← I am God. Don't be afraid of me !
大陸一の大帝国アシリスでは、見事な満月の下、盛大な宴が開かれていた。
「勇者さまの誕生に、乾杯ィー!」
「カンパーイ!」
よく通る陽気な声に、カァンと、グラス同士が交わる高い音が響く。
それを合図とするように、おおーっという半ば雄叫びにも近い歓声が上がった。
万もの人が沸き立つ、最も騒がしい夜。
その騒ぎの中心にいるのは、皇帝であるアシリス十三世ではなく、まだあどけない幼さを残す、可憐な少女だった。
「は、はは……」
何処となく引き攣った苦笑いを浮かべながらも、華美に着飾った少女は右手のグラスを高く掲げる。
その動作にちゃぷ、とグラスの中の赤い液体が揺れる。
そんな小さな仕草にさえ、集まった人々は歓呼の声を上げた。
「勇者――ねぇ」
少女は頬で苦笑しながら、椅子からすっくと立ち上がり、同時にしんと静まり返る人々を見回した。
視線が、少女の一点に集中する。少女の新緑の瞳が、摩訶不思議な魅力で人々を惹きつけているのだ。
少女は大衆を一通り見回して大きく息を吸うと、淡く流れる銀髪をなびやかにしならせ、凛と通る声を響かせる。
「我は勇者なり。我は――魔を打ち滅ぼす、光の眷属なり!」
勇者なり――。高い声が、轟くように何度も谺する。
少女が言い切るなり、静寂が、嵐のように歓喜を巻き起こした。
拍手が咲き乱れ、囃し立てる声が沸き、欣幸に瞳を潤ませる者さえいる。
まるで誰もがその少女を待っていたかのように。
大袈裟すぎるほどに、世界は、満ち足りていく。
その夜は三年に一度の、新たな勇者の誕生を祝う《聖夜祭》だった。
「新たな勇者、東華神名に乾杯ーっ!」
◇◆◇◆◇◆◇
「疲れたわ、黎」
「そうだろうね。お疲れ様」
少女は月光を反射して輝く銀色の髪をなびかせて、一人の青年の隣に腰掛けた。
煌びやかに飾られたドレス姿の少女を見て、黎と呼ばれた青年はくすりと温かい笑みを零す。
「それにしても、盛大に飾られたね」
「こんなに着飾ったの初めて。貴族の娘じゃあないんだから、もう裾を踏んで転んでしまうところ」
「女勇者なんて君が初めてだからね。帝国側も混乱したんじゃないかな」
そんな理由で、と少女は肩を竦めた。
確かに勇者を目指す戦士たちは、圧倒的に男が多い。元々、身体能力が平均的には男が優れているからという理由なのだろうが、別に女で勇者を目指す戦士がいない訳ではないというのに。
「そういう理由なんなら、わたし、魔物を滅ぼすより先に帝国を沈めてやるわ」
「こらこら。此処、帝国。口を慎みなさい」
少女は口を尖らせ、でも、と反論しかける。
けれど黎は穏やかな目でそれを制し、ふうと小さく溜息を零した。
「神名は強いだけに、礼儀がなってなくて困るよ。前、公爵さまの家に招かれた時も、とんだ無礼を起こしたじゃないか」
「あ、あの時は……だって……」
「言い訳は聞きません。この時代、強い者は上へ上へと上がっていく。――それが命取りにならないように、ね」
顔を赤くし、神名と呼ばれた少女はこくんと素直に頷いた。
どうやら相当恥ずかしかったらしい。熟した林檎のように赤くなり、しゅうと音を立てて湯気さえ立てそうな勢いである。
けれど黎はそんな神名を気遣う様子もなく、さて、と明るく振った。
「勇者さまがこんなところにいちゃあまずいんじゃないかい? そろそろ戻った方がいいよ」
「……あんなに騒がしいのは、ちょっと……落ち着かないわ」
ぼそりと神名が呟くと、黎は声を立てて笑う。
「何、今に静かになるよ。――何せ、強大な魔力が此処に近付いている」
途中から口調をがらりと変え、低い声で告げると、黎はおもむろに椅子から立ち上がった。
神名も弾かれるように立ち上がり、辺りを見回す。
騒ぎの外側。誰もが宴に酔う中で、黎と神名の二人だけが、警戒心を強めた。
「そろそろ皇帝も気付くでしょうね、っと。けど遅いかな。どうやら相手は相当なやり手のようだよ」
危機感を感じさせない軽い声に、神名はこくりと頷いた。
感じる。闇のオーラを。
けれどそれは微弱なもので、よくよく手繰れば強大な力であると解るのに、それを隠すかのように覆った霧が皆の警戒を薄めている。
脳のない、低俗な魔物ではない。身震いするほどの力の持ち主。
「聖夜祭の日に帝国が陥落するなんて冗談じゃあないからね。僕たちで片を付けようか、神名」
「ええ。初日から勇者の名に泥を塗るのは御免だわ」
闇が巣食う人混みを睨むように見据えて、神名は呟く。
上手く捕らえ仕留められれば出だしは順調、けれど、もしも逆ならば――ごくりと唾を呑んだ。
そうして、その闇の、到来を待つ。
――の、だが。
「皇帝っ、怪しい奴を捕まえました!」
そんな声が広間に響き、重いドアが音を立てて開こうとした。
動揺。そして嫌疑。ざわめきが立つ。
神名も内心、動揺した。――捕まってる?
