉は、甘楽をフリーズさせるに十分な威力を持った文句だった。
「実力はともかく、これでも帝国貴族の出なんでね。贔屓目があるのは間違いないだろう」
「……容姿端麗、頭脳明晰、それに加え地位と力まで……つくづく人って平等じゃないっスよね」
「うん、何の話だい?」
明かされた目の前の男の出生に、甘楽はそう言うことしか出来ない。
負けた。何にだかよく分からないが、甘楽はそう思った。
と、唐突に二人の後ろで間の抜けた音が響く。眠たそうに目を擦る、兵童の欠伸だ。
「ふあぁ、話は終わったかい? 兄ちゃん方。そろそろ神威の兄ちゃんも来る頃だろ」
丸太のように太い両手を伸ばし、晴天に向けて伸びをする兵童。
欠伸のせいなのであろう涙が一筋、その頬を伝った。
「眠そうですね、兵童さん。ていうか遅すぎるくらいじゃないですか、神威さんってば――」
苦笑いで答えようとして、甘楽の言葉が止まる。
何処か抜けた沈黙。
だが三人の目は同じように、ある一点に釘付けになっていた。
――空。
よく晴れた空から、何かが、降ってくる。
「待たせたな愚民どもーっ!」
「はあっ!?」
反響する聞き覚えのある声と途轍もない嫌な予感に、三人は声を合わせて聞き返した。
愚民ども? ……いや、突っ込むべきはそこではない。
信じられない速度で空から降ってきているのは、人影、二つ。
――それが神威と神名であることは、疑いようもない。
「ちょっ、兄ちゃん、あんたどっから……っ!」
瞠目して叫ぶ兵童の問い掛けにも、落ちてくる人影はただ笑む。
それにお姫様抱っこで抱えられている影も、どうやら叫んでいる様子はない。――怖すぎて叫べないのかもしれないが。
さすがの黎も口を開けたまま硬直し、ただ空を見上げている。それはそうだ。
甘楽も焦った。だがまあある程度予想していてもいいことだったかもしれない、と同時に思った。
そう思う間にも人影は猛スピードで落ちてきて、今にも地面に激突しそうになる。――が。
「到着っ!」
勿論、心配は無用だった。
ぼすん、と割には軽い音を立てて無事着地する人影――神威。
その瞳はまだ紅く、だが行く前よりもハイテンションである。まるで小説の中の主人公か何かのように華麗に決めてみせた神威に、三人はまだ石像の如く固まっていた。
これは奇跡か何かか。そんな思いよりも前に、派手な登場だという感想が甘楽の脳裏をよぎる。
化け物染みているとは思っていた。だがまさか、こんなことをやらかされるとは夢にも思っていなかった。それは人として当然のこと、なのだが。
「……何つーか……これ以上なく心臓に悪い人っスよね」
まるで無傷でどうだーと子供のように無邪気にVサインを突き出す神威に、甘楽はそんなことを言いたいんじゃないと思いながらもかろうじてそう呟いた。