← 三人の囚人
未だ日も昇らない、静謐を閉じ込めた黒と蒼の境界線。
弧を描く雲の下で、帝国アシリスの朝は、早くも喧騒に満ちていた。
「一体どういうことだ!」
がんと響く怒号が空気を震わせ、剣呑な雰囲気が更に重くなる。
声を張り上げた男は、怒気と疲労の色を濃く含んだ顔をゆっくりと見せつけるように辺りを見回し、鋭い瞳を吊り上げた。
「聖夜祭の日に騒ぎを起こすことの重大さは、お前たちも分かっているはずだ。お前たちの仕事は何だ? 騒ぎの抑制、つまりは速やかな鎮圧だ。損なえば――首が飛ぶことも覚悟して貰うぞ!」
ひっと、辺りから悲鳴のような細い声が上がる。
男の周囲に整列した若い男たち。顔立ちは様々ではあるものの、その顔には皆一様に絶望の色を浮かべていた。
声の上がった辺りをじろりと睨みながら、男は更に声を張り上げた。
「勇者どのがいたからと、弛んでいたのではなかろうな。己の立場を忘れたか、痴れ者どもが!」
叱咤の言葉が上がるごとに、周りの男たちは萎んでいく。
単に怒られたことに対してだけではなく、その首を切られることを恐れているのだろう。失業――若くも路頭に迷う自分の姿を想像すれば、肝も冷える。それどころか、この勢いでは牢にも放り込まれ兼ねなさそうだ。
男たちにとってはそれも、死刑宣告に等しい。
どうかそれだけは。そんな願いも虚しく、厳つい顔の巨体がもう一度口を開き、またも叱咤の声――或いは、死刑宣告を告げようとする。
しかしそこで、男たちにしてみれば救世主ともいえる、細い人影がひらりと間に入ってきた。
「ちょっとお、夭武。さっきから聞いてれば、あんたいくら何でも言い過ぎじゃない? 何を一般兵に八つ当たりしてんのかしら」
「……灰麗団長」
灰麗と呼ばれた女は鳶色の目を細め、男を軽く睨んだ。
セミロングの髪は亜麻色で、人目を引く整った顔立ちは強気そうな印象をより一層強めている。服の上に羽織ったレザーアーマーは何故か派手なショッキングピンクで、だが、やはり何故か彼女にはよく似合っていた。
「新米なんだから、最初は失敗して当然。それに、今の時期にこれ以上貴重な戦力を減らすわけにもいかないでしょ」
「し……しかし、あれは立派な職務放棄だと私は判断する。罰は必要であろう、団長どの」
「あのねえ。あの男の力を見誤ったあんたに言われたくないと思うわよ、副団長さん」
「ぐ……」
先刻までは男たちに向かって好き勝手喚き散らしていた夭武は、灰麗にそう指摘され言葉に詰まる。
それが、その指摘は図星であるということを暗に示していた。
「ほらほら、分かったら姑の嫁いびりみたいなことはやめる。それよりも今は口止めとか鎮圧とか大変なんだから」
「う……り、了解」
夭武はがっくりと肩を落とし、部屋を出ていく。
まるで先程までの巨体が小さく見えた。
灰麗はそれを見送ってふうと溜息を一つ零すと、男たちに向き直った。
「さて、こんなもんかしら。あんたたちは大丈夫?」
「あ……あ、はい! すみませんっ、ありがとうございます団長!」
灰麗ににこりと微笑まれた男たちは、弾かれたように我に返り、口々にお礼を言いながら頭を下げる。
そんな頭下げなくてもいいからと言われながらも何度もぺこぺこ諂う男たちには、灰麗がまるで天使のようにも見えていた。
あのまま行けば確実に首が飛んでいたのだ。そう考えれば、何度も頭を下げてしまうのも当然のことと言える。が。
そんな彼らの気持ちを跳ね除けるように、灰麗は眉を吊り上げた。