けれどそんな動揺を表には出すまいと、神名と黎はちゃっと構え、「皆さん下がって下さい!」と叫びながら最前列へ出た。
「さあて、どんな奴か……」
緊張と期待を半分ずつ含んだ黎の声が、隣で囁いた。
一方神名は警戒心を増し、勇者としての初仕事に胸を高鳴らせるばかり。
敵は衛兵が捕まえられるほどの――けれど衛兵が捕まえたとはいえ――もし此処まで侵入するためにわざと捕まったのだとしたら――だけど帝国もそこまで馬鹿じゃ――でも相手がそれ以上の使い手だったら?
ぐるぐると回る思考の中、豪華な仕立ての扉が完全に開き、その正体が姿を現した。
それは――
「うっ、ううう……何も縛ることはないじゃないですかあ……ひどいよ、ぐすっ」
……縛られて既に半泣き状態の、情けない男だった。
「……こ、こいつが……怪しい、奴?」
神名は呆けて、思わずこの男を捕まえたらしい衛兵に尋ねる。
半泣き。大きな蒼い瞳が零れそうに潤んでいる。
「はあ。城門の前で何事か喚き散らしておりまして、皇帝にお会いしたいと……」
「馬鹿。いくら縛っているからとはいえ、此処まで不用心に連れてくる奴があるか」
「す、すみません!」
黎の柔らかだがいくらか棘のある口調に、衛兵は慌てて頭を下げた。
その顔付きはまだ若い。多分雇われたばかりなのだろう。
失敗は誰にでもあると、神名は黎を宥める。
「まあまあ黎、とりあえず今は許してあげて。それよりもこの男だけど――」
そう言って神名は、縛られた男を見下ろした。
沢山の人の視線に射竦められ、半泣きが嗚咽にグレードアップしている。
……情けない。そう思って嘆息しかけたところで――
さっきまで満ちていた、闇のオーラが消えていることに気付いた。
「――変だね」
黎もそれに気付いたようで、小さく首を傾げる。
あそこまで膨大なオーラならば、隠そうと思ってもまず隠せるものではない。
魔法の知識が皆無に等しい一般市民になら隠し通せもするだろうが、こちとら一流の魔法使いなのだ。
隠せるはずが、ない。
「……勘違い、だったかしら?」
「いや、そんなことはないはずだ。あそこまで強大な魔力を間違えるはずがない」
「でも現にこの人には、闇のオーラなんて何も――人違い、ってこともあり得るんじゃない?」
「人違い……か」
黎はううむと考え込む。
神名も首を捻った。今城の周辺を探っても、闇のオーラどころか反応一つないのだ。
先刻までは確かに感じられた波動が、綺麗さっぱり消え失せている。
城から離れたか? それならば何故、聖夜祭の夜にわざわざこの城に近付いたのか――考えすぎだろうか。
「勇者どの」
ふいに、皇帝の傍に控えていた騎士団の副団長がつかつかと歩み寄ってきた。
神名は思考を一時中断し、彼の方に向き直る。
「その男は何者なのですか? 見たところ、何の力もない青年のようにしか見えませんが」
元々厳つい顔を更に顰めて、彼は尋ねる。
神名は頷きながら、感じたことをそのまま彼に伝えた。
「ええ、わたしにもそう見えます。ですが、先程確かに城に向かってくる闇のオーラを感じました」
「闇のオーラ……? ということは、その男が――」
「だと、思ったんですけど……」
ちらりと青年を見遣る。――完璧に泣いている。
演技、ということもあり得るだろうが、あまりにも情けない。情けなさすぎて思わず不憫になるほどに。
もしかしたら人違いで、この男はただちょっとおかしいだけで、他は無害な一般市民であったら……。
神名は考える。そうだとしたら、ひどいことをしたと。
「……本人に尋問した方がいいわね。こういうの」
ぽつりと呟いて、神名は青年の前にしゃがみ込んだ。
何にしろ挙動不審の男だ。ただで返す訳にもいくまい。
「貴方――、一体何者なの? 帝国のひと?」
神名が尋ねると、青年は少しだけ顔を上げた。
意外にも整った顔立ちではあったが、泣き濡れた顔が、惜しくも弱そうな印象を与えている。
下がった眉、大きな蒼い瞳。泣いていなくても気弱で柔和な顔立ちであることは容易に想像できた。ますます、人違いなのではと思う。
「貴方は誰? 何処のひとなの?」
神名はもう一度、同じ問いを繰り返した。
すると青年は完全に顔を上げて、今度はぱっと笑顔を見せた。涙の粒が散る。
「あの、そのっ、勇者さま――だよねっ?」
「え? ええ――まあ、うん」
突然微笑んだ青年に驚きながらも、神名は事実なので素直にこくりと頷いた。
やっぱり帝国のひとかな、と思う。
こんな浮かれた夜だ。
もしかして、新しい『勇者』を一目見たかったとか――
瞬間、ふいに、ぐらりと身体が傾く。
何、と思う暇もなく耳をすり抜けていく言葉に意識を絡め取られた。
「僕は魔王。君を――勇者さまを、殺しに来たんだ」
囁く声は優しく、蒼い瞳がやけに印象的な青年。
騙された、と思ったが遅く。
既に神名は、青年に唇を奪われていた。
「は――?」
「ごめんね。怒らないでね?」
悪魔の如く。
それでも尚、蒼い瞳は優しい光を湛えていた。
そうして物語の幕は上がる。
闇をも上回る暗澹を、さながら神の如く塗り潰しながら?
序章終わり。
次から一章に入ります。