「こーらっ、だからそんなへこへこしないの。それよりも自分の失敗に気付いたなら、今度は失敗しないようにしなさい!」
「は、はいっ」
「返事よし。ほら、じゃあもう行くわよ? 忙しいんだからね」
灰麗はひらりと優雅に身体を反転させると、カツカツと部屋の外に向かって歩き始めた。
その後ろに、総勢八人の男が続く。皆先程とは違い、明るく高揚した顔で。
「灰麗団長……やっぱりすげえよなあ……」
「ああ……美人だし、強いし、あの副団長が手も足も出ないなんて」
憧れを含んだ声音で、囁く言葉。
灰麗は「んー?」と自分の噂をする部下たちを一瞥しながらも、それ以上は何も言わずただ歩き続ける。
それをよしとしてか、男の一人はまた囁いた。
「灰麗団長は格が違うよ。だって彼女、《神殺し》に唯一抗ったっていう《魔女》だっていう噂だぜ――」
最早崇敬の念にも近い感情を、男たちは目の前を歩く一人の女に向ける。
何の根拠もない流言をまことしやかに囁きながら、燃えるような熱い目で。
魔女は、そんな熱い視線をも軽やかに避けて、亜麻色の髪を揺らし堂々と歩いていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「うわあああーん……うぐっ、うっ、うう……」
聳え立つ煌びやかな城の下、地下に広がった暗く湿った地下牢では細いすすり泣きが絶えず響いている。
「怖いよー……暗いよー……じめじめしてる、し、気持ち悪い……うくっ、ひくっ」
その声の主は整った顔つきを泣き濡らし、牢の中でギュッと縮こまっていた。
もう長い間手入れされていない黒髪はボサボサで、見る者に柔和な印象を与える蒼い瞳は涙で潤み、恐怖に歪んでいる。
膝を抱えて座り込み、闇に怯えて牢の片隅で震える姿。誰もがその姿を情けなく思うだろう。
一体、何の罪を犯し地下牢に放り込まれたのか。彼のことを知らない者は皆、首を捻った。
「おい、新入りィ! もうちょっと静かにしてくれ、煩くて眠れやしねえ」
「はっ、はいっ! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……うくっ、ひえええ」
丁度向かいの牢の中に寝そべっていた男が、片目を開けて青年を一喝する。
――否、片目しか開けなかったのではない。反対の目、左目があるべき部分には無残に刻まれた傷がくっきりと残っていた。それを見て青年は、更に怯えて縮こまる。
「たっく、兄ちゃんよぉ……あんたみたいな優男が、何だってこんな地下牢にいるんだぁ? 虫も殺せないような面しやがって……」
「ひっ、ご、ごめんなさいっ」
怒られたわけでもないのに、青年は震え上がって必死に謝る。その様子に男は、いよいよ呆れた。
「さっきから謝ってばっかだな……おい、そっちの兄ちゃん。あんたも新入りだよな?」
「は、はあ」
「見たとこ、ここの兵士だと思うんだが……何で一般兵なんかが捕まってんだ? 暴動でも起こしたか?」
男が尋ねたのは、昨夜青年を捕まえた衛兵の男だった。
継ぎだらけの服は泥まみれで、表情にも、何処となく疲労の色が滲み出ている。
「それ……なんですけどねえ」
けれど衛兵の男は青年のように怯えることもなく、あっけらかんと経緯を話し始めた。仕方ないと諦めたか、それとも、この状況を大して気にしてもいないのか。
「俺、新入りでして……ちょっと前から衛兵として雇ってもらってたんっスよ。そしたら昨日、この人が城の前に来て、皇帝に会いたいと」
「ほぉ? 皇帝にかい、この兄ちゃんが」
「はあ。ですから皇帝のところまで連れて行ったら、勇者さまのお仲間の方に怒られてしまいまして」
衛兵の男がそこまで言うと、隻眼の男は唸り声にも似た大きな笑い声を上げた。
豪快な笑い方は、地下牢全体を揺らすほどに大きく轟く。
そのあまりの勢いに、泣きじゃくっていた青年もぴたりと動きを止めた。
「やるねえ、兄ちゃん。皇帝のとこまで連れてったってか、こんな怪しい奴を」
「はあ……縛ったんで大丈夫かなーって思ったんスけど」
「縛ったくらいで不審者を城の中に入れるたあ、度胸あるなあ。それか単に馬鹿正直なだけか」
「あ、後者だと思います」
「わはは! 兄ちゃん、気に入ったぜ」
衛兵の男ははあと頭を下げる。
隻眼の男は右目を面白そうに細めると、今度は青年の方に向き直った。
「それであんたは捕まったんだな? それにしても何で、皇帝に会おうとなんか思ったんだい」
「う……ぐす、えと、皇帝じゃなくて……僕は、勇者さまに会いたかったんですよぉ」
「勇者さまぁ? そういやさっきもそっちの兄ちゃんが勇者さまとか言ってたが……」
「あ、昨夜は聖夜祭だったんスよ。新しい勇者さまのお披露目の日で――って言ってもお偉いさん方だけっスけど」
「ほう? 聖夜祭か……もうそんな時期かい。七年もこんなとこにいると時間の感覚が全く分かんねえなあ」
やれやれ、と言って男はまた笑い声を上げる。
その豪快な笑い方はいっそ、気持ちよくもあった。
「それで、あんたは勇者さまに会って何をしたってんだ。まさか皇帝に会いたいって言ったからってこんな地下牢に放り込まれるようなことはねえだろう」
「う……それで、《誓い》を……」
「誓いだあ? どういうことでえ、兄ちゃん」
「あ――その人、勇者さまにキスしたんです」
いまいち要領を得ない青年の言葉に、隻眼の男は衛兵の男に説明を求めた。
返ってきたのは簡潔な答え。
隻眼の男は、再び爆笑した。
「キス? キス! 接吻か! 最近の若者はやるねえ、兄ちゃん! ってことは何だ、今回の勇者さまは女だったってことか?」
「はあ。あ、美人でしたよ」
「わははははは! もしかして一目惚れか、えぇ? 勇者さまにキスをかますなんて面白い奴だ、あんたも気に入ったぜ!」
「うう、だから《誓い》だって言ってるのにぃ……」
ぐすぐすと泣きじゃくる青年の声は、調子のいい隻眼の男には聞こえていない。
衛兵の男も相変わらず、はあーとか曖昧な相槌を打つだけだ。
「おっと、そういや自己紹介がまだだったな。俺は兵童、見ての通りただの囚人だ。兄ちゃんたちは何てんだい?」
隻眼の男――兵童は自分の胸を指し、にやりと笑った。
それに続き、衛兵の男と青年が自分の名前を明かす。
「あ、俺甘楽って言います、新入りっス」
「ぐす……ぼ、僕は神威って言います……」
兵童は二人の紹介に、ふいに笑みを消して顔を顰めた。笑みを消すと悪魔のように角張り厳つくなる顔に怯えながらも、神威は兵童をじっと見つめる。
「神威ぃ? 変わった名前だな。つか、それって《神殺し》さまと同じ名前じゃねえか」
「うう、だって神殺しって僕ですもん」
「はあ? わははは! ますます面白い兄ちゃんだなぁ、おい」
「冗談じゃないですよー、僕が魔王ですよー。僕が榊神威、十五年前に封印された神殺しです」
「おいおい、神殺しさまは処刑されたんだろうが。生きてる訳がねえだろ」
神威の言葉を冗談として笑って流す兵童に、神威はまたうううと嘆く。
ただ甘楽だけは、神威をじっと凝視していた。疑り深く、探るような視線が神威を刺す。
もしかして――などと思っているのかもしれない。半信半疑、どころか本当ならちっとも信じてはいないだろうが。
「あのー、神威さん神威さん。ちょっといいっスか?」
「何でしょうか……ぐす。言っておきますけど、本当に僕が神殺しなんですよお」
「そうじゃなくて。その、神威さんって、何歳なんっスか? 神威さんが――例えばですけど、もし本当に神殺しさまだって言うんなら、すごい年になってんじゃないスか」
微妙な沈黙が流れる。
そういえばー、と神威が呟いて、指折り数え始めた。ひい、ふう、みい……その数は、既に外見年齢の十代半ばを超えている。
「……三十ちょっと、かな?」
「えええええええええええええっ!?」
「おい兄ちゃん、いくら何でも冗談が過ぎるぜ! どう見たってあんた、十五くらいだろうがよ!」
「んー、神を殺した時はそれくらいだった、かな」
「おいおい、冗談も大概にしてくれよ!」
「じょ、冗談だなんて……嘘をつく理由なんてないし、僕、本当のことしか言ってないけど……」
鉄格子に指を食い込ませ神威に詰め寄る二人。
その異様な光景に神威は怯えながらも、小さな声でそう告げた。
けれど兵童と甘楽には全く信じられなかった。現実味も信憑性も皆無で、そもそも話自体が胡散臭い。
「嘘でしょう、神威さん! 嘘っスよね!? やっぱり性質の悪い作り話で――」
「ありえる訳ねえだろ! 神殺しさまは処刑されたんだし、こんな虫も殺せないような顔した兄ちゃんが――」
けれど、それにしてもあまりにもひどい言われようだと神威はちょっとへこんだ。
「本当ですってばあ。ううう……、やっぱり信じてもらえないのかなあ……そりゃあ、僕よりはマーくんの方が魔王っぽいけどさあ……マーくんは面倒だって言って出てこないし……みんなしてひどいよお……」
ぶつぶつと鬱モードに突入する神威を華麗に無視し、兵童と甘楽はわいわい騒ぎ合う。
周囲の囚人たちも何となく話は聞いていたが、この三人ほど元気な囚人は他におらず三人――正確には二人――だけがわあわあ喚いていた。
「つか兄ちゃんよ! その話が本当だとしたらよお、三十過ぎでその若い女勇者さまにキスって……明らかに幼女趣味じゃねえか!」
「ロリ……っ!?」
「神威さん! そういう趣味だったんっスか!?」
「違うよおおおおお! 僕は健全だ、潔白だあああっ」
わあーっと叫ぶ神威。
けれど今度ばかりは言い逃れは出来なかった。三十過ぎというのは本人が告げたことで、勇者にキスしたのもまた神威だ。
ロリコン決定。二人の中で、神威にロリコンのレッテルが貼られた。
「ていうか! 本当に違うんです、僕はマーくんがそうやって言ったから――」
「マーくんって誰っスか」
「ま、マーくんは……えと……その、もう一人の僕で」
「もう一人の……? 今度は二重人格疑惑かい、兄ちゃん。でもそれって結局自分だろ? はいロリコン決定」
「ロリコンなんてはしたないです神威さん!」
「だから違うんだってばあああああ」
結局誤解は解けなかった。神威はまた頭を抱えて、うわああと泣き出す。
それを見ても尚、兵童はがはははと笑っていた。
甘楽もやんややんやと囃し立てる。本来ならば沈痛で剣呑な空気が漂う沈黙の地下牢は、今や喧騒の最中と化していた。
「ロリコン! ロリコン!」
「変態っスよ神威さん!」
「違うって言ってるのにいいいい」
地下牢の見張りたちが騒ぎに気付くまで、騒ぎは続いた。
「今日はやけに騒がしいな……」
そんな空騒ぎの中でやつれた目をした囚人の一人が呟いたが、皆、同じ気持ちだったに違いない